博士と私の読書感想文通

四条藍

第1話

 その本には運命が眠っている。


 図書室の入り口から反対側、誰が読むのかも分からない分厚い辞書で固められた本棚の一番右下。誰にも気付かれないようにこっそりとそこへ視線を向けながら、月に一度の図書委員会の集会が終わるのを心待ちにする。

 私──雪代栞菜ゆきしろかんなが通う中学校は図書室に相当の力を入れている。まるで図書館みたいに大きくて、蔵書の数も多い。

 図書室司書である先生はとても優しくて気軽に入ることができると評判で、その規模から学校紹介でも一番にアピールされているレベルだ。


「私からの話は以上です。それでは、本日の集会を終わります」


 先生による締めの挨拶が終わり、委員会のメンバーが帰る準備をする中、私は急いで視線の先へと向かう。

 周りにばれないように素早く、かつ慎重に。

 さっとしゃがみこんでその本に手を伸ばす。分厚い辞書を抜いたその奥側。他の誰にも見つからないように隠された古びた小さな本。

 スカートのポケットに忍ばせた一枚の紙切れを差し込んで、代わりに最後のページに挟まれた紙切れを抜き取る。

 そして、何事もなかったかのように退出するメンバーの輪の中に潜り込んだ。

 ミッションクリア。これで今日もあの人とお話をすることができる。

 抜き取った紙切れをポケットに大切にしまい込みながら、私は溢れ出す高揚感を抑えられずにいた。


 §


 その本を見つけたのは、私が二年生になる少し前の頃だった。

 図書委員の仕事で本棚の整理をしていた私は、偶然にも辞書の奥に眠る小柄な本の存在に気が付いたのだ。

 初めは誰かがしまう場所を間違えているのかと思った。


「ん? なにこれ?」


 パラパラとページを捲っていると、一枚の紙切れが床に落ちた。不思議に思って拾ってみると、そこにはこんな文章が記されていた。


 ≪この手紙を見つけた君へ。

 これを見つけた君はよほどの本好きだと思う。そんな君に一つお願いがある。

 僕は本が好きだ。この学校にいる生徒の中で一番と言っても過言ではないと自負している。

 だけど、周りに本の感想を伝え合えるような人がいないんだ。それがとても残念でしかたがない。

 だから、本について語り合える友達が欲しいと思ってこの手紙を書いたんだ。

 もし君が僕と友達になってくれるなら、返事をくれると嬉しいな≫


 その文字はお世辞にはきれいとは言えないもので、内容も突拍子もないものだった。


「手紙……なのかな?」


 文体はどこか子供のような幼さを感じさせるもので、『僕』と書いてあることから著者は男の子だと思う。

 それを目にした私は、瞳をキラキラと輝かせた。

 だって、本の中に手紙が隠されているなんて、映画のような物語でしか見たことがない。

 それに私も本が好きだけど、クラスメイトや友達と感想を言い合ったりするようなことはなかった。私もそんな会話ができる友人に憧れていたのだ。


 ≪初めまして。

 私も本が好きで、でも読んだ本について語り合えるような友達がいなくて残念だと思っていました。

 そんなときにこれを見つけたのです。

 大袈裟に言うと、私は運命のようなものを感じました。なんて言ってしまうのは、浮かれすぎかもしれませんね。

 偶然でも、運命でもどちらでも構いません。

 あなたとお友達になりたいです≫


 その日の内に返事の手紙を書いた私は、他の誰にも見つからないように大きな辞書で隠して棚に戻した。

 日付も名前も書いてなかったから、この手紙がいつ書かれたものなのかは分からない。

 もしかしたら既に卒業してしまっていて、返事は返ってこないかもしれない。

 そう思っていた数週間後のことだった。


 ≪初めまして。

 まさか、本当に返事があるとは思っていませんでした。

 本が好きな方に見つけてもらえて、感激の極みです。

 よろしければ、私もあなたとお友達になれたらと存じます。

 この手紙にも返事をいただけるかは定かではありませんが、首を長くしてお待ちしております≫


 手紙の返事が来ていたことに驚いた私は、嬉しくて泣きそうになってしまった。

 涙を抑えながら文字をじっくりと舐めるように目で追う。

 初めの手紙とは違って一人称が『僕』から『私』に変わっていて、男の子か女の子かが分からない。きれいな文字と丁寧な文調からは著者の落ち着きを感じさせる。

 もしかしたら別の人が書いたのだろうか。でも、返事があるとは思っていなかったと記されている以上、同じ人なのだろうか。

 どっちでもいい。そんなことが気にならないくらい、私は胸を躍らせていた。

 弾む気持ちを抑えることができずに、すぐに私は返事を書き綴る。

 その日から今日までの二年近く、私は顔も声も性別も、増してや名前すら知らない人と秘密の文通を続けている。


 §


 学校から家に帰って部屋の鍵を閉める。制服から着替えもせずに手紙をベッドの上に広げた。


 ≪感動しました。

 あなたがお勧めしてくれた冒険小説を読了しました。

 これほどまでに感情を揺さぶられたのは久しぶりです。

 時間ができたら続編も読み進めていこうかと思います≫


 私の好きな小説を読んでくれて、感想まで書いてくれる。それが本好きにとってはたまらなく嬉しかった。

 手紙の送り合いは月曜~水曜日に私が、木曜日~金曜日にが入れることになっていた。

 博士というのは私が付けた手紙用の呼び名のようなものだ。

 その理由は博士の本の知識が私とは比べ物にならないくらい豊富だったから。私の何倍も博識で、私が知らない難しい本を何冊も知っていた。その中からおすすめしてくれた本は私に新しい世界を教えてくれた。

