第一章 孤独な時間旅行者-1
気がつくと、モリアーティは岸辺に倒れていた。
アルプスの雪解け水に浸かっていたせいで凍え切ったカラダは死体のようだが、夕陽のまぶしさと暖かさに、まだ生きていることを実感する。
見上げれば崖は、はるか遠く。よくあの高さから落ちて無事だったものだ。しかも、奇跡的に無傷で。
「……そうだ、ホームズは? ヤツはどうした?」
あわてて周囲を見まわすが、宿敵シャーロック・ホームズの姿はどこにも見当たらない。死んだのならば、すぐ近くに死体が浮かんでいてもおかしくないのだが。もし生きていたとすれば、都合よく気絶しているモリアーティを放置するとも思えない。
しかし、現にホームズはいないのだ。彼の言葉を借りれば、すべての不可能を除外して最後に残ったものが、たとえどれほどありえそうになくとも、それが真実となる。ならばみずからの足で立ち去ったか、誰かが運んで行ったか、そのどちらかしかありえない。
ホームズのせいで、モリアーティは何もかも失ってしまった。もはや生き続ける理由はない。だが、こうして運よく生き延びてしまった以上、あらためて孤独に自殺する気分でもなかった。せめてホームズの生死を確認し、それから今後のことを考えても遅くはあるまい。
ホームズが生きているとしたら、ワトソン博士と合流するためにマイリンゲンへ戻るだろう。またはワトソンが駆けつけて、気絶もしくは死亡したホームズを発見したとしても、やはり同様の選択をするはずだ。そのまま当初の目的地であるローゼンラウイへ向かうのは、得策とは言えない。まだかなり距離があるし、夜道は暗くて危険だ。それなら一度通った道のほうが安全だろう。
したがってモリアーティの行き先も決まった。ただしその前に、濡れた衣服とカラダを焚火で乾かしてからだが。
夜道を二時間近くかけて歩き、ようやくマイリンゲンへとたどり着いた。おそらくホームズたちは、もともと宿泊していた英国風宿屋にいる可能性が高い。うっかり遭遇しないよう祈りながら、慎重に探りを入れよう。
宿に足を踏み入れると、主人であるペーター・シュタイラーに出迎えられた。
それは間違いなくペーター・シュタイラー本人だった。つい数時間前に顔を合わせたのだから、見間違えるはずがない。けれどもモリアーティは、おのれの目を疑わずにはいられなかった。
その男はシュタイラーとうりふたつだが、明らかに別人と言わざるをえない。なぜなら、シュタイラーよりも若いからだ。
親子くらい年が離れているかもしれない。ならば息子という線もなくはないだろうが、それにしても似すぎている。親子というよりはまるで双子のよう。ただ年齢だけが違うのだ。
「失礼、キミはペーター・シュタイラー氏の息子か?」
問われた男はいぶかしげに、「息子? いや、私がペーター・シュタイラーですが。ジュニアでもありません」
「ペーター・シュタイラー本人? ロンドンのグローヴナーホテルで三年間修業して、故郷のこの村でホテルを始めたペーター・シュタイラーだと?」
「私のことをよくごぞんじで。正真正銘、そのペーター・シュタイラーですよ」シュタイラーは洗練された英語で答えた。
その答えを聞いて、モリアーティの頭脳は次に質問すべき事項を瞬時に計算した。すべての不可能を除外して最後に残ったものが、たとえどれほどありえそうになくとも、それが真実ということだ。
「――今は、何年何月何日だ?」
「はぁ……一八七一年の五月四日ですが……」
おおよそ予測はついていたが、あらためて突きつけられた事実に、モリアーティはめまいがした。
一八七一年五月四日ということは、ちょうど二十年前になる。
どういう理屈かは不明だが、モリアーティは過去にタイムトラベルしてしまったのだ!
