殺人鬼と異星人

海沈生物

第1話

1.

 "暑い日には、熱いものを飲むと良い。きっと涼しく感じるから"。その言葉を教えてくれた女は今、俺の隣で死んでいた。俺がこの手で殺したのだ。凶器は買ってきた新品の包丁だった。刑事ドラマのように簡単に刺せると背中から刺したが、俺が非力なせいで中途半端にしか貫くことができなかった。


 中途半端に苦しむことになった女は、背中に包丁が刺さったまま床に倒れ込んだ。このまま死んでくれるのだなと俺は思った。しかし、その予想は裏切られた。女は倒れ込んだ時のうつ伏せから仰向けにくるりと回転した。そのまま四肢を伸ばすと、まるで草原で寝転がるように大の字になろうとした。だが、女の背中に包丁は刺さっているのだ。仰向けになった女が「ふんっ!」と声をあげると、中途半端に刺さっていた包丁が女の肉体を貫いた。肉体を貫かれると彼女は口から血を吐いて、そのまま惨たらしい姿で死んだ。


 俺はその不可解な光景に困惑した。当たり前だが、俺は「殺人鬼」である。女が取った不可解な行動の有無に関わらず、女は時間経過で死んでいたのは間違いない。それなのに、彼女が直接的に死んだ原因がその行動にあるのが引っかかっていた。 


2.

 部屋が暑いせいか、身体が熱くなってきた。さっさと自宅に帰ってクーラーの効いた空間で涼みたかった。しかし、俺はもうしばらく死んだ女の顔を見ていたかった。脳が茹るぐらいに記憶へ焼き付けて、いつか俺が死ぬ時に女のことを思い出してやりたかった。惨たらしい血液をまき散らし、目も閉まってない、だらしないその姿を思い出したかった。自分が殺したという事実を一生忘れたくなかった。

 それなのに俺は、死体と成り下がった女本体ではなく、女が死んだ瞬間の不可解な行動に惹かれていた。理由不明で意図曖昧な女の狂気に惹かれていた。考えれば考えるほど、身も心もがお茶のように沸騰してくる。


 俺はそんな自分を冷やすため、アイスかジュースでもないかと冷蔵庫を漁った。その結果、雑多な調味料や冷凍食品以外に、冷蔵庫の中に冷たい麦茶の入ったガラスのティーポットがあった。俺は心の中で頬を緩める。

 両手でティーポットの持ち手部分と底部分を持ち上げると、落とさないようにと慎重に持ち上げた。しかし、ここ数年の社会人生活ですっかり筋力が弱っていたせいだろうか。ティーポットの重みに耐えられなかった俺は、不意にティーポットを丸ごと床に落としてしまった。俺は心の中で緩めていた頬を戻した。

 ガラス製であったせいか、そのティーポットは割れてしまった。割れたポットから弾けた透明な破片は広範囲に散乱すると、ジーパンの裾のあたりが麦茶の色に染まっていた。俺はガラスで足を怪我しないように二歩三歩と現場から離れる。足裏に付いたガラスの破片を剝がすと、麦茶の色に染まったジーパンをどうしようかと思う。

 

 ジーパンの裾に付着したのはただの麦茶だ。多少気になるにしても、今の部屋の暑さなら数分で乾くだろう。それでも、あの水溜りに飛び込んだ後に靴下が濡れてしまった時に似た、変なぐじゅぐじゅとした気持ち悪さがあった。どうしても気になってしまった。

 それでもここは他人の家なのだ。女は俺の恋人でもない相手なのだ。自宅のように下の服を脱いでパンツ一枚になるのは躊躇した。俺は仕方なしにそのぐじゅぐじゅに耐えることにした。その代わり、どこにもいけない脱ぎたい欲を発散するため、上の服を脱ぐことにした。


 上の服を脱いで半裸になると、多少は暑さもマシになった。それでも部屋の不快な蒸し暑さが消えることはなかった。早く秋になってほしい。閉め切られたカーテンから透けて見える満月を見ながら、冷凍庫に入っていたよもぎ饅頭でも食べようかと思った。もちろん冗談だ。冷蔵庫の前は今ガラスの破片だらけで危ない。それに、今更になって女のあの言葉をまた思い出していた。


『暑い日には、熱いものを飲むと良い。きっと涼しく感じるから』


 この言葉もまた、女の不可解な死に方と同様の不可解さを持っていた。その言葉自体を理解できないわけではない。暑い日に熱いものを飲めば、汗をかく。汗をかけば体温が下がる。それで涼しく感じる。当然の摂理だと思う。ただ、俺は女がその言葉を言った「状況」とその言葉自体の「意味」が結びつかなかった。

 その言葉を女が言ったのは、ほんの一週間前のことだった。


3.