 反対に博士は私が好んで読む少女向けのミステリー小説や恋愛小説には疎かった。

 お互いの嗜好が異なっていたからこそ、お互いに知らない本をおすすめし合える楽しみが出来上がっていた。


 ≪読んでもらえて嬉しいです!

 私も初めて読んだときはもう手に汗握っちゃって。

 興奮して眠れなかったんです。

 それに──≫


 すぐに返事を書きながら頭の中で博士のイメージを思い浮かべる。

 博士について分かっているのは私と同じ三年生であること。

 本人から聞いたわけじゃないけど、一年生の頃から文通をしていて私が三年生になった今もそれが続いているのだから、これは間違いないと思う。

 どこか大人のような雰囲気で、性別は今でも分からない。知的で落ち着きのある男の子かもしれないし、清らかで可憐な女の子かもしれない。

 それが分からないからこそ、博士への憧れは徐々に高まる一方だった。

 お互いについて無暗に詮索しないことが暗黙の了解になっているけど、本当はもっと博士のことが知りたかった。

 物思いに耽りながらスクラップブックを捲る。何十枚にも上る今までの博士とのやり取りがそこには詰まっていた。

 一枚一枚、ゆっくりと読み返す。

 博士は私のことを『あなた』と呼ぶ。私が呼び名を付けたので博士にも付けてほしかったのに、恥ずかしいからこのままで、なんて言うものだから何だか可笑しくて笑っちゃったんだっけ。

 それらはまるで心の奥に大切にしまっていた宝箱を見せ合うかのような時間で、気付けば四六時中、博士のことを考えている自分がいた。


 顔も、声も、本当の名前も、何も知らないことばかりだけど。

 会ってみたい。顔を合わせたい。隣に並んで、一緒に本を読んで、一緒にお話しして、優しく微笑むその笑顔が見たい。


 手紙の向こうにいるあなたに、きっと私は恋をしている。


 来年にはもう卒業してしまうから、文通だけの関係はもうすぐ終わってしまう。

 誰にも言えないこの想いを、二人だけの秘密を、ここで終わらせたくない。

 だから、私はもう一枚の手紙に単刀直入に綴った。


 ≪一度会ってお話がしたいです。お返事、お待ちしています≫


 博士も私と同じ気持ちであると、そう信じて。


 §


 ≪ごめんなさい。

 私に会ったら、あなたはきっとがっかりしてしまうでしょう。

 だから、もうここで全部終わりにした方がいいと思います。

 あなたと交わした時間は本当に夢のようでした。

 今までありがとうございました≫


 翌週の月曜日、待ちに待った博士からの手紙には確かにそう書いてあった。

 突然告げられた別れ。博士は会えないという返事だけでなく、私との文通も終わらせようとしていた。

 期待に胸を躍らせていた私は、その手紙を読んで放心して立ち尽くした。

 自室のベッドに頭からダイブしてうつ伏せになりながら、瞳から溢れ出る涙を拭うこともしなかった。


(どうして? 私が、文通だけの関係であり続けるという暗黙の了解を、壊してしまったから?)


