重なる、重ねる

満つる

重なる、重ねる



 それは本当にただの偶然だったのだ。

 担任から頼まれたアンケート用紙の整理が意外に長引いて、最終下校のチャイムがなるまでの時間が残りわずかとなってしまっていた。最終下校時間になってしまうと運動部が一斉に出てくるから、帰り道が途端に鬱陶しくなる。そうなるまでの間に一刻も早く引き上げたくて、うっかり教室に置き忘れていた体操服が入ったサブバッグを取りに技術準備室から足早に戻ったのだった。

 教室の戸は完全には閉まりきっていなかった。手のひら分くらいの余白が見えた。誰がやったか知らないけどこういうのって何だかだらしなく見えるんだよな、なんてどうでもいいことを思いつつ、手を差し入れそのままからだが入るくらいまで余白を大きくしようとして、そうする前に戸の前で動きを止めた。

 戸の向こう側にわずかながらひとの気配を感じたからだった。


 押し殺したような低い声がふたつ。その割にひどく甘ったるくて、そのくせどこか投げやりで、およそ学校の中で耳にするような類の声音には聞こえなかった。いや、そもそもこんな声、どこで聞くんだ、聞くとしたら……、とそこまで思考を巡らせる前に、からだが勝手に棒立ちになっていた。それでいてそのままきびすを返す気にもなれなかった。戸の向こう側が、なぜだろう、無性に気になっている。こわばるからだをほんの少し前に傾け、視線だけをそっと中に差し込んだ。


 窓側後ろ、ロッカーを背に、ふたりの男子が肩寄せ合って立っていた。ふたりして手元の何かを見ている。ひとりは短く刈り上げた首筋と二の腕が黒く日焼けしていて、筋肉質の肩が広くて、ああ、多分、あれは九谷だ。陸上部、の副キャプテン。その横に、小柄で細身、前髪が顔にかかりそうなのを首を傾げてごまかしているのは、放送部の城山、だと思う。

 ひと目見て、変な組み合わせ、と思った。教室の中でも外でも、およそ接点なんてなさそうに思える。実際、ふたりでいるところなんて記憶にない。あったらきっと、今みたいに、あれ? と思う程度には印象に残るだろう。

 それにしてはやけにふたりの距離が近くに見えた。何より声が、そう、声が、聞き慣れた男子のそれとは違って聞こえる。密やかな声。低い笑い声。喉だけで音を立てているような、それでいてやけに耳について離れない笑い声が、私の鼓膜と、そして心臓、を震わせている。

 喉の奥から響く声、ふたつ。突然、ぴたりと止んだ。しん、と静まる教室の空気に戸惑った私の目が、目が──、釘付けになった。


 ふたりの顔が、重なっていたのだった。


 それがどういう意味を成しているのか、すぐには分からなかった私は、ただのバカだ。それでも、どくんと大きく震えた私の心臓が、私の思考を促した。それでようやく事の次第を理解すると、そのままずるずるずると後ろに下がっていって、それからくるりと向きを変え、忍び足で廊下を逃げ出した。

 足は元々、早くはない。加えて、音を立てないよう気遣いながら逃げたから、昇降口の下駄箱の前まで辿り着いたのは結構、時間がかかっていたと思う。それでも今さっき、教室の中にいたはずの九谷が、下駄箱を背に寄りかかって立っている姿を目にした時は、さすがにつばをごくりと飲み込むことしか出来なかった。

「ああ、島さん」

 お疲れ様、と笑う日焼けした顔。健康的で、溢れる白い歯が爽やかで、そういうタイプが好きな女子から人気の九谷の、でも、今の私にはその笑顔が怖い。

「え、あ、うん」

 曖昧な笑顔と、曖昧な言葉を返すしか出来ない私に、九谷の背後からちらりと白い顔まで覗いた。城山、だった。

「たしか、島さん、忘れ物してた、と思うんだ」

 そう言って差し出した手に、私のサブバッグが。

「あ、そ、そう、なの。ありがと」

 やだなー、もう。無理やり笑顔を作って手を伸ばしたら、笑った顔してサブバッグを持つ手を引っ込められた。挙げ句、顔は笑っているのに、目が、目が──、笑ってなどいないじゃないか。

「じゃ、悪いけど、教室まで付き合ってよ?」

 ふたりの言葉がきれいに重なった。


 連行される捕虜の気持ちというのはこういうものだろうか。沈黙に耐えながら、逃げてきたばかりの廊下を逆戻りする。足が重い。気持ちは更に重い。どうしていいか分からない。ふたりが私の後ろをぴったりくっつくようにして歩いている。

