残香の記憶

しろめしめじ

残香の記憶

 急傾斜の参道を、俺は黙々と歩いていた。

 山頂の城址まで後数百メートル。参道はその途中の神社に参拝するために整備されたもので、結構な山道なのだが、しっかりと舗装されているので、車でも上がってこれなくもない。実際、神社のそばには数台程度だけれども駐車スペースがあり、ここまで来るまで来る観光客もいるにはいるが、麓の大型駐車場に停めて散策を楽しみがてら訪れる人がほとんどのようだ。まあ、上の駐車場はすぐに満車になるから、それを見越して早々に諦めて下に停めるのが真の理由なのかもしれないが。

 道は上の駐車場で二手に分かれており、向かって左が山頂の城址へと続き、向かって右は神社へと誘う参道の続きとなっている。杉並木に覆われた参道を更に数分進むと、漸く木々に覆われた古びた御社が姿を現す。 

 パワースポットとしてネットや各種メディアで紹介されてからは、一時期参拝客でごった返していたのらしいのだが、今話題の感染症の影響なのか、ゴールデンウイーク初日の割には参拝客の姿はほとんどない。

 神社名を出せば、恐らく誰もが一度は聞いたことのある様な場所なので、あえて伏せることにした。

 何しろ、俺がこれから語る事案が事案だけに、場所が特定されるとちょっとまずい事になるのだ。だから多少のフェイクをいれてある点はすまんが許してほしい。

 俺がこれから語るのは、とある事件に隠された裏側であり、メディアで語られていない部分がたっぷりある。少々時は経ているとは言え、この事件も時折ネットで事件系振り返り動画なるものがアップされている程なので、余りあからさまに特定されてしまうと、ここで生活している方々に迷惑を掛ける事になるかもしれないのだ。

 その点はどうか察してほしい。

 ここで俺のスペックについて触れておく。

 性別は男。十九歳。某地方の中堅どころの大学で、人文学を専攻している。外観はイケメンでもブサメンでもない(と思う)身長百七十二センチ、体重六十五キロの中肉中背。

 魔王を瞬時で倒せるチートスキルの能力者でも、これといった特異的な外観的特徴がある訳でも無く、小説や漫画なんかだとキャラとして成り立たないような、一見モブ的な存在ではある。

 まあ、取るに足らない様な存在かもしれないが、それなりに存在価値があると思う。世の中個性的な人間だらけだったら、それこそ各々が自己主張して突っ走って収拾がつかなくなるだろう。

 俺の様な、一見モブキャラ的キャストが居るからこそ、世の中の緩衝材となってうまくバランスをとっているのだ。

 特に人付き合いの苦手な黄昏人にとっちゃ、個性あふれる人種に囲まれて生活することは、ストレスに埋もれて生活するようなものだけに、耐え切れずに引きこもり生活まっしぐらとなること間違いない。

 そんな俺でも、一つ位は個性的な一面が存在するのだが、それは決して誇らしく人前で吹聴出来るような代物ではなかった。

 現在、俺はここから自転車で三十分位のところでアパートを借り、一人暮らししている。

 徒歩以外では自転車が唯一の移動手段なので、今日も参道の入り口まではチャリで来た。

 流石に急斜面の参道を漕ぎ上がる根性も体力も無いので、チャリは参道入り口そばの駐輪場に止め、徒歩でここまで登ってきたのだ。

 自動車ならもう一つ上の駐車場まで上がって行けるのだが、俺にはチャリ以上の機動力を手に入れるだけの財力は無く、移動はもっぱら人力に頼る体力勝負でしかないのが悲しくも厳しい現実だった。

 不意に、視界に人影が飛び込んでくる。

 高校生位の制服女子が一人、ちょこちょことした足取りで参道を下って来る。

 小走りと言うか、何と言うか。何かしらの用事で急いでいるのか、それとも下り坂の惰性でそうなっているのか。

 あんまり目で追うのも悪いかと思ったものの、初々しさと清楚さに癒されたい思いで、俺は彼女の容姿を追い続けた。

 ショートヘヤー。黒髪が木々の木漏れ日を受けて艶やかな輝きを放ち、透き通るような白い肌をより清廉に際立たせている。

 膝までの丈のスカート。短いスカートが一世風靡する時代にしては珍しい。

 確かここいらの地元の高校だと思う。時折街で見かける同じ制服の女子達もやはり膝丈のスカートだった。

 校風が厳しいのか、それとも世間一般一世代前に回帰しつつあるのか。

ファッションは常に流動的だから。

トレンドセンサー切れっぱなしの俺が偉そうなことは言えないかもだけど、定番として残るものはあるものの、早いものだと季節単位で装いががらりと変わってしまう場合がある。

 まあ、彼女達の場合、恐らくは校風が厳しい故にだろうな。

 街中で彼女と同じ高校の男子生徒を見ても、やんちゃしているような輩は見たことが無い。

 そんなわけだから、次第に近付きつつある彼女は当然ノーメイクで、派手さは一片も無い。

 こってこての美人と言うよりも、素朴にかわいい感じの女の子だ。

 悪いと思いつつ、俺は彼女から目が離せなかった。

 運命的な出会いを期待している訳でも、突然異界に転生して剣を交える妄想に浸っている訳でもない。

 ただただ気になる事が一つ。

 彼女は泣いていた。

 マスクを掛けているので、はっきりと言い切れる程の信憑性は無いが、少なくとも俺にはそう見えた。

 感染症対策が必然となった今のご時世で仕方が無いのだが、顔の半分を覆うマスクの存在は、使用している本人素顔そのものを追おうマスクと同等の隠蔽性を秘めている。

 掛けている本人も当然自覚していると思う。

 それ故にだろうか。マスクの下の表情は、以前よりもより本心の素顔を露にしているようにさえ思えるのだ。

 俺は彼女から目線をずらした。

 これ以上のクエストは彼女に不信感を抱かせてしまう。

 それに、もし俺が彼女の匂いに反応してしまったら…。

 彼女とすれ違う。

 無意識のうちに、俺は息を止めていた。

 小刻みに鼻をすする音が、耳元を通り過ぎていく。

 俺は確信した。

 泣いている。

 間違いない。

 彼女に何があったのだろう。

 眼を泣きはらしながら歩く姿は、思わず抱きしめたくなるような儚さと、守ってあげたくなるような愛おしさに満ちていた。

 でも、見ず知らずの俺が声を掛けたところで、彼女は苦悩する心の声を聴かせてくれるどころか、猜疑心に裏打ちされた警戒心をあらわにして足早に俺の前から立ち去るだろう。

 最悪の場合、不審者に声掛けられたとか言われて通報されてしまう。

とは言え、ひょっとしたらだけど、原因は内因的なものではなく、外因的な点にあるのかもしれない

 何故にかと言うと、もろここの自然環境に問題有と見た。

 参道の両脇には杉がほぼ等間隔に植えおり、それが神社の鳥居までずっと続いている。

 つまり、花粉症かもしれないって事だ。俺は今んとこ大丈夫だけど。

 でも、可能性としては低いかもだ。だいたい花粉症で苦しんでいる者が、わざわざこんな花粉の巣窟に来るものか。その行為は明らかに自殺行為だ。

 彼女に興味津々の俺だったか、詮索はそこまでにした。

 俺がここを訪れたのは、運命的な出会いを求めてじゃない。

 もっと違う目的があった。

 もっと重い案件絡みの理由が。

 三日前、同期の惟村麻衣佳が、ここで短い一生を終えた。

 それも、自らの手で。

 参道から少し茂みに入った所で、木の幹にロープを掛け、中腰になるような格好で首を吊ったらしい。

 遺書は無かった。

 この時点では動機がはっきりしないままであったものの、警察は事件性が無いとしてすぐに自殺と判断したらしい。

 葬儀は家族だけで行われ、俺は最後のお別れも出来なかった。自宅から通学していると彼女から聞いていたのだが、住所までは聞いていなかった為、弔問すら行けずの状況だった。

 俺の通う大学構内では結構大きな話題として取り上げられてはいたが、メディアで大っぴらに捉えられるのではなく、ローカルな新聞社のネット記事で触れられた程度だった。

 寂しい話だが、そう言うものだ。

 年間、数えきれない位の人々が自死を選択する現実の中で、事件性が無い以上大きく取り上げられるのは稀なのは致し方ない事なのだろう。

 よほどの有名人じゃない限りは、まずメディアに晒されることは無い。

 却って遺族や関係者にとっては、その方が心情的には救われるのかもしれない。

 内容的には闇に葬りたい事実なのだから。

 でも、彼女が選択した事案の背景を知りたいのは、関係者にとっては必然的な事だ。

 特に、遺書が無いだけに。

 俺自身は彼女と特別な関係にあった訳じゃない。

 恋人同士ではなく、関係性は親しい友人という程度だった。

 それも、急接近したのは二週間前の事で、高校が一緒だったとか、幼馴染だったとか、そういった濃厚な背景も無い。

 彼女とは同じ学部学科でありながらも、今迄はほとんど接点は無く、講義の時に教室で顔を合わせる程度だった

 艶やかな長い黒髪。切れ長の澄んだ黒い瞳。透き通るような白い肌は、恐らく根っからのインドア派である事を揶揄していた。いつもナチュラルな色合いの露出の少ない装いで、物静かな素振りから、結構ガードが高い様に思われた。

 彼女の醸す神々しい雰囲気に、イケイケの男達も近寄り難いものがあるのか、いつも頭目で彼女を見てはヒソヒソ話しながら猥雑な笑みを浮かべていた。

 そんな彼女と俺が急接近したのは、たまたまバイト先が同じだったからだ。

 大学の近くに大型スーパーが開店した時、オープニングスタッフとして短期間働いたのだが、その時に担当した作業が同じだったのだ。グロッサリーといって商品を棚に陳列する仕事なのだが、彼女は今までにも経験があるらしく、初の試みで戸惑う俺に笑顔で接してくれたのだ。

 今思えば、決して格好良くなく、おまけに超不器用な俺に、あれだけ懇切丁寧に教えてくれたのは何故だったのだろうと思うと不思議でならない。

 色々と残念な俺に対して同情してくれていたのだろうか。

 とはいえ、それがきっかけになって、講義で顔を合わす度に隣同士になったり、学食で一緒に食事をしたりするようになった。

 俺の知る限りではそれまで教室で見かけた時には結構一人でぽつんと席についていることが多く、余り人とつるむのが好きじゃないのかと思っていた。でも二人で色々話してみると、そうでもないことが分かった。

 彼女曰く、せっかく大学生になったのだから、勉強に集中したいからと言うのがその理由らしい。

 俺みたいなコミュ障ではなく、あくまでも勉学に対する真面目な姿勢を貫いているのだと分かり、俺は驚きを隠せなかった。

 彼女とはあくまでも大学構内だけの関係だったし、バイトも短期だっただったので、一緒にいる時間は前程ではなかったものの、俺はそれで十分満足していた。

 あわよくばこの関係を大切に維持しつつ、少しずつでも親密な感じに持っていけたらと考えていた。

 でもそれは、はかなくも終わりを告げる。

 離れて行ったのは彼女の方からではない。俺の方からだった。

 あの日を境にして。

 あれは、まだ四月というのに妙に蒸し暑い日だった。

 昼食後、その日の午後の講義を受ける為に俺と彼女は教室に向かっていた。

『この暑さ、異常だよね』

 彼女は眉間に皺を寄せ、アンニュイな表情を浮かべると、軽く襟足を搔き上げた。

 ふわっと、甘酸っぱい匂いが鼻孔をくすぐる。

 まずいと思った。

 いつもなら、彼女の匂いに安らぎを覚える程度で、それ以上何も感じなかったのだが、その日は違った。

 彼女の匂いに鼻孔を膨らませた刹那、俺の本能が激しく警鐘を打ち鳴らしたのだ。

 視界が大きくたわむと、ぐにゃりと歪み始める。

 俺は息を呑んだ。

 始まったのだ、あれが。

 歪に湾曲した視界に、やがて鮮明な情景が浮かび上がる。

 彼女だった。

 俺の視界いっぱいに浮かび上がった彼女の表情は、今迄に俺が見た事の無い、妖艶で猥雑なものだった。

 上気し、紅く染まる頬。虚ろな眼は宙空を彷徨い、半ば開けれた唇からは快楽に酔いしれる喘ぎ声が零れている。

 彼女は裸だった。一糸まとわぬ姿で、ダブルベッドに横たわっていた。

 彼女の裸体の上に、見知らぬ若い男の裸体が重なっていた。

 同時に、視界に同じ様な映像がいくつも浮かび上がる。

 至福の表情でベッドに横たわる彼女。その白い肌を汚すかの様に、体を重ねる男。

皆、違う顔をしている。

 愕然とする俺を嘲る様に、忌まわしき情景はいくつものシーンを視界に映し出していた。

 彼女の表情から、決してそれは意に反しての行為ではなく、同意の上で行われているのは明らかだった。

 無限の闇に沈む失望感が平常心を根こそぎ奪っていく。裏切られたという強い負の感情が、俺の意識を支配していた。

 俺の中で、彼女に抱いていた清楚なイメージがぐすぐと崩れていく。

 俺自身は決して厳粛な処女信仰者じゃない。

 そんな古臭い拘りは持ち合わせていないと自負している。

 けれど、彼女の過去の男性遍歴を情事ばかりピックアップして超リアルスリーディー映像でみせられてみろ。耐えられるか? 

 身近にいる女の子が自分以外の男といたしている姿を、リアルな映像で立て続けに見せつけられて普通に興奮する奴がいたら、俺はそいつを尊敬する。

 残念ながら、俺はその情景がフェイクだと突っぱねられる意志の強さも、全てを許す寛大な心も持ち合わせてはいない。

 それに、これがフェイクでもただの俺の妄想でも無い事は、自分自身ではっきりと自覚していた。

 これは、俺の異能が齎した現実の光景。

 ポストコグニション――過去感知能力。

 過去に起きたあらゆる事象を感知することが出来るスペック。人により、それがイメージだったり、文字だったりするようだけど、俺の場合は超リアル映像となって甦る。映像と言うよりも、まさにその現場に立ち会っているような感覚と言っていい。

 ただ、音声を伴わないので、ミュートした映像を流しているような感じだ。

 よくテレビの特番なんかで、残された証拠品から迷宮入り事件を解決する、サイコメトラーって能力者が紹介されることがあるけど、それに近いものだと思う。

 サイコメトラーは物に触れるだけでそれに関わる事象をトレース出来るけど、俺の場合は違った。

 匂いなのだ。

 直接的な匂いが引き金になる時もあれば、そこに存在しないはずの匂いを感知して事が起きる場合もある。

 匂いの記憶と言うべきか。

 小学生の頃、道を歩いていて何も無い所で血生臭い匂いを嗅ぎ、驚いた瞬間、目の前で過去に起きた交通事故の惨状が蘇った事がある。

 幼い頃は、それが誰にも見えるものだと思って親とかにも話していたのだが、その都度顔を顰め乍ら妙な事を言うなと怒られていた。

 だが、物心ついた頃にそれは自分にしか見えて無い事に気付き、それ以来、俺は誰にも話さなくなった。

 話したところで、奇異の眼で見られたり、嘘つき呼ばわりされるのが落ちなのだ。

 普通に考えたら凄いスペックなのかもしれない。

 けど、俺にとっちゃ、厄介な存在でしかなかった。

 一番の問題は、この力を俺自身が制御できない点にある。

 自分の意志では見たいと思っても見れないし、反対に見たくないものが見えてしまう時がある。

 今回の場合がそうだった。

 俺は立っていられなくなり、思わずその場に蹲った。耐え難い虚脱感が俺の身体を支配し、筋力が生まれたばかりの幼子並みにまでレベルダウンしていた。

『どうしたの? 大丈夫?』

 彼女が心配そうに俺の耳元で囁く。

 彼女の呼気が、妙に生臭く感じる。

『大丈夫…』

 俺は力ない笑みで取り繕うと、近くの男子トイレに飛び込んだ。

 少しも大丈夫ではなかった。

 個室に飛び込むと、俺は胃の中の物を便器にぶちまけた。

 彼女に抱いていた清楚なイメージも、愛おしい気持ちも、全て残さず吐き散らかした。

 胃液の苦味が口内に広がり、呼気と共に鼻を抜けた。

 胃液の匂いには反応しないのかよ。

 俺は情けない笑みを浮かべながら、じっと吐瀉物を見つめていた。

 俺にとどめを刺したのは、彼女の呼気の匂いだった。 

 蹲る俺を心配して、彼女が顔を寄せて来た時、彼女の呼気に俺は反応していた。

 俺は見てしまった。

 彼女の唇から、白い液体がどろどろと溢れ出るのを。

 それも至近距離で。

 俺は個室から出ると、シンクで口を漱いだ。 

鏡には血の気の失せた真っ青な顔が映っていた。

 トイレの入り口で、彼女が心配そうに俺を待っていた。

 何か言いたそうな表情をしていたが、俺はそれを制し、体調がすぐれないので帰るからとだけ告げてその場を足早に離れた。

 彼女を見るのが耐えられなかった。

 彼女といるのが耐えられなかった。

 余りも衝撃的な体験だけに。

 今までにも衝撃映像はいくつも見ている。さっき話した事故現場はしょっちゅうだし、火事とか、通り魔事件とか。

 ある意味衝撃的だったのは、二歳上の姉のゼロハチニシーン。    

 パソコンがフリーズしたから何とかしろってんで姉に呼ばれ部屋に入った瞬間、それはリアル映像となって再生されたのだ。引き金になったのは部屋に満ちていた姉の甘酸っぱい発酵臭に似た体臭だった。かなり濃厚だったから、いたした直後だったのかもしれない。

 依頼事項を解決するとそそくさと部屋を出たのは言うまでもない。

衝撃の余りに、しばらく姉の顔を正視出来なかったのを覚えている。

俺の異能が発動する匂いの要素は、あくまでも事件性のある事案に限られており、その時は何故姉の自家発電に反応したのかよく分からなかった。後で判明したのだが、この時姉のパソコンは、何処かのサイトで拾ってきたウイルスに感染していたのだ。

 だが。

 今回俺が受けた衝撃は、過去の様々なショッキング映像を遥かに凌ぐものだった。

 それから一週間、俺は大学を休んだ。

 何かと届を出さないとうるさいご時世なので、形なりに通院し、感染症ではなく心身の疲労であるとの診断書を発行してもらうと、学生課に提出した。

 ラインや電話で何度も連絡してくる彼女には過労だったと告げ、大学生になり、初めて一人で生活し始めて疲れが出たのだと説明した。そしてしばらく体を休めたいので連絡はしてこない様にと話し、看病に行きたいから俺のアパートを教えろと言う申し出にも丁寧にお断りを入れた。

 一週間後、俺は大学に復帰した。だが彼女との関係は、これを機に元には戻らなかった。

 俺がいない間に、彼女の周りには別のコミュニティが出来ていた。

 あの、遠巻きに彼女を見ていたチャラ男たちではない。外観は大人しそうな女子数名の中に、彼女は紛れていた。

 何となく寂しくは感じたものの、俺にとっては返って都合が良い展開だった。

 彼女が学校に姿を見せなくなったのは、それから更に一週間後だった。

 体調を崩したのかと思い、今度は俺の方から電話やラインで連絡してみたのっだが、いっこうに返事は無かった。

 次の日、俺のアパートに二人の刑事が訪ねて来た。

 一人は二十代後半の若い刑事で、もう一人が中年のベテランらしき風貌の刑事だった。

 二人とも名は名乗ったのだが、突然の事情聴取初体験に緊張してしまい、俺の頭には入ってこなかった。

 若い方の刑事が、言いにくそうな表情を浮かべながら、俺に彼女の死を告げた。

 愕然とする俺の表情を探るような目つきで見ながら、年配の刑事が、事の詳細を話してくれた。

 状況は荷造り用の紐を木の幹に縛り付け、座り込む様に首をつっていたらしい。

 警察は実況見分から自殺とみているようだが、遺書が無かったのと紐の入手経路が不明である点から、動機を調査すべく聞き取り捜査を行っているらしい。

 ちなみに、俺を訪ねて来たのは、彼女と普段から仲の良い間柄だとの情報提供者がいたらしい。

 彼女の携帯を調べると、それを裏付ける様にラインと電話のやり取りが確認されたので。真っ先に俺の所に来たとの説明御受けた。

 勿論、俺以外にも交友関係のあった者をリストアップし、最近の彼女に変わったことが無かったか確認しているとのことだった。 

 俺は彼女と知り合った時期とどういった関係なのかをかいつまんで説明した。どういった関係と言っても、ただ大学で顔を合わすくらいだけなのだが。

 だがその時は彼女の死が受け入れられずに半信半疑の状態で刑事の質問に答えていたので、思う様に言葉を紡ぎだすことが出来無かった。

「彼女と付き合ってはいなかったの? 」

 ひとしきり俺の話を聞いた後、若い刑事がそう切り出した。

「はあ、そんな関係じゃなかったです。誰かそう言った奴がいるんですか? 」

 俺は刑事に問い掛けた。

「まあね。捉え方は人それぞれだから。学校で会話してれば中にはそう捉える人もいるしね」 

 刑事は苦笑いを浮かべた。

 この刑事、抜けているのか、お人よしなのか・・・これで密告者がしぼられる。

 明らかに同じ大学で同じ講義を受けている輩だ。でないと、俺が彼女と会話しているシーンを目撃なんて、そうそう他ではできないからな。それに、意識して見ていないと記憶にとどまらないって事。多分だけど、普段から彼女を見つめ続けている奴。

