プロローグ

 ――一八九一年五月四日、スイス中部。マイリンゲン近郊。

 ライヘンバッハの滝を流れ落ちて砕け散る水しぶきが、名探偵シャーロック・ホームズのほおを濡らす。

 今や崖の突端まで追い詰められ、逃げ場はどこにもない。なぜなら目の前には、宿敵ジェームズ・モリアーティ教授が立ちふさがっているからだ。

 モリアーティはロンドンで起きた悪事の半分、さらには警察が気づいていないほとんどの事件における黒幕だ。みずからはけっして表舞台に立たず、巧妙に犯罪を演出する。たとえ実行犯が逮捕されても、教授の関与が露見することはない。かつては高名な数学者だったが、現在は世間的に忘れ去られている。ましてや犯罪者の王などとは、誰にも知られていないのだ。

 十日前のことだが、ホームズが助手のワトソン博士に対し、モリアーティ教授について噂を聞いたことがあるかどうか尋ねてみた。すると彼は、アフガンで痛めた肩をぎこちなくすくめて、一言こう答えた――「まったくないね」

 ホームズはベーカー街221Bへ舞い込む事件をひとつひとつ解決しながら、それらの裏で糸を引く何者かの存在に勘づいていた。迷宮を攻略するテセウスのように、彼はその緋色の糸を手繰り続け、ついにモリアーティのもとへたどり着いた。スコットランドヤードと協力し、彼とその直属の部下たちが一斉検挙されるよう算段をつけたのだ。これで四十件以上の未解決事件が解決し、連中は法廷で裁かれて絞首台送りにされる。

 モリアーティは自身が追い詰められかけていると気づくや、邪魔なホームズを亡き者にしようと刺客を放った。馬車に轢き殺させようとしたり、頭上にレンガを落としたり、ゴロツキに棍棒で襲わせたり、狙撃手に空気銃で狙わせたりした。身の危険を感じたホームズは、一斉検挙が終わるまでのあいだワトソンを連れてヨーロッパへ逃れた。

 だがホームズの仕掛けた罠をかいくぐり、モリアーティは彼のあとを追って来た。表舞台に上がらない演出家の仮面をかなぐり捨てて。

 そして、今や両者は雌雄を決しようとしている。

 燃え盛るような激しい感情に満ちた瞳で、モリアーティはホームズを鋭くにらみつける。

「まったく、やってくれたなシャーロック・ホームズ……。私がロンドンで丹念に張り巡らせた蜘蛛の巣を、キミは子供じみた正義感で、ズタズタに引き裂いてしまった。それでいてキミらしからず、あまりにも性急かつ強引なやりかたで」

「僕らしくない? あなたが僕の何を知っていると?」

「何もかもだよホームズ。私はおそらくこの世界の誰よりも、キミという人間を理解している。ものぐさな兄よりも、色ボケのやぶ医者よりも――あるいは天にます神よりもだ。しかし、だからこそわからない……なぜだホームズ? なぜなのだ? キミさえその気なら、私たちは上手く付き合えたと思わないか? 私が犯罪を演出し、キミが名探偵としてその事件を解決する。さしずめ新聞小説ロマン・フィユトンのように、何度でも茶番を繰り返せばいい。きっと楽しいぞ」

「……確かに、そんな未来を一度でも想像しなかったかと言えば、嘘になるだろう」ホームズは言った。「そうなっていたら、実に愉快だったろうさ。あるいは、ワトソンの小説を心待ちにする読者たちも、それを待ち望んでいたかもしれない。名探偵が数々の難事件に挑み続ける展開を。……だが教授、あなたは越えてはならない一線を越えてしまった」

「一線?」

「犯罪者に計画を授けるのはまだいい。言ってみれば、単に物事を効率化しているだけだからな。しかし、はダメだ。アレは犯罪に手を染めるはずのなかった善良な市民を、ムリヤリ犯罪者へと変えてしまう。さしずめ、悪魔の鏡が目と心臓に刺さったカイ少年のように」

「ムリヤリとは人聞きが悪い。あの薬の効能はあくまで、心の底に秘めた本性を――その欲望を表出させるだけだ。肉体という牢獄に閉じ込められた、魂そのものをな。もし薬を飲んだ者が悪魔になるなら、もともとその者の本性が邪悪だったということだ」

「いいや。たとえ本性が邪悪であろうと、善良に生きることはできる。ある意味では、生粋の善人よりも尊敬に値する人々だ。教授、あなたはそんな人々の気高い努力を踏みにじろうとした。断じて許すわけにはいかない」

「見解の相違というヤツだな。キミならば理解してくれると思ったのだが、残念だよ……。まァいい、どうせ何もかも終わった話なのだから。私はこれまで築き上げてきた、すべてを失ってしまった。もう元には戻らない。ホームズ、先日キミのもとを訪れて告げた言葉を、まさか忘れてはいないだろうね?」

「ああ、もちろん憶えているとも。『もしキミが賢明にも私を破滅させるというのならば、私もキミを同じ目に遭わせるので安心したまえ』あなたは僕に、そう言った」

「そうだ。するとキミはこう返したな。『もし前者の結末を確信したならば、公共の利益のために、僕は快く後者を受け入れよう』と――。今がそのときだ、シャーロック・ホームズ!」

 モリアーティは長い両腕を広げて、ホームズ目がけてタックルした。どこにも避ける余地はなく、何とか受け止めようとしたホームズだが、濡れた岩の地面は滑って踏ん張れない。

 そのままふたりは断崖から転げ出て、もろとも滝壺へ真っ逆さまに落ちていき――

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