サンズイの理【サンプル・5/29文学フリマ東京】

横嶌乙枯

1話 樫渕弥栄【サンプル】

 私の病気は医者にも治せなかった。原因不明の病気である「頭頂漏とうちょうろう」は、ここ五年の間で急激に流行っていた。


 頭のてっぺんから滲み出して体を伝う液体は日に日にその量を増していった。誰かが触れると怪我をさせてしまうという理由で、エリザベスカラーを与えられた。この中に水を溜めて周りの迷惑にならぬようにと母と医者は何度も私に言い聞かせた。生きる上でそれをつけなければ息をすることさえ許してもらえなかった。動物になった気分だった。


 溜まった水は一日に一回、防護服に身を包んだ人が掃除機のような機械で吸い取りに家まで来てくれる。


 水が出るようになってから少し経って、全身の皮膚が粘液を分泌し始めた。防護服を着た男性の話によれば、この粘液が出ることにより溶かす力を日に日に強くする悪い水から自分の体を守っているらしい。研究のためにと、この粘液も水と一緒に回収される。


 吸い取りに来る度に、施設へ行こうと誘いをかけられる。そこには私と同じような症状をもった人達がたくさんいるらしい。しかし、母親は毎回怒って拒んだ。自分が行くわけでもないのに変だなと思う。防護服を追い返した後の母は目が血走るほど興奮している。下唇をぎゅっと噛みながら見下ろしてきて脛を強く蹴るので、いつも青痣が絶えない。


 誰かを溶かしてしまうかもしれないから外も歩けない、家の中でさえ危なっかしくてろくに動けない。そうして痩せ衰え骨の浮いた青白い脚には、痣が斑点のように浮かんでいた。カビの生えた手羽先みたいだ。


 肌は粘液が保護してくれるが、髪の毛は悪い水に侵されすぐになくなった。丸い肌色の頭に点々と黒い髪の残滓が残るだけになった時、みっともないからと全て抜いてしまった。


 水が出るようになってから学校へは行っていない。


 母親が首を振ってただ悲しそうにもういかなくていいのよと私に言ってきた。あまりにも気の毒そうな声で言葉をかけてきたものだから、何も言えず頷くしかなかった。


 一日の全ての時間を家の中で過ごすようになってからというもの、厄介者扱いされていたのは幼心にも痛いほど分かっていた。


 飼っていた猫を溶かしてしまってから、家族の態度は急変した。決してわざとではなかった。二歳に満たないあの可愛い仔が低い棚の上から私の肩へ飛び掛かるのは、水が出る以前からの癖だった。顔の横で毛皮が爛れ、肉が剥き出しになるのを見た。ろくに暴れる暇もなく首輪を残して猫は溶けてしまった。


 いつの間にか父親の姿は消えていた。それについて母親が何か言ってくることはなかったけれど、下唇を噛む頻度が増えて、抉れた肉からいつも血が滲んでいた。


 兄は学校をやめた。アルバイトに出るようになって何日も家を空けることが増えた。


 その頃から、エリザベスカラーと同じ素材でできた手袋を何重にも身につけ、さらにその上からビニールを被せて世話を焼いてくる母親の震えが強くなってきたように思えた。近所のみならず、親戚からも何かを言われているらしい。怒っている時以外の母は泣いていた。ごめんなさいと謝り抱き締めたかった。しかし、母を溶かすわけにはいかない。愚痴と怨嗟の言葉を黙って聞きながら、溜まった水の中に顔を埋めて一緒に泣くことしかできなかった。





 いつも励ましてくれたのは兄だった。危ないから頭だけではなく体にも触ってはいけないと言われているのに、涙が出ている間は私の粘液でぬるついた手を握って、ずっと慰めてくれた。