 俺と女は幼馴染だった。しかし、ただの幼馴染ではない。俺にとって女は「異星人」だった。女はいつも冷たかった。それは態度であり、体温であり、女が持つ異様な才能も異星人じみた冷たさを含めてそう感じていたのだ。


 所謂、女は天才であった。テストの点数は高得点、運動神経が抜群。それに加えて家系も代々医者で裕福とまで来ると、その異星人じみた才能はもはや天才としか言いようがなかった。

 もちろん、例に漏れず女の家は厳しかった。「医者にならないもの、それ我が家の者ならず」を家訓に捧げているタイプの家だった。そういう家の場合、人間はその状況下で「自由になりたい」と葛藤するものだ。

 それなのに女は、自分の未来を強要する家に苦しんでいなかった。女はその苦しみに満ちた環境に適応した。自分の才能を古風な家系に捧げることに対して、一切の躊躇いがなかった。俺はその話を聞くと、やはり女は異星人なのではないかと疑った。


 一方の俺は女に次ぐ秀才であった。俺は基本的に無表情だ。と言っても、感情がないわけではない。人間と関わる機会が少なすぎて、外に感情が出ないだけだった。

 そのせいか、中学のクラスメイトから「異星人の女、殺人鬼の男」と女とよく並べてからかわれていた。だが、その完璧無欠な異星人と俺が学生時代に話したことは一度もなかった。必要に迫られて話す時ですら、お互いに無言で目も合わせなかった。そのレベルの関係だった。


 異星人の女と話したのは、ほんの幼い頃の一度だけだ。それ以降は関わりが全くなかった。それに、女は高校生になると有名な進学校への進学して寮暮らしを始めた。なので、そもそも会う機会自体がなくなった。だからこそ、女に再会した時は「話したことのないクラスメイトと出会った」レベルの不可解さに困惑した。


4.

 一週間前、女は突然私の家に現れた。クーラーのかかった部屋で涼んでいた俺は、中学生自体から全く容姿の変わってない女に、本当に異星人だったのではないかと感じた。そんな俺の感想を無視して、女は靴のままがつがつと家の中に入ってくる。思わぬ行動に、俺は女の手を掴んだ。


『人の家に入るなら、せめて靴を脱げよ』

『海外では靴を脱ぐ必要がないわ。そんな潔癖症じみた衛生意識を持っているのは、アジア人だけよ』

『ここはアジアだろ。”郷に入っては郷に従え”。文句があるなら、海外にでも消えろ』

『口が悪いわね、相変わらず。そんなのだから、お前は———』


 一瞬人間味のある表情をしたのかと思ったが、すぐに異星人の顔に戻ってしまう。


『それで? 何の用事なんだ』

『大した用事はないわ。ただ、お前に決闘を挑みにきただけよ』


 そう言って彼女が投げ付けてきたのは、白い手袋だった。俺はしばらく見つめていると、足で玄関先へと蹴り飛ばした。


『ここは西部劇の舞台じゃない。ましてや、二十一世紀の日本だぞ? 冗談を言う暇があるなら、飛行機に乗って早く帰れ』

『ふんっ……相変わらずわね、お前は。昔からそうだった。お前は近所の人間に”変なやつだ”と嫌われていた私に対してなお、その態度を変えなかった。私はそれが……嬉しかった』


 この異星人の女は一体何を言いたいのか分からなかった。確かに、女は幼い頃からよく「いつも変な数式を書いていて気味が悪い」とか「子どもの癖に大人びすぎていて、人じゃないみたいだ」と言われていた。

 俺の両親もそういう話をしていた。俺自身も肌が異星人みたいに真っ白であるとは感じていた。だが、それで周囲の人々のようにどうこう感じたわけではない。肌が白でも黒でも灰色でも、どうでも良かった。俺にとって他人はどれも同じだった。見た目はただ人間と人間を識別する「記号」でしかなかった。


『俺は……君が語るような”熱い人間”ではない。ただの才能のない凡人さ。ありふれた人間でしかない。なので帰ってくれ』


女は「そんなことないわ」と言って笑った。そして、その時に言ったのだ。


『”暑い日には熱いものを飲むと良い。きっと涼しく感じるから”。お前はそのままでいいわ。その方が私が望む温かい人間らしくて最高だから』

『どういう意味だ。俺は正真正銘の人間だぞ』

『相変わらず、バカではない癖に変な所で鈍感なんだから。……あぁ、そろそろ時間が来たわ。それではまた一週間後ね。———くん』


 女は玄関を汚すだけ汚して帰っていった。一から十まで不可解な女の行動に首をかしげていた。だが、あの異星人顔の女は天才なのだ。俺みたいな凡人が分かるような行動を取るわけがない。俺はそういうものかと思って、その場は納得した。


5.