 本当のことは分からない。知りたくても、直接聞くことはできないのだから。

 でも、本当にそうなのだととしても──


「……書かなきゃ」


 落ち込んで諦めている場合じゃない。私が返事を書かなかったら、せっかく友達になれた博士との関係が本当にここで終わってしまう。

 会えないのなら会えないで構わない。でも、文通は続けたいと、そう願って。

 翌日、微かな希望を抱いて手紙を片隅の本に差し込んだ。


 一週間、返事はない。

 二週間、変化なし。

 三週間……。


 あれから一月が経っても、返事が来ることはなかった。

 もう諦めた方がいいと分かっていながらも、図書室の長机に座ってぼーっとその一点を見つめる。遠目で見たら何の変哲もない本棚の片隅に、私はいつまでも心を奪われていた。


「……何でこの本だったんだろう」


 ふと思い立ってその本を手に取る。何度も見た表紙。そのはずなのに、私はその本をちゃんと読んだことがなかった。


 「でも、もう手紙は来ないのなら、最後くらいしっかり読んでもいいよね」


 時間をかけてゆっくりと、今までを思い返すように読み進める。

 それは本に隠した手紙で秘密の文通をするというお話で、すぐに私たちが今まで行ってきたことと同じ内容であると気が付いた。

 きっと博士はこれを読んで、同じようなことをしたいと思ったに違いない。

 大人っぽいイメージだったけど、案外子供っぽいところもあったんだ。


「子供っぽい……?」


 そのフレーズに、何かが引っ掛かった。

 そうだ、初めてのあの手紙。あのときも子供のような幼さを感じた。

 あれは本当に博士と同じ人物だったのだろうか。


「もしかして……」


 運命だと舞い上がって気にしてなかったけど、もしそうだとしたら──。


 §


 その本を読み終えた頃には、窓の外は黄昏に染まっていた。

 生徒はほとんどが下校していて、放課後の図書室にいるのは私ともう一人だけ。


「雪代さん、もうすぐ下校時間ですよ」


 声を掛けてきたのは図書室司書の先生だった。

 優しいと評判で、この図書室を管理している人物。


「分かりました。でもその前に、一つお聞きしてもいいですか?」

「はい、なんでしょうか?」


 その透き通るようなきれいな声に、私は一つの問いを返した。


「先生って、もしかしてこの学校の卒業生ですか?」

「……えぇ、そうですよ。よく知ってましたね」

「いえ、知りませんでした。でも、これで分かりました」


 返事の前の不自然な小さな間。それが私の求める答えが確かなものであると実感させるには十分だった。


「先生が博士だったんですね」


 じっとその目を見つめる。先生は驚いた表情で私を見つめ返していた。


「……どうして分かったんですか?」

「あの手紙、初めとそれ以降で一人称と文体が変わっているんです。『僕』から『私』に、字もきれいになっています」


 今までに受け取った手紙を思い返す。あの一枚だけが、他とは明らかに違っていたのだから。


「初めは別の人が書いたのかもしれないと思ってました。でも、その人は返事があったことに驚いていたんです。だとしたら同じ人かもしれない、そう考えたときに、もう一つの別の可能性を思い付いたんです」

「……」


 先生──博士は途中で口を挟むことなく私の話に耳を傾けていた。文字ではなく声での会話。それは初めてのはずなのに、どこか懐かしい気持ちもあった。


「初めの手紙と、次の手紙では書いてる人物のんじゃないかって。もしも、先生がここの卒業生で、在学中に書いていた手紙なら辻褄が合うんです」


 私の推理を聞き終わった博士はどこか嬉しそうに微笑んだ。その不意な悪戯な笑みにドキッとする。


「それだけなら、私以外にも候補がいるのでは?」

「……先に謝っておきますね。ごめんなさい。実は私、手紙の向こうの人が気になって、一週間ほど見張っていた時期があったんです。でも、下校時間まで粘っても、その人は現れませんでした。不思議に思ってたんです。博士は一体いつ手紙を入れてるんだろうって」


 開館時間の全てを見ていたわけではないので、見逃している可能性も十分にあった。あのときはそう思って納得していたけど、今ならそうではないと分かる。


「お見事です。ミステリー好きのらしい洞察力ですね。あれは私が図書室を閉める直前に入れていました」


 博士はふっと笑って長机の椅子に座り込んだ。私も向かい合うようにその対面に腰を掛ける。


「もしかして、手紙に返事があるか調べるために図書室の先生になったんですか?」

「いえいえ、違いますよ。もう10年も前のことですから。この学校の先生になるまで手紙のことはすっかり忘れていました。でも、赴任してからふと思い出して、本を探してみたら手紙の返事があったのです。しかも、それがまだ在学中の生徒だと分かってつい文通を続けてしまいました。あまりよくないことだとは分かっていました。教師と生徒が隠れて文通をしているなんて。でも、中学生の頃の夢が叶ったような気がして……」


 博士は申し訳なさそうに頭を下げた。


「なんで手紙くれなくなったんですか……?」


 泣きそうになりながら必死に問いかける。それは私が今一番聞きたかったことだった。


「そうですね……あなたは同世代の友達と文通しているつもりだったはずです。でもそれが10歳も離れた先生だったなんて知ったら、失望させてしまうでしょうから。もうこれ以上はよくないと思ったんです」

「そんなこと、ないですよ!」


 図書館ではお静かに。私がいつも言っていたその言葉を今だけは忘れて叫ぶ。


「手紙の向こうにはどんな人がいるんだろうってずっと思ってました。私なんかよりもずっと読書家で、大人っぽくて、いろんなことを知っていて、いろんな話を教えてくれて。そんな博士は、私の憧れなんです。だから──」


 これからも続けたい。だって、せっかく友達になれたのだから。


「これからも、私と文通仲間でいてくれませんか?」

「……いいんですか? こんな私とでも?」

「博士だからいいんです。10年前の博士の夢を、私が一緒に叶えたいんです」


 博士は考え込むように顎に手を当て、しばらくして私を見つめた。


「あなたがそう言ってくれるのなら、私の夢の続きを見せてもらってもいいですか?」

「ええ、もちろんです」


 私は博士にその本を手渡す。博士は少年のように朗らかに笑いながらそれをぎゅっと抱きしめた。


 こうして、私たちの関係は手紙を通して続いていく。

 今はまだ誰にも秘密の文通相手だけど。


 この手紙が恋文に変わるその時まで。


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