「君が知っている範囲で、彼女の交友関係が分かれば教えてもらえませんか? 」

年配の刑事が丁寧な物腰で問い掛けて来る。

「分からないです。話をするようになってもまだそんなにたってないし、会うのも学校でだけなんで。高校も違いましたから」

 彼は俺の回答を聞きながら、彼は何度も頷いた。

 知らない訳ではなかった。

 あの時垣間見た映像は、経験豊かな男性遍歴を如実物語っていた。

「そうか…じゃあ君じゃないな」

 年配の刑事はぽつりと呟いた。

「え、それってどういう意味ですか? 」

 俺の問い掛けに、彼はしまったという様な困惑の表情を浮かべたが、渋々口を開いた。

「彼女ね、妊娠していたんだよ。四か月位だったらしい」

 俺は言葉を失った。驚きの声を上げる事すら出来ず、ただ眼をかっと見開いたまま刑事の顔を凝視していた。

「辛い思いをさせてしまったのなら申し訳ない。また何か思いだした事があったら連絡ください」

 彼は俺に名刺を渡すと、礼を述べ、去っていった。

 彼女が妊娠していた――その死すら実感できずにいるのに、更に信じがたい事実が突きつけられ、俺の思考は完全にフリーズしていた。 俺はふらついた足取りでキッチンに向かうと、グラスに水を注ぎ、一気に飲み干した。

 動悸がおさまらなかった。

 耳の奥で激しく脈打つ拍動。それは、まる

で頭の中に心臓があるみたいな感覚だった。

 その日、俺は一睡も出来ずに夜を明かした。

 翌日、体調バッドマックスな俺だったが、ふらふらする身体を引き摺りながら大学に行った。

 選択科目の講義が二コマあるだけだったので、無理していかなくても良かったのだが、俺にはどうしても確かめたい事があった。

 俺と彼女との関係を警察にたれこんだ奴。

 通報されたって疚しい点は一つも無いのだから、構わないといやあ構わないのだが。

 講義を追え、一人通路のベンチに腰掛けていた俺に声を掛けて来る奴がいた

 同じ学科のイケイケグループの一人だ。講義前にいつも遠巻きにして彼女を見ては、こそこそ何やら話してた連中の一人だった。

 因みに、イケイケと言ってもイケメンって訳じゃない。ただただ人目を引こうとして、いつもつるんでは騒ぎ立てている厨房並みの思考力の持ち主達だ。

「お前んとこに、警察来なかったか? 」

 奴は携帯を構いながら、好奇のまなざしで俺に話し掛けて来る。

 早速かかった。俺の方から撒き餌をするまでも無く。

 間違いない。警察に俺の事をたれこんだのは奴だ。

 もともと俺が立てた作戦では、何人かに警察から訊問を受けた旨を話し、その話題に反応した者がいるか盗み見るというものだった。

 これだと手間暇かかるし、掛かる率もマジ低いだろう。

 それにしても、奴の方からかかって来るとはな。

 こいつは相当頭が悪いかいかれてんだろうな。普段は全く会話などしないのに、いきなり核心をついて来るなんて、自分から身バレするよう仕向けているようなもんだ。

「ああ、二人来たよ。惟村の事を根掘り葉掘り聞いてった」

 俺は奴に昨日の事を事細かに話してやった。

 あの問題の一言を除いて。

「一つ聞いていいか? 」

 ひとしきり話し終えたところで、俺は奴に問い掛けた。  

「何故、俺の所に警察が来たって分かった? 」

 俺は真正面から奴を見据えた。

「え、あ、ああ…」

 奴はキョドりながらばつが悪そうに俺から目線を逸らした。

 俺は思わず苦笑した。

 ここまで分かりやすい奴は珍しい。

「それと、ここだけの話だけど、お前、これ

から俺が話す事、連れの連中には言わないっ

て約束できるか」

 俺は声のトーンを落とすと携帯の通話を切るよう、奴に目で合図を送った。

奴は携帯を会話の状態にして俺に話し掛けてきたのだ。

 奴の意図はすぐに分かった。

 奴は携帯を使って、俺との会話を連れ達に生で聞かせていたのだ。

 見ると、少し離れたところでたむろしている奴の仲間の一人が、携帯を仲間に見せながら無言で聞き耳を立てている。

 生ライブ放送でもやっているつもりなのだろうか。

 たぶん、俺がおどおどする様子を見ながら、笑い者にしようとしていただろう。だが、残念ながら俺は冷静に対応したばかりか、反対に英雄気取りの斥候をじわじわと追い込んでやったのだ。

 奴はしばらく考え込んでいたが、しまいには俺の申し出に頷くと、携帯の通話をオフにした。

 同時に、遠巻きに俺達を伺っていた奴の連れ達が不穏な動きを取り始める。

 俺が気付いていないと思っているのか、何度も何度も奴の顔を見ながら、これ見よがしに携帯をちらつかせている。奴が誤って通話をオフったと思って知らせているようだった。

「切ったよ、で、どんな話? 」 

 奴は訝し気に眉を潜め乍ら俺の顔を覗き込んだ。

 俺は、ちらりと奴の仲間たちに目線を飛ばした。たまたま目の合った一人が、何食わぬ顔で白々しく目を逸らす。

「彼女、妊娠してたらしい。四か月位だって」

 俺は爆弾を投下した。

 奴は眼球が零れ落ちんばかりに両眼を見開くと、口を開き、無声の叫びを上げた。

「俺がそう言った関係じゃないことは警察も分かってくれたよ。俺が彼女と出会ってからと胎児の月齢が合わないからな。俺んとこに来た刑事が言ってたけど、今、彼女の交友関係を洗いざらい調べているそうだ」

「まじか…」

 奴は呻いた。目線が中空を泳いでいる。

「そのうち、おまえんとこにも来るよ」

「来るって…」

「刑事がだよ。俺の話はこれだけだ。この件は連中には言わない方がいいぞ、お前の為にもな」

 俺の忠告に、奴は顔を真っ青にしながら、諤々と頷いた。

「俺は違う…俺は※〇▽×😢」

 奴は意味不明な文言を吐き捨てると、ふらふらした足取りで仲間の元に戻った。

 奴が受けた衝撃が計り知れないのは俺にも分かる。

 彼女の上に乗っかっていた男の顔に、奴も交じっていたのだ。

 確か、直近から二人目。俺の経験上、匂いの記憶は、直近から過去へと誘う妙な法則性があるから間違いない。

 次の日から、奴は学校に来なくなった。

 相当なダメージを受けたらしく、気の毒にも思えたが、原因は奴自身にもある訳で、決して心から同情する気にはなれなかった。

 奴が学校に来なくなって三日目の昼下がりの事だった。

「ちょっといいか」

 講義が終わって講義室から出ようとしたところで、奴の仲間の一人が憮然とした顔で俺に声を掛けて来た。

「ん? 」

「おまえ奴に何て言ったんだ」

 彼は腕組みをしたまま、眼を逆三角形にして俺を睨みつけた。

「奴がおまえらに話した事しか言っちゃいない」

「本当か? 」

「本当だよ。それより、人に何か尋ねる時に腕組みするのは失礼だろ」

 俺の忠告に彼は不満気に鼻息荒く口元を歪めたが、取り合えず理性は持ち合わせていたらしく、組んだ腕を黙って降ろした。

「おまえが奴を追い込んだんだ! この前おまえと話してから、奴の態度がおかしくなった」

 彼はまるで俺が奴に何かしでかした加害者の様にまくし立てた。

 何もしていないと言えば嘘になる。確かに話の最後に爆弾は投下したが。

 だがそれは自業自得ってやつだ。

 そばにいた他の学生が驚いて振り向く程の荒立てた声で、彼は俺を口汚くののしり続けた。

 何でも彼の話では、心配になって奴の家にに言ったらしいのだが、部屋の鍵を掛けて中に入れてもらえず、ただただ何かに怯えた様子で『帰ってくれ』と繰り返すだけだったらしい。

 そんな俺達の様子を遠巻きにしながら、見て見ぬ振りを決め込む学生達。誰も彼を止めに入ったり、俺を助けようとなんてしたりしない。

 厄介事には首を突っ込みたくないが、興味ある様で、こっそりスマホで動画を取っている輩もいる。

 俺自身、他人に助けを求める気は更々無かった。動画を取ってくれている輩連中は、かえってありがたい存在だった。これで彼が俺に手を出したら、その動画を証拠に傷害で訴える事も出来るのだ。

 奴が暴言を吐いて威嚇している間、俺は動揺することなく、極めて冷静にそいつを見据えていた。

 彼は、俺が全く動じずに平然としているのが面白くないのか、しまいには惟村は俺に殺られたまで言い出した。

 ここまで来ると、ちょっと度が過ぎる。

「何故、おまえが直接俺に聞きに来なかったのさ? 彼女の事、お前も気になっていたんだろ? 」

 彼が一頻り吠えた後、俺は探るような目つきでそいつを見た。彼はぎょっとした表情を浮かべると、何気に目線を逸らした。

 こいつも奴と同じだ。馬鹿みてえに分かり易い。

「そりゃあ、まあ、同じ学科だし…」

「それだけか? 」

「あ、ああ。それだけだよ」

 そいつはマウントをとっていたさっきまでとは打って変わって、逃げ腰な態度を取り始めた。

「奴を追い込んだのはおまえの方だろ。他の連れもそうだろうけどな。おまえ達の仲間内で、奴の立ち位置って何なんだ? パシリか? 今迄も何かありゃあ、面倒臭い事は、みんな奴に押し付けただろ。後で返すからってしょっちゅう飯奢らさせてたみたいだし」

 俺はそっとするような微笑を浮かべながら、彼に優しく問い掛けた。

「あいつ、おまえにそんな事言ったのか⁈ 」

 彼は驚愕に、頬を強張らせた。

 彼の問いに、俺は答えなかった。

 ただ、冷ややか笑みを口元に浮かべると、侮蔑の視線を彼に注いだ。

 あの時、奴はそんな事一言も俺に話しちゃいない。

 見えてしまったのだ。

 俺の指示に従い、奴が携帯の通話をオフにした時だった。これ見よがしに合図を送る仲間に奴が苦悶の表情を浮かべながら、髪の毛をがしがしと搔いた瞬間、汗臭い奴の頭皮の臭いが、奴が仲間とつるんでいる時の映像を呼び起こした。

 状況は、さっき述べた通りの内容だった。

 明らかに、奴は彼らにカモられていた。

 確か奴の家は裕福で、バイトなんかしなくても余裕で遊び惚けるだけの小遣いを親から貰っているらしい。

 ある意味では、奴は哀れな存在だった。まあ、本人がどう捉えているかまでは分かないが。

 ただ俺の異能は、彼が受けている処遇を事件として捉えて発動したのは明らかだった。

 いつしか、彼の目つきに変化が生じていた。俺ではなく、何処か遠くを見つめている感があった。公にしていない仲間内の所業を言い当てられたのがショックなのだろう。

「あの野郎…」

 奴がぶつぶつ呟き始めた。

 どうやら、怒りの矛先が奴に変わったらしい。

 彼は俺から目線を逸らせると、無言のまま、立ち去ろうとした。

 擦れ違う瞬間、俺は彼の耳元で囁いた。

「妊娠してたんだ、彼女」

 彼は立ち止まった。唇を半開きにしたまま、声の無い叫びを張り上げていた。

「四か月目位だって刑事が言ってた。何でも胎児の遺伝子調べれば、相手を特定出来るらしいぞ。今、彼女の交友関係を洗ってるってよ。孕ましたのが俺じゃないって事は刑事も分かってくれたよ」 

 俺は絶対に周囲には聞こえない位の、蚊の羽音レベルの声で、静かに爆弾を連続投下した。

 彼は驚愕と絶望が入り混じった様な狂気の表情を浮かべると、無声の呻きを上げながら俺を見た。

 冗談だと言ってくれ――かっと見開かれた奴の眼は、すがる様に俺の視線に絡みついていた。

 それ以上、俺は何も答えなかった。

 俺は苦笑を浮かべながら、何食わぬ顔で彼から離れた。

 彼はどんと教室の壁に寄りかかると、糸の切れたマリオネットの様に、その場に崩れた。

 周囲からどよめきが漏れる。

 勿論、彼に駆け寄る者など誰一人としていない。

 珍しい事に、いつもつるんでいる彼らの連れ達の姿も無い。

 彼はあえて一人で俺に真相を探りに来たのだ。

 奴と共通の思惑を確認するために。

 俺が垣間見た彼女の黒歴史のキャストの中に、彼の姿があった。順番で言えば、直近から三番目。奴の前の相手が、彼だった。

 今思えば、あの時垣間見た映像の中で、この二人については妙な違和感があった。

 シチュエーションが似通っているのだ。

 ベッドのシーツの色。ちなみに薄い紫。

 薄暗い部屋を仄かに照らす、オレンジ色の間接照明。

 焦げ茶色のカーテン。

 そして、ぐったりとベッドに横たわり、眼を硬く閉じたままの彼女。表情一つ変えず、されるがまま微動だにしない。

 シーツの皺も、ベッドに広がる彼女の乱れた髪も、皆、何故か酷似していた。

 男の首を挿げ替えても違和感が無い位、不思議な構図だった。

 答えは一つしかない。

 二つの事象がほぼ同じ時期に行われたという事。

 前にあの二人が彼女に時折視線を投げ掛け乍ら、他の仲間達と猥雑な笑みを浮かべていたことがあった。恐らくあの時奴らが談笑していたことの背景が、これなのかもしれない。

 何だか闇深い事実が、さり気なくおりこめられていたのには驚きだった。

 たぶん、奴らを問い詰めてもこの件はとことん黙秘を貫くだろう。ましてや、もう一人の当事者の彼女には聞き出したくても聞けない状況だった。

 死人に口無しとは、よく言ったものだ。

 次の日から、奴に加え、彼も学校に来なくなった。

 講義室で、しきりに存在感をアピールしていたイケイケ連中も、構成員が二人になった今、めっきり大人しくなってしまった。

 そして、日が経過するにつれ、彼女の事を話題に出す者は、もう誰もいなくなった。

 このまま時を経るにつれ、彼女の面影は次第に風化し、みんなの記憶から消え去ってしまうのだろうか。

 悲しくも切ない現実だった。

 彼女に抱いていた裏切りの疑惑も、落ち着きを取り戻した今、不思議と薄らいでいた。

 ただ一つ。

 真実が知りたかった。彼女を死に追いやった原因を。

 望まない受胎がそれだったとしても、そこに至るまでの背景が知りたかった。

 彼女はどんな思いで自ら命を絶ったのか。

 そして、本当に自殺だったのか。

 時が流れるままに彼女の記憶を忘却の彼方に追いやるのではなく、俺の中で彼女に関わる謎を全て解決したかった。

 それが、俺がここを訪れた理由だった。

 普通の人なら、せいぜいネットで情報を集めるぐらいしか出来ないだろう。

 でも、俺なら出来る。

 彼女の匂いの記憶を少しでも感知できれば。

 それが体臭でも、呼気の匂いでも、死に至る際に失禁した排泄物の臭いでも何でもいい。その場所が分かれば、草いきれですら、俺の忌能はそれが鍵となって匂いの記憶を遡り、その場所で過去に起きた出来事を呼び起こしてくれるのだ。

 彼女に関わる匂いの記憶に触れることが出来れば、俺はまさに死を迎える瞬間も見定めることが出来る。

 彼女の心情を読み取ることが出来なくとも、少なくとも本当に自死だったのかどうかは確認出来るのだ。

 でも正直のところ不安はあった。

 身近な人の最後を、まるでその場に居合わせたかのように見えてしまうのだから。それも見えるだけで、決して助けることが出来ないのだから。

 後悔するかもしれない。

 彼女の死ぬ間際を目撃していながら、助けることが出来無いもどかしさと不甲斐無さに、俺の精神が崩壊してしまうかもしれない。

 そんな不安が付き纏いながらも、俺は歩みを進めていた。

 覚悟はしていた。

 俺が垣間見る事実は現実に間違いないものの、あくまでも過去に起きた事象なのだから、もはやどうすることも出来ない。悩んでも仕方が無い事なのだ――そう、自分に言い聞かせることにした。

 ただ、問題があった。

 彼女が最期を迎えた場所の特定が出来ていない上に、事が起きてから日が経過し過ぎているのだ。大まかな情報はネットのローカルニュースで知り得たが、何分自殺で処理された案件だけに、メディアから得られえる情報は限られていた。

 それに、現場の山が神社の管理地と言うことで、死に関わる忌を嫌い、献花はふもとの駐車場にしつらえられた小さな台に限られており、供養のための献花を目印に探そうとしていた計画はここでとん挫した。よってますます特定が困難極まりない状況に陥ったのだ。

 俺は仕方無く献花台に花束とお菓子と飲み物を供えると、深呼吸を繰り返しながら参道をゆっくりと登った。

 時折、足早に俺を追い抜いていく観光客とすれ違うのだが、俺はその度に息を止め、余計な匂いの情報を取り込まない様に注意した。

 杉並木の参道を進むと、石で出来た鳥居が見えて来た。

 ひとまず境内に進み、神社の神様にご挨拶がてらお参りを済ませた。

 敷地内に茶店があり、名物らしい団子や甘酒を売っていたが、俺にはまったりと舌鼓を打つ余裕が無かった。

 今のところ、彼女に関わる匂いの記憶は感じられない。

 神社を離れ、側道に抜ける。この先には昔あった山城の城跡があり、山道を登っていくとそこにたどり着けるのだ。

 神社までは観光客もちらほらいたのだが、こちらの道を進む人影は俺以外には全く見当たらなかった。

 まあ、俺にとってはその方が都合はいい。

 余計な情報に捕らわれることなく捜索できるのだから、かえってありがたかった。

 山道を進むにつれ、次第に新緑の草いきれが濃厚になり、鼻孔から離れなくなる。

 俺は困惑した。

 これでは、彼女の匂いを感知出来ないかもしれない。

 ただ救われていると言えば、幾ら草いきれを嗅いでも、俺の力が発動しないところだろうか。

 今までの経験から憶測すると、多分だけれども、日常的な匂いはスルーし、非日常的な匂いには敏感に反応するようだ。それも、直接その事案に関係していなくても、同時に生じた出来事に共通する匂いだと、他に類似した匂いとは別の刺激になって俺の本能に掛けられた忌能への扉を開くことになるのだ。

 手掛かりが一つも無いものの、俺は諦めずに、草木の生命エネルギーを感じながら頂上を目指し進んだ。

 何も起きない。

 ひょっとしたら、現場はもっと道から外れたところなのかもしれない。

 そうなると厄介だ。

 汗ばむ額を拭う。

 ただ単に暑いからだけじゃない。

 未だ手掛かり一つ見つからない現実への焦燥が生んだ冷や汗も混じっていると思う。

 とうとう山頂にたどり着く。

 建造物は無く、昔館が建てられていた辺りに看板が建てられている。

 後は何もないのだが、平らにならされた山頂を見ると、大昔にここまで材木やら瓦やらを運び上げたのは、相当な大工事だったのは間違いなく、それを重機無しでやってのけた古の職人の方々には、敬意を表したくなる。

 それと山頂だけに、景色は抜群に良かった。麓に広がる田畑や住宅、そして市街地に近付くにつれ、幹線道路沿いに発展している街並みの風景が手に取るように見えた。

 アパートから比較的近くにありながら、今まで訪れた事が無かっただけに、小さな発見と言えた。

 これが、観光目的だったら、もっと心から楽しめたのに。

 俺は吐息をついた。

 今のところ、俺の匂いセンサーに反応するものは無かった。

 今日一日で調べようってこと自体、無理があったのかもと思う。

 何しろ、俺の能力は自分ではコントロール出来無いのだから。

 ここまで来る途中、いくつか脇道があったのを思い出す。

 確か自然歩道っぽい看板が立っていた。山を下りながら、今度はそっちの方に探りを入れようと…。

 何だこれは?

 俺は首を傾げた。

 草いきれの中に、妙に鉄っぽい金属臭のようなものが混じっている。

 何だろう――そう思った時だった。

 視界が大きく歪み、形状が崩れていく。

 俺のスペックが起動し始めたのだ。

 ミキシングされた視界の映像が、再び形状を構築していく。

 学生服を着た男子高校生が、俺に背を向けて立っている。

 かなりの長身の上に痩躯。百八〇センチは優にありそうだ。首筋までかかる長い髪。汗ばんでいるのか、白い光沢を反っている。

 彼は崖の間際に立っていた。

 でも、景色を眺めているって感じじゃない。

 その後ろ姿には、何となく威圧的な雰囲気が感じられた。

 彼は俺に背を向けたまま、何か言葉を発していた。

 俺のスペックはスポット的に現実に起きた事象を映像化するものの、音までは再生出来無い。

 彼が何か話していると察したのも、声が聞訳ではなく、背後から見て取れた頬と耳の動きから推測したまでだった。

 独り言を呟いている訳ではなさそうだった。

 と言うことは、誰か話し相手が必ずいるはずだ。

 不意に、俺の視界の前を人影が過ぎる。

 制服姿の女子。彼と同級生なのか。

 ショートヘアーの黒髪。

 この娘、見覚えがある。顔が見えないから、何となくだが、参道の途中ですれ違った女子高生に似ているような気がする。

 たぶん、そうだ。

 髪型といい、背格好といい、あの娘にそっくりだ。

 彼女は、背を向けて立つ彼に何か必死に語り掛けているようだった。

 だが彼はそんな彼女には目もくれず、背を向けたままでで振り向きすらしない。

 何となく分かった。

 あの時の彼女の涙の意味が。

 この雰囲気から察するに、別れ話のような感じがする。恐らくは彼氏の方が一方的に別れを切り出したってとこだろう。

 彼女が彼に小走りで駆け寄る。

 強引に、背後からハグってか?

