36話 嵐鳥と雨上がりの空
「ここでどうするの? 逃げるなら馬を探さないと」
狼の少年が尋ねた。
「馬だと? 笑わせるなよ。そんなもので遠くまで行く気か? 狼の頭でものを考えるのは止めろ」
「なんだと」
テディの言葉に、少年の顔がむっとなる。
「やめんかテディ」
ロズワルドがあきれ顔になって仲裁に入った。
「相変わらず不愉快な物言いをしよるなお主は。ちっとも成長しとらん」
テディはふんと鼻を鳴らし、ラット族を一瞥したきり、その言葉を受け流した。
「しかし、懐かしい光景じゃ」
ロズワルドが意に介した様子もなく続ける。
「こうして高いところによく上ったものよ。なぁ、テディ」
「覚えていない」
テディが興味なさげに答えた。
「ねえ。ロズワルド。ここに来てどうするの? 私も分からないわ」
この場所にやってきた理由を探していたのは、娘も同じだった。狼の少年と顔を見合わせて、首を傾げている。
「テディ、お主の口から姫様に説明してやるんだ」
「雨が上がったなら、空を使うのがいい」
「空?」
「そうだ。魔女なら箒に乗れば、どこまでも遠くへゆける」
「私たちは魔女じゃないわ。箒も持っていない」
カナタが首を横に振った。
「ああ、そうだ。もう一つ方法があるんだ。大所帯で移動するなら、これが一番手っ取り早い方法なのさ」
そう言って、テディは白い雲に向かって、指笛を吹き鳴らした。澄みきった大気を伝い、笛の音は遠くにまで響いた。
「あっ」
娘が空を指さす。
陽の光を背に、黒い影が二つ、次第に大きさを増して接近してくるのが見えた。
間もなく、それらの影は、翼を持つ鳥であることが明らかになる。スカーレットたちのいる高さまで落ちてくると、風を巻き起こして、二本の細い脚で雄々しく降り立った。
「
娘が嬉しそうな声を上げた。
「ほっほ。ラット族と狼か。こうやって呼ばれるのは実に久しい」
一匹の
するともう一匹の
「おやおや、背中のお嬢さんはヒトではないね」
「私はカナタ。ヒトじゃないわ、鬼族なの。初めまして」
「ほっほ。鬼の娘とは珍しい。最近はめっきり交流がなくなってしまった」
「そうなの? 私はあなたたちのこと、よく知っているわ。母様がよく乗せてもらっていたと話していたの」
「なんと。この東の地でかい? それはもしや。いやいや。まさかな。そういう娘がいたことを思い出した。よければだ、その母親の名をお聞きしてもよいかな」
その動きは平和を運ぶとされる鳥とよく似ていた。親指のような形をした頭部を前後に揺さぶりながら前に進む。おなかの周りが玉みたいに膨らみ、柔らかそうな羽には、白と灰色の斑模様が入っていた。せわしなく頭が動くのは、絶えず視界を動かしていないと、対象をうまく捉えることが出来ない眼をしているためだ。それが彼らの見ている世界だった。
鬼の娘は母親の名を告げた。
「レイラよ。母の名はレイラ・バンキャロナール」
「ほほー。やはりそうか。バンキャロナール。覚えておる。よく覚えておる」
一匹の
「我々の知らない言葉をたくさん操る娘だ。我々の祖国の言葉も教えて欲しいとせがまれた。不思議な娘だった。そうか。あの娘とな。なんという導き」
二羽の巨大な
それから腰を低く落とした。
「バンキャロナールの令嬢であれば、乗せない選択肢はない。旅の話を聞かせてくれるか」
「私でよければ」
娘が嬉しそうにうなずく。
「ねえ、私も母様のことを聞きたい。ダメかしら?」
「ダメなことがあるか。ゆっくりと話をしようではないか。雲の上で」
「背中に乗れってこと?」
少年が戸惑いを見せた。
「そうよ。じゃないとなにに乗るの? ほら、行きましょ」
娘が高揚感を露わにして、少年の背中で足をばたつかせた。頭の痛みなどすっかり忘れて目の色を変えている。
少年が軽やかに飛び上がり、
「さあ立つぞ。よく捕まっておきなさい」
娘のありったけの叫声が遠ざかってゆく。
その背中は太陽へ向けて一段と小さくなった。
「さて、儂らも乗るとするか。なにしとる? お主もはよこい」
ロズワルドがもう一羽の
「どうした。行くのだろう? いまさら止めるとは言わせんぞ」
テディがまた不機嫌そうな顔になる。
「お前と同じなのが嫌なだけだ。老いぼれめ」
「文句を言うな。
「この旅になにがある」
テディが暗い気持ちを吐き出す。
「また悲惨な目に遭いたいのか」
「分かっておるくせに」
ロズワルドが、
「姫様は母君の後を継ぐと誓ったのだ。それなら従者はついて行くのみ。おまえも本当は期待しておるのだろう」
「期待だと?」
「そうじゃ。レイラ様とハル・フィンレイがたどり着けなかった場所まで、今度こそは行けるかも知れんとな」
「西に希望などあるか。私は希望など持たないことにしたんだ。だいたい、その様はなんだ。あっという間に老いぼれやがって。そんなよぼよぼの身で、西へ行けると思っているのか」
「老いたからこそじゃ。墓に入ってからでは、行くことも叶わぬ」
ロズワルドが答えた。
ふたりを乗せた
