2話・安喰ニイナ【サンプル】
その建物は半分が海に浸かっていた。
一目見た人は誰もが要塞だと思うだろう。然し、本来は研究所である。二〇一四年に設立した国立
同期十数名と共にワゴンから降りた時、潮の香りがしないことに気が付いた。この建物から半径十五㌔以内の地域は、水質汚染の名目で立ち入り禁止となっている。波の音に違和感を覚え、砂浜の先、波打ち際に目を凝らしてみた。鈍く押し寄せるのはゲル状の海水だった。重たい音を立てる波は、ゲルの残滓を引きずってまた海へと戻っていく。波打ち際に砂は少しも残っておらず、波の届く範囲と砂浜とが、線を引いたように断絶していた。
ゲルの海水に閉じ込められた小さなカニが絶命していた。死の海、という言葉が頭に思い浮かんだ。
不意にプロテクターに包まれた腕をつつかれる。施設の責任者らしい人間と引率の教官が施設の中へと連れ立って歩いていき、同期もそれに続いていくのが見えたので、慌ててその背中を追いかけた。
連絡用の通路から施設内へ入れば、重々しい音を立てて大きなシャッターが開き、五台のトラックが施設の中へと入っていく。あの中は荷台が改造されており、簡易的なコンテナホテルとなっている。子供であれば一台につき四人は移送できるはずだ。
ということは、最大二十人の頭頂漏患者が今ほど運ばれてきたのだろう。
教育機関とは名ばかりで、実質は頭頂漏患者である児童を一般社会から隔離するために開校した国立頭頂漏研究センターの収容施設「関東医科大学校附属
頭頂漏患者を奪い合うようにして漏研と対立していた「社会福祉法人
当初、児童を閉じ込めることへの批判が相次ぎ人権団体が最初に声を上げた。その一つが聖水津の会だ。さらには、海や河川への悪水の流出で汚染されたことにより環境保護団体が政府と漏研に対して意見書を何度も提出し、反出生主義を掲げるカルト団体の大規模デモ、その団体から派生した人類滅亡シナリオを謳う陰謀論者……。まさに世紀末と言うに相応しい世情となり、各方面からしつこく襲撃を受ける漏研は私設警備隊を設立し、各施設に派遣することで自ら治安と安全を維持する羽目になった。
「この国の火薬庫ですよ、中央漏研は」
前を歩く一団の声が聞こえる。施設責任者の自嘲じみた言に、教官は曖昧な頷きを以って返した。
──火薬庫。
その言葉を反芻してみる。ほんの少しの火種で取り返しのつかない大爆発を引き起こす。跡には何も残らない。そういうことだろうか。
確かにそれは言い得て妙だ。
*
すべての始まりは「頭頂漏」という病気が現れたことだった。
自己免疫疾患の一つと推測されており、初期には全身多汗症に似た症状が、中期にはタンパク質を溶かす性質を持つ溶媒質漿液が頭頂部から分泌される。この溶媒質漿液──通称・
罹患者自身の身体は症状の進行に伴って中和汗が全身から分泌されることにより、自身の悪水から体を保護しているようだ。
成人が頭頂漏を発症した事例は、頭頂漏が発見された二〇一四年から現在に至るまで一件も確認されていない。
罹患者は第二次性徴前に初期症状が現れる傾向があるため、八歳から十五歳の児童が政府から要観察対象の指定を受けている。発症が認められれば、漏研により即座に畦窪学園へ連れて行かれる。十五歳を過ぎ、その後も発症が確認されなければ晴れて観察対象から外され、初めて社会的に認められる。子供にとってこれほど息苦しく、生き辛い時代もないだろう。
そして二〇二〇年、政府はついに全国民に対し出生制限を発令した。
療法も予防策も何一つ確立していないなかで、他者を溶かす傷害・傷害致死事件が後を絶たず、また収容が追い付いていないとあってはもはや最後の手段だった。発令の瞬間、国民全員が自国の末路をはっきりと見た。
私は今年で二十歳となる。出生制限が掛けられる前に生まれ、辺鄙な田舎である故郷の町で第二次性徴を無事に迎えられた唯一の子供だった。
そしてこの度、国立頭頂漏研究センターが運営する警備会社に就職した。この会社に所属する警備員はすべて漏研関連の施設へと配属される。本社での新人研修は半年に及び、その内容の殆どが暴動鎮圧への対処だった。
最前線。
この言葉が相応しい。汚染された海、プロテクターを着込んだ年上の同僚達、施設の中に連れて行かれる子供、落ち窪んだ目の研究員を見て、そう思った。
各地で火種が燻っている中で、誰がこの国を介錯するのか。その破滅への最初の一手を、私達は恐れている。
サンズイの理【サンプル・5/29文学フリマ東京】 横嶌乙枯 @Otsu009kare
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