 彼はうっとおし気に振り向き、嫌悪に表情を露骨なまでに歪めると、彼女に何か言葉を発した。

 彼女が、彼の懐に飛び込む。

 彼は大きく目を見開き、頭一つ下の彼女の顔をじっと覗き込む。

 驚愕よりも、呆然に近い表情が彼の顔に貼り付いていた。

 彼の唇は半ば開いた状態で、閉じられることは無かった。

 やがて彼女は体をびくっと痙攣させると、こちらに背を向けたまま、ゆっくりと後ずさりし始めた。

 彼女の右手には、小ぶりなナイフが握られていた。恐らくは果物を向くための、小さなナイフ。だがそれは、本来の用途以外のジグとして役割を果たしたのは明確だった。

 彼は驚いた表情で彼女を見た。

 彼女の肩が小刻みに揺れている。

 彼は目を吊り上げると怒号を吐きながら彼女歩み寄る。

 不意に、彼の身体が地に吸い込まれるように消えた。

 戸惑いと驚愕に表情を歪めた彼の顔の残像だけが、視界にその瞬間の痕跡を留めていた。

 映像が消えた。

 気持ち悪い脂汗が、体をぐっしょりと濡らしていた。

 激しく脈打つ心臓の拍動が治まらない。

 こんな事ってあるのだろうか。

 本当に驚いた時って、声を上げる事も動く事も出来ない。声だけじゃない。呼吸の仕方も忘れてしまっている。息を吸ったり吐いたりする行為ですら、今の俺には超難関な作業と化していた。

 驚愕の二文字で表すには余りにも壮絶で、魂をえぐる様な、超感覚に庇護されたリアル感が半端無い現実に、俺の意識は足元から打ちのめされていた。

 見覚えがあるのは制服女子だけじゃない。

 彼の事も、俺は見たことがある。

 忘れやしない。

 はっきりと覚えている。

 惟村の記憶の中で最後に抱かれた男だ。

 彼女は年下の男とも関係をもっていたのか。

 それも、相手は高校生だぞ。

 俺は手で口を押えた。

 息が出来なかった。

 彼女の男性遍歴とたった今垣間見た映像の内容が余りにも衝撃的過ぎて、俺は過呼吸を引き起こしていた。

 呼吸を整えながら、俺は恐る恐る崖に近付き、下を見下ろした

 映像の続きが、そこには控えていた。

 崖下十数メートル程の藪の中に、先程の高校生が俯せになって倒れていた。 






「君が見つけたのか! 」

 見覚えのある刑事が、驚きの声を上げながら、足早にこちらに近付いて来る。以前、アパートを訪ねて来た二人の刑事のうちの若い方だ。

「あ、先日はどうも」

 俺は刑事に軽く会釈した。 

「早速だけど、発見した時の状況を話してもらえますか? 」

「はい」

 俺は刑事の問い掛けに頷くと、発見時の状況を説明した。

 勿論、あの記憶の映像については触れず、たまたま下を覗き込んだら人が倒れているのが見えたとだけ伝えた。

 崖を下って男子生徒の様子を確認しようとしたが、たどり着けそうな道が無かった為断念したことを話すと、刑事は正解だったと答えた。

 実際、救急隊員も近づけず、レンジャー部隊がロープを使って下に降りている。

「君意外に、誰もいなかったの? 」

「はい」

「君は何故ここに? 」

「ここで亡くなった友人の供養にです。下の駐車場の祭壇に花を手向けた後、ここまで来ました」

 俺がそう答えると、刑事は神妙な面持ちで黙って頷いた。

「ここに来るまでに、彼が誰かと一緒にいるところを見なかった? 」 

「はい」

「君がここに来る途中で、誰か不審な人物とすれ違ったりしなかった? 」

「無かったです。途中の神社までは何人か観光客とすれ違いましたけど」

「有難う、帰っていただいていいですよ。又何か聞きたいことがあったら電話するかもしれないけど、いいかな? 」

 刑事が優しい口調で俺に語り掛けた。

「はい」

 俺は一礼すると、その場を離れた。あの男子生徒の容体が気がかりだったが、規制線を敷かれたので余りうろうろしても邪魔になるだけだと思ったのだ。

 いつの間にか、規制線の向こうに人だかりが出来ていた。好奇心旺盛な観光客がこの事態に気付き、押し寄せたらしい。

 俺は野次馬の群れに目線を走らせた。犯人が現場に舞い戻ることは一般的に良く言われている。自分に足がつかないか不安で確かめに来るのか、それとも人が注目することに興奮するかのどちらかなのだろう。

 どちらにせよ、普通の精神状態じゃない。

 当てはまるとするならば、今回のパターンは前者の方だろう。視界から立ち去る彼女の姿はぎこちなく、自分のしでかした事におののき、動転しているようにも見えた。

 だが俺の見る限り、彼女らしい姿は見当たらなかった。

 崖周辺にブルーシートの壁が造られた。

 男子生徒が崖下から引き揚げられたらしい。

 シートの壁に囲われたまま、彼は俺の前を通り過ぎて行った。

 俺は少し間隔を開けると、その後を追った。

 俺の目的は変わっていた。

 惟村の残香の記憶ではなく、あの女子生徒の残香を追い求めていた。

 今思えば、参道で擦れ違った時に匂いを感知していれば、俺のスペックが起動していたかもしれない。

人知れず泣きながら道を歩く女子生徒となれば、好奇心をくすぐるシチエ―ションだけに、意外と簡単に起動していた可能性があるのだ。

 あの時の躊躇を、今になっては後悔する思いだった。

 神社のそばまで来ると、更に規制線が離れており、山頂への道が完全に閉鎖されていた。

 警察車両と救急車が参道前の駐車場を塞ぐ形で止められており、参拝客は皆、帰路に就くことも出来ずに立ち往生していた。城址まで足を延ばさなかった人々は何があったか分からないままに、首を傾げながら警察車両を遠巻きにしていた。

 ブルーシートの壁に隠されたまま、男子生徒は救急車に乗せられた。

 ほぼ同時に、いくつものカメラがその動向を追った。地元のテレビ局と新聞社だ。

報道関係者が規制線前でリポートするのを横目で見ながら、俺は参道に向かった。

 このままここに居座ったらマスコミ関係者の取材攻勢に会いそうなので、早々に退散することに決めたのだ。

 それに、俺には確かめたい事があった。

 高まる期待を抑えながら、俺は彼女とのすれ違いポイントへと足早に向かった。

 救急車がけたたましくサイレンを鳴らしながら、俺を追い抜いて行く。

 急速に遠のいていくテールランプを、俺は黙って見送った。

 彼は大丈夫なのだろうか。

 ナイフで刺された上に、四階建てのマンション位の高さから崖を落ちたのだ。

 彼が一命を取り留めてくれれば、彼から真実が語られるだろう。

 でも、万が一…。

 一抹の不安が、脳裏を過ぎる。

 最悪の結果が、更なる不幸を招く事態にならないだろうか。

 せめてそれだけでも、俺の力で何とかできないものか。

 考え過ぎかもしれない。

 でも、俺の思考はことごとく負の方向へ舵を切っていた。

まだ、彼女が犯人と決まった訳ではない。

 俺はあの時、女子生徒の背後しか見ていないのだ。制服姿で、同じ髪型の女子何てざらにいる。後ろ姿だけじゃ分からない。

 正面から、それも、あの男子生徒と接触しているシーンを捉えない事には、彼女が犯人とは言い切れない。

 何故なのだろう。 

 俺はいつの間にか、彼女が犯人でない事を祈っていた。

 今の現時点では、当該比率はほぼ八十パーセントだと言うのに。

 この辺だったろうか。

 俺は立ち止まると、現実の風景と記憶を照合した。

 枝葉が覆いかぶさるように密集した並木道。

 遠くに見える御社。

 角度的にも、ほぼこの辺りだ。

 俺は眼を閉じると、ゆっくりと深呼吸を繰り返した。

 鼻から思いっきり外気を吸い込み、吐き出す。

 この方法で俺のスペックが起動するかどうかは分からない。

 自分で自由にコントロール出来るのなら、全く持って困らないのだけど、なんせ気まぐれな能力だけに、期待はしない方が良いかもしれない。

 でも何もしないよりかは、少しは気分が晴れる気がした。

 だが、そんな僅かな望みとは裏腹に、嗅覚を刺激するのは木々の若葉の香ばかりで、眠れる力を呼び起こすには程遠い情報ばかりだった。

 何も起きない。

 俺のすぐ傍らを、車が通り過ぎて行く。

 瞑想を搔き乱す排気ガスの臭いに顔を顰めると、俺はゆっくりと眼を開いた。

 不意に、人影が視界を過ぎる。

 自転車に乗った制服女子。

「わ!っ! 」

 ぶつかる寸前、体をかわす。

「あっ、ごめんなさい!」

 制服女子が俺に頭を下げている。

 ショートヘヤーの、小柄な女の子。

「あ、ああ、こちらこそ、ぼおっと突っ立ってたから。ごめんなさい」

 俺は慌てて彼女に謝罪した刹那、思考が飛んだ。

 なんてこった。

 この子――参道で擦れ違ったあの子だ。

 さっき通り過ぎてった車を避けようとして、俺の方に突っ込んできたのか?

 と言うより、この急勾配の坂道をチャリで上がろうってのか

「あのう…ひょっとして上から降りて来たんですか? 」

 彼女は真っ青な顔で恐る恐る俺にそう尋ねた。

「うん、そうだけど」

 高ぶる感情を無理矢理押さえつけ、俺は必死に平静を装った。

「高校生の男子が崖から落ちたってニュースで見たんですけど」

「うん、大騒ぎになってるよ。落ちた子はさっき救急車で運ばれていった」

「そうですか…ありがとうございます」

 彼女は深々と頭を下げると、再び自転車に乗ってきた道を戻ろうとした。

「あ、待って! 」

 慌てて彼女を呼び止める。

「はい? 」

 彼女が怯えた様な表情で振り返った。

「君、彼の知り合いなの? 」

 彼女は目を伏せた。

「俺、第一発見者なんだ」

「え、じゃあ落ちた子を見たんですか? どんな子でした? 背の高さとか、顔とか…」

「ごめん、倒れてたのは俯せだったし、崖の下からちょろっと体の一部が見えていただけだから、よくわからないんだ。何となく背は高かったような気がする」

 俺は困惑気味にに睫毛を伏せると、言葉を濁した。

 大噓つきだった。

 背格好どころか、顔もはっきり見ている。

 そして、ナイフで刺されて崖から落ちる瞬間も。

 君、山の上の城址で彼と会ってなかった? ――そう聞いてみたと思った。でも、喉元まで出かけている言葉を、俺は慌てて抑え込んだ。

 もし、制服女子が彼女だったら。

 俺が事の一部始終を見たと言ったら。

 この子はどうするだろう。

 あの時に使ったナイフを、今度は俺の胸に突き立てるのだろうか。

 それとも――そうだ、質問を変えよう。

「ちょっと聞いていい? 」

「あ、はい」

 彼女は訝し気に眼を細めた。

「何故事故にあった子が知り合いだと思ったの? 」

「えっ…」

 彼女の眼が泳ぐ。少し開いた唇は僅かに震え、それから先の言葉を吐き出すのを拒んでいるかのように見えた。

 意地悪な質問だったかもしれない。

 でも。ストレートな表現で彼女を追い込むより、フェアなやり方だと思う。

 彼女の態度は明らかにおかしかった。

 もはやそれが答えだと言ってもいい程に、彼女はあからさまに動揺していた。

 自転車のグリップを握る手が、小刻みに震えている。

 何かを隠しているのは明らかだ。

 これほどにまで分かり易いと、かえって気の毒になるほど哀れに見えた。

「彼はよくトレーニングだと言って、あの山道を走ったりしてたんです。今日も行くようなことを言ってたので」

「彼は何か部活やってるの? 」

「バスケです。でも今、コロナが流行ってるから部活出来なくて、自主トレしてたんです」

 彼女は大きく頷いた。まるで、そう自分に言い聞かせるような仕草だった。

「そうなんだ… 」

俺は大きく頷いた。

「私、これから彼の運ばれた病院を探します」

「探すって? 」

 彼女は俺にお辞儀をすると、自転車で元来た道を走り去って行った。

 本当に探すつもりなのか?

 でもどうやって。

 まさか、しらみつぶしに病院を駆けずり回るつもりだろうか。

 救急車で運ばれる病院だから、そこそこでかい所だろう。例え見つけだしたとしても、魔のご時世、そう簡単に面会はさせてもらえない。

 ましてや、あの感じでは生きて再開ってのも危うい予感がする。

 走り去っていく彼女の後姿を目で追いながら、俺はとある仮説に辿り着いていた。

 彼女は病院を探しに行ったんじゃない。少しでも早く、ここから逃げ出したかったのではないか。

 ここと言うより、俺と言う存在から。

 彼女は気付いたんだと思う。

 参道で、俺と擦れ違った事に。

 このまま俺と会話を続けたなら、参道で擦れ違ったことに言及されるかもしれない。

 そう思ったからこそ、一刻も早く俺から遠ざかりたかったのではないか。

 大きく吐息をつく。

 辞めよう、これ以上の無意味な検索は。

 ついさっきまで彼女が犯人ではないことを望んでいながら、今の自分は彼女の犯行ではないかと決めつけにかかっている。

 擦れ違ったと言うだけで。

 後姿を見たと言うだけで。

 完全に確定できる証拠は一つもないではないか。

 自問自答を繰り返しているうちに、彼女の姿は、もう視界から消え去っていた。






「悪いね、急に呼び出しちゃって」

 年配の刑事はそう言いながら俺にお茶を勧めた。

 警察から電話が入ったのは、今朝の七時の事だった。

 昨日の事で色々聞きたい事があるとのことだった。あくまでも任意同行だったが、俺には断る理由も無かったし、ひょっとしたら新しい情報が入るかもしれないと期待して、即答で了承したのだ。

 驚いたのは迎えの速さだ。今すぐにでも大丈かとの問い掛けに、皇帝の返事を伝えると、本当にすぐに迎えが来た。どうやら、アパートの前で待機していた感じだ。

 ひょっとして、俺が犯人だと疑われているのか?

 一抹の不安が脳裏を過ぎる。

 あの男子生徒だが、残念な事に病院に運ばれた時には既に心肺停止状態だったらしい。

 夜に見たネットニュースでは、頭部の損傷が激しく、即死状態だったようだ。

 だが、腑に落ちない点があった。

 他のニュースも見たのだが、彼がナイフで刺されていたとはどの媒体も述べていないのだ。あえて警察が発表していないのかとも思ったのだが、そうだとしたらその理由が分からない。

 案内された部屋は、机と椅子しかなく、無機質なブラインドは日が差す程度に閉じられており、テレビで見るような殺風景でこじんまりとした所だった。

部屋の入り口に掛けられた『取調室』と書かれたプレートに、何となく威圧感を感じてしまう。

「早速だけど、昨日、君があの場所に行った目的を教えて欲しいんだ」

 年配の刑事――牟田はじっと俺の眼を見つめながら、それでも優しい口調で俺に語り掛けた。彼の後方にある小さな机には、若い刑事――園山が筆記用具を手に俺達の会話にじっと聞き耳を立てている。

二人の名前が分かったのは、今日が初めてだった。最初にアパートに来た時に名乗っていた気もするのだが、初の経験に緊張していたのか、あの時何を話したのか全く記憶に残っていない。

「最近あの場所で亡った友人を弔う為です」

 俺は正直にありのままを答えた。

「成程、確か献花台が麓の駐車場に設営してありましたね」

「はい」

「山頂の城址まで行ったのは? 」

「彼女が亡くなった場所が分かれば、そこで手を合わせようと思って」

 正直には言えなかった。彼女の残り香を探し求めて、死に至る悲しみと死を選択した理由を感じたかったなんて言える訳が無かった。

「場所は分かったのですか? 」

「分かりませんでした」

「あそこには、今まででも何回か行った事はありますか? 」

「初めてです。まだこちらの生活に慣れていなくて。コロナの事もあるんで、買い物以外は出歩いていないんです」

「確かにそうだね。ところで、、君は無くなった男子生徒とは面識はありましたか?」

「ないです」

 面識が無いのは間違いない。俺が知っているのは、過去の記憶を垣間見た時に映像の一つとして捉えているだけだ。

「亡くなった惟村さんと男子生徒の関係について知っていますか? 」

「いえ、知らないです」

「そうですか…彼女は男子生徒の部活の先輩らしいんですよ」

「部活? 」

「そう、バスケ部だったらしいよ。君のその様子じゃ知らなかったようだね」

「過去の話とかした事がありませんでしたから」

「成程ね…」

 牟田は困惑した表情を浮かべた。

 彼の問い掛けを俺なりに整理すると、警察が考えているだろう二つの仮定が見えて来た。

 一つは、男子生徒の死が事故ではなく、殺害の可能性があると言う事。もう一つは、容疑者の一人に俺が入っていると言う事。

 ストーリー的には、恐らくこうだろう。好意を抱いている女性を妊娠させ、死に追いやった男への復讐劇。

 余りにも在り来たりで、安易な設定過ぎるとは思わないのだろうか。

 あの時見たビジョンを全てぶちまけたい。

 信じてもらえるかは分からないが、俺自身のスペックをカミングアウトしたい。

 そんな焦燥に苛まれる俺を、牟田はじっと見つめていた。表面上は穏やかな目つきなのだが、目の奥に潜む刃の様な研ぎ澄まされた輝きは、全てを見抜く不思議な力を秘めているようにも感じられた。

 何かを隠している――プロの眼には、俺の思考の迷いが手に取るように分かるのだろう。

 その後、何回も同じような質問を繰り返され、ようやく帰宅を許されたのは昼近くになっていた。

 警察に行く前は、疑問に思っていたナイフでの刺し傷の件について触れようと思っていたのだが、実際には極度の緊張に全身束縛されたような重い気持ちに意識を支配されていた。

 こちらから気軽に聞き出せるような雰囲気ではなかったのだ。

 解放後、アパートへは園山が覆面パトカーで送ってくれた。

 また聞きたい事があったら連絡すると言い残し、彼はそそくさと帰路に就いた。

 俺は部屋に戻ると昼食を軽く済ませ、再び外に出た。

 また、あの城址に行ってみようと思ったのだ。

 それに、確かめたい事もあったし。 

 アパートの自転車置き場から愛用のママチャリを引っ張り出す。

 さり気なく周囲を見渡すが、警察車両らしき車は止まっていない。

 確かめたかったのはこれ。警察が俺を監視しているか否かって事。

 見た限りではどうやらそれも無さそうで、俺を容疑者として取り扱うまでには至ってなさそうだ。

 約三十分後、俺は城址の麓にある駐車場にいた。

 惟村の献花台の隣に新たな献花台が設けられ、そちらにも多くの花やジュースのペットボトルが供えられていた。

 俺は惟村の献花台に手を合わせると、次に隣の男子生徒の献花台にも手を合わせる。

 ひょっとしたら、二人は付き合っていたのだろうか。

 彼女が受胎したのも、彼との行為が要因なのか。

 俺は再び彼女の献花台の前に立った。

 彼女にとって、俺って何だったのだろう。

 あのバイトで知り合って以来、急接近して仲良くなったのは、きっと彼女が俺に好意を持ってるんだって勝手に思っていた。このままうまくいけば、付き合えるんじゃないか、恋人になってくれんじゃねえかって勝手に思い込んでいた。

 確かに、彼女の過去を垣間見た時、一気に興醒めしたのは確かだけど。

 あの時の態度で、ひょっとしたら彼女を傷つけてしまったのだろうか。

 熱いものが瞼の裏に込み上げてくる。

 涙が止まらなかった。

 彼女の自死を知った時も、余りにも現実として実感出来ず、ここまで泣くことは無かったのに。 

 どうしてしまったのか。

 心を震わせるような悲しみと、やるせない切なさと、耐え難い寂しさが、俺の魂を揺さぶり続けている。

 今思えば、彼女の死を境に、俺の中で時間が止まっていた

 惟村が俺に近付いてきたのは、救いを求めて来たからではないのか。ただ、不安が現実と化した時、彼女は俺に迷惑を掛けない様に自ら離れて行ったのではないのか。

 ひょっとしたら、彼女が自死した日、あの男子生徒と会っていたのかもしれない。

 彼の態度次第では、彼女は死を選ばずに済んだかもしれない。

 真実を明らかに出来るのは、俺しかいない

 俺のスペックさえ発動してくれれば…。

「あのう、すいません」

 不意に背後から声を掛けられた。

 十代位の女性の声。でもあの女子生徒とはちょっと声質が違う。

 俺は慌てて涙を服の袖で拭うと振り向いた。

 デニムのパンツにベージュのカットソーを着た高校生位の女の子。短めの髪をツインテールにしている。

 利発そうな大きな目が、警戒しながらも俺をじっと見つめていた。

 小さめのリュックを背負い、花束を二つ手に持っていた。

 男子生徒のクラスメートなのだろう。でも、花束が二つって事は、惟村とも関係があるのだろうか

「あ、僕に何か御用ですか? 」

 俺は静かな口調で彼女に話し掛けた。

「ひょっとして、惟村先輩のご遺族の方ですか? 」

 彼女は落ち着いた丁寧な口調で、俺に語り掛けてきた。惟村先輩――そうか、高校の時の、部活の後輩か。

「いえ、友人です。大学の学部が一緒なんで」

「そうなんですか」

 俺の返事に、彼女は何故かほっとした様な表情を浮かべた。

 俺を不審者か何かと思ったのか?

