37話 西の彼方
冷たい風を身体に受けて、
始めて見る景色にカナタは興奮が収まらなかった。
目の前にいるルイの肩に捕まり、不安定な鳥の背中の上でずっと落ち着かないおしゃべりを続ける。何日も閉じ込められていた分、なんでもいいから話を聞かせたかった。背を向けているルイは、灰色の耳をたまに動かして自らの話に適当に相づちを打つ。どうやら、高い場所は落ち着かないらしい。それでも立派な剣を背負ったルイの背中は、以前と比べてひと回りもふた周りも、頼もしく映った。
頭を除いて骨だけになってしまったルークは、カナタの腕からいつの間にかルイの首根っこに巻き付いていて、ルイに渋い顔をさせていた。
「見て。私たちがやってきた森が見える。ルイ君、覚えてる? 霧の森は、さすがに見えないか」
「カナタ危ないよ。後ろで暴れないで」
「ルイくん高いところ苦手だもんね」
「苦手じゃないよ」
ルイが反論する。
「嘘。前に橋から落ちたとき、怖がっていたでしょ。気付いてたんだから」
「誰だって高い場所に上ったら少しは怖くなるでしょ」
「そんなことないわ。私いまとっても楽しい。夢見てるみたい」
「それよりルークをどけてよ。なんで僕の方に巻き付いてくるのさ」
「私の角がなくなっちゃったから、新しい場所を探してるのよ。それにルイ君のこと気に入ってるみたい」
「困るよ」
「嫌なの?」
「嫌じゃないけど、落ち着かないだろ」
「ねえ、ルイ君」
「なに」
「ありがとう。感謝してる」
「どれに対して感謝されてるの? 心当たりがありすぎるよ」
ルイの返事で、カナタはちょっと意地悪したい気持ちに駆られた。両手で灰色の狼族の耳をまさぐってやった。
「うわっ、なにするんだ」
「いま調子に乗ったでしょ」
「乗ってないよ」
「嘘つきはこうだぞ。わ、ほらやっぱり。もふもふじゃない。どうして今まで触らせてくれなかったの。このっ、このっ」
「止めて。止めろよ。怒るぞ!」
「あはは。ごめん」
ルイが首を横にぶんぶん振った。ルイの両手は
「助けに来てくれたこともそう。他にもいっぱい感謝してる」
「分かったよ。なんかむず痒いから言わなくていいよ。僕は、自分のために戦ったんだ。これからもそうする」
「でもね、ルイ君。私の騎士になるには、まだ早いわ」
カナタがルイの肩に顎を乗せて言った。
「どういうこと。僕は一人前の戦士だよ」
それを聞いたカナタはおやっ、と疑問を持った。意図せず眉が変な方向に曲がる。
どうやらルイは騎士になることの意味を理解していないらしい。このしきたりはバンキャロナール家のものだが、アルカナハト国内だけでなく、他国でも広く知られている。てっきりルイも知っているものとばかり思っていた。ただ知らないのなら、それでいいやと、カナタは思い直した。
「だってルイ君、私より背も小さいし」
「そんなの関係ないだろ。身体はこれから大きくなるんだ」
「あはは。冗談だってば」
噛み合わない会話に、おかしさがこみ上げてくる。
ルイが不満そうに口元を尖らせていた。出会った頃と同じような無愛想な顔。だけれど、お互いの気持ちが通じ合っていることだけは分かった。
聞き耳を立てていたらしい
「ほっほ。賑やかでなにより。良いことよ」
カナタは
「ねえ、
「下方に山が見えるだろう? 我々はこの山を越え、
「アシュクの森?」
「左様、我らの同胞がそこで多く集まっておる。アシュクの泉を知っておるか?」
「アシュクの泉、聞いたことあるわ! 主がいるの。大きな」
「ほっほ。その通り。泉の主は森を守っておる。故に、争いのない平和な森なのだ」
「素敵。そんな場所がまだあるのね」
「もちろんだとも。人が住む町は、この三百年で多くが滅びた。交易で栄えた港町も、信者たちの集まる聖なる地も、
カナタはうなずいて答えた。
「この旅で私、たくさんの種族と話をしたいの。話をして、この世界を変えるためには、どうすればいいかを見つけていきたい」
「ほっほ。よい心がけだな」
「そのためには、たぶん魔女たちとも仲良くなる必要があると思うの。母様の日記にもそれが書いてある。どんな種族とも仲良くなることが、世界の平和に繋がるって」
「お主の母君もそれを目指していたのか」
「そうよ。母様は私なんかよりももっと前を行ってた。だけどそれに少しでも近づくために、母様が見た景色を私も見たいと思ってる。世界が平和になれば、鬼の自由が手に入る」
「なるほど。そのための旅か。ならば我らの翼も存分に頼るとよい。我らは政治に関わることも、魔女の目論見を阻止することも出来ない。ただ羽をこうやって羽ばたかせ、お主らを遠くへ運ぶことしか出来ぬ」
「たくさんよ。こんな景色、滅多に見ること出来ないもん。ね、ルイ君」
「うん。高すぎるくらいだよ」
ルイがぎこちなく答えた。
「ちゃんと下見てる? ほら、もっとよく見ないと、もったいないわ」
「見てるよ」
ルイが首を伸ばして、恐る恐る地上をのぞき込む。ルイの眼が少しだけ見開かれた。
「すごい眺め」
山から見下ろすよりも、滝の上から見下ろすよりも何倍も広かった。
「母様もこの景色を見たんだって。日記に書いてあったわ」
「そう」
ルイが耳を動かし反応する。
互いに言葉を失っていた。
上空の雲が途切れ、
心まで踊り出しそうになる。
「名前を付けなきゃ」
カナタが手をぽんと叩いた。
「何の話?」
ルイが首を傾ける。
「母様が教えてくれたの。大切なものには名前を付けようって。この空も最初は青かっただけ。誰かが空って名付けたの。海もそう。私の名前だって、母様が名付けてくれた。大切だったから」
「なにに対して名前を付けるの」
「この景色」
カナタの言葉に、ルイが少しだけ考えてから答えた。
「綺麗な景色で、いいんじゃない?」
「ダメよ。それじゃ特別にならない」
「特別?」
「そうよ。今日こうやって、ルイ君と一緒に見ている景色に、名前を付けたいの。いまだけの景色」
「なんて付けるの?」
ルイの問いかけに、今度はカナタが首をひねって考えた。
考えているうちに、なぜか次第に恥ずかしい気持ちになってくる。やっぱり止めようかな、と言い掛けたところで、いまの気持ちにぴったりな言葉が思い付いたので、口にした。
「旅立ちの景色」
ルイの様子をうかがう。
真面目そうに考えていたルイの顔が、渋くなった。
「普通すぎない?」
「そう? じゃあルイ君は、いい案あるの?」
「高すぎる景色。でどうかな」
「それはただの感想じゃない」
「なら二人の案を合わせるのはどう?」
ルイの提案に、カナタが繋げてみた。
「高すぎる旅立ちの景色?」
一つ、変な間が開いたかと思うと、ルイが先に吹き出した。
「絶対おかしい」
カナタもつられて笑った。
了
バンキャロナールの鬼の令嬢 はやし @mogumogupoipoi
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