 その一週間後、俺は予告通りに殺人鬼にされた。その理由は簡単だ。まるで仕組まれたかのように、俺は一週間の内に仕事を失い、家族が火災で亡くなり、そして付き合っていた恋人が突然音信不通になってしまったからだ。その上で、俺は一週間ぶりに女と出会った。女は俺を自分の家に招くと、そこで言ったのだ。


『私がお前の大切なものを全て破壊したわ』


 そう言って、何枚かの写真を見せてきた。それらは俺が一週間の内に失ったものの裏側だった。上司に脅迫の電話をする女、家族の家に火を付ける女、そして付き合っていた恋人の肉体をバラバラにした女。全ての写真が女の色に染まっていた。

 写真の中の女はいずれも無表情だった。それはまるで、映画の中の異星人が地球人を使った人体実験をしているようだった。俺はその写真を見た瞬間、思わずその場で吐いてしまった。女は何も言わず、俺の吐瀉物ゲロを片付けてくれた。掃除したものをゴミ箱に捨てに行くと、代わりに包丁を持ってきた。


『アジアでもアメリカでも、どこでも。地球人は地球人である限り、人を殺すのは犯罪よ。それこそ、戦時中でもなければ。———でも、そうでなくても人間には殺さずにはいられない瞬間がある。お前にとって今が、その瞬間じゃないかしら』

『つまり、俺に君を殺して欲しいのか』

『理解が早くて助かるわ。私はそのためにこの一週間、東奔西走したんだから。お前が私を殺すのか殺さないのか。その選択肢を作ってあげるために』


 俺は包丁と女を交互に見た。そして写真も見た。どうせ、このまま生きていても意味がない。お金もあるが、貯蓄は数万円程度しかない。今月の家賃を支払えばもう貯金は終わってしまうのは目に見えていた。仮に生活保護を受けて生き長らえたところで、俺にはもう日常を一緒に喜ぶべき家族も恋人もいなかった。これといった友人を作ってこなかった人生においては、もうこの世に生きる意味がないも同然だった。

 身体は冷たくなっていた。俺が包丁を取ると、女は笑った。


『あら、残念。やっぱり私を殺すのね』

『どうせ、俺が包丁を取らずに帰ったとしても、”あら、残念”って言うつもりだったんだろ? 性格が悪い。どうせ、この選択肢に”答え”はない』

『あら、私のことをよく分かっていてくれて嬉しいわ。それじゃあ、抵抗しないから好きに殺してもらえるかしら?』


 そうして、女は死んだ。改めて女の死に様を思い出すと不可解な気分に包まれた。最後まで女の意図が掴めなかった。本当に不愉快である。殺させるのなら殺させる、殺させないなら殺させない。どうしたいのか、ちゃんと事前に教えて欲しかった。熱くもない冷たくもない、中途半端なぬるい結果が一番ダメなのだ。


5.

 死んだ女の顔は人間だった。いつもの冷たい異星人のような顔ではなく、ただの美人な人間の顔をしていた。首元や耳の下にある黒子を確認していると、ちょっと楽しい気分になってきた。数分程度して確認するのにも飽きてくると、今度は虚無が襲い込んでくる。もう戻れない所まで来たという虚無が俺の心を襲い込んだ。俺は溜息を漏らすと、女の頬に付いていたガラスの破片を取ってやった。


。恵まれた才能があって、俺の人生を破壊するような行動力もあった。その情熱を、研究とか技術開発にどうして活かせなかったのか」


 静寂が包む部屋で漏らした愚痴に女は答えてくれない。その代わり、ふと大の字姿の女の頭の先に一冊の本が飛び出ていることに気付いた。ガチガチに詰められた本棚からその本を抜き取ると、女のアルバムであることに気付いた。