「……とりあえず、部屋は空いているかね?」
ホテルのベッドに腰かけ、モリアーティはうなだれて深くため息をついた。
タイムトラベル、そんなことが現実に起こりえるのだろうか。何かの間違いだと思いたいが、数多くの物的証拠から、これが現実だと受け入れざるをえなかった。
確か二年前――この時代からすると十八年後だが――アメリカのハンク・モーガンという男が、五二八年のイングランドへタイムトラベルしたと主張した。世迷言だと誰にも相手にされなかったそうだが、もしかしたら嘘ではなかったのかもしれない。
それにしても、何が原因でタイムトラベルしてしまったのか。以前、たわむれに計算してみたことはあるが、タイムトラベルを引き起こすには時速八八マイルの速度と、一・二一ジゴワットの電気エネルギーが必要だ。崖から落下した程度では速さが足りないし、雷に打たれた覚えもない。科学的に説明がつかないとなると、超自然的な、それこそ神のしわざとでも考えるべきか。
モリアーティはいわゆる神のような、高次元の存在を信じている。パスカルの言い分をもっともだと認めているからだ。パスカルは神を信じるほうが得だと言った。なぜなら、神を信じた者は賭けに勝てば地獄行きを免れるし、たとえ負けても損はない。
神が何らかの理由で、モリアーティを過去へ遣わしたのならば、べつにそういうことでかまわない。肝心の理由がわからないのは気になるが、知らされないのはむしろ好都合と見るべきだろう。恣意的に解釈して、自分の好きなようにできるのだから。
神学論争はこのくらいにして、そろそろ実際的なことを考えよう。
一八七一年というと、モリアーティはまだダラム大学で数学部長を務めている。三年後には身の覚えのない罪で解雇されてしまうのだが――今そんなことはどうでもいい。
ここが二十年前ならば、シャーロック・ホームズは十七歳ということになる。いまだ探偵になる前の、未熟な若造にすぎない。ましてや向こうは、モリアーティという仇敵の存在を認識していないのだ。その気になればカンタンに殺せる。そうして邪魔者を消し去ってしまえば、モリアーティの組織が壊滅する未来を回避できるはずだ。
けれども、脳裏に引っかかるものがあった。過去を改変することに罪悪感などない。生まれるはずだった人間が生まれなかったり、死ぬべき人間が死ななかったりしたとしても、知ったことか。しょせん他人事だ――とはいえ、本当に他人事で済むのだろうか? ホームズがさだめられた運命より早く死ぬことで、モリアーティにとって不都合なことが起きないと、断言できるだろうか。
杞憂かもしれない。だが念のため、どんな影響がありえるか、モリアーティは脳内でシミュレーションしてみた。
例えば、ヘレン・ストーナーはまだらの紐に殺されるだろう。ロイロット博士との契約では、犯行計画をコンサルティングした見返りに、相続した遺産の三割をモリアーティが報酬として受け取ることになっていた。ホームズの邪魔さえなければかならず上手くいく。
アグラの財宝はどうか? ホームズがジョナサン・スモールを追い詰めなければ、財宝がテムズの河底にバラまかれることはない。計画通りスモールを始末して、モリアーティがすべて横取りできる。ワトソン博士がメアリー・モースタンと出会うきっかけもなくなるが、それはモリアーティの知ったことではない。かの恋多き軍医殿は、どうせほかの女を見つけるだろう。
ジョン・クレイに授けた赤毛連盟というアイデアは、モリアーティが考えたなかでも、特にユーモアのある計画だった。ホームズさえいなければ、ナポレオン金貨三万枚がモリアーティのもとへ転がり込んでくる。
ベディントン兄弟は運が悪かった。モリアーティの計画通り入念に準備したにもかかわらず、神のイタズラが何もかも台無しにした。犯行が失敗したこと自体にホームズは関わっていないから、残念ながら彼を殺しても百万ポンドの証券は手に入らない。
そして当然、ホームズがいなければモリアーティの組織が壊滅させられることはなく、ライヘンバッハの滝で対決することもなくなる。