 明らかに、最初に俺を見た時の眼は完璧に警戒色を放っていた。

「もしかして、彼女がやってた部活の? 」

 今度は俺の方から問い掛けてみた。

「はい、後輩です」

 彼女はそう言うと、はにかんだ様な表情を浮かべた。

「ごめんなさい。お花を供えていいですか」

「あ、どうぞ」

 俺は少し横にずれると、彼女に献花台の前を譲った。

 彼女は花束を惟村と男子生徒の献花台に備えると、リュックからスポーツドリンクを二本取り出し、これもそれぞれ一本ずつ供え、手を合わせた。

「亡くなった生徒さんと同じ学校なの? 」

 彼女が合掌を解いたのを見計らい、話し掛ける。警察で聞いた話から、亡くなった男子生徒が惟村と同じ学校で、部活も一緒だったのは分かっていた。

 彼女に話し掛けるきっかけが欲しかったのだ。

 うまくいけば、二人の事で何か情報が得られるかもしれない。それと、あの少女に関わる事も。

「はい。彼とは同級生で、部活も一緒なんです」

「身近な知り合いが同じ時期にこんな形で二人も亡くなるなんて、ありえないよね」

 俺は感慨深く呟いた。

「はい、信じられないです…」

 彼女は表情を曇らせると、そっと顔を上げた。彼女の目線は、真っ直ぐ山頂の城址に向けられていた。

「先輩は…何か悩んでたんですか? 」

 彼女は俺に恐る恐る尋ねて来る。デリケートゾーンにドストライクな質問だけに、彼女の眼は、俺の機嫌を損なわないかと怯えているのか、何となくおどおどした落ち着かない素振をしていた。

「分からないんだ、それが」

 俺は顔を顰めた。

 分からない訳ではなかった。惟村を追い詰めていた要因は、明らかに妊娠なのだと思う。

 だが、それを得意げに彼女に話すのは、惟村に対する非礼極まりない行為だと思った。

 それに、例え俺の憶測がより真実に近いニアミス状態だったとしても、真の動機は本人しか分からないのだから。

「大塚君は、多分、先輩の後を追ったんだと思います…」

 彼女は徐に呟いた。遠くを見つめる眼には、悲壮感に満ちあふれた憂いの輝きを孕んでいた。

 男子生徒の名前は大塚と言うらしかった。

 俺の禁忌のスペックでは姿はリアルに再現されても、音声は再現されない。だからあのシーンで惟村が感極まって相手の名前を口走ったとしても、俺にはただ喘いでいる様にしか見えないのだ。

 それよりも、彼女の発言に引っ掛かる所があった。

 後を追うって…事は。

「…えっ? 」

 俺が少し間をおいて小さく驚きの声を上げると、彼女は困惑と後悔の御入り混じった複雑な表情を浮かべた。

「それって? 」

 俺は彼女を見つめると、探る様に問い掛けた。

「二人は、付き合っていたんです」

 彼女は伏目がちに目線を泳がせると、言いにくそうに呟いた。

 二人は付き合っていた――彼女の言葉は、俺が垣間見たあの忌まわしき映像を、より現実的なものへと裏打ちしていた。

「いつからそんな関係なの? 」

「先輩が卒業する時かららしいです。卒業する時に、先輩の方から告ったって噂です」

 惟村が俺との関係に一定の距離を保ち、付かず離れずの関係を続けていた理由が分かったような気がした。とは言え、俺が惟村と急接近したのもほんの少し前の話だから、そうとは限らないか。

 でも、何だかやるせない虚しさを感じていた。

 楡村との関係に、俺自身、淡い期待を抱いていたからかもしれない。

 例え俺があの映像を垣間見なかったとしても、俺の願望が叶う事は無かったのだ。

 あくまでも大学での友人の一人と言うだけで。

「惟村が亡くなってから、彼も落ち込んでいたんだ」

「多分、そうだと…ほら、あれのせいで授業がリモートになったり部活が中止になったりしたから、余り顔を合わせてないんで、何とも何ですけど」

「ここって、よく来るの? 」

「来ますよ。部活が無いから自主練で城址の周りの自然歩道を走ってます。時々友達とこっそりあったりして」

「そうなんだ」

「先輩も、ここで大塚君と会ってたみたいです。あの時もそうでした」

「あの時って? 」

「先輩が亡くなった時です」

 俺は衝撃を受けた。

 この娘、惟村が自死する直前の姿を見ているのか。 

「あの時、私、自主練をしようと思ってここまで来たんです。そうしたら、駐車場に止まっていた車の中で、先輩と大塚君が話をしているのが見えたんです」

「駐車場ってここの? 」

「ええ。ここの一番奥のとこ。自然歩道を進んでいくと、ちょうど正面から車の中が見えるんで」

「何話してたかってのは、分からない? 」

「そこまでは、ちょっと…邪魔しちゃいけないと思ってすぐに通り過ぎましたから。でも」

「でも? 」

「先輩、泣いていたんです」

 彼女の言葉が、俺の意識に刃を突き立てた。

 恐らく、惟村は大塚に妊娠の事を告げたのだ。

 だが、大塚はそれを認めようとはせず、話がこじれてしまったのかもしれない。

「ひょっとしたら、大塚君から別れるって言われたのかもしれません」

「えっ…それはまたどうして? 」

 彼女の思わぬ発言に、俺は自分の仮説を一時保留して記憶の引き出しにしまいこんだ。

「あんまり死んだ人の事を悪く言いたくはないんですけど、大塚君、何人もの女子と同時に関係をもってるんです」

「まじか…二股、三股? 」

「もっとかもしれない」

「信じられない…」

「私もです。知った時には思いっきり引きました。あ、ちな私はそんな関係じゃなかったです。悪い噂を耳にしていたんで、興醒めしてそんな気持ちにはなれなかったので」

 彼女は興奮気味に顔を赤らめた

「驚きだな…」

 俺は彼女の発言に驚きを隠せなかった。だが、恐らくは惟村の方にもその気があったのじゃないかと思う。あえて彼女には言わないものの、俺が覗いた彼女の男性遍歴には正直ひくものがあった。

「先輩が亡くなった場所、知ってますか? 」

 彼女の思いがけない問い掛けに俺は眼を見開いた。

「知らないんだ。君、知ってる? 」

「はい。私が第一発見者なんで…」

 彼女は顔を伏せた。

「本当に? 」

 俺は彼女を凝視した。

 俺の驚愕振りに驚いたのか、彼女はおずおずと無言のまま首を縦に振った。

「もしよかったら案内してくれない? 」

 俺は高ぶる気持ちを抑えきれぬままに、彼女に問い掛けた。でも言った瞬間、しまったと後悔の念に苛まれる。

 よく知っている人が自死した現場を、それも目撃者に案内を依頼するのは、モラル上、決して問題無いとは言えないだろう。

 何しろその時の俺は、惟村の死に関わる最新情報に気が高揚し、デリケートな配慮にまで意識が回っていなかった。

「いいですよ。こっちです」

 俺の無礼で配慮の無い願いを、有難い事に彼女は嫌な顔一つせずに了承してくれた。

 歩きだす彼女の後をすぐさま追っかける。

 駐車場に沿って続く小径。参道とは別ルートで山頂の城址まで続く自然歩道で、距離に摺れば参道の一倍半近くある。通行者は里山散策が目的のハイカーが主なのだろう。

 自然歩道と言うだけに、自然へのダメージを最低限に抑えた小径だから、当然舗装はされていない。それでも多少は人の手が入っているらしく、雑草はさほどではないものの、木の根がところどころむき出しになってうねっており、フットワークを鍛えるにはいいトレーニングコースなのかもしれない。

「普段はこの道を一周しているの? 」

「二、三周くらいですかね」

「凄いな。結構な時間かかるでしょ」

「走ってなんで、時間的にはどうかなあ」

「ここを駆け上がるのか。凄い…」

 驚きだった。彼女らはこの山中をトレーニングと称して疾走しているのだ。

 俺なんかまだ歩いて十分少々だと言うのに、もう息が上がっているし。

身体の鍛え方とつくりが違うのだ。

 確かに、前を歩く彼女の下半身は、言っちゃなんだが土偶の様にがっちりしている。

「こっちです」

 小径から逸れて藪の中を進み、一本の広葉樹の前で立ち止まった。

「ここです」

 彼女の示す樹木を、俺はじっと見つめた。

 ミズナラかコナラか、その類の気だろう直径三十センチほどの幹の、地面から1メートルくらいのところに擦れたような傷が残っている。

「見つけた時は大変だったね」

「頭が真っ白になった。だってほんの少し前には生きている姿を見てたから。私が見つけたのは、二周目を走っててここまで来た時なんです。駐車場に車が止まっているのは見えたけど、二人ともいなくて、何処か散歩しているのかなあって思ってたら…」

「警察にも見た事を話したの? 」

「ええ、まあ…大塚君には悪いけど、彼の事も話しました」

「そうか…有難う。惟村を早いうちに見つけてくれて」

「そんな…ごめんなさい、助けられなくて。私がもう少し早くここに来ていれば、先輩を止められたかもしれない」

 彼女は表情を曇らせた。

「そんな、自分を責めないで。君は悪くない」

「助けれたかもしれないんです」

「そんなことないよ」

「あるんです。私、あの後、城址で大塚君と会ってるんです」

「会ってるって? 」

「城址まで行ったら、あいつ、別の女と会ってたんです。それも先輩を泣かせた後に。頭にきて女のいる前で説教してやりました」

「信じられない…何て神経してるんだろ」

 俺は憤慨した。ここの価値観はあるにせよ、男として最悪な糞野郎だ。

「そういう奴なんです。モテるからってそれをいいことにあっちこっちで女に手を出して、女癖の悪さじゃ学校でも有名なんです。だから私は大嫌いなんです」

 彼女は激しい口調で大塚を罵った。どうやら、彼女は大塚を毛嫌いしているようだっだた。それは、いつの間にか彼を「あいつ」呼ばわりしている点でも伺えた。

「あの日、、あいつが会ってた娘、同じクラスの女子でした。前にその娘からあいつが誘ってくるって相談を受けていたので、真に受けない方がいいって忠告してたんですけど、駄目だったみたい」

「多分、色々噂を聞いてても自分は別だって思ってしまうんだろうな」

 俺はしみじみ呟いた。いくら悪い噂を耳にしていても、好きな相手に甘い言葉で口説かれたら、周囲の声だって、それが仮に正しい情報を伝えてくれる店の声だとしても馬の耳に念仏だ。

「多分ですけど、あいつは先輩に別れ話を切り出したんじゃないかなあって。あいつはあいつで別の女と会う約束があったから、そそくさと先輩の元を離れて。其の後、先輩は、多分…」

「…」

 俺は黙って頷いた。

 彼女には言えないが、恐らくはこうだろう。

 ここで会おうと言ったのは、恐らくは惟村の方あろう。絶対に人に聞かれたくない話があったから、あえて人目を避けたのだ。もしくは、大塚が用事があるからここなら会えると答えたのかもしれない。

 惟村は大塚に妊娠した事を告げる。

 大塚は非常に動揺した事だろう。まだ高校生だし、対処するにもどうすればいいのか分からなかったのかもしれない。

 何かしらの言い逃れをすると、大塚はそそくさと車を後にして、城址に向かったのだ。残された惟村は、これからの将来を悲観して、自然歩道から森に入り、自ら命を絶ったのだろう。

 あるいは、大塚には何も話さず、惟村の方から一方的に別れ話を切り出した。その後、彼女は森の中へと死に場所を求めて身を投じた。まだ高校生の大塚に迷惑が掛からない様に、全てを内に秘めたまま、旅立ちを選んだのか。

 どちらも想定の域から脱しないのだ。

 知っているのは本人と大塚だけ。

 その二人とも、もはやこの世にいないとなれば、全ては闇に葬られて発掘されることはまずない。

 不意にがさっと下草が音を立てて揺れた。

「きゃっ! 」

 彼女は小さく悲鳴を上げると、俺の胸に飛び込んで来る。

 俺は、反射的に彼女を抱きしめた。

 刹那、甘酸っぱい匂いが、俺の臭覚細胞を刺激する。汗の臭いじゃない。彼女の身体から醸す匂いだった。

 何か起きるのか。

 だが、一瞬の期待は即座に打ち消され、いつもの前兆が起きる兆しも無かった。

 足元を何か猛スピードで通り過ぎる。

 兎だ。まだ夏毛に変わっていない白い野ウサギが、一目散に歩道を横切り、対面の藪へと消えた。

「なんだ兎か…驚いたな」 

 俺は苦笑を浮かべた。

 途端に、仄かに立ち上る蒼稲の様な香ばしい匂いが鼻孔をくすぐる。

 刹那。

 視界が急激に歪み始める。

 始まった。

 俺は意識を奮い立たせると、仁王立ちのまま視界に映る映像を凝視した。

 首を吊った惟村の姿が、目の前にあった。

 白い荷造り用の紐を木の幹に縛り、体を苦の字に曲げたまま、腰を浮かした状態で首を吊っていた。

 ドアノブで首を吊るって意味が、彼女の姿を見て理解できたような気がした。

 表情は苦し気に強張り、目は半分だけ閉じられ、開いた口からは舌が突き出している。両手は力なく垂れ下がり投げ出された両足は、糸の切れたマリオネットのそれの様だった。

 ベージュのゆったりとしたパンツの股間に濡れたような染みが広がっている。

 死によって筋肉の緊張が無くなり、弛緩した結果,膀胱に溜まっていた尿が排泄されたのだ。

 惟村の亡骸の前に、同じ様な格好でへたり込む人物の姿があった。

 彼女だった。

 余りものショックで腰を抜かしたのか、体を小刻みに震わせている。

 これで、はっきりと分かった。

 惟村は紛れもなく、自ら命を絶ったのだ。

 遺書が無かったのは、大塚が吐き捨てた罵詈雑言にショックを受け、自暴自棄になって突発的に死を選んだからなのかもしれない。

 でも、妙だ。

 忌々しい映像の中に、夥しくも禍々しい憎悪が、俺に一瞥を投げ掛けていた。

 俺と言うより、恐らくは彼女に。

 何だろう。

 惟村は苦悶に顔の表情を歪めているものの、目は半眼になっており、閉じられてはいない。

 だが、開ききった瞳孔は中空を彷徨い、にらみを利かせる程の眼力が視線には宿ってはいなかった。

 鮮烈で衝撃的な映像に潜む妙な違和感が、暴走しかけた感情に一石を投じ、かえって変に冷静を取り繕うに至っていた。

「どうしたんですか…? 」

 彼女が怯えた表情で俺を見つめている。

 映像は、俺に答えを明かす前に終幕を迎えていた。

「あ、ごめん」

「離さないでください!」

 抱きしめていた腕を放そうとしたら、彼女は慌ててそれを制した。

「えっ? 」

 俺は当惑しながら彼女を見つめた。

「ごめんなさい、腰が抜けちゃって…立ってられないんです」

 彼女は恥ずかしそうに頬を朱に染めながら呟いた。

 不自然に引き気味の腰が気になって目線を落とすと、彼女が履いているデニムのファスナー下辺りに黒々と大きな染みが浮かんでいた。

 俺は悟った。俺のスイッチが入ったのは、惟村のそれではなく彼女の方だったのだ。恐らく彼女はあの時も同様の不幸を経験していたに違いなかった。

 俺は彼女を抱き抱えながら駐車場に戻ると、ベンチに座らせ、俺が羽織っていた薄手のパーカーを体に掛けた。

「ごめん、怖い眼に合わせて」

 俺は近くの自販機でコーラをニ本買うと、一本彼女に渡した。

「ちょっと落ち着こう」

「有難うございます」

 彼女は力なく微笑むと、ペットボトルのキャップを外した。

「驚いた。ここ、野兎がいるんだね」

 俺は彼女の隣に腰を降ろした。

「狸や栗鼠もいますよ。山の中を走ってると時々見かけました。いつもはあんなに驚かないんですけど…場所が場所なんで」

 彼女はそっと目を伏せると、デニムに浮かぶ染みを気にしながら弱々しく微笑んだ。

 そんな彼女の仕草を、俺は見て見ぬ振りした。

 気付いていない事にしようと思う。

あえて触れる事はしない方がいいだろう。

「私、最近ここでトレーニングしていないんです。こんな事言うのも、気が引けるんですけど…何だか、怖くて」

 彼女は俯くと、申し訳なさそうに言った。

 惟村の友人である俺に気を使っての事だと思うが、その気持ちも分からないではなかった。

 知り合いがここで命を落としたという悲痛な思いと、それがまるで引き寄せた様に続けざまに生じた因果への畏怖に、自然と足が遠のくのも無理はないと思う。

 誰だってそうだろう。

「あのう、変な事聞いていいですか」

彼女は躊躇いながらそう言うと、じっと俺を見つめた。

「変な事って? 」

「さっき、何か見えてたんですか? 先輩が死んでた場所、じっと見てましたよね? ひょっとして、先輩の霊とか…」

 思いもよらぬ彼女の問い掛けに面食らうと、俺は仄かな作り笑いを浮かべて地面に目線を落とした。

 彼女はあの時の事を言っているのだ。俺のスペックが覚醒した時の事を。 

 言うべきだろうか。

 否、言ったところで失笑されるだけだ。

 失笑されるならまだいい。

 もし、俺の告白を信じてくれたとしたら。

 もし、俺が過去の出来事を察知できるスペックホルダーだとわかったのなら。

 彼女は確実に心を閉ざすだろう。誰だって、人に知られたくない過去はある。自分にとって黒歴史を他人に垣間見られる何て考えたら、誰でも苦痛に思う。

 それも、リアル映像で勝手に覗き見られるとしたら、ただ単にひくだけじゃなく、存在を拒絶し、逃避するに違いない。

 俺はそれを本能的に察していたから、物心ついてからは誰にも言わなくなった。親には話した事はあるものの、恐らくは子供の空想が生んだ虚言程度にしか、捉えていなかったと思う。

 俺は苦悩した。

 初対面にもかかわらず、素性の分からない俺にここまで色々と話してくれたのだ。おか下で俺は惟村の最後も確認できた。

 誰かに殺されたのではなく、自殺だった事が明らかになったのだ。

 動機も想像はつく。

 非情とも不謹慎ともとれる考えかもしれないけれど、惟村の死については、俺の中では完結に至っていた。

 まだ謎めいているのが、大塚の死だ。

 俺が垣間見た彼の最後のシーン。

 明らかに、ショートヘアーの女子生徒にナイフで腹部を刺されていた。

 だが、報道された死因は転落による頭部強打となっており、警察でも特に何も聞かれてはいなかった。

 あれは俺の見間違えだったのだろうか。

 はっきりしないまま、もやもやする思いを強引に封印していたものの、やっぱり納得できない。

 これを打開するには、何か思い切った行動が必要だろう。

 そうなれば、ここで投下するのも手かもしれない。

 投げてみるか。

 一か八か。

 ひょっとしたら、あのショートヘアーの女子の事に関わる情報も分かるかもしれない。

「惟村が首吊ってるとこが見えてた」

「えっ? 」

「俺、過去が見えるんだ。そこで起きた事件や事故のシーンが、俺の意思とは関係無く、唐突に蘇るんだよ。音源無しのリアル映像で

「……」

「だからさっきも、突然俺の眼に映ったんだ…惟村が首を吊ってて、その前で腰を抜かしてへたり込んでいる君の姿が」

 彼女はぎょっとした表情で俺を凝視した。

「信じられない…」

「そう思われても仕方が無いよな」

「その時の私、どんな格好してました? 」

「上下黒のジャージ。白いストライブが三本入っていた。靴は赤いジョギングシューズでメッシュのやつ」

「当たってる…」

 彼女は驚愕に表情を硬く強張らせていた。

「他には何か見えませんでした? 」

「残念だけど、そのワンシーンだけだった。これって自分ではコントロール出来無いから」

 俺は大きく息を吐いた。

 吐息じゃない。大仕事を終えた後の安堵の呼吸と言えばいいのか。妙な満足感に俺は浸っていた。今まで自分の中に秘め続けて来た秘密を吐き出す事で、知らず知らずのうちにため込んでいたプレッシャーを一気に吐き出したような気がした。

「びっくり…でも私、信じます」

 当惑した表情を浮かべながらも、彼女は何度も頷いた。

「ありがとう。そう言ってもらえたのは、初めてだ。と言っても、親以外には話したことなかったけど」

「信じてもらえなかったの? 」

「うん。何馬鹿な事言ってるんだとか、気持ち悪い事言うなとか言われた。んで、それから誰にも言わなくなった」

「そうなんだ…あ、ごめんなさい、ため口になってた」

 彼女は顔を真っ赤にすると、ぺこりと頭を下げた。

「いいよ、ため口で。俺も敬語使わない事にする。これでいい? 」

「はい。あ、いいよ、です」

 彼女ははにかんだ笑みを浮かべた。

「どんな時、見ちゃうの? 」

「事故とか事件とかあった場所で、それに関係した匂いを感じた時…実際にはしなくても、その場所に残された匂いの記憶がきっかけになる時もあるんだ」

 ポストコグニションの発動経験を振り替えてみても、ほとんどが事故や事件現場で起きているし、見る映像もその発生した直後の物が多い。ある意味では惟村の男性遍歴を垣間見たのは異例中の異例だった。