 近くの公園まで一緒に散歩してくれたのを覚えている。誰かに見られるのは恥ずかしいだろうからと夜明け前の道を、手をつないで歩いた。途中何度か手が滑って離れたけれど、その度に繋ぎ直してくれた。それが嬉しくて、顎先まで溜まった水に涙を垂らした。錆びたブランコに腰掛けると、カラーの中の水がこぼれないように兄の手が慎重に背中を押した。体の揺れに合わせてちゃぷちゃぷと音を立ててカラーの中の水も動く。



 兄は言った。



――誰も知らない公園を見つける。そうしたら、こんな真っ暗な中じゃなくてお日様の下でお前を目いっぱい遊ばせてやるから。……そうだ、海の見える公園でブランコに乗ろう。大きくブランコを漕いでそのままザブンと海に入ってしまえば、お前の水もきっと気にならなくなるよ。



 頷くのは危ないので、小さく相槌を打った。嬉しくてじゅわじゅわと頭のてっぺんから水が溢れるのを感じる。薄くなってきた眉毛に溜まった水が瞼のカーブに沿って睫毛を撫でた。俯くと鼻が水の中に埋まってしまう。


 青い空の下で、寄せては返す穏やかな波を目がけてブランコから飛び降りるのを想像した。しょっぱい海水を舐めながら、カラーを取ってしまって兄と二人で沖まで泳ぐのだ。それはとても素敵なことに思えた。





 そんな優しい兄を失った経緯を思い出すのは少しばかり辛い。


 昨夜、母親が耳を劈くような金切り声を上げた。


 特に言葉を交わしたわけでもなく、唐突な発狂だった。母にとって、積もり積もった何かが爆ぜたのだろう。


 周りにある物全てを蹴り上げ、私に投げ付け、壁にも床にもあらゆる物をぶちまけた。極めつけは、ゴミ箱に沿って被せられていたゴミ袋の中身を乱暴に捨て私の頭部をその汚らしい袋で覆い、ガムテープをめちゃくちゃに巻かれた。何か尖っている物が入っていたらしい袋には小さな穴がいくつか開いていて、それが申し訳程度の空気穴となっていた。


 母の長い髪がカーテンとなって顔の上に覆い被さってくる。鬼のような形相の母が、くしゃくしゃのビニール袋越しに見えた。



 ひとしきり罵声を吐かれた後、部屋の隅へ足で転がされた。遠ざかっていく荒い足音に血の気が引いた。窒息死するのが先か、溺死するのが先か。私は死にもの狂いでゴミ袋を引っ張ったりガムテープを引っ掻いたりしたが、執拗に貼られたテープを粘液が絶えず滲み出ている指で抓むのは無理だった。焦れば焦るほど袋の中の酸素はなくなっていく。泣き叫んで謝罪の言葉を口にしたが、家には私一人しかいない。兄はアルバイトに行ってしまっている。誰にも聞き届けてもらえない声は部屋に反響した。気持ちが昂ると水の分泌量が増える。一週間分の水に過剰分泌した分が足され、いよいよもって溺れそうだった。鼻の下まで水が迫っていた。



 このまま死ぬんだと諦めた瞬間、深い絶望に頭の芯が急速に冷え、体が楽になった。


 じたばたと暴れるのは辛い。大人しく受け入れてしまえばいい。余計な苦しみを感じずとも、遅かれ早かれ命は尽きるものなのだから。耳の内側で誰かが囁く。ああ、そうだね、と素直に頷いた。


 壁に寄り掛かり、なるべく上を向いていた。口元部分のビニールが、呼吸をする度にペコンと引っ込んだり膨らんだりする。そのリズムが速まると酸欠になる。苦しいのは嫌だ。どう抗っても死ぬのだが、苦しいのは嫌いだ。指の先が冷え、じわじわと痺れが広がっていく。


 先程の、発狂した母の姿を思い返した。母がああなってしまう要素は十分にあった。私が悪い水を垂れ流してしまうことで、連鎖的に起こった諸々が母を苦しめた。母は私以上に苦しんだはずだ。むしろ今まで正気でいられたのが不思議でならない。