ひょっとしてシャーロック・ホームズが存在しないほうが、何もかもいいことづくめなのではあるまいか――だが、そこでモリアーティは、はたと気がついた。
「……私がホームズと相討ちにならず、ライヘンバッハの滝壺へ落ちなくなるとすれば……今ここにいる私は、いったいどうなる?」
現在この一八七一年には、ジェームズ・モリアーティが二人存在する。一八七一年にもとからいるモリアーティを一周目、そして一八九一年からタイムトラベルしてきたこのモリアーティを二周目と仮定しよう。
ライヘンバッハの滝から落ちることで、モリアーティは二十年前にタイムトラベルした。よけいな介入をしないかぎり、一周目に起きた出来事は二周目も起きると見なしてよかろう。ならば、もしも二周目のモリアーティがホームズを事前に殺した場合、一周目のモリアーティが滝壺へ落ちる展開もなくなってしまう。その流れに連なっている以上、タイムトラベルもしなくなるだろう。ここで矛盾が生じる。
なぜなら一周目のモリアーティがタイムトラベルしなければ、二周目のモリアーティは存在しえないからだ。過去へ戻ったということは、逆説的に出発点である未来が確定していなければならない。
この矛盾の結果がどのような形で表れるか、具体的に三パターン考えられる。
一つめは、未来は変えられないというパターン。モリアーティがホームズと相討ちになって滝壺へ落ちる結末は確定事項であり、いくら介入しようとしても絶対失敗してしまう。
二つめは未来を変えた途端、矛盾した事象はなかったことになるパターン。つまり、一周目のモリアーティが滝壺へ落ちる未来を回避した瞬間、二周目のモリアーティは幻影のように消え去ってしまうのだ。それは結局、死と同義だろう。たとえ一周目の自分が生き延びるとしても、もはや自分自身とは言えない。
そして三つめは、前の二つが組み合わさった最悪のパターンだ。二周目のモリアーティが未来を改変し、一週目のモリアーティが滝に落ちず二周目に入らなければ、二周目のモリアーティなど存在していないことになり、未来の改変が起こらず、やはりモリアーティは滝に落ち、二周目に入って未来を改変しモリアーティが滝へ落ちず未来は改変されず滝へ落ち――そうしてパラドックスの迷宮に囚われたまま、ライヘンバッハより先へ時間が進まなくなり、堂々巡りする。
ゆえにシャーロック・ホームズを殺すのは悪手だろう。その結果が一つめなら何をやってもムダだし、残り二つなら致命的だ。
となると、パラドックスにならずホームズを排除する手は、ひとつしかない。そもそも殺そうとムキになる必要はないのだ。こちらが手をくだすまでもなく、ホームズは勝手に一周目のモリアーティと滝壺へ落ちてくれるのだから――あらためて考えると、なぜホームズと心中まがいの真似をするほど思いつめていたのか。明らかに冷静さを欠いていた。
「……まァ、すでに終わったことだ。今さら気にしてもしかたあるまい」
とにかく、そうして邪魔者がいなくなったあとなら、二周目のモリアーティがロンドン裏社会を自由に支配できる。それまでは高みの見物とシャレ込もうではないか。
ただしこの一見完璧な計画には、ひとつ欠陥が存在する。
彼は現在六十一歳、二十年後には八十一歳だ。その先の未来を手に入れるどころか、下手をすると寿命がもつかも怪しいではないか。――ああ、老いとはまったく忌々しい!
もっとも、手がないわけではない。けれどもそれに頼るのは、さすがのモリアーティ教授もいささか躊躇してしまう。
それはホームズが探偵としての流儀をかなぐり捨てて、兄マイクロフトの表沙汰にできない権力を頼ってでも、モリアーティをつぶしにかかった要因でもある。
善良な市民を悪魔に豹変させ、犯罪へと駆り立てる魔法のような薬――ヘンリー・ジキル博士の変身薬。
【試し読み】再演のライヘンバッハ 木下森人 @al4ou
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