『煙草の猫』
翌日の放課後。僕は昨日と同じように本校舎とは別棟にある図書館へと足を運んだ。相変わらず窓の外の景色はさえない。連日続く豪雨は新記録を更新していた。
雨の降る放課後はまるで非日常だ、と、僕は思う。
人の気配の無い校舎はしんと静まり返っている。僕はこの空気感が凄く好きだ。この世界には僕しか存在せず何もかも自由だと、そう錯覚してしまうこの感覚が僕は昔から好きだった。だからバスを2本遅らせるのは、僕が僕の直感に忠実に従った結果であって、決してあの女の人にもう一度会うためではない。
そんな言い訳を誰へともなく述べていると、いつの間にか時計の針は午後4時55分を指していた。あと13分でバスが来る。僕は革製のブックケースに本をしまい込み、急いで図書館を出た。玄関で慌ただしく靴を履き、傘を開いて玄関を飛び出した。だいたいバス停まで10分だ。ちらりと左腕の腕時計を見やる。時刻は4時58分。既に図書室からここまでで3分経っている。急がなければ。
自分でも、何故こんなに急いでいるのかわからない。別にこの時間に帰って見たいドラマがあるわけでもないし、宿題なんて休み時間に終わってる。妹はいるけれど、もう中学生で僕の手は必要ない。だからこの時間のバスに乗る必要はないのだ。
けれど、僕はあのバス停に向かって駆けていた。
そうだ。
まだ、僕は彼女に傘を返してもらっていない。
そう無理矢理に理由を見つけ出す。
僕は夢中であのバス停まで走った。
* * * * *
息を切らしながらバス停までたどり着いた時には、雨はその苛烈さを増していた。
雨の中を走った僕は、制服のあちこちをぐっしょりと濡らしていた。けれど、その甲斐あって間に合ったようだ。
不意に、白と黒のストライプ柄の傘をさす女性が視界に入る。その人はバス停の時刻表のそばで印象的に佇んでいた。黒く綺麗に切り揃えられたショートカットの髪を黒い帽子が覆い隠している。目を薄く開き腕を組み、スマホをいじることもなく、おそらくバスを待っている。
待っているのが僕だったらいいのに。
そう思ってしまったのは、きっと雨が創り出した非日常の空気にあてられているからだろう。
「やあ」と。
その女の人はひらひらと手を振り微笑みながら言った。
「傘、返すよ」
そう言って自分の鞄から黒い折りたたみ傘を取り出し、それを開いて持ち替える。
ストライプ柄の傘を僕にそっと差し出し、この間はありがとう、と線の細い声をこぼす。甘く心を侵食するような声だった。
小さな折りたたみ傘で肩を濡らす彼女の姿を見ていると、ふつふつと胸の内側が熱を帯びはじめる。僕は、思ってしまった。
「いいです。まだ」
この関係を終わらせたくない、と。
だから、つい口をついたこの言葉に後悔はない。
「どうして?」
彼女はクスリと笑う。
「いや、その」
彼女のわざとらしく大人っぽい笑い方に僕はつい言葉を詰まらせる。
「この雨だから、折りたたみ傘だと濡れるかな、と思って」
そうなんとか言葉を紡ぐ。
「そう」
彼女のクールに引き締まった表情が次第に緩んでいくのを見ると、どうしてこんなに心を動かされるのだろう。荒んだ、という言葉が似合う彼女の微笑みを見ていると、どうしてこんなに安心するのだろう。
雨のバス停、梅雨、放課後、独りきりの世界。そのはずだった。白黒のモノトーンの映像に、BGMは雨が地面を弾く音だけ。古い映画のように質素で開放感に溢れたこの雨の季節が、僕はひたすらに好きだった。
そして、彼女が登場したことで世界はカラフルな色彩を帯び始めたのだ。
ふと、遠くで車のエンジン音が低く唸る音が聞こえる。その音の方に視線をやると、バスがこちらに向かって重そうな車体を走らせているのが見える。
「じゃあね、少年」
そう言って彼女は胸ポケットから煙草を取り出し、傘で雨を丁寧に避けながら、煙草に火をつけた。
「乗らないんですか?」
スパッと彼女は一服する。
「今日は仕事、お休みなの。少年に傘を返しに来ただけ」
「そうですか」
少し、残念だ。
そう思っていたのが顔に出てたのか、彼女は柔らかい笑みを浮かべる。煙草を指できざったくつまみ、片目を閉じて言った。
「大丈夫。また会えるわ」
彼女が意味深にそう言い放った瞬間、停留所に止まったバスの扉が、プシューと音を立てて勢いよく開く。それはまるで僕の乗車を急かしているようでいた。
「またね」
そう言って彼女は傘をさしてバスの進行方向とは逆の方へ歩いていった。
バスの中に、少し煙草の煙の匂いが残っている。
運転手の乗車を促す声と、降りしきる雨の効果音だけが、あたりに響いている。
雨のバス停、煙草の猫 森野哲 @hyakushoseinen1230
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます