50度線の契り
占冠 愁
八月のスズラン
線路の上に立ち尽くす。
『越境禁止』
そう書かれた看板とフェンス。
掠れた文字ながら隣には、「この先日本国憲法通用せず」とも、あった。
そこへ吸い込まれるように伸びていく線路は、向こう側に入ってすぐ、茂みに隠れてしまう。
ふと振り返ってみる。
茂みに隠れて木張りの乗降場がある。
________
そう記された駅名標は朽ちて久しく、次の駅の名前は随分前に消されたようで読めなかった。豊原から六時間。長く揺られてきた列車も、ここから先へはいかない。
国境の乗降場に到着した列車は、つつがなく煤煙を吐いて、踵を返した。
フェンスの他にはなにもない原野に、ぽつりと佇む物置。この
誰も来やしないのに――八月十一日――日付を刻むカレンダーは、誰が架け替えているのだろう。
一息。
「また、この季節だ。」
少年は佇む。
高いフェンスを見上げて、その先を見据えて、立ち尽くす。
「ない……なぁ」
何度目の夏だろうか。何かを忘れている、ここに何かを置いてきた気がする。それを、ずっと、探しているのだ。
豊原を出た頃の蝉時雨は久しくぴたりと止んでいた。
峯風だけが寒々しく頬を撫でて、海峡のほうへと下りていく。
何かを探しに来たようで、ただ時間だけが過ぎていくばかりであった。
「……帰るか」
ため息をついて、少年は引き返す。こうして諦めるのは何度目か。
幾十と繰り返してきたこの夏を、また徒に重ねようとしていた。
ふわり、ふと峯風が香る。
「?」
少年は足を留めた。どこか苦くて切ない匂い。
確かに記憶にあって、何かを思い出せそうだった。
「おぉ、若いもんとは珍しいの」
老婆に声をかけられるまで、少年は思い耽っていた。
「一人旅かい?」
「……そんなところです」
「そうかい。その歳で」
少年が軽く会釈すると、老婆は少し驚いた。
「国境を見に来たのかえ?」
「いえ。というよりは……この先に」
フェンスで隔たれた境界の向こう側を見据えて、少年は呟いた。
その姿に何かを感じたのか、はたまた気まぐれか。老婆は踵を返してこう言った。
「ちょっと手伝っておいき。いいもん見せちゃる」
・・・・・・
少年は線路にしゃがんで、草をむしっていた。
青臭さのなかに確かに染みた赤錆の匂いはじんわりと滲んで、どこか、この作業は嫌いではなかった。
「私の兄さが向こうの町にいてね、待っとるんじゃよ。こうしてな」
老婆はそう語った。
「向こう…。この境界の、向こうですか」
「ああ。あの柵に分けられて、久しいがね」
無断越境者は射殺する――フェンスに掛けられた容赦ない警告の差出人は、"日本国政府"と、ある。
「この線路の続く先にはな、町があったんじゃ」
「この先に、ですか」
「あぁ。でも、行くことはできん。あの境界線が出来てから、ずっとさね」
フェンスを見据えて老婆は語る。
どこで聞いたか、ここは『分断点』だ。
「今日は年に一度だけ、あの境界の向こうから汽車がやってくる日でな」
その言葉に、少年は首をかしげた。だが、老婆は深く語ろうとはしない。
「だからこうして、しっかり迎えられるように、線路を手入れするんじゃ」
それっきり言い残して、老婆は去っていった。その小さな背を少年は暫し見送っていると、気づけば、ぽつりぽつりと俄かに人が集まりだして、草をむしり始めた。
「どこからきたの?」
振りむけば、少年の側に幼い娘が立っていた。
「遠く南のほうからだよ」
「どうやってきたの?」
「電車で。南からずっと、電車であの駅に来たんだ」
少年は、背後の乗降場を指し示す。
「え?」
娘は首をかしげる。
「あのえき、電車来ないよ?」
「……?」
「ずっとむかしに、使われなくなったんだって」
少年は困惑する。
「そんな、まさか。さっき乗ってきたばかりなんだけど」
「んー、よくわかんない」
興味をなくしたようで、娘はとてとてと駆けていく。
少年が戸惑っていると、すぐ娘は戻ってきた。
「これね、あげる」
娘が手渡したのは、白い、可憐な花。
「……スズラン?」
その名を少年は知っていた。
「どこで咲いていたの?」
見たことがある。
嗅いだこともある。
「あっち」
娘が指したのは、フェンスのほう。そうだ。そちらの方角だ。
手繰って、寄せて――そうだ。この花は。
「知ってる」
一陣の風が、びゅうと吹く。
◆
まるでなにもない、ただ少し寒い夏の一日だった。
冷夏。例年なら七月はじめに咲くスズランも、八月になってようやく白い花を開いた。
「んーっ…」
少年は背伸びをする。どうやら寝ていたらしい。
北の辺境にある、小さな駅の待合室。
もうお盆だというのに春模様の心地よい風は、この町にも、短い夏が訪れたことを告げていた。
「ねぇ」
「んー?」
少年が声をかけると、少女は鼻歌をやめて振り返った。
「おれたちの知ってる夏って、夏じゃないのかな」
「どういうことですか?」
「内地から来た軍人さんが、『この町には夏だけがない』って言っててさ」
小さな顎に人差し指を置いて、少女は首を傾げる。
「んー、どうなんでしょうか。今年の夏は特に涼しいですし」
風鈴が揺れた。
「たしかに夏というよりは……春みたいです」
「でも、春ってサクラの季節なんだろ」
「さくら……。わたし、見たことないです」
この島に桜は咲かない。
厳密には
「あ、そうだ」
八月十一日――掛けられたカレンダーへ、ふと少年は目をやる。
「なんですか?」
「今年も盆祭、やるの?」
「やりますよ。うちの神社のお役目ですし」
楽しみだな、と少年は笑った。
「おもしろくなりそうだ」
「もうっ、みんなの前で舞うの恥ずかしいんですからねっ!」
ぷい、と少女はそっぽを向く。
そのまま少年の手元にあった新聞をひょいと拾い奪って、ガラガラ、と扉を開けて駆け出した。
「あっ!おい!」
「いじわる言う人には、仕返しです!」
いーっと威嚇して、そのまま走り去る少女。
「まてっ!」
プラットホームのすぐ裏にある鳥居をくぐって、石段へ。
ひらりと少女の巫女服が翻って、手にした新聞紙が飛ぶ。
草陰に落ちた紙切れの文字は、目立つほどでもなかった。
"廣島へ新型爆弾投下"
八月のスズランは、丘陵いっぱいに咲き
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