 ああ、でも、それ以上に可哀想なのは兄だ。


 いつも母と私の板挟みにあっていた。きっと、母は兄を離しはしないだろう。頼りなく痩せた背を丸めてすすり泣く母に、兄は一晩中付き合っていた。数日がかりのアルバイトで疲労も溜まっているだろうに、そんな様子は微塵も見せずに常に相手の欲しい言葉を察して、その通りに囁いてくれる。誰からも好かれた。母も私も、兄を愛した。


 例え兄がお嫁さんをもらったとしても、あの母は自分が死ぬまでしつこく兄に付き纏うだろう。そういう確信があった。


 私という欠陥品を育てたその報いを、もう一人の子供に求めるのだ。


 良い母親だったわよね? 私は精一杯やったわよね? そう問いかけて、その通りだと頷いて欲しいのだ。それができるのは兄だけだ。


 残りの一生をかけて、報われたいのだろう。私が同じ立場なら、きっとそうしてしまう。



 私が死んでも、生きていても、母と兄の人生は地獄だ。



 ああ、生まれて来なければ良かった。何故こうも酷い仕打ちを受けなければならないのだろうと不思議に思う。他人を溶かしてしまう悪い水が頭から漏れるだけで、たったそれだけの理由で人間扱いされない。こんな理不尽が許されていいものか。


 いや、許されてしまうのだ。私はこの世界で、常に誰かを傷付けてしまう危険性を孕んでいる圧倒的加害者の側に立ってしまったのだから。生きているだけで加害者なのだ。それだけで他者から恐れられ忌避される存在なのだろう。


 死んでしまった方が、世のため人のためだ。


 諦めよう。

 

 床に伏して、水に頬を浸からせたまま目を閉じた。

 

 最後の息が、歪な水泡となって目の前で弾ける。







 不意に世界が裂けた。


 その裂け目から、いつも優しく穏やかな兄の珍しく険しい顔が覗いた。


 私を傷付けないようゴミ袋を目一杯に引っ張りながら、兄は手に持ったカッターナイフでガムテープごと袋を切り刻んだ。数時間ぶりの空気を思い切り吸い込むと、酷い目眩を覚えるとともにすっかり痺れてしまって棒のようだった手足に力がみなぎるような感覚がした。


 安心して嗚咽を上げる私の頭を兄は優しく撫でた。


 視界の端で、兄の皮膚が爛れて垂れ下がるのを見た。慌ててその手を振り払ったが、それがいけなかった。兄は体勢を崩して床に倒れ込んだ。


 私は次に、自分の首にゴミ袋の残骸と役割を果たせないほど切込みの入ったエリザベスカラーを見た。


 カッターが兄の手から滑り落ちる。


 床一面に広がった悪い水の中で、体の半分以上が溶けた兄は私を見つめていた。黒い瞳に私の姿を映して、感情の窺えない眼差しを向けていた。



「だ、ァぶ、」



 わたあめが水に溶けるように、兄の柔らかな唇が泡立って形を失っていく。最後に発した声は、苦悶の呻きにも聞こえたし、大丈夫か、といつものように優しく語りかけてくる言葉にも聞こえた。


 悪い水から逃れようと歪に曲がった兄の左手を咄嗟に握った。残ったのは肘から先だけだった。強張った指の節々が、壮絶な痛みに襲われたことを物語っていた。


 開け放たれた部屋の扉から、廊下の窓が見える。窓の外には電線が楽譜のように引かれている。痩せた雀が三匹、等間隔でとまっていた。一羽が飛び立ち、もう一羽は辺りを見回してから真下へ降りた。


 もう一羽は飛び立つ様子もなくただじっとしていた。近頃は暖かくなったというのに、その雀は酷く寒そうだった。




 ひび割れたインターフォンの音が響く。防護服が水を吸い取りに来てくれる時間だと気付いた。

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