ハートに悔いを刺さないで

春海水亭

ハートに悔いを刺さないで

 私の恋のライバルは蚊で、私は今日も今日とて殺虫スプレーを振り回している。


 蚊の後に「のような」とか「みたいな」は付かない。この物語を読んでいるアナタもよく知っている、夏場に飛び回って人間の血を吸うあの蚊そのもの。まぁ、蚊みたいな女の子とか男の子なんてものがいるならちょっと見てみたい気がするかもしれないけどね。


 ライオンはちっぽけな兎を狩るにも全力を尽くすと言うけれど、私だって心の面ではライオンに負けたりはしない。蚊がぶーんと私が好きな男の子の肌に針を突き刺してちゅちゅっと血を吸い上げるかと思うと、私はあのちっぽけな蚊に対して全力で嫉妬できる。

 もちろん嫉妬するだけにとどまらない、殺虫剤に虫除けスプレー、蚊取り線香だって、ありったけの武器は常備している。彼の血は私が守ってみせるわ。


 なぜならば私は由緒正しき吸血鬼なのだから。


 吸血鬼、知っているかしら?

 人間の血を吸って生きている不老不死の美しい夜の貴族――その代わりに太陽に弱くて、にんにくに弱くて、十字架に弱くて、流れる水に弱くて、心臓に杭を刺されるのにも弱くて、鏡には映らないし招かれないと家に入れない……ああ、もう最悪!人間って生き物は良いところを見つけるのは下手くそなのに悪いところを見つけるのは本当に得意ね!


 フィクションだと太陽の光で吸血鬼の身体がチーズみたいにとろけちゃうこともあるけど、私なんかは直射日光でクラっとくるぐらいで済む。体育が外である時はいつも見学だけど……まぁ、正直それで困ることはないの。

 にんにくは嫌いだけど食べると死ぬってわけでもないし、十字架を見ても特に何にも思わない、流れる水も……まぁ、私って根本的にカナヅチだからそんなに関係あるってわけでもない。

 心臓に杭を刺されて死なない生き物はいないし、そもそも人の家に上がり込む時はちゃんとご招待を受けてから行くものよ……招かれずに家に入り込む礼儀知らずなんて人間にだってそんなにいないでしょう?あ、鏡には映るわ。自撮りも大丈夫。

 不老不死というところだけは気にかかるけれど、パパもママも老けにくい体質――ぐらいで済んでいる。結構年を取っているのにびっくりするぐらい若い人ってたまにいるわよね、そんなところよ。私も今のところ目立たないぐらいに普通に成長しているわ。

 それに私、おじいちゃまのお葬式にも参加したわ。百二十歳。まぁ、そんなものよね。

 だから、吸血鬼の私が人間の社会で暮らしていくことに不便を感じたことはない。

勿論、皆には内緒だけれど……今日も元気に小学五年生の人間の群れの中にたった一人の吸血鬼として混じっている。


 これは、そんな私の恋の話だ。


◆◆◆


 冷蔵庫の中のケーキを勝手に食べたりはしないでしょう。

 ちゃんと食べていいものかを確認してから、フォークを用意するわよね。もちろん、食いしん坊の子なら我慢できずに食べちゃうかもしれないけれど、私はちゃんと冷蔵庫の中のケーキを我慢できるタイプの女の子よ。

 人間に囲まれて生活するっていうのは、要するにそういうことね。

 

 吸血鬼と言っても、私たち家族はフィクションの吸血鬼みたいに人間を襲って死ぬまで血を吸い上げたりはしないの。

 人間の食事だけでお腹いっぱいにはなれないけれど、動物の血と輸血パックがあるからわざわざ人間を襲ったりはしない。


 それでも――生きた人間から血を吸いたい気持ちがないわけではないの。

 いくら私のお行儀がよろしくてもね。


「よろしくな」

 席替えで私の隣の席の菊池くんがそう言って微笑みかけた時、私は思わず心臓に杭を打たれたような気分になったわ。

 笑顔が爽やかだったからとか、顔立ちが整っているとか、そういうのは一旦置いといて、彼からお日様で干した布団みたいな良い匂いがしていたから。

 彼のチョコレートみたいな色をした日に焼けた肌を見た時、思わずかぶりついてしまいそうになって、自分の中のお行儀の良い部分がそれを止めてくれたことに心の底から感謝したわ。


