雨のバス停、煙草の猫

森野哲

『雨のバス停』

 快晴の予報だった六月の空は雨雲で満ちており、地上に影を落としている。無情に地面を打ちつける雨粒は、放課後帰宅する学生の制服を濡らす。アスファルトのコンクリートにこびりついたカビやホコリが雨と混じり合い、不快で独特な異臭を放っていた。それは濁った雨の匂いだった。僕のいる二階の図書室までその匂いは漂ってくる。

 もうすっかり梅雨だ、と、僕は思う。

 そして同時に憂鬱だ、とも思う。

 図書室からは昇降口がよく見える。

 この雨の中を走って帰宅するひと。置き傘を常備していたことに安堵するひと。携帯電話を片手に親を呼びつけるひと。実に多様な人間が、正面玄関にごった返している。その様子を見ると、自分がこの群衆の中にある分子の一つに過ぎないと思わされて、憂鬱な気持ちにさせられる。それが嫌だった。こんな場所にいつまでも居ては駄目だ。僕は心の底からそう思った。

 有象無象が混雑するバスで帰るなんて正気の沙汰じゃない。

 僕はバスを二本遅らせるために、しばらく図書館で時間を潰した。読書の時間を堪能したのち、帰るために図書室を出て玄関へと向かった。靴を履き、白と黒のストライプ柄の傘を開いてそのまま昇降口を出る。

 傘の表面を雨粒が弾む。水滴が傘のポリエステルの生地に沿って流れ落ちる。その水滴は重力に従って、僕の制服のズボンとローファーをじっとりと濡らしていく。不思議とその感覚は不快ではなかった。辺りに人影は見当たらない。

 今、僕は一人だ。

 雨の音が響くこの瞬間だけは僕一人だ。

 その感覚は、僕を日頃のしがらみから開放させる。

 雨の中をただ歩く。それがこんなにも気持ちの良いことだったなんて、どうして今まで気づかなかったんだろう。

 

 思えば、このとき僕の心は浮ついていたのかもしれない。


 だから、その女の人を見たとき、その魅力と迫力に惹き込まれたのだ。


 その女の人は酷く荒んだ雰囲気を纏っていた。綺麗な黒髪を余すところなく雨に濡らし、カフェオレの紙パックと唇を細いストローで紡いでいる。濡れた前髪は長く鼻先までかかっており、服もびっしょりと濡れ少し透けている。ボーイッシュに切り揃えられているショートカットの髪と切れ味の良いクールな表情が、雨の打ち響かせる音色と相まって、残酷なまでにミステリアスな情緒を醸し出している。

 不意に、彼女と目が合う。

 長く散りぢりにまとまった前髪からのぞく眼光は鋭く光っている。彼女は二度大きく瞬きをして、口を開く。

「ねえ、少年」

 彼女の声は透き通った刃のように、僕の感性に突き刺さる。想像通りの音色だと思った。その声音はミステリアスでいて、胸の内側によく響く。心のなかで反響するその声は、心地の良いものだった。だから、咄嗟に「ーーはい」と返事をしたのは、きっとそんな彼女に一目で惹かれてしまったからだろう。

 彼女は僕の返事を聞くと、やけにキザったく、飲み終えたカフェオレの紙パックを近くのゴミ箱に投げ捨てて、右手で前髪をぐわっとオールバックに掻き上げる。

「かさ貸してよ」

 それが、僕と彼女の出会いだった。

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