 これは決して嘘じゃない。

 これをちゃんと説明しておかなければ、恐らく確実に彼女は心を閉ざすだろう。

 自分の過去を自由に覗き見されてしまうのかと思われたら、俺のカミングアウトは苦痛しか齎さなくなる。

「自分の意志で好きな時に見れるようになれば、色んな犯罪を解決出来たりして」

「そうだよなあ。今はどちらかってえと苦痛の種でしかない。コントロール出来れば、難事件も即座に解決出来る凄腕の捜査官や名探偵になれるよな」

「コントロールしようとした事はあるの? 」

「うん。でも駄目だった。俺がここに来たのも、もとはと言えば惟村が亡くなった場所を知りたかったから――てより、彼女が本当に自死したのかが知りたかったから」

「誰かに、殺されたかもって? 自殺に見せかけて」

 彼女が俺の顔を覗き込んだ。どうしてそう思ったのか――彼女の眼には、俺への問い掛けの意思が宿っていた。

 俺は迷った。

 あの事を話すべきか。

 惟村が妊娠していたという事実を。

「ひょっとして、あの事、知ってるの? 」

 彼女の思いがけない問い掛けに、俺は驚きを隠せなかった。

 彼女が何を言おうとしているのか、俺には十分過ぎる程に察しがついた。

「あの事って? 」

 薄々分かってはいるものの、念の為、かまをかけてみる。

「先輩、妊娠してた」

 彼女喉から振り絞る様な声で、苦しげに呟いた。

「君も知っていたの…」

 俺の問い掛けに、彼女は黙って頷いた。

「俺は刑事から聞いたんだ。惟村が自殺したすぐかな。刑事が二人俺のアパートに来て、彼女の自殺の動機になりそうなことが無かったか根掘り葉掘り聞いてきた。遺書が無かったらしいからね。その時に刑事が話してくれた。妊娠八週目らしかった」

 彼女は俺の説明に特段驚くでもなく、ただ黙って頷いていた。

 多分、俺の話した内容と同等の情報を、彼女は掴んでいるのだ。彼女が時折頷いていたのは、自分の知り得た内容と一致していたからのだろう。

「私は、ここで大塚と先輩が口論するのを聞いて…始めは聞き間違えかなって思ったけど会話を聞いていたら、そうじゃないって事実だって分かった」

「大塚は惟村に何て言ってたの? 」 

「俺じゃねえって、ちゃんと避妊したって。外で出したって言ってた」

 彼女は言葉を濁しながら答えた。

 生々しかった。例えビジョンでそのシーンを垣間見なくても、嫌でも想像できてしまう。

「他の男と寝たんだろ、もう会いたくない。この浮気者がっ! ――大塚は先輩にそんな事言ってた。でもあいつ、その後、別の女の子と会ってんだよ! それもすぐそばの城址で。信じれないよ」

 彼女は体を震わせながら両手で顔を覆った。

「無茶苦茶だな」

 腹立たしかった。大塚の余りにも身勝手な発言に、俺は全身の血が怒りで煮えくりかえるのを覚えていた。

 俺が垣間見た映像の時系列を追っても、惟村が最後に関係を持ったのは大塚だ。

 死んで当然だったのかもしれない。

 亡くなった者を冒涜するのは気が引けるの、だが、こればかりは許せなかった。

 ひょっとしたら。

 さっきの映像の中で感じた禍々しい目線は、惟村が死の瞬間に大塚に放った呪詛の残留思念なのか。

 可能性はある。

「あいつを見つけた時も、ひょとして…何か見えたの? 」

 彼女は躊躇いがちに俺に問い掛けた。。

 遠慮気味な台詞とは裏腹に、彼女は射貫く様な目で俺を凝視した。俺は苦笑を浮かべながら、さり気なく彼女から目線を逸らす。

 彼の死を取り巻く不可解な現象。俺はそれを全て話すべきだろうか。

 警察もマスコミも触れていない、ナイフの件についても。

「うん、見えた」 

 俺の答えに、彼女は一瞬体をぶるっと震わせた。

 ここまで話したのなら、行きつく所まで行ってしまおう――それが、俺の導き出した答えだった。

「あの時俺が共鳴したのは、血の臭いだった…」  

 俺は高ぶる感情を抑えながら言葉を選定すると、ゆっくり唇を開いた。

 崖のそばに立つ大塚の胸に、ショートヘヤーの女子生徒が飛び込んだ事…大塚は驚きの表情で彼女を突き放し、何かしら罵声を放った後、吸い込まれるかのように崖下に消えた事…女子生徒の手には、ナイフがしっかりと握られていた事…にも関わらず、警察やマスコミが、一切その事に触れていない事…。

 俺の話を、彼女は瞬き一つせずに聞き入っていた。

「不思議。でも何だろう、そのナイフのシーン。大塚がナイフで刺されてたって話、まったくもって上がってこないし」

 彼女は首を傾げた。

「そうなんだよな。謎なんだよ。本当に実際起きた事のはずなんだけど…」

 言い訳めいた台詞を綴ると、俺は急遽会話をフェイドアウトした。

 人が現れたのだ。

 俺は愕然とした。

 見慣れた制服、肩までのシュートカット。

 あの日、参道で擦れ違った女子生徒だ

「ほのか! 」

 彼女は笑みを浮かべると、その女子生徒に手を振った。

 あの子の名前、「ほのか」なんだ。

 ほのかは彼女に手を振って答えると、俺の存在に気付き、慌てて不安気に会釈した。

 「友達なの? 」

「うん。私と同じクラスの寺嶋ほのかさん」

「どうも…」

 硬い表情のほのかに、俺は不器用ながらも優しく微笑み掛けた。

「しいちゃんのお知り合い? 」

 ほのかは怪訝な表情を浮かべると、彼女に問い掛けた。

「あ、さっき知り合ったばかりで、この方は――あ、ごめんなさい、自己紹介してなかった」

「そう言えば」

「私、久世詩奈。友達からは『しいちゃん』って呼ばれてます」

「俺は――」

 俺は二人に名を告げた。不思議なもので、

詩奈とはかなりの時間一緒にいるのだが、お互い名乗ることも無く、またそれに違和感を覚えることも無く過ごしていた。

 お互い、刹那の出会いで終わるものだとおもっていたからなのかもしれない。

「――さん、惟村先輩と同じ大学なんだって」

 詩奈がほのかに俺のことをかいつまんで説明する。

 すると、緊張気味で強張っていたほのかの表情が少し緩んだように見えた。

 俺が何故ここにいるのか――その理由が紐ず消されて、不審者的な捉え方から顔なじみの通行人レベルに警戒度が解除され、セーフティ―ゾーンがステップアップしたのだろう。

 ほのかは二人の献花台に花を添えると手を合わした。

 寂しげな、憂いにい満ちたほのかの横顔をじっと見つめる。

 あの日、彼女は何故涙を流していたのだろう。

 聞いてみたいと思った。

 公衆の面前に泣き顔を晒しながら歩くなんて、よっぽど心を揺さぶり搔き乱す何かに遭遇しなければ在り得ない事に違いなかった。

 ただ、詩奈の前でそれを言葉にするのは憚れた。

 まるでほのかがあたかも事件に関与しているかのように誤解を受けるのはまずいと思ったのだ。

 事件だった。

 大塚が死んだのは事故ではない。明らかに事件だった。

 何だろう。

 俺はまた、ほのかを弁護する思考に囚われている。

「じゃあしいちゃん、私帰るね」

「あ、待って! 私も行く」

 詩奈は慌てて立ち上がった。

「――さん、またここに来ます? 」 

 詩奈が俺を見つめた。

「うん。しばらくの間は来るつもり。家もここから近いから」

「私も来るんで、またお話聞かせて下さい」

「うん」

 俺は快く頷いた。

 二人は俺に会釈をすると、自転車に乗り、立ち去って行った。

 次第に遠ざかっていく二人の後ろ姿を見つめながら、俺はまんざらでもない気分に浸っていた。

 詩奈はまた俺と会うことを望んでいた。 

 何か照れるような嬉しさと喜びに、俺は表情が崩れるのを抑えきれなかった。

 家族以外に俺のスペックを告白した数少ない相手と言うだけでなく、肯定的に受け入れてくれた、希少な存在だった。

 ただ、交流は長くは続かないだろう。

 悲劇がきっかけに出会った関係なんて、何かしらトラウマになるような気がする。

 サスペンスドラマで在りがちな展開は、期待しない方がいいだろうな――俺はそう、自分自身に言い聞かせた。

 寺嶋ほのかと久世詩奈。見た感じ、仲の良い友人同士って感じだった。

それに、背格好がよく似ている。マスクをしているせいか、顔も半分しか見えないから風貌も髪型と服装を除けば区別がつかないと言っても大げさじゃない。

 まさか。

 背筋に悪寒が走る。

 俺の思考が、急旋回して過去の記憶を発掘始めていた。

 あの時擦れ違った女子生徒って、ひょっとして久世詩奈の方だったかも?

 ツインテールの封印を解けば、多分髪型も近くなる。

 二人とも同じクラスと言う事は、大塚とも同じクラスーー何かあってもおかしくはない。

 それに。

 俺が禁忌のスペック――ポストコグニションの話をしてから、詩奈の目つきが食いつく様な鋭さを増したような気がする。

 自分のしでかした事を俺が見抜いているか確かめているかのように。

 それに髪型だって、例え目撃者がいたとしても、身バレしない為にあえて縛るのやめてカムフラージュしたのだとしたら。

 否、ひょっとしたら、詩奈はほのかに罪を着せるために、あえて髪型を変えたのか…。

 何の為に?

 分からない。

 まさか、二人で大塚を奪い合っていたとしたら。

 いやそれは…惟村と付き合っているのを知りながら…そんなの関係なく自分の気持ちに正直突っ走った結果、三つ巴の奪い合いになっていたとか。

 やめよう。

 俺は吐息をついた。

 憶測であれこれ揶揄するのは良くない。

 俺には、あの力がある。

 今までは、過去を曝け出す禁忌の力と捉えていたけれど。

 何となく、今の俺にとっては必須の力の様な気がした。

 ほのかと詩奈の姿は、もう視界から消えていた。

 今思えばラインかメアドの交換をしておくべきだった。

まあいいや。

 恐らく、今後もあの二人とは何回も顔を合わす様な気がする。

 俺はベンチから立ち上がると二つの祭壇の前に向かった。

祭壇に一礼し、手を合わせる。。

 もし叶うのなら、死に至るまでの過去を詳細に垣間見させて欲しい。

 それが二人の供養につながるなら。

この世に不浄の思念を留めない為にも。

俺に答えてくれないか。 

 不意に、一陣の風が俺の横を通り過ぎていく。それが、二人の答えなのかどうかは分からない。

 ただ、何となく感じた。

 これが、全ての始まりの合図である事を。






 次の日、俺はまた、城址に訪れていた。

 大塚の滑落現場も既に規制線は張られておらず、警察は事件性は無いと判断したようだ。

 ただ、城址の管理者が設けたのだろう、杭を打ち付け、ロープを掛けた簡単な柵が設置されていた。

 事故の報道は惟村の時よりも大々的に報道れていた。マスコミも事故として取り上げており、それ以上の言及には及んでいない。

 やはり、真実を暴くのは、俺に課せられた使命なのかもしれない。

 まだ午前十時だと言うのに、初夏を匂わせる日差しはきつく、城址のある頂上に辿り着いた時には全身汗だくになっていた。

天候に恵まれてはいるものの、やはり感染症の影響はぬぐい切れず、相変わらず観光客はまばらだ。

 観光客で生業を立てている土産物屋や食堂の経営者には申し訳ないが、俺にとっては好都合だった。

 色々と検証したい事があったのだ。

 青々と茂る木々の枝葉が生み出す芳醇な草いきれが、鼻孔にじんわりと浸透していく。

 今のところ、覚醒の素振りは無い。

 常時空間を満たしている匂いではなく、何か特異的な匂いでないと、俺の異能に掛けられたロックを解除し、トリガーを引くまでには到達しないのだ。

 俺は大塚が滑落した崖のそばに近付いた。

 見る限り、崖の端が崩れた様な痕跡は無い。

 彼を発見し、肉眼でその姿を捉えた時も、崖に崩れた後は無く、崖から身を乗り出さない限りは滑落などしないはずなのだ。

 もう一度、あの時の映像が見れないだろうか。

 記憶の中の映像では、細部の検証が出来ないばかりか、憶測が想像した画像に補正され、偽りの記憶として俺の思考に上書きされてしまう恐れがある。

 現に、彼が崖から落ちるシーンが、何故か妙な違和感を伴って記憶されており、又それが何なのかも把握しきれずにいた。

 急に蹲ったかのように女生徒の陰に沈んだ彼の姿が、何故か不自然でならない。

 でも、一番のミステリーはナイフかもしれない。 

 それを解明する為にも、俺は己の力に今までになく期待を寄せていた。

 ここまでも自分の力を肯定的に捉えたのは、人生初だ。

 俺の力を認め、素直に受け止めてくれた存在が現れたからかもしれない。

「おはようございます」

 振り向くと、笑顔で近付いて来る詩奈の姿があった。今日は上下黒のジャージに、赤いジョギングシューズを履いている。

 あの時と同じ服装だ。

 彼女が楡村を見つけた時と。

「おはよう」

 俺は挨拶を返すと、笑みを浮かべながら彼女に近付いた。

「絶対に来てると思った」

 詩奈は恥ずかしそうに微笑んだ。

「鋭い」

 俺は締まりのない顔で答えた。出会い方が異常とは言え、現役女子校生と会話出来るなんてそうざらにあるもんじゃない。

「何か分かった? 」

 詩奈は俺の顔を覗き込んだ。

黒い澄んだ瞳が探るように俺を見つめる。

「今のところ何も」

 俺は顔を顰めると、首を横に振った。

「嫌な事、思い出させちゃうけど、今日の服装って、あの時のだよね? 」

 彼女の顔が、硬く強張る。

「あの時」――その表現だけで、彼女は充分過ぎる程に俺が意図する事を理解していた。

「久し振りに着たの」

 彼女は苦悩ともとれる複雑な表情を浮かべた。

「やっぱり、トラウマになってるから? 」

「うん」

彼女は目を伏せた。

「あの時の事、思いだしたくないから着たくは無かったんだけど、何かのきっかけになればと思って」

「俺の為に? 」

 俺は驚きの声を上げると、まじまじと彼女を見つめた。  

 彼女は恥ずかしそうに頬を朱に染めると、黙って頷いた。

 ありがたかった。自分の心の傷に苛まれながらも、俺に協力しようとする姿勢が、たまらなく嬉しかった。

 詩奈は、あの映像の女子生徒とは無関係なのかもしれない。

 もし当の本人なら、俺にわざわざ接触を試みようとか協力しようとかしないだろう。

 過去の出来事を垣間見る能力者の俺に。

 じゃあ、あの娘は誰なのだろう。

 ほのか、なのか。

 涙を流しながら、足早に参道を下って言った姿が脳裏を過ぎる。

 再びここに現れたのは、大塚がどうなったのか心配になってなのか。

 もし生きていれば、自分の犯行を供述されてしまうかもしれない――そんな不安からいてもたってもいられなくなり、再び犯行現場に姿を見せたのか。

 断定は出来ない。

 あくまでも、俺の身勝手な憶測だ。

「おはようございます」

 背後から掛けられたその声に、俺は驚きを隠せなかった。

 ほのかだった。

 濃いデニムのスキニーパンツに、猫のキャラがバックプリントされた淡いグレイのカットソー。

 肌勢は無く、無印良品的な素朴な雰囲気をほんわかと醸し出している。

「ほのか! 」

 詩奈は俺と同じく驚きの声を上げた。その態度から、二人は特に打ち合わせてやって来たんじゃない事実を暗喩していた。

「規制線、外れてたんですね」

 ほのかが、そっと呟く。

 寂しげな表情で、ゆっくりと大塚が滑落したがけに近付いた。

 まさか、後追いするんじゃあ。

 唐突に脳裏を過ぎった良からぬ予感は、幸いにも瞬時にして玉砕する。

 ほのかは崖のそばでしゃがむと、そっと手を合わせた。

「二人も、来てると思った」

 ほのかは眼を細めた。

「私、二人に話さなきゃいけない事があるんです」

 ほのかの表情が硬く強張る。緊張しているのか、彼女の身体は小刻みに震えていた。

 俺は生唾を呑み込んだ。

 これから言葉として刻まれる彼女の告白を聞き逃さない様、その時の、そして話し終えた後の彼女の一挙動を見逃すまいと、瞬きすら忘れて食い入る様に彼女を見つめた。

 時が止まった。  

 一瞬、鳥の囀りが、そよぐ風に揺れて木々の枝葉の擦れ合う音が、完璧に途絶えた。

 ほのかはそっと目を伏せた。そして、意を決したかのように、強張った唇を、ゆっくりと開く。

「――さん、大墳君が死んだ日、参道で私と擦れ違ったの覚えていますか? 」

「えっ? 」

 驚きだった。

 まさか、彼女からその事に触れて来るとは。

 予想外の展開だった。

 戦慄めいた妙な驚愕に、俺の頭の中は真っ白になっていた。

「驚いた顔で私を見ていましたよね」

「うん。泣いているみたいだったから、どうしたのかなって…」

「別れたんです。付き合っていた人と」

「ほのか――」

 神妙な面落ちで話し掛けた詩奈を、ほのかは片手で制した。

「私、大塚と付き合っていたんです」

 ほのかは言葉を区切ると苦し気に顔を歪めた。

「つい最近ここで亡くなった方が、彼の彼女さんだったんですよね。彼から聞きました。私、二股掛けられてたんです。彼に告白しようか悩んでいた時、しいちゃんに相談したら、彼女がいるから止める様に言われていたんですけど、彼に聞いたら、その時は、別れたって言ってたんで、彼の言葉を信じたんです。でも…」

ほのかは顔を上げた。寂しげな笑みが、生気のない表情に浮かんでいる。

まるで友人の忠告を聞き入れなかった愚かな自分自身を苛むかの様に見て取れた。

「あの日、私は彼をここに呼び出したんです。彼女さんの事を追求したら、渋々話してくれました。酷い事言ってた…彼女さんが自殺したのも自分のせいじゃないって。自分は被害者で、妊娠したとか言いがかりをつけられていたって。」

 ほのかは、大きく息を吐いた。

「言ってる事が自分勝手で無茶苦茶。だから私言ってやったんだ。もう別れるって。あんたなんか最低な男だ、死んで彼女さんにお詫びしろって」

 体が、大きく揺らぐ。

 おかしい。様子が変だ。

 俺は慌てて駆け寄り、崩れ落ちる彼女の身体を抱きとめた。

「大丈夫? 」

「ごめんなさい。大塚が死んだの、多分私のせい、です。私があんなこと言っちゃったから、彼は傷付いて、そして…」

 目が虚ろだった。

 まずい。この娘、何か薬物飲んでる。

 逝き絶え絶えに語る彼女を抱きかかえたまま、しょっていたリュックを降ろすと、中からお茶のペットボトルを取り出し、キャップを開けた。

「しいちゃん、これほのかに飲ませて」

「あ、はい」

 詩奈は顔を硬直させながら俺からペットボトルを受け取ると、無理矢理ほのかに飲ませた。

「よし、いいよ」

 俺はほのかを俯かせると、無理矢理口を開き、指を突っ込んだ。 

 ほのかは苦しそうにえずくと胃の中の物を嘔吐した。

 胃液の酸っぱい匂いが辺りに立ち込める。

 嘔吐物はさっき飲ませたお茶と胃液の混ざったものだけで、薬らしいものはみあたら無かった。

 どうやら既に体内に吸収されてしまったのかもしれない。

 何を飲んだんだ? 睡眠薬?