「よろしくね」

「アナタはとっても美味しそうね」とも「ちょっと噛んでいい?」とも言わず、私はそれだけを返してそっぽを向いた。彼の顔を見ていると血を吸ってしまいたくてしょうがなくなるもの。


 彼が私の隣の席に座るまでは、私も結構お行儀の良い吸血鬼としては平和に暮らすことが出来ていたけれど、彼が私の隣の席に座ってからはどうも調子がおかしくなってしまって仕方がない。


「教科書見せてくれない?」

「消しゴム貸してくれない?」

「今度野球の試合があるんだけど、応援に来てくれない?」

「面白い映画のチケットが二枚あってさ、今度の日曜日……一緒にどうかな?」

「っていうか、俺……その……」


 菊池くんは何かと私に話しかけてきて、そのたびに私はなるべく彼の方を見ないようにしながら言葉を返す。

 だから、菊池くんが私に一生懸命に話しかけるたびに顔を真っ赤にしているのを友達のエリちゃんから聞く羽目になった。


「菊池くん、アンタのこと好きだよ」

「うそ……そんなぁ……」

「っていうか、アンタ以外は全員知ってるわよ」

「そんなこと言われてもなぁ……」

「そしてアンタも満更でもない顔しているからね」

 エリちゃんに手鏡を突きつけられて、私は自分の顔が美味しい血よりも真っ赤に染まっていることに気づく羽目になった。吸血鬼が鏡に映らないっていうなら、こんなへにゃっとしてゆでダコみたいになった私を映さなければいいのにね。


「付き合っちゃえばいいじゃん」

 エリちゃんは気軽に言うが、私はというとそんなことを言われても困ってしまうのだ。だって、彼の好きは人間に対する好き……だと思うんだけど、私の彼に対する好きはいくら食べても太らない人間サイズのチョコレートケーキに対する好きみたいな感じなのだから。多分、彼の気持ちに応えることはできない。


 そりゃ、横目でチラチラと見てると彼はリーダシップもあるし、運動神経も抜群だし、それでいてそれを鼻にかけないような謙虚さもあるし、泣いている迷子に声をかけてあげて保護者を探してあげるような優しさもあるし、クラスメイト皆と仲良くしてるし、野球にかける真剣な表情は格好いいし、何に対しても物怖じしないのに私に話しかける時だけは緊張しているようなそんな可愛げがあるけど、私は菊池くんのコトなんか全然好きじゃない。高貴な吸血鬼はあくまでも人間の血に興味があるだけで、人間に恋心なんてものは抱かないのよ!


 私は自分が吸血鬼であることを隠して、エリちゃんに対してどれほど人間としての菊池くんのことをそんなに好いていないかを真剣に伝えた。


「アンタ、菊池くんのコト好きだよ」

 私の思いは、彼女の一言で切って捨てられた。

 私はそれ以降、エリちゃんのことを心の中で無慈悲な吸血鬼ハンターと呼んでいる。


◆◆◆


 別に好きなわけじゃないから。

 ベッドの上でのたうち回りながら、私は菊池くんのコトを考える。

 棺桶の中で眠る?バカな言い伝えよ!今、私はそれどころじゃないんだからね!


――菊池くんのコトとか、別に興味ないから!

――その割にはよく菊池くんのコトを観察してるみたいだけど


――隣の席だから色々と目につくだけよ!

――菊池くんが迷子探してあげたの知ってるのよね

――それがどうしたのよ!

――なんで?

――そんなの……映画を一緒に見に行ったからよ!

――二人で遊びにいってるじゃない


 今日あった無慈悲な吸血鬼ハンターとの会話を思い出す。

 まぁ、確かに一緒に遊びに行っている部分に関しては認めなくもない、野球の試合の応援にも行った、そこは認めるわよ!悪い!?