「オレたち、さっき、反対側の階段から降りたんだよ」

「そんなに走った訳じゃないけど、それでも急いだんだ。先回りしないと意味ないからさ」

 しなくてもいい種明かしを背後からしてくれる。ふたりして忍び笑いしながら。返事のしようもなくて、ただ背中がこわばるだけだ。

 教室の戸はさっきとは違ってきちっと閉められていた。最初からこうしてあったならと思わずにはいられない。開けて入ると、ピシャリ、すぐに背後で閉められる音がした。


「で、」

 ふたりが並んで私を見下ろしている。身が竦む。

「見た、んだよね?」

 何が? なんてことはひと言も言わない。ただ黙っている。だんまり比べなら何とかなるかもしれない。そう思ったのもつかの間、

「もう一度、見る?」

 よりにもよって、爆弾投下されるとは。バカだと思いつつも、つい問い返してしまった。

「も、もう一度、って?」

 ふふ。それとも島さんにもしてあげようか? ふたりして笑う。え、と思っても今度は声も出ない。

「ウソだよ、そんなことする訳ないじゃん」

 ね? とふたりが顔を見合わせて、顔を近づけて、くすくすと笑ってる。

 ええ、ええ、そうでしょうとも。そんなこともちろん私だって望んでなんていませんって。もう一度見たいわけでもない……ってことはない、けど、でも、それよりさっさと開放して欲しいの、早く帰りたいの、あなたたちと一緒にいるのは、正直ちょっと怖いと言うか、ヤバい気がすると言うか、落ち着かなさ過ぎてああ、もう、

 なんて言葉は私の心の中にだけずぶずぶとぐしゃぐしゃとぬかるみのように重たく重たく淀んでいって、口は一向に開かない、いや、開けない。そうして私の目は、ふたりの口元をつい交互に見てしまう。

「ヤラシイなあ、」

 囁くような城山の声。

「そんなに見てるってことは、やっぱり見たいってことだよね? だったらもう一度、して見せてあげようか?」

 意地悪そうな顔をして私のことじっと見つめてくる。視線のやり場に困って、思わずぎゅっと目を瞑る。

「ダメだよ、ちゃんと見てないと、もう二度とはないよ?」

 九谷の声までが酷く皮肉めいて聞こえる。

「ほら、」

 ふたりの声がまたきれいに重なったから、うっかり慌てて目を開けてしまったその先に──、


 くるくると巻かれたカーテンの中に、重なったふたりのシルエットがおぼろげに隠されていた。


「ばーか」

「ばーか」


 ふたりの声が微妙に重なって、ズレて、不思議な和音を作っている。


「言うなよな」

「言わないよな」


 こくこくと黙って頷く。

 蛹のようにカーテンにくるまったふたりに。

 羽化する前の蝶みたいなふたりに。


「言う訳ないよな」

「言える訳ないよな」


 どきん、とした。

 何のことを言っているのだろう。

 何を知っているのだろう。


 怖い。


 くるくるくる、とカーテンが開いて、中からふたりが現れた。


「ってことで、内緒、な」

「ってことで、バイバイ」


 そのままふたりは教室の外へとあっという間に飛び出して行った。羽化した蝶が飛び立ったかのように。残された蛹、もといカーテンは、ふたりが飛び出した余韻でひらりひらりと緩やかに揺れている。忍び笑いの残り香と共に。



 揺れが止まるまで、そのままひとり、ぼうっとカーテンを眺めていた。

 ひらりひらりと揺れていたカーテンは、そのうちひらひらとなり、ひらっとふわっと揺れ、最後にはふわ、ふわ、ふ、となって止まった。


 あの中に、さっきまで、あの中に、

 蝶になる前の蛹が2頭、いたのだった。


 そう思ったら、しぜんと私もカーテンの中に入っていて、くるりくるくるとひとりくるまっていた。


 ほんのりと薄暗く、むうっと温かく、なんとはなしに静かなカーテンの中。

 居心地よく、ひとりで立つ。



 そうか。

 ああいう風にすればいいのか。


 今更ながら、カーテンの中で、ふたりが重なったところを思い出していた。

 初めてこの目で見た、重なるシルエット。

 きれい、だった。



 そうか。

 ああいう風にすればいいのか。


 思い浮かべた相手がいる。

 それは誰だか。誰にも言わない。

 私だけの秘密。


 カーテンの中で、私はまどろむように、その時を夢見た。

 今はまだ、たったひとりっきりの蛹だけれど。

 いつか私も彼らのように、夢見る相手と共に、羽化して蝶になって飛び立てますように。あの向こう側へ。

 そっと目を閉じたまま、ひとり、祈った。





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