 一刻を争う事態だ。

 俺はスマホを取り出し、救急通報した。

「ほのかっ! ほのかっ! 」

 詩奈は泣きながらほのかの身体を揺さぶった。ただ、彼女の閉じられた瞼は、重く閉じられたまま、友人の呼び掛けに答えることは無かった。

 


 



「成程ね、有難う。事情は分かりました」

 刑事は頷くと手帳を閉じた。

もはや顔なじみになった若手刑事――園山が俺達を訪ねて来たのは、ほのかが病院に運ばれて医師の処置が終了した頃だった。

 俺と詩奈はほのかに付き添って救急車に同乗し、市内の総合病院までやって来たのだ。少しして病院に到着したほのかの両親に事情を説明し、付き添いを変わって入院病棟から待合室に向かう途中でこの刑事に呼び止められたのだ。俺と詩奈は、病院の待合室の一角で刑事から事情聴取を受けていた。休日と言うこともあって、広い待合室には俺達以外には誰もいない。

 ほのかは今、両親に付き添われて病室のベッドでぐっすりと眠っている。

 医師の話では、彼女が飲んだは睡眠薬で、摂取量が少量だったのと、処置が早かった為か、命に別状はないらしい。

「まあ、助かって良かった。これ以上、若い命が失われるのは辛いしね。ありがとう、君達がいてくれて助かったよ」

「いえ。でも良かったです」

「いやあでも、死んだ人の事をとやかく言っちゃいかんのだけど、彼も罪作りな男だね。異性との交遊関係は結構派手だったようだ。あ、これはオフレコで」

 園山はそう言い残すと俺達を残し、じゃあと片手を上げて去って行った。

「俺達も帰るか。あ、ちゃり取りに行かなきゃ」

「私、親に迎えに来てもらおうかな…」

「その方がいい」

「――さんは? 良かったら一緒にうちの車で送ってあげるよ」

「いやあ、得体の知れない男がいきなり送ってくれってのはまずいんでね? 」

「大丈夫よ。何なら、彼氏だよって紹介する? 」

「まじか」

「冗談ですよ、もお」

 俺の当惑した表情に、彼女は顔を真っ赤にして笑った。

「タクシー呼ぶか、健康の為に歩くか」

「あ、じゃあ歩こう。私も一緒に」

「え? 」

「ここからだと一時間かからない位で行けるよ」

 そう言うと、彼女は先陣切ってすたすたと歩き出した。

「あ、ああ」

 俺は慌てて彼女の後を追った。

 病院を出ると、立ち並ぶ建造物の向こうに、城址のある山が見える。確かに、思っていたより近そうだ。

「あの日、ほのかは大塚と会ってたんですね。――さんとも擦れ違ったって言ってたし」

 俺がほのかとの初見があった件のところで詩奈はちょっと不機嫌そうに言った。

「久世さんごめん、話さなくて。びっくりした。あの子、制服姿だったしマスクしてたから、俺自身は確証なかったんだよな」

 言い訳じみた回答をしつつ、俺は彼女に頭を下げた。

「しいちゃんでいいよ。あの時もそう呼んでいたし」

「へ? 」

「あ、覚えてないの? ほのかを介抱してた時、私の事をしいちゃんって呼んでたよ。私もあの時びっくりしたけど、まあいいやって」

「あ、ごめん、つい…」

「いいよ、これで公認した訳だから」

ってやつ張ってたし」

 俺は詩奈の話を聞きながら頷いた。

「でもさ、ほのかは大塚が落ちるとこ、見てないんだよね」

「そうみたい。それに、俺が見た映像とは違うし」

「ほのかじゃないよ」

「うん、そう思う」

「じゃあ、誰だろ」

「分からない。でも、変なんだよな」

「変って? 」

 詩奈が怪訝そうにおれの顔を見つめた。

「まず、ナイフの件」

「警察が何も触れてない件? 」

「それもある。あれだけ真正面から懐に飛び込んでいったのに、でも、刺さって無かったってのが正解かも。俺が見た刃には血痕はついていなかった。それに、あいつが立ってた周辺にも何も無かったしな」

「脅かしただけ? 」

「かもしれない。でも、脅かすのが目的だったら、最初からナイフをちらつかせながら近付くんじゃない? 」

「うーん、そうかも」

「刺すのが目的だったから、接触する瞬間にナイフを取り出した。早々に出してりゃ大塚も気付いて避けるか逃げるかするだろうが、そんな素振りは無かった。彼女が大塚の懐に飛び込んだ後、彼女は慌てて後ろに後ずさりしているし、大塚も怒りながら彼女につめ寄ろうとしている。この時点で、ナイフは刺さっていないのは明らか。怖くなって、寸前で刺すのを躊躇ったのかも。でもここからが妙なんだ」

「どういう風に?」

「大塚はかっと眼を見開くと急に立ち止まるんだ。彼女に向けていた憤怒の形相から一転して驚愕と恐怖の入り混じった表情を浮かべる。次の瞬間、彼の身体は崩れる様に視界から消えた。おかしいだろ? 」

 詩奈に問い掛けると、彼女はきょとんとした表情で俺を見つめた。ちょっとわかりづらかったか。俺は更に話をつづけた

「崖の端っこに立ったのでもなく、反対に崖から離れてるんだぜ。それも、足踏み外してひっくり返ったんじゃなくて、ストンとその場に座り込むような感じなんだ。足元の崖が崩れたのなら分からないでもないけど、そんな形跡もないし」

「うん、おかしい」

「だろ? 」

「うん」

「それに、俺が見た映像から、彼と崖までの距離を調べてみた。確か崖の前にベンチがあったよね。それと比べて彼の立ち位置を想定してみたんだけど、妙な事に崖から二メートル以上は離れている。そこからだと、例え背中から仰向けに倒れたって崖から落ちたりしない」

「うん、言われてみれば確かに」

「俺の映像で見た女子生徒は、何かの理由で彼に殺意を持っていた。でも実行に移せず、反対に反撃されそうになった時、何かが起こった。でも、俺の見た限りじゃあ、あの場面にいたのは大塚と彼女の二人だけ。別の誰かが大塚を引き倒して崖から突き落としたようには見えないし、事実見えていない」

「そうなんだ」

「ああ。その女子生徒の証言が得れれば、事実が分かるんだけど、今のところ名乗り出てないとこを見ると、相当ショックを受けているんだろうな」

「調べてみる? 」

「いいよ、そこまでしなくても。大塚が崖から落ちた原因は俺の力で確認出来そうだし。はっきりしているのは、大塚が崖から落ちたのは、誰かの手にかかった訳でも自殺でもなく、事故だよ。たぶん、あのシーンの後に何かがあったんだ」

「警察に言うの?」

「言えないよ。残念だけど証拠がない。ただ俺は事実が知りたいだけ。それに、変に騒ぎたててその子をこれ以上傷付けたくないし」

「そっかあ、優しいんだね」

「えへ」

 詩奈の憧憬の眼差しに俺は照れ笑いを浮かべた。

 それからは、俺と彼女は事件とは無関係の話をしながら帰路を進んだ。彼女の家は、驚いた事に俺のアパートから近くだと分かった。 

 両親は会社員で、姉が一人いるらしい。彼女が高三なのは最初に出会った時に聞いたんだけど、因みに進学希望で俺の言っている大学の、俺と同じ学部を目指しているのが分かった。

 コロナの関係で大会もろくにないうちに部活が終わってしまうと嘆いていたが、大学に行ってからも続けるつもりはないとのことだった。本気か社交辞令か分からんが、家庭教師をしてくれと頼まれたので快く引き受けた。ちな英語がネックらしく、俺はそこそこ得意分野でもあるので、その点はどんとうぉーりーです。

 ラインとメール交換もしたので、これからは普段も色々と連絡取り合えるぜ。やっほーい! 

 そうこうしているうちに、俺達は城址の駐輪場に到着した。会話しながら歩いてきたからか、思ったよりも近かった気がする。自転車で途中まで一緒に行き、俺のアパートの前でお別れした。勿論、明日も城址で会う約束を取り付けて。

「これから帰って受験勉強するでござる」

 彼女が真顔で敬礼するので、俺も真顔で、

「頑張って勉学に勤しむでくだされ。応援するでござる」

 と、敬礼と共に真顔で答えた。

 チャリで走り去る詩奈を、俺は見送り続けた。

 新たな映像は見られなかったものの、何かしら進展したような気はした。

 何よりも、ほのかの疑いが晴れて詩奈も元気な表情を見せたのが、何よりも救いだった。俺の無理矢理な推察ではあったが。






 午前八時ちょっと過ぎ。俺は城址の駐輪場にいた。

 詩奈と落ち合う約束の時間は九時だったのだけど、俺はもう一度確かめたい事があったので、少し早めに訪れていた。

 惟村の献花台に手を合わせ、大塚の献花台には一礼のみで脇を過ぎると、俺は山道へと足を踏み入れた。

 詩奈達はトレーニングの為に、ここを走り回っていたと言っていた。

 確かに、地面は踏み固められ、常時人が通っている形跡はあるものの、むき出しになった木の根や岩があり、普通に歩くのですら結構大変な小径だった。

 足腰を鍛えるには絶好のコースだろう。

 ここを走ると言うのだから、詩奈の身体能力には驚かされる。

 俺はおぼつかない足取りで、時折木の根に足を取られながら道を進んだ。

 目的の場所は、惟村が命を絶った場所。   

 どうしても確かめたい事があった。

 初めてあの場所を訪れた時に垣間見た、彼女の亡骸の映像。

 あの時、ぞくりとした憎悪の正体は何だったのか。

 自死の選択にまで追いやった大塚への怨念が、残留思念となって俺に訴えかけて来たのだろうか。

 でも。

 俺に向けられた憎悪は、もっと異質だったように思われた。

 あの場所に行った所で、俺にそれが察知できるか否かは何とも言えない。

 とは言っても、俺には確かめずにはいられなかったのだ。

 胸騒ぎがするのだ。

 余り考えたくはない、嫌な胸騒ぎが。

 緩やかなカーブを超えた藪の前で、俺は歩みを止めた。

 着いた。

 俺が記憶する木々の位置や道の感じからすると、間違いなくここだ。

 よく見ると、不自然に踏み倒された下草が、一本の木へと俺を誘っている。

 俺は躊躇う事無く藪を突き進み、一本の木の前で立ち止まった。

 木の幹には、まだ紐の擦れた後が生々しく残っている。

「惟村、教えてくれ。俺にはおまえの無念を晴らす力がある」

 俺は静かに木に向かって語り掛けた。

 木の幹の傷跡を手で触れる。

 仄かに醸すみずみずしい木の香が、鼻孔に爽快な調べをささやかに語り掛けて来る。

 音が消えた。

 遠くに聞こえていた自動車の排気音や野鳥のさえずりが、一瞬のうちに俺の聴覚からシャットアウトされる。

 視界が急速に、大きく歪始める。

 答えてくれたのだ。 

 俺の思いに、惟村の残留思念が縋りつくように浸透していく。

 苦悶に顔を歪める惟村の姿が、俺の視界を埋め尽くす。

 彼女は、苦しそうに身悶えしながら、首に食い込む縄に手を掛け、外そうとしている。

 外そうとしている?

 いざ死を直面にして怖くなったのか。

 でもそれなら、足をつけばいい。座位で首を吊っていたのだから、生きようとするのであれば助かるのでは。

 それとも、苦悶の余りにパニックになって冷静な判断が出来なくなったのか。

 おかしい。

 ロープの末端が、両端に、それぞれ反対方向に伸びている。

 まるで、何者かに引っ張られているかの様に。

 分かった。

 最初にここに訪れた時に感じた憎悪の正体が。

 あれは、俺に無念を訴えかけたんじゃない。

 あれは――。

 映像が消えた。 

額に噴き出した汗が、止めどもなく流れ落ちる。

決して心地良い汗じゃない。液体窒素の様に冷え切った、不快感極まりない冷や汗だ。

同時に俺は脈打つ心臓の鼓動を顔全体で感じていた。まるで、脳と心臓が入れ替わったかのような感覚だった。

心臓が暴走していた。リミッターの外れたエンジンの様に、破裂するんじゃないかと思う程の激しいストロークを繰り返す。

今日なら、見れるかもしれない。

あの時、肝心の部分が見えなかったあの落下シーンの全てが。

俺はよろよろとした足取りで来た道を戻った。

駐輪場に辿り着くと、丁度道の向こうから自転車でやって来る詩奈の姿が見えた。

手を振りながら近付いて来る詩奈に、俺も手を振って答える。

 詩奈は自転車から降りると、怪訝な表情で俺を見つめた。

「どうしたの? 顔が真っ青……」

 心配そうに俺の顔を覗き込む詩奈に、俺は無理矢理作ったぎこちない笑みで答えた。

「あの場所、見に行ったの? 」 

「ああ」

 俺は彼女の追及を素直に認めた。

 彼女は察したようだ。探るような目で見つめられてしまうと、どうも嘘は付けない。まあ、嘘をつく必要は無いのだが。

「何か、見たの? 」

 詩奈の瞳が、不安げに揺れた。彼女の喉が、大きな音を立てて上下に蠢く。

「ああ、でも後で話す。行こう」 

 俺は声の震えを無理矢理抑え込みながら、彼女に声を掛けた。

 俺の言葉に詩奈は黙って頷く。

 駐輪場に併設された駐車場に、車が数台入って来る。神社の境内近くまで車なら登っていけるのだが、山道のウォーキングを楽しみながら歩く観光客も結構いるので、恐らくはその類のお客様だと思う。

 無言のまま、俺達は肩を並べて参道を進んだ。

 俺が無意識のうちに醸し出すただならぬ雰囲気に、詩奈は何かを感じ取ったのか、彼女の方から俺に話し掛けようとはしなかった。

 通行人は俺達をどう見るのだろうか。

 仲の良い兄妹、恋人同士…普段なら、こんなシュチエ―ションならば恥ずかしくなるような妄想に耽ってしまうのだが、今日は到底そんな気にはなれない。

 開店前の売店を通過し、整備された参道から赤土と岩肌がむき出しの山道へと入る。

「寺嶋さんから何か連絡あった? 」  

 俺は徐に詩奈に話し掛けた。

 暗黙下に自ら執行した戒厳令とは言え、不自然さに満ちた無機質な時の移ろいが、詩奈に耐え難い重圧を与えている事に気付いたのだ。

「昨日の夜、連絡あったよ。ラインだけど。大丈夫みたい。でもしばらくは入院だって」

 詩奈はほっとした表情を浮かべながら、唇を開いた。

「落ち着くまではその方がいいかもな」

 俺は頷いた。

 そう、落ち着くまでは。今のほのかに、俺が知り得た事実を打ち明けたとしたら、恐らく心に大きな傷を負うことになる。

 何故、大塚が命を落とすことになったのか…確実に裏付けるシーンは垣間見ていないけど、ほぼ想像がつく。

 それに。

 見れるかもしれない。

 今の、俺なら。

 自分中に息づく異能の息遣いを、俺は今まで以上に実感していた。

 何かきっかけさえあれば、確実に始動する。

 根拠は無い。

 ただ、そう感じるだけなのかもしれない。

 ここまで実感出来た確固たる核心は、過去には皆無だった。

 山頂の城址跡に辿り着く。

 まだ朝が早い上に、転落事故が影響しているからなのか、俺達以外には他に誰もいない。

 あの時と同じシュチエ―ションだ。

大塚が転落した崖の辺りには、以前にはなかった柵がしつらえてある。

丸杭を地面に打ち付け、ロープを渡しただけの即席的な簡易なものだったか、設置理由が衝撃的な背景を踏まえているだけに、十分過ぎる抑止力となっていた。

 俺は柵ぎりぎりの位置に近付いた。

 眉をしかめながら、そっと崖下を見下ろした。

 切り立った壁は城塞に相応しく、当時の武将がここに城を構えた理由も分かるような気がする。

 下界から攻め込み憎い立地条件に廻られた山城だったのだろう。だがその反面、致命的なデメリットがある。

 逃げ道がない。

 唯一あるとすれば、尾根伝いに山を縦走するしかないが、平野に近い山だけに、どうしても早々に山を下ることになる。そうなれば待ち伏せされて一貫の終わりだ。

 大塚が倒れていた辺りは草がきれいに刈り取られていた。

 事故として処理されたとは言え、何かしらの捜査が行われたようだ。

「下で、何が見えたの? 」

 詩奈が、思いつめた様な表情で俺を見つめた。瞳が、もどかしさと捉えどころのない不安に揺れ動いている。

「待って…もう少しで完結するから。それからだ」

 俺は彼女を制した。

 彼女が今、生殺し状態に陥っているのは明らかだった。

 俺が故意的に追い詰めている訳ではない。

 俺自身、彼女を呪縛から解き放してあげたい気持ちでいっぱいだった。

 決定打が欲しかった。

 確実にそうであると決めてのワンシーンが。

 詩奈は吐息をついた。

 項垂れる彼女の首筋から立ち昇る、ほのかな甘酸っぱい香が、俺の鼻孔をくすぐる。

 錯覚だろうか。

 いつもの詩奈の匂いとは違うような気がする。

 不快ではない。

 でも、明らかに異質だった。

 爽やかな柑橘系の香の中にケミカルっぽい不純物が混在しており、それを中和させるかのように、より濃厚な香を醸しているような気がする。

 俺の意味深な態度に過剰に反応し、膨れ上がる極度の緊張の余り、夥しいアドレナリンが血流中に放出されたのか。

 ただ、この匂いを、俺は記憶していた。

 この匂い、何処かで…。

 あの時だ。

 匂いの記憶が俺の記憶と一致する。

 刹那、視界が大きく湾曲する。

 始まった。

 視界に映し出された風景が原子レベルにまで分解され、再び風景を組成する。

 目と鼻の先に、大塚の姿があった。

 眼を細め、苛立たしそうに罵声を吐き捨てている。

 音声は聞こえないものの、彼の表情と唇の動きから、何となくそう感じるのだ。

 彼は誰と話しているのか。

 俺は恐る恐る振り向いた。

 ほのかだった。

 あの時と同じ、制服姿のほのかが、俺のすぐ横に立っていた。

 彼女は泣いていた。

 肩を小刻みに震わせながら、嗚咽を繰り返していた。

 そんなほのかを、大塚は冷ややかな目で見据えていた。

 自分への思いに翻弄されて涙を流し続けるほのかを労わろうとする優しさは、彼の表情からは全く感じられなかった。

その露骨なまでに無関心な態度は、まるで他人事のように捉えているかのようだった。

 大塚があからさまに吐息をつく。

 早く終わってくれねえかな――そう言いたげな態度だった。 

 こいつ、稀に見る糞野郎だ。

 この後、崖から落ちて命を落とす運命だとは、毛の先程も思っちゃいないだろう。

 同情する余地は無かった。

 同情する気持ちにもなれなかった。

 ほのかは顔を上げた。

 顔を紅潮させ、一言吐き捨てると踵を返して山道を下って行った。

 彼女が吐き捨てた台詞。音声は聞こえないものの、彼女の唇の動きが底知れぬ憎悪を紡いでいた。

 大塚は苦笑を浮かべながら舌打ちを打つ。

 が、不意に彼の顔から笑みが消えた。

 驚愕と戸惑いが彼の表情を支配する。

 彼の懐に制服姿の女子が飛び込んで来る。

 彼女の顔を、俺は食い入るように見つめた。

 ほのか――じゃない。

 詩奈だった。

 髪留めのゴムを外したのだろう。いつもの短めのツインテールではなく、普通のショートヘアー。しかもマスクをしているので、初見ならほのかと見間違えてしまうだろう。

 そして。

 俺は見逃さなかった。

 彼女がしっかりと両手でナイフの柄を握りしめているのを。

 無機質な白銀の光沢を湛えた凶器が、大塚の無防備な腹部に吸い込まれていく。

 余りにも予期せぬ展開に、大塚は抵抗する余地も無いままに、呆然と立ち竦んでいた。 

 女子生徒はゆっくりと大塚から離れた。

 ナイフの柄を握りしめる彼女の両手が、小刻みに震えている。

 自分の犯した凶行に、恐怖を覚えているのだろうか。

 彼女の口元が緩む。

 詩奈は笑っていた。体を大きく揺すりながら、大声で笑っていた。

 精神的に追い込まれた挙句に、理性の箍が弾け飛んでしまったのか。

 おかしい。

 このシーン、何か妙だ。

 テレビドラマだったら、恐らくは違和感なく見逃してしまう様なさりげない違和感を、俺は覚えていた。

 分かった。

 漸く気付いた。

 ナイフの刃が綺麗過ぎる。見るからに深々と大塚の身体に突き刺さったはずの刃に、血が全くついていない。

 それどころか、刺されたはずの大塚の腹部からも全く出血していない。

 どういうことか。

 詩奈は刺す真似をしただけ?

 でも、見るからにそんな小細工したようには見えなかった。

 実際、おれは、ナイフの刃が真っ直ぐ大塚の腹部に突き立てられたのを至近距離から見ている。

 当の本人も今頃になって違和感に気付いたらしく、自分が刺されたはずの腹部を訝し気に凝視していた。

 大塚の顔が見る見るうちに真っ赤になっていく。

 驚愕と戦慄の虜囚となっていた彼の青白い顔が、一転して憤怒にたけ狂う深紅に燃え上がった。

 大塚は口を大きく歪めながら詩奈に罵詈雑言をぶつけると、大股で彼女に近付いた。

 涙を流しながら爆笑していた彼女の顔が、一転して恐怖に凍りつく。

 怒気を孕んだ大塚の右手が、立ち竦む詩奈に掴みかかる。

 刹那。

 大塚の動きが止まった。不安定な姿勢で動作に急制動を掛けた為か、彼はバランスを崩して前のめりに倒れた。

 怒りに満ちていた彼の表情が、一転して硬く強張る。

 かっと見開いた眼に、先程までの猛々しい憤怒の炎は跡形も無く消え失せていた。

 全ての筋肉が一瞬にして硬直する。

 在り得ない現実に直面した驚愕と、激昂の炎を瞬殺する底知れぬ畏怖。

 怒りに代わって新たに彼を支配したのは、この二つの感情だった。

 大塚は唇を震わせたまま立ち上がる事も出来ず、ずりずりと這って後ずさりし始めた。

 

 助けてくれっ!