 でも、でもね……私が彼のコトを好きなのはあくまでも血の部分、食欲だけ。恋心とかは全く無いの。彼の血を吸うタイミングがないかなぁ……って探ってるだけ、そういうことよ!


 そういう風に自分を納得させようとする度に、私の心に刺さった大きい杭が暴れ出す。 


 無慈悲な吸血鬼ハンターのせいで、私の心はめちゃくちゃになってしまっている。だって百歩譲って私が彼のコトを好きだったとしても……でも、私……彼の血を吸いたいの!

 恋心も食欲も同じだけ一緒にあったら……私、彼の血をいつか絶対に吸っちゃう。

 絶対に私が吸血鬼ってバレちゃう。


 私はベッドの上で小一時間ほど、のたうち回った後に決意した。

 断ろう。

 菊池くんのコトなんかこれっぽっちも好きではないと言って、それっきりつーんとそっぽを向くのだ。


◆◆◆


 翌日、私は放課後に校舎裏に菊池くんを呼び出した。

 菊池くんがスマートフォンを持っていれば、こんな古風な呼び出しなんて行わなくても良かっただろう。

 太陽の光を浴びるみたいに、私は校舎の影を体いっぱいに浴びる。

 太陽の光が人間に対する優しさなら、私は影がたくさん欲しい。

 私のコトを好きな男の子を拒絶するという残酷さを今だけは蓄えたい。

 しばらく影の中で待っていると、落ち着かない様子の菊池くんがやって来た。

 心臓の音を止めてあげたいぐらいにドクンドクンと鼓動が高鳴っている。

 もっとも、それは私も同じこと……正直、杭を自分の胸に刺したいぐらいドクンドクンとうるさいわ。


「あっ、あのさぁ……」

 調子外れな菊池くんの声、私は今から彼を振る。

「あっ、菊池くん……あのね……私……」

 言葉が出ない。

 アナタのことが好きではないと、たった一言で済めば終わるのに。


「私、アナタのことが……」

 その時、ぶうんと嫌な音を立てて……蚊が一匹飛んできて、菊池くんの首筋に止まった。

 蚊がチョコレート色の肌に針を刺して、血を吸い上げる。

 それを見た瞬間に私は叫んだ。


「菊池くんの血取らないでよ!!」

 私は菊池くんの首筋に思いっきり、噛みつく。

 蚊は私の剣幕に押されて、飛んでいく。

 瞬間、私は自分が何をしたのかに気づいて――菊池くんから離れた。

 首筋にチョコレート噛んだみたいな歯型、私の噛み跡だ。

 菊池くんの首筋にはほんのりと血が滲んでいて、そして私は今――口いっぱいに美味しさを感じている。

 やってしまった。

 

 人間という生き物は、自分たちによく似ていて、それでいて違う生き物を嫌っている。いや、憎んでいると言っても過言ではないだろう。

 だから、私たち吸血鬼は自分の正体を念入りに隠す――けど、全部終わりだ。

 私はその場に崩れ落ちて、気づくと涙をこぼしていた。


「ごめん……ごめんねぇ……菊池くん……」

 菊池くんの血は濃厚なホットココアみたいに美味しい。

 もう一度、菊池くんの首筋に噛みついて、全部飲み干してしまいたくなる。


「私、吸血鬼なの……だから、ダメなの……菊池くんのことは好きだけど、でも菊池くんに対する好きは二つあるの、恋の好きと食べ物に対する好き……その両方、だから……」

 菊池くんは私の目の前に右手を差し出した。


「いいよ」

「えっ……」

「なら、俺の血を吸えばいいよ。吸いたいんでしょ」

「でも、気持ち悪いでしょ……吸血鬼なんて」

「……そりゃ俺の血を全部吸われたら困るけどさ、でも……全部吸ったりしないでしょ」

 そういう女の子って知ってるから好きになったんだよ、菊池くんはなんてこともないようにそう言った。

 私は菊池くんのことを余計に好きになって、でも好きだから余計に血を吸いたくなって――私は彼の頬に噛み跡の代わりにキスマークをつける。


 そして、私の恋のライバルは蚊になった。

 誰にも彼の血を渡さないように、私は今日も殺虫スプレーを振り回している。

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