強い風を巻き上げ、地上がみるみる小さくなってゆくのが分かった。かつて天空より見下ろした遙かな大地。懐かしき大地が足下に広がる。西方へと目をやると、死の柱がそびえ立っていた。この世界はまだ相変わらず争いを続けている。
「儂は気付いたんじゃ」
とラット族の男がつぶやく。
まぶしさに目を細めながらも、遠くを見据える。目尻に寄った皺が、この二十年の歳月を思わせた。
「あの戦いが終わりを迎え、儂は何年もバンキャロナール家の従者として仕えた。それは大変光栄だった。平和なひとときだった。儂は、カナタ様の成長を見守りながらも、いつしか疲れて故郷の村へと戻っていた。それも悪くないと思ったんだろうな。儂にだって生まれた村が恋しいという気持ちはあるぞ。余生は故郷でゆっくり過ごそうと思っとった」
「なら、なぜ出てきた。昔と同じことを、こうも繰り返そうとする。やはりぼけたんだよ。お前は」
「いいや、違う。ぼけてなんかいない。儂は気付いたんじゃ。老いぼれたいまだからこそ、もう一度、西へ行くべきなのだとな。ラットの生涯四十年。儂はもう三八年も生きておる。老い先長くないことを知れば、いても立ってもおれんかった。これは儂にとって死出の旅じゃ。故郷の山でのんびりしていても、いつも思い出すのは、あの頃、お主らと旅をしたことばかり。思い出に浸り、寂しい死を待つよりも、また新たな旅に出て、その先で死に目に遭いたいんじゃ。死なないお主には理解できん感情かも知れんがな」
テディの心に影が差すのが分かった。
スカーレットは首輪の中でロズワルドの話を聞いていた。
不死を続けていると生き方を忘れてしまう。テディに限らず、多くの魔女がそうだ。もちろん、それは何億という歳月を生きているスカーレットも他人事ではない。時の流れに無頓着となり、やがて感情が摩滅してゆく。最後には、ただその場に立ち尽くし、なにもする気が起きなくなる。永遠の記憶を留め続けた不死者は、樹木と見分けがつかない。ひととき眠りについたと思っている間に、身体が草木に覆われてしまうのだ。そうならぬよう我々は忘却の言葉を唱える。必要な記憶も不要な記憶もまとめて捨て去ることで、薄氷の上で自我をかろうじて保ち続ける。それは、どこまでが己なのか、もはや自問する気すら起きない。
「なあ、テディ。他の連中は生きていると思うか?」
ロズワルドが長い髭を風で揺らしながら尋ねてくる。弱々しい見た目に反して、目だけは常に輝きを失わない。青年だったあの頃のままだった。
「一緒に旅をした連中のことじゃ。もう連絡も途絶えてしまった。ネズミたちに聞いても、見ていないという。エルフのシャーロック、
「野たれ死んでいるに決まってる」
テディが冷めた口調で答える。
「しぶとい連中ばかりだ。また会えるといいな。それも旅の楽しみの一つじゃ」
テディは黙ってふんと鼻を鳴らした。
連れない態度のように映ったかも知れない。しかしロズワルドには、それはさして問題ではないらしい。もしかしたら、目の前の魔女の真意に気付いているのかも知れない。本人ですら気が付いていない感情に。
テディの視線の先には、翼を広げた一羽の
「テディ。私の声が聞こえますか?」
スカーレットが、テディだけに呼びかけた。
「これはチャンスかも知れません」
「お前までそんな寝言を言うのか」
「あなたも望んでいるはず。また旅を再開できることを」
「再開して、それがなんになるんだ」
「あの日。道半ばで途絶えた我々の夢を、あの子たちに託すのです」
「軽々しく言うな。どれほどの絶望が待ちかまえているか、忘れたとは言わせないぞ」
「あなたにとっても、それは必要なこと」
「お前はなにも分かっていない。私のことを知っているのは、私だけだ。他の誰でもない」
「私とあなたは同じ肉体を共有している。私は、あなたでもあるの。そしてあなたは、私でもある」
「宿主と寄生虫の関係でしかない。もう話しかけないでくれ。私は、ひどい魔女さ。少しの気の迷いで全てを終わらせてしまった。二度と次はやってこない。これ以上、怒りに振り回されるのはうんざりなんだ。誰とも交流など持ちたくない。森でひっそりと娘の成長を見守っていたかったのに。それが私に出来るせめてもの償いだ」
テディの心がかき乱され、それとともにスカーレットの感情も大きく揺さぶられた。罪の意識はいつまでも消えない。己が背負った十字架をずっと手放せずにいる。
「救われるには、罪を打ち明けねばなりません」
スカーレットが娘たちの背中を目で追いかけながら続けた。
「この旅でそれが叶うことを、私は願っています」
テディは黙って唾を飲み込んだ。胸の鼓動が、静かに高鳴る。
「レイラ・バンキャロナール。私たちを結びつけてくれた鬼の娘。母でもあった。テディ、あなたの親友であり、あなたが最後にその眼で殺めた存在」
魔女の細い指先が、僅かに震えているのが分かった。
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