 大塚はすがるような目で詩奈に訴えかけた。

 彼女は動かなかった。

 否、動けなかったのだ。

 彼女は怯え切った眼で、じっと大塚を見つめていた。

 自ら崖に向かって後退していく彼の異常行動と感情の豹変ぶりに動揺し、完全に意識が麻痺しているのだろう。

 救いを求める彼の叫びは、俺には聞こえない。

 ただ、弱々しく言葉を綴った唇の動きは何故か色褪せて俺の目に映っていた。

 大塚の身体が、崖の向こうに消えた。

 詩奈はよろよろと退くと、地表を這う松の根に足を取られ、転倒した。

 彼女は立てなかった。

 虚ろな目線を中空に漂わせながら、放心状態で大塚の残像を追っていた。

しばらくすると、人影が俺の視界に飛び込んで来る。

 俺だ。

 俺はゆっくりと崖に近付くと、不意に歩みを止めた。

 俺の目線は、中空を彷徨っていた。

 あの時だ。

 俺のスペックが発動し、まさに今ここで起きた光景を垣間見ているのだ。

 そんなを俺を、詩奈は怯えた目で見つめていた。

 気付かなかった。

 あの時、詩奈はまだここにいたのだ。

 映像の中の俺は我に返ると、恐る恐る崖を覗き込んだ。そして崖下に大塚の姿を見つけると、慌ててスマホで救急連絡する。

 俺は詩奈を目で追った。

 俺がスマホで救急や警察に連絡を取っているのを見届けると、ゆっくりと立ち上がり、足音を忍ばせながら、正道から逸れて藪に向かって歩き出した。

 映像が歪み始め、再び収束する。

一瞬き後、視界は元の世界を映し出していた。

 俺の傍らには、思いつめた表情で佇む詩奈の顔があった。

「見えたの? あの時の事」

 詩奈が声を震わせながら俺を見つめた。

「うん…」

 俺は頷くと、彼女を見つめた。

「あの時、最後に大塚と会ってたの、詩奈だったんだね」

 俺が吐息と共に綴った言霊の一節に、詩奈は黙って頷いた。

 俺を見つめる瞳から涙が流れ落ちる。

「ごめんなさい。早く話そうと思ってたけど、誰も信じてくれないと思ったから」

「俺は信じるよ。起こった事、全部見たから。詩奈は少しも悪くない。どう見ても大塚は自分から後ずさりして崖から落ちている」

「有難う。――さんなら分かってくれると思った。ナイフの話を聞いた時、本当に見えてるんだって確信したから」

 詩奈の瞳から警戒色が消え、落ち着きを取り戻した安堵の輝きが浮かぶ。

「そのナイフなんだけど、あれって・・・」

「あ、あれ」

 詩奈は背負っていたリュックに手を突っ込むと、無造作にそれを取り出した。

「えいっ! 」

「えっ? 」

 詩奈は徐にナイフを俺の腹に突き立てた。

 ナイフは、柄まですっぽりと俺の身体に突き刺さっている。

 痛くない。

 詩奈はナイフを抜いた。

「これ、おもちゃよ」

 詩奈はばつが悪そうな表情を浮かべると、ゆっくりと自分の掌にナイフを突き立てた。

 ナイフの刃が、柄の中に沈んでいく。

「ばねで刃が引っ込む仕掛けになってるの。大塚をちょっと懲らしめてやろうと思って」

「成程、考えたな」

「あいつ、女を欲望の捌け口にしか考えてなかった。ほのかからあいつと付き合いたいって聞いた時、私、やめるように説得したんだけど、無理だった。私、話したんだよ。惟村先輩と付き合っている事も、他にも手を出している女がいる事も」

「惟村が妊娠してたことも? 」

「話した。余り言いたくなかったけど、ほのかが大塚と付き合い始めたって聞いた時、思い切って打ち明けた。それで漸くほのかも目が覚めたみたい。あの日、あいつと別れ話をするって。ここで会う約束をしたって。でも、よりによってこんなところで会うっておかしくない? 誰も知らないはずの先輩との秘密を公表されたくないから、あいつ、ほのかに何かするかもしれない、そう思って」

「こっそりほのかの後をつけた」

「そう。髪縛ってたのをほどいて、ほのかみたく見せたのも、あいつの反応を見たかったから。もし、ほのかに何かしようと企んでいたのなら、私をほのかと見間違えて何か仕掛けて来るって思ったから」

 彼女は言葉を閉ざした。が、意を決したかのように頷くと、再び唇を開いた。

「あいつに仕返ししたかった…私も、前にあいつに…」

 詩奈は唇をつぐんだ。

 それ以上は言わなくても、俺には察しがついた。

 自分が負った不幸を友達にも追わせたくない――その一心が、彼女を思い切った行動に駆り立てたのだ。

 でも。

 最終的にジャッジしたのは、彼女じゃない。

「辛かったな。よく頑張たよ。言い難かっただろうに、よく話してくれた。俺が今垣間見た事を話すから、間違いないか聞いて欲しい」

 俺はさっき垣間見た映像を事細かに彼女に話した。

 彼女は黙って俺の話に耳を傾け、最後に大きく頷いた。

「間違いないです」

 彼女の返事に頷くと、俺は再び口を開いた

「大塚が何故、崖から落ちたのか分かる?」

「分からない。でもあれって、どう考えたっておかしいよ」

「何かに怯えて、逃げてた様に見えた」

「私にもそう見えた」

「多分、あれは惟村がやったんだ」

「先輩が…? 自分を自殺に追い込んだ恨みで? 」

「そうじゃない。自分を殺した恨みを晴らすため」

「殺した? 」

「ああ。俺がここに来る前に惟村が発見された現場で見た映像を話すよ」

 俺がそう促すと、詩奈は黙って頷いた。

「俺が垣間見たのは、惟村が死ぬ瞬間のシーンだった。苦しそうに顔を歪めながら、首に巻き付いた紐をに手を掛けて必死に取ろうともがいていた。自分から死を望んだのに、死から逃れようとする姿に妙な違和感を感じてさ。その時気付いたんだ。紐の端が、水平に、それぞれ反対方向に引っ張られている事に」

「まさか…! 」

「そのまさかだった。それとこの映像には、まだ続きがある」

「続き? 」

「うん。その手の主は、何度も惟村の首を絞めて絶命したのを確認すると、すぐそばの木に紐を縛り付け、自殺したかのように偽造工作をし始めた」

「その手の主って…誰なの? 」

「誰だと思う? 」

「まさか、大塚? 」

「君があそこにいた時、大塚は藪の間から、凄まじい憎悪と殺意を孕んだ眼で、君を見ていた」

「そんな…」

「最初にあの場所に行った時、ゾッとするような憎悪の情念を感じた。てっきり惟村の残留思念かと思ったけど、違ってた。あれは、藪から君を睨みつける大塚の思念だったんだ

「もし、あの時私があいつに気付いたら…」

「殺されていたかもしれない」

 詩奈の身体がぐらりと揺らぎ、俺の胸の中に倒れ込んでくる。

 俺は慌て彼女を抱きとめた。

 体が、小刻みに震えている。

 無理もない。一つ間違えれば、もうこの世にいなかったのかもしれないのだから。

「ごめん。もし駐車場でこのことを話したら、きっとここまで来れないと思って」

「え? 」

「どうしても、ここまで来る必要があったんだ。詩奈と一緒に。下で決定的な映像を見た直後、今日なら城址で起きた事も見れるような気がしたんだ。あの時、微かに感じた大塚の血の匂い。それに混じって、別の匂いも感じ取っていた。多分それは君の匂いだったんだ。確証は無かったけど――ごめん。俺は真実を見定めることで、映像で見た娘を――君を助けたいと思ったんだ。これは俺にしか出来ない事だから」

 詩奈は泣いていた。俺の腕の中で。

 体を小刻みに震わせながら、何度もしゃくりあげて泣いていた。 

 俺は彼女の背中を優しく撫でた。

 涙には浄化作用がある。泣く事で、辛かったことを全部洗い流してしまえばいい。

「――さんと出会えてよかった」

 漸く落ち着きを取り戻したのか、詩奈はゆっくりと顔を上げた。

「過去に起きた事故や事件現場を見る力があるって聞いた時、最初は信じられなかったけど、先輩を見つけた時の服装を言い当てたでしょ? あの時思ったの。この人なら、私が見た事を信じてくれるって」

「そうか」

 うるんだ眼で俺を見つめる彼女に、俺は静かに頷いた。

「私、警察に話そうと思う。私が見た事を全て」

「え、でも…」

「信じてもらえなくてもいい。私、唯一の目撃者なんだから」

「でも警察に話したら、誤った解釈をするかもしれない。それこそ詩奈を犯人仕立て上げるかもしれないぞ」

「けど、このままじゃあ、ほのかは自分のせいであいつが死んだんだって思い込んだままに…」

 詩奈は苦悩の表情で俺を見つめた。

 ほのかが負った心の傷を治すために、詩奈は自分の身を晒そうとしているのだ。

 俺は言葉を失った。

 俺がほのかに説明すれば…否、多分信じてはくれない気がする。例え詩奈が間に入って俺のスペックを説明したとしても、ただただ気を晴らそうとしているだけのように捉えるのが落ちだろう。

「私は大丈夫。――さんが私を信じてくれているから。私、警察に行きます」

「その必要は無いよ」

 突然、背後から声を掛けれ、俺は慌てて声の方に振り向いた。

 黒いカットソーに、オリーブ色のカーゴパンツをはいた青年が、俺達を見つめていた。

 彼は眼を細めながら、優し気な視線を俺達に投げ掛けている。

 見覚えのある顔だった。

 思い出した。俺のアパートに聞き取りに来た、あの若い刑事、園山だ。大塚を見つけて通報した時も、真っ先に駆け付けたのは彼だったのを覚えている。

「園山さん…どうしてここへ? 」

「ちょっと気になることがあってさ。あ、俺、今日非番だから。あくまでもプライベート出来てるだけだから」

「この人は? 」

「ああ、刑事さん。惟村や大塚の件で知り合ったんだ」

「あ、硬くならないで。俺、君達をどうこうするつもりないし」

 園山は笑いながら俺達にそう言った。

「ごめん。ついつい二人の話を聞いちゃってさ。俺も謎に思っていた事がやっと分かってほっとしたよ」

「園山さんも、おかしいと思っていたんですか? 」

「うん。大塚君の事から話すと、彼が落ちた現場を調べると、崖のそばの地面に、何かが引き摺られた様な跡が残っていた。彼が来ていたシャツも前が赤土で汚れていたからね」

「そう言えば、確かに」

 崖の下に倒れている大塚を見つけた時、白いカッターシャツが土で汚れていたのを思い出した。

「余り君らに見せていいものじゃ無いけど、まあいいか…これを見てみて」

 園山は一瞬躊躇しながらも俺達の前にスマホを突き出した。

 動画のようだ。売店前の駐車場から、城址跡の山頂目掛けてカメラは向けられている。

「これ、売店前の駐車場に取り付けられた防犯カメラの映像なんだ。本来なら止められている車を映しているんだけど、この日、メンテナンスをやった時にたまたま角度が上向きになってしまったらしい。ちょっと崖の部分を見てて」

 俺と詩奈は、園山に言われた通り、スマホに映し出されている崖の辺りを凝視した。

 何も無かった所に、不意に足が現れた。

 大塚の足だ。足はピンと真っ直ぐ伸び、崖からせり出している。やがて上半身が姿を現すと、そのまま崖から落下した。

「おかしいだろ。誰かに突き落とされたり、自分から飛び降りたりしたようには見えない。どちらかってえと、何者かに両足を引っ張られて引き摺り落されたように見えるだろ」

 俺と詩奈は黙って頷いた。

「これはちょっと見せれないんだけど、彼の御遺体を検視した時、妙なものがが見つかったんだ」

「なんですか、それ」

「彼の両足首に、手形がくっきりと残っていたんだ」

 俺と詩奈は顔を見合わせた。

 やはり。大塚を殺したのは…。

「警察でも色々と調べたんだけど、結局さっきの動画を無理矢理解釈して自分から飛び降りたってことになったよ。飛び降りようとしたが怖くなって躊躇しているうちに落ちたって解釈になった。正直、俺は納得していないんだ。恐らくは、彼に殺された大学生が仕返しをしたんだと思う。自殺に見せかけてね」

「それって…」

 園山の発言に、俺は素直に驚愕した。

 驚いたのは惟村の死因じゃない。警察が彼女の死を自殺として処理していなかった事実にだ。

 彼女が死に至る経緯は、時空を超えて目の当たりにしているのだ。今更そんな事位じゃ驚いたりしない。

警察は、表向きにはマスコミに自殺として発表していたはずなのだが、裏では秘密裏に捜査を進めていたって事か。

「彼女が自殺に使った紐だけど、調べたら大塚の指紋とⅮNAが検出されたんだ。多分、彼が彼女の首を絞めて殺し、自殺に見せかけたんだな。この一件は今、再捜査し始めていてね、改めて発表があると思う」

 園山は悲しそうな表情を浮かべると、深い吐息をついた。

「今回の事件は、色々な事実が芋蔓式に明らかになる事案だった。これも本当なら公に出来ないやつなんだけど、亡くなった惟村さんの胎児の父親は、大塚じゃなかった」

「え? 」

 俺は思わず驚きの声を上げた。

「ⅮNAが一致しなかったんだ」

 園山は小刻みに頷きながら俺を見た。

 園山の言葉に、俺はあの時に見た映像を思い描いた。惟村の匂いに反応して垣間見た、あの映像を。

「じゃあ、いったい誰の? 」

 詩奈は眉を潜めると、園山に尋ねた。

「相手は同じ大学の学生。予備校の冬季合宿で彼女と一緒になった男子生徒二人が、彼女に導眠剤を呑ませて強姦したらしい。ⅮNAはそのうちの一人と一致した」

園山は加害者二人の名前を伏せたものの、俺には察しがついていた。

あいつらだ。

講義で顔を合わす度に、いつも淫猥な目つきで惟村を視姦していたあの二人だ。

俺が惟村が妊娠していたことに触れると、過剰に反応した理由も。

これであの映像の謎も解けた。奴らが惟村と関係を持っていた時の背景が何故同じだったのか。そして、その時の彼女がずっと目を閉じていたままだった理由が。

今まで事故や事件現場でしか発動しなかった俺の異能があの時発動したのは、惟村の身に起きた事件を暗示していたのだ。

 恐らくは、惟村自身も気付いていないのかもしれない。

 間違いなく、そうだと思う。

 だから、直近で関係を持った大塚を疑ったんだ。

 大塚は濡れ衣を着せられ、挙句の果てに追い詰められて凶行に走ってしまったのか。

 ある意味、彼も被害者かもしれない。

「園山さん、そいつら二人の事、ずっと調べてたんですか? 」

 俺が園山に尋ねると、彼は苦笑を浮かべ、首を横に振った。

「惟村さんの事で聞き込みに行ったら、彼らの方から自供したんだ。思わぬ展開だったよ」

 どうやら、俺が奴らに囁いた事が、思わぬ引き金を引いたようだ。

 惟村の妊娠の事実に加え、警察が聞き込みに来るかもしれない事への恐怖。それは、自分達が犯した罪の深さを自覚することになったきっかけだったのだろう。

「被害者はもう亡くなっているし、今後どういった流れになるかは言えないけれど、二人とも学校にはいられないだろうな」

 園山は淡々と語った。その言葉の韻に込められた彼の意思に、加害者二人への同情は全く感じられなかった。

「二人にお願いがある。俺が話した事、オフレコで頼む。捜査内容を、それも非現実的な見解を交えて君らに言いましたなんて、上司にばれたら、俺の首、簡単に飛んじゃうんで」

 園山は泣きそうな表情で俺達に手を合わした。

 俺は思わず吹き出しそうになるのを我慢しながら頷いた。詩奈は我慢しきれなかったのか、表情を崩しながらかろうじて頷く。

園山は俺達の態度に安心したのか、ほっとした表情を浮かべた。

「じゃあ、私はこれで行くよ」

 園山は俺達に軽く会釈をした。

「あ、私、警察に出頭…」

 詩奈が思いつめた目で園山を見た。

「さっきも言ったけど、その必要は無いよ。

君は全く悪くない。それは私が保証する。だから思いつめない様にね」

 園山は当惑する詩奈に、にっこり微笑んだ。

「後で病院に寄って、君の友達にも、ちゃんと事の顛末を説明しておくけど、いいかな? ある程度言葉は選ぶけどね。じゃあ」

 園山は踵を返すと、山を下り始めた。

「有難うございました」

 詩奈は震える声で園山に礼を言うと、深々と頭を下げた。

 俺も慌てて彼に礼をする。

 彼は振り向くと軽く手を振り、そのまま山道を降りて行った。

 俺は、大きく息を吐いた。

 詩奈も張りつめていた気が緩んだのか、ほっとした表情を浮かべている。

「お疲れ様。有難う、よく頑張った」

 詩奈に声を掛ける。

 と、彼女は安どの笑みを浮かべながら俺の胸に顔を埋めた。

「私の方こそ。有難う、――さん。――さんがいなかったら、私、死んでたかもしれない」

「何言ってんだよ」

「だって、大塚の事、多分誰に言っても信じてくれなかったと思う。それに、髪の毛のゴム外して、おもちゃの剣であいつを驚かしたのも、まるでほのかに罪を着せようとしているみたいに取られてもおかしくないし」

 詩奈は泣いていた。

 体をぶるぶる震わせながら。

「――さんが、私の事、信じてくれたから、本当に嬉しかった」

「俺も嬉しかった。俺の能力を信じてくれたのは詩奈が最初だし」

「――さん」

「ん? 」

「もう少し、このままでいていいですか」

 詩奈は俺を見つめた。

 ほんのり頬を紅潮させながら、俺に厚い眼差しを向けていた。

「うん」

「有難う」

 俺が頷くと、詩奈は両手を俺の背にまわし、更に体を密着させた。

 俺も彼女をしっかり抱き寄せた。

 甘酸っぱい彼女の匂いが鼻孔をくすぐる。

 彼女の身体の柔らかな感触と温かみ、そして鼻孔を満たす匂いが、俺に底知れぬ安らぎを齎していた。

 観光客が来る気配はまだない。

 もうしばらく、このままでいよう。






「お待たせ」

 詩奈はぐったりした表情で車の助手席に乗り込んだ。

 某城址公園の駐車場。ゴールデンウイークの最中だが、最近続けざまに起きた事件とはやり病の影響で、例年ならば満車状態なのだが閑散としている。

「お疲れ」

 運転席の男が、彼女にいたわりの声を掛ける。

 園山だった。

「奴は信じたみたいだった? 」

「うん、大丈夫そう」

 詩奈はそう答えるとシートを倒した。

「まだ近くにいるのか? 」

「ん、帰ったよ。力を使い果たしたからこれから寝るって」

「力をねえ」

 園山は苦笑した。

「滅茶苦茶はったりよねえ」

 詩奈は愉快そうにけらけら笑った。

「だって、本当に過去を見る力があるんなら、楡村を殺したのも私だって分かるはずよね」

「大学生にもなって中二病患ってんだもんな」

 園山は苦笑を浮かべた。

「でもさ、要所要所当たってたのは怖かった」

「違う、あれは目撃されてたんだ。多分、あの時、頂上入り口の辺りで詩奈を見ていたんだろ。俺の姿は木が邪魔をして見えなかったみたいだけどな」

「じゃあなんで、あんな嘘ついったんだろ」

「詩奈をモノにしたかったんじゃないの? 」

「何それ、キモー! やだよあんなキモオタ。匂いに反応するってただの変態じゃん」

 詩奈は思いっきり顔を顰めた。

「詩奈に付きまとうようだったら、奴も消せばいい」

「そうね。それが安心。でも、あいつも馬鹿よね。貴方の言ったこと百パーセント信じてたよ」

「所詮中二病なんだよ。大体警察が一般人に情報流すかって。それもあんな馬鹿げた話をさ。監視カメラの映像もフェイクなのに、少しも疑わずに信じやがった。とことん馬鹿な奴だぜ」

「ほんと! 」

「でも大塚は何で詩奈を庇ったんだ? あの女を殺したところをがっつり見られたろ? 」 

「あいつ、私に気があったからね。私は相手にしなかったけどさ。それにあいつ、自分の為に私が惟村を殺したって思ってるみたいだったから。私はただ、大切な人にしつこく付き纏うストーカーを消しただけ」

 詩奈はシートを倒すと、ぐっと背伸びをした。胸筋がぐっと上に引っ張られ、小ぶりな乳房がつんと上を向く。

「確か大塚自身も惟村に脅されてたんだったよな? 妊娠したから中絶代よこせって」

 園山は強調された詩奈の胸をにやにや笑いながら見つめた。

「あの女、男にだらしないからさあ。格好は地味だけど素は美人だからもてるんだよね。ほんと、信じられないくらいヤリまくってるからね」。

「大塚も思ったよりメンタル弱かったな」

「うん。まさか付き添うから一緒に自首しようなんて言うとは思わなかった。ほのかに面と向かって惟村を殺したんだろ的な事を言われてから、急にきょどり始めたもの。どうせなら一人で自首して罪を全部かぶってくれたらよかったのに」