 いくら死んだ女のものとはいえ、他人のアルバムだ。見ることに対して躊躇があった。だが、もう一度本棚に仕舞おうと思った時に中から一枚の写真が落ちてきたことが俺の躊躇をなくした。その写真は、

 言っておくが、いくら俺と女が幼馴染であるとしても、同時に生まれたわけではない。俺の家のアルバムには、当たり前だが俺自身の写真しかない。一枚ぐらいなら女の写真もあるが、そのぐらいだ。だがらこそ、赤ちゃんの頃の写真という強烈な違和感を覚えた。俺はゾワゾワと拒絶する自分に逆らうと、アルバムの最初の一ページを開いた。

 そこに貼られていたのは、。身体のゾワゾワが増した。生前の女が映っていた写真は一枚もなかった。俺はまるで惹きこまれるようにしてそのアルバムを最初から最後までめくってみる。結果として、そこにあったのは。俺のゾワゾワ感はギリギリになっていた。ほんの一枚も、女の写真はなかった。そして最後のページをめくると、一行だけ文章が書かれていた。それは達筆な文字で



と書かれていた。まるでさっき俺が漏らした言葉に対する返信みたいで、ついにゾワゾワとした気持ち悪さに堪え切れなくなった。窓を開けると、持っていたアルバムを勢いのまま捨ててしまった。空中でバラバラと散らばっていく写真を見ると、段々と自分の衝動的な行動のバカさが分かった。なんで、投げてしまったのかと反省した。


 ふと、一枚だけ投げたアルバムから漏れたらしい写真が足元に落ちていた。拾い上げてみると、それは俺と女が初めて出会った日の写真だった。異星人のような顔をした女と、アニメに出る殺人鬼みたいな顔をした男。そんな五歳児同士が、温かいお茶を飲んでいる写真。それはどう考えても異常な光景だ。背伸びしたいガキでもそんな渋いことはしない。けれどその変な感じに、俺は心の中で頬を緩めた。裏を返すと、そこに先程と同じ文字でこう書かれていた。


『これは初恋の写真。人間の生活に慣れていなかった夏、彼がかけてくれた言葉。”暑い日には熱いものを飲むと良い。きっと涼しく感じるから”。喋るのが苦手な男が、かけてくれた言葉。私はその言葉を聞いた時、初めて恋の温度を知った。だが、私は侵略者だ。誰かに侵略されてはいけない。彼の子を産みたいわけでもない。だから、。私の人生全てを賭けて、彼の人生をする。たとえ、この身が果てようとも』


 その文章の意味はよく分からなかった。ただ、まるで異星人のような語りをしているのは面白いなと思った。この文にもあるが、俺は多分一生女のことを忘れない。女が取った不可解な行動も、そしてこの写真のことも。俺の心には、変な喜びが湧いてきた。その正体は分からなかったが、少なくとも、それは女の部屋で死んでいる女から与えられたことは事実だった。

 遠くからサイレンの音がする。よく見ると、俺が落としたアルバムによって、ちょうど下にいた男が頭から血を流して死んでいた。


「……これで晴れて、俺もの殺人鬼になってしまったわけか」


 俺は一度部屋に入ると、キッチンでお湯を沸かした。特段理由はない。あの写真裏の言葉が俺に影響しているのかもしれなかった。段々と近づいてくるサイレンの音を聞きながらキッチンを漁っていると、麦茶のパックがあった。沸かしたお湯に入れると、規定の時間より数分早く煮出した。煮出したお茶をマグカップに入れると、そのタイミングで玄関が開く音がした。俺は熱々のお茶を一気飲みした。食道から胃までが焼けるような感覚に顔が歪む。だが、キッチンでちんたらしている場合ではない。

 俺はベランダに戻ると、手すりの上に立った。「やめろ!」と入って来た警官が叫んでいた。だが、今の俺には警察の言葉など雑音にしか聞こえなかった。

 ふっと後ろに体重をかけた瞬間、俺の身も心も感じていることに気付く。その事実に俺は笑った。人生の中で初めて笑ったかもしれなかった。「状況」と「意味」が一致していた。


「……ここ最近で一番すっきりしたかもしれない、な」


 真夏の夜、俺は落下していく。女との距離がまた離れていく。俺は女の不可解さは理解できない。それでも、今の俺は身も心も涼しかった。地面に激突すると、俺は強烈な痛みと共に意識が暗闇に落ちた。苦しみで悶えた末に死ぬ瞬間、俺の背中に感じるはずのない風を感じたような気がした。

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