 詩奈は不満気に呟いた。

「ほのかにあの台詞を言わせたのは詩奈の入れ知恵だろ? 」

「まあね。あの娘、大塚に別れ話をするって言ったから、どんな反応するか試してみてよって言ってみたんだよね」

「何を期待してたんだ? 」

「分かってるくせに。あいつ、ショックで崖から飛び降りるんじゃないかって思ったんだけど、甘かったな」

 詩奈は苦笑を浮かべながらぺろっと舌を出した。

「おもちゃの剣もいまいちだったな。私、あれでびっくりして崖から落ちてくれるかって思ったのに。もし人に見られても、疑いがほのかに向くように、髪型も変えたのにさ」

 詩奈は忌々し気に台詞を吐き捨てた。

「まあな。あれ、一目でおもちゃって分かる代ものだから」

 ご機嫌ななめの詩奈の頭を、、園山は左手で慰めるようにやさしく愛撫した。

「大塚が怒って近付いてきた時、私、奴に殴られるかと思って、怖くてちびったよ」

 詩奈は顔を真っ赤にすると、ふくれっ面で園山に愚痴った。

「俺がすぐ後ろに隠れてたのにか? 詩奈も大胆に見えてビビりなんだな」

 園山は愉快そうにゲラゲラ笑った。

「大塚程じゃないもん」

 園山にからかわれ、詩奈は不満気につぶやいた。

「まあな、あいつ、俺が銃を見せた途端に一気に真っ青になって腰抜かしやがったもんな。おまけにいきなり匍匐後退し始めて、そのまま崖から落ちたのは笑った」

「うん、笑った。あの匍匐後退、超速かったし。ちょっとかわいそうだったけど」

「まあ大塚もいい思いしたんだしな」

「でも、あいつの子じゃなかったんだよね?」

「ああ」

「惟村も誰とヤッて出来た子かわかんないみたいだったしね。気に入った男がいると片っ端から手を出すから。でもあの女、馬鹿だよね、よりによって私に相談してきたし。後輩の私に! それもストーカーしてる男の彼女にさ」

「詩奈だって言えんだろ。姉の彼氏奪っておいて」

 園山は眼を細めながら詩奈をたしなめた。

「よく言うわよ。ちょっかい出してきたのあなたの方じゃんか」

 ふくれっ面の詩奈だったが、目は笑っている。まんざらでもないようだ。

「お姉さん、どうしてる? 」

 園山は遠くを見るような目で詩奈に言った。

「知らん。あれから家出て音信不通。私に男取られたのがショックだったみたい。私にしてはざまみろって感じだけど。あいつ、ちょっと頭いいからって、私の事いつも見下してたから」

「そっか」

「ひょっとして、姉ちゃんに未練あるの? 」

 詩奈が疑い深い目つきで園山を見た。

「ある訳ないだろ」

 園山は憮然とした面相で詩奈を睨みつけると詩奈の唇に吸い付いた。

「ここでするの? 」

 詩奈が潤んだ瞳で園山を見つめた。ほんのり上気した頬が、これから味わう快楽の時にうち震えている。

「大塚と惟村に見せつけてやろうぜ」

 園山は左手で詩奈の乳房を服の上から乱暴に鷲掴みにした。

「あっ、やさしくしてよっ」

 文句を言う詩奈の唇を園山は再び唇でふさぐと、右手でデニムのファスナーをゆっくり下げ始めた。

 不意に、何者かが運転席側の窓をノックした。

「きゃっ! 」

「誰だ? 」

 二人は慌てて上体を起こすとリアウインドーを凝視する。






「どうしたんだ? 」

 園山が声を荒げながら俺を睨みつけた。助手席の詩奈は慌てて降ろされたファスナーを上に上げる。

「園山さんこそどうしたんですか? 」

 俺はあくまでも冷静にすっとぼけた口調で答えた。

「どうしたって…その…彼女が具合が悪いからって言うんで、介抱してるんだ」

「え、でも、詩奈は確か俺と一緒に家に帰ったよね? 」

「忘れ物して、取りに来たんだけど、日射病になっちゃって車の中で休ませてもらったの」

 詩奈は図太いな、ほんと。しどろもどろになってあたふたしている園山とは対照的に最もらしい言い訳を引っ張り出しやがった。

「そ、そう言う事だ。君こそどうしたんだ? 疲れ切って帰ったんじゃないのか? 」

 詩奈の助け舟で、再びマウントを取り始めた園山。いと哀れ。

「へええ。日射病になったらキスして乳揉んでズボンのファスナー下げるのか。今度試してみるわ――痛っ! 」

 不意に右頬に痛みを感じる。見るとほのかがちょいおこ顔で俺の頬を引っ張っていた。

 白いブラウスにチェックのスカート。今日は学校の制服で来たのか。

「誰で試すつもりなの?」

「ごめんなさいいい」

 取りあえずの謝罪で俺は激痛から解放された。

「ほのか、どうして? 入院してるんじゃあ…」

 詩奈が驚きの表情で俺達を見ている。

「入院? ちょっとお昼寝させてもらっただけよ。その方が私も裏で動きやすかったし」

「えっ? じゃあ睡眠薬飲んだってのは? 」

 詩奈が怪訝そうに顔を歪める。

「嘘でええす。父親があそこの病院の先生とは知り合いなんで、頼み込んで一芝居うって貰ったの! 」

 ほのかはそういうと、べえっと舌を突き出した。

「園山さん、やばいっすよ。刑事の身で未成年に淫行なんて」

 俺はニマニマ笑みを浮かべながら、園山を見据えた。

「何を証拠に、そんな」

「全て隠し撮りしています。音声も動画も。皆さんが山登りをしている最中に、この車に色々仕掛けさせてもらいましたあ。勿論、生実況で警察の方にも連絡済み。つまり淫行だけじゃなく、殺人についての供述もね」

 ほのかは得意げに口上を述べると、両手を腰に添えて大威張りのポーズを披露した。

「貴様、最初から…」

 園山はかっと見開いた眼で俺を睨みつけた。

「はい。さようで。園山さんも詩奈から聞いてご存じでしょ? 俺の力を。申し訳ないけど、全てお見通しです。俺が見た映像と詩奈の言った内容が矛盾満載だったんで、どう出るかなってわざと泳がしていたんだ。それに、詩奈が俺に話してくれた証言にも矛盾があった。大塚と惟村が駐車場で言い争っていたって言ってたけど、最初に聞いた時には車の中で会話してたから何も聞こえなかったって言ってたし」

 詩奈は悔しそうにぎりっと歯を噛みしめた。

 そもそも、頂上で映像を垣間見た時も、惟村が殺害された現場で映像を垣間見た時も、登場人物の動きが? な点が多く、少し泳がしてみる事にしたのだ。たまたま警察から捜査協力の依頼を受けていた別件と、今回の案件の舞台がほのかの通う高校の同級生が絡んでいたので、周囲に悟られない様、捜査は隠密に進められていた。だから、人前でほのかと接触する際は、あえて他人を装う事にしたのだ。

 ちな、ほのかとは、この件よりもずっと昔からの付き合いだ。霊視や御祓いの出来るほのかと過去感知能力者の俺がタッグを組み、今迄にも何回か警察の要請で捜査協力している。本業は学生なので、あくまでもアルバイト的なものでしかないが。

 次第に、遠くから複数のサイレンが近付いて来る。

「なるべく静かに来てくれって言ったんだけどな」

 俺は苦笑を浮かべた。

「牟田のおじさん、派手に登場するのが好きだから、そりゃあ無理だわ」

 ほのかは腕組みすると、うんうん頷きながら一人納得している。

 まあ、確かに。牟田のおっさん、ウエストな警察ドラマ見て育った世代だから超派手好きだからな。

「牟田さんと知り合いなのか? 」

「うん、長い付き合いになるな」

 俺はにんまりと園山を見た。

「園山さん、悪いけどあんたマークされてなの気づかなかったの? 事件がらみで関わった女性被害者に優しい声掛けては手を出すとんでもない糞野郎がいるって、内偵入ってたんだよ? 超ベテランの牟田さんが、若造のあんたと組む事自体妙だと思わなかったの?

ひょっとして自分は出来る奴だからって思ってた? 思い上がりも甚だし過ぎるわよ、この×××の××××野郎っ! 」

 ほのかは放送コードに引っ掛かるアウリーな言葉の乱発で容赦なく園山を攻めたてる。 

 清楚で大人しい容貌の彼女からは、決して想像がつかない超ドSな言動に、相棒の俺ですらちょっとひくものがあった。

「誤解だ…」

 園山が涙目で弱々しく抗議する。

「惟村さんと知り合ったのも、詩奈のお姉さんのストーカー案件からだったんだよね。詩奈のお姉さんに付き添って警察に相談に来た惟村さんが、まさかあなたのストーカーになるとは思わなかったろうけど」

 ほのかに痛い所を突かれたのか、園山は苦虫を噛み潰したような顔で押し黙った。

「車出してっ! 早く逃げるのっ! 」

 詩奈が半狂乱になりながら喚き散らした。

「わ、分かってる…けど…体が動…かない」

 園山が顔を真っ青にして声を絞り出した。

「そんなあっ! ならいいっ! 私だけでも…」

 詩奈はドアに手を掛けようと――だが、腕は全く動かず、体も小刻みに震えるだけで彼女の指示を完璧にシャットアウトしていた。

「体が動かない! どうして? 」

 詩奈は驚愕に表情を歪めた。

「無理無理。金縛りってやつよ。園山さんには大塚君が、詩奈には惟村さんが馬乗りになって押さえつけているもの」

 ほのかが静かに言葉を綴った。

「いっ!」 

 園山はぎょっとした表情で自分の腹の上を見た。勿論、常人の奴に見える訳はない。

「わーん、ごめんなさいっ! ごめんなさいっ!、ごめんなさいっ! 」

 詩奈にも見えていないはずだが、彼女はひたすら謝り続けていた。

 とは言え、残念ながら俺もそっちのスペックは持ち合わせていないので見る事は出来ない。何となく、『あ、何かいる』位の感覚でしかないのだ。すまぬ。

「おい…これ…催眠…術…だろ…フェア…じゃない…解けよ…」

 園山が無理矢理唇を引き剥がしながら言葉を綴る。

「解けって言われても、お前らにのっかってるお二人のご意見を伺わないと」 

 ほのかは眉を潜め乍ら、申し訳なさそうに園山に答えた。

「何…言って…やがる…幽霊なんて…いやしねえ」

 園山が驚きの発言。めっちゃ矛盾してるぞ。頂上で俺には惟村の霊が大塚の足引っ張ってっ崖から落としたって真顔で言ってたじゃねえかよ。

「じゃあ、見せてあげるよ」

 ほのかがしれっと言い放つ。

 次の瞬間、詩奈と園山の腹の上に、半透明の影が現れた。

 惟村と大塚だ。二人は真っ赤な気を纏いながら、それぞれ詩奈と園山の上に乗り、身を乗り出して両肩を抑え込んでいる。

「いひいいいい―――――」

 詩奈が声にならない絶叫を上げた。

 彼女のデニムパンツの股間に黒々と染みが浮かび上がる。

「これは…まやかし…だ…また…催眠術…掛けやがって…」

 憤怒の表情で見下ろす大塚の顔を見据えながら、園山はぶつぶつと呟き続けた。

 こいつの精神力、ある意味ぱねえかも。

 俺達の背後を赤色灯をまわしたパトカーやら覆面パトカーやらが続々と集結して来る。

 流石にもう逃げられないだろ。

「ほのか、腹上の二人の姿、また見えんくしてくれる? このままじゃ大騒ぎになりかねん。それに金縛りももう解いてもらってよいって二人に言ってよ。こいつらにもう、逃げ場はない」

「ん、分かった」

 俺の声にほのかが頷く。

 途端に、大塚と惟村の姿が視界から消える。

 金縛りも解けたのだろう。園山と詩奈はぐったりとした表情でシートに身を委ねていた。

漸く自由の身になったものの、周囲を警察車両に囲まれては、二人にはもう為す術はない。

「遅くなって済まない」

 俺達の背後に横付けした白いセダンからスーツ姿の中年親父が下りて来る。

 牟田刑事だ。

「牟田さん、聞いてくれっ! 誤解だ」

 園山は車から降りると、この場に及んで取り乱したように牟田に釈明し始めた。

「女子大生を殺したのはあの女だ。高校生は勝手に崖から飛び降りたんだ。俺は何もやったいないっ! 」

「そんな。何よそれっ? 私に全部罪をかぶせる気? 」  

 詩奈がヒステリックな声で園山を罵った。

「園山、お前には別件でも殺人でも逮捕状が出ている。久世香那実さん殺害容疑でな」

 牟田は能面のような表情で、園山をじっと見据えた。

 園山の顔からさっと血の気が引く。

「見つかったんですか」

 俺は牟田を見た。

 元々今回の事件の前に、俺とほのかが彼の依頼を受けて捜査した案件だった。警察の捜査で真っ先に園山が容疑者リストに浮上したものの、物理的な証拠が無く、捜査が難攻していたのだ。

 更に追加で受けた事案が今回の事件で、本来ならオーバーワークになるのでお断りするのだが、俺自身個人的に動いていた案件だったし、偶然にも関わる登場人物が重複していたので引き受けたのだ。

「君達の助言通り、御遺体はここの近くの採石場跡で見つかったよ。携帯も近くの山林に捨てられていた。園山、ラインのやり取りがしっかり残っていたぞ。おまえが彼女と会う約束をしたところで、会話は終わっていたよ。これから署で詳しく話を聞かせてもらおうか」

 牟田は園山に鋭い眼光を注いだ。いくつもの経験によって培われた彼の眼は、捉えたターゲットの虚偽を簡単に見抜く洞察力を宿している。

 園山も、それを十分過ぎる程自覚していた。

 牟田の威圧感とずば抜けた観察眼の前では誤魔化しは効かない――彼に関わった被疑者の誰もが口にする戦慄を、園山はたった今実感していた。

 不意に、園山はほのかを羽交い絞めにすると、銃を彼女のこめかみに押し当てた。

「動くなっ! 動いたらこいつの命は無いぜ」

「園山、諦めろ。あんたに逃げ婆ない」

 俺は奴を見据えた。が、奴は眼を吊り上げながらせせら笑うと、銃のトリガーに指を掛ける。

「牟田さん、パトカーをどかしてもらえないかな」

「園山! 」

 牟田は忌々し気に園山を睨みつけると、他の刑事に目配せした。

 園山の顔が強張る。

 数秒前までの勝ち誇っていた奴が、一転して負のどん底に叩き落されたかの様な怯えた

表情に変わっていた。

 銃を握りしめた園山の手が、ゆっくりと動く。銃口は徐々にほのかのこめかみから離れていく。

 不意に、園山の手首があらぬ方向に捻じ曲げられた。

 奴は情けない悲鳴を上げると、銃を地面に落とした。

 ほのかはその隙に園山から離れると、俺の身体にしがみついた。

 同時に、警官達が奴に飛び交かり、一斉確保――のはずだった。

 警官達は微動だにせず、園山を凝視している。

 見えているのは、俺とほのかだけじゃない。

 警官達にも見えているのだ。

 園山の背後に立ち、奴を押さえつけている大塚の姿が。

 園山の車の助手席から、詩奈が飛び出してくる。

 園山を見捨てて山に逃げ込むつもりか。

 否、違った。

 彼女は園山が落とした銃を拾い上げると、銃口を彼に向けた

「よくもお姉ちゃんをっ! 」

 詩奈が悲痛な叫び声を上げる。

「しいちゃん、やめてっ!」

 ほのかの悲痛な叫びが響き渡る。だが、怒りに支配され、修羅と化した詩奈の耳には届かない。

「殺してやるっ! 」

 詩奈はトリガーに指を掛けた。

 が、彼女の指はそこで止まった。

 長い髪の女性が、彼女を背後から抱きしめていた。

 歳は詩奈と同じ位か。詩奈に似た、彼女を若干大人っぽくしたような顔立ちをしている。

 かっと見開いた詩奈の両眼が震えている。

 恐怖ではない。

 驚きと悲しみが、修羅に支配された彼女の心を、急速に解き放っていく。

「お姉ちゃん…」

 詩奈の瞳が小刻みに揺らめくと、大粒の涙が流れ落ちた。

 細く、しなやかな指が、詩奈の手から銃を奪う。

 惟村だった。

 彼女は詩奈の手から銃を取り上げると、ゆっくりと俺に近付いて来る。

 惟村は俺の前に立つと、そっと銃を差し出した。

 俺はポケットからハンカチを取り出すと、彼女から銃を受け取った。

「ありがとう…でも、ごめんな。君を守ってやれなくて」

 俺は表情を曇らせながら、彼女に頭を下げた。

 申し訳ないと思った。

 近付いたのも、彼女がターゲットの園山をストーカーしていたと聞き、何か新たな情報を手に入れられないかと思ったからだ。

 偶然にも大学が同じで、おまけに学部学科までもが同じだったが、なかなか進展が無かったので、共通のバイト先に飛び込んで交流を深めたのだ。

 だが結局、あの時垣間見た映像の生々しさに耐え切れず、俺の方からシャットアウトしてしまったのだった。あの時の映像には、園山の姿も無かったし、関連性はないものと思っていた。

 あのまま、彼女との距離を保っていれば、彼女は死なずに済んだかもしれない。

 後悔の念は、あれからずっと俺を苛み続けていた。


 ありがとう。


 惟村の声が、俺の脳裏に優しい音色を書きしたためた。

 その安らいだ旋律に背中を押されて、俺はゆっくりと顔を上げた。

 惟村は微笑を浮かべていた。

 彼女の優しい気な瞳が、俺を見つめていた。

 

  私達、行くね。


 惟村は、俺達に深々とお辞儀をすると、消えた。同時に、大塚と詩奈の姉も掻き消すように姿を消した。

「しいちゃん、惟村先輩が何故、園山のストーカーをしていたか知ってる? 」

 ほのかが落ち着いた声で詩奈に語り掛ける。

 詩奈は黙って首を横に振った。

「あなたのお姉さんを探すためよ。お姉さんがいなくなった時、惟村さんは園山に何回か連絡を取ったんだけど、かなり冷たくあしらわれたみたい。それどころか、お姉さんが園山をストーキングしてたとか酷い事言ったらしいよ。納得いかなかった惟村さんは園山が何か知ってると思って、それで付き纏う様になったの」

 ほのかは泣きながら諭すように詩奈に語り掛けた。

 声が、震えていた。

 爆発寸前の怒りの感情をめいっぱい抑えながら言葉を紡いでいるのがひしひしと伝わって来る。

「それと、言い難い話なんだけど、園山が何故お姉さんを殺したのか分かる? お姉さん、妊娠してたの。園山の子を。お姉さん、その事を園山に相談したみたいなんだけど、彼は事件の被害者に手を出した事がばれると立場が悪くなるって思ったんでしょうね。それで、最悪の方法を選んだのよ」

 詩奈は項垂れたまま、じっとほのかの声に耳を傾けていた。

 睨みつけたり、悪態をつく様な素振りは無く、さっきまでの虚勢をはる姿は痕跡すら残ってはいない。

 呆然としたまま座り込む園山に数人の刑事が駆け寄る。泣きじゃくる詩奈には女性の警官が二人寄り添い、支える様に連行した。

「牟田さん、お願いします」

「ああ」

 牟田は手袋を両手に着用すると、俺の手から銃を受け取った。

「牟田さんはあんまり驚いてないですね」

「もう慣れたよ。君達と付き合っていれば、こんな事日常茶飯事だからな」

 牟田はいかつい顔をほころばせながら苦笑を浮かべた。

 彼の台詞が真実である事を、俺は目の当たりにしている。

大塚の霊達が園山と詩奈を取り押さえた時、恐怖と驚愕に拘束された他の警官達と違い、彼は冷静に状況を捕捉していた。

 詩奈の手から銃が離れた瞬間、彼は臆することなく園山と詩奈を捕獲するよう指示を出している。

 他の刑事達のスタートが遅れたのは、彼ららがこの現象に不慣れだったためだろう。   

牟田もそう認識しているようで、部下達を叱責する素振りは見せていない。

 牟田は惟村と大塚の献花台に手を合わせた。

 深く刻まれた彼の額の皺には、無念の死を遂げた彼らへの慈しみの情が込められているような気がした。

 彼は徐に振り向くと、俺達に頭を下げた。

「二人とも、有難う。ここからは俺達の仕事だ。後は任せてくれ。また何かあったら連絡する」

 牟田はそう言うと、足早に部下が待つ車に乗り込んだ。

無数のパトカーが車列を組んで静かに駐車場を後にする。

 のどかな観光地の駐車場に、再び静寂が戻った。

「で、いつまで抱き着いてんの? 」

 両腕を俺の体に巻き付けて、ずっとしがみついているほのかに声を掛ける。

「怖かったんだもん」

 ほのかは俯いたままぽつりと呟いた。

 俺としては喜ばしい。

 小柄な割には成長した胸のふくらみをぐいぐい押し付けて来るのだから、らっきいスケベ的な至福召喚現在進行形だった。

「やべえ悪霊と対峙しても動じないのに」

「生きてる人間で切れた奴の方がマジやばす」

 彼女の言葉はリアルな真実味を孕んでいた。

 その証拠に、ほのかの身体はいまだに小刻みに震えている。

 確かに、その通りかもしれない。

「ひょっとして、怖くてちびった? 」

「ません! 」

 ほのかは顔を真っ赤にすると唇をへの字に曲げた。

 図星のようだ。まあ、追及はしないでおこう。

「あ、お母さんが仕事が片付いたらうちによれってさ。ご飯食べさせてくれるって」

 ほのかはむくれながら目線を外すと俺から離れた。

「あ、ありがとう。行く行く」

 柔らかな感触の余韻に浸りながら、そそくさと自転車に向かうほのかの後を追い掛ける。

「ほのか、スカートを尻の下に巻き込まないと捲れるぞ」

 無防備にスカートをひらひらさせながらサドルにまたがったほのかに、俺は老婆心で忠告した。

「いいの、この方が乾くから」

 意味深な台詞を残して自転車で立ち去るほのかの後を、俺は慌てて追いかけた。

 突然の神風を期待しながら。


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残香の記憶 しろめしめじ @shiromeshimeji

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