35話 亡国

 音もなく、厄災は訪れた。


 それは影の中から姿を見せた一人の女だった。まるで獲物を探す恐ろしい鰐のように、鋭い眼光をぎらつかせる。まもなく女は上半身を陸に乗り上げて、次に低い姿勢のまま足まで地表へと這いずり出てきた。スカーレットたちはその様子を遠巻きに眺めていた。振り乱したブロンズの長い髪。獣皮のマントを羽織っている。この戦場に似つかわしくないすらりと伸びた綺麗な素足を見て、側にいた鬼の娘が「あっ」と声を発した。


「ティナ」


 その言葉に反応し、女の顔がこちらへと向けられる。しかしすぐにまた側に転がっている別のものに視線を戻した。

 ティナと呼ばれた女が、裸足でゆっくりとアッシュの元へと歩み寄った。


「アッシュ。アッシュ、起きて」


 亡骸に呼びかける。

 状況がうまく飲み込めていないらしい。


「その男は負けた」


 テディが言った。


「血の契約で敗北したんだ」


 周辺には、炎の柱の跡が黒く残る。石畳が環状に沿って焦げ付いている様子を見て、女は、


「ああ。そう」


 と諦観したような低い声で喉を鳴らした。


「テディレディ。あなたが居たのね。二十年ぶりかしら」


 女の本来の声とは異なる、別の女の声だった。


「知り合いなの?」


 と娘が尋ねる。

 テディがうなずいて答えた。


「この国にいる魔女と言ったら、あいつだろうと思っていた。影の魔女。エデギア」

「影の魔女?」

「そうだ。かつて飼っていた火熊とともに町ごと葬り去られたこの国の王女。肉体がないから、ずっと誰かにとりついて生きている。趣味の悪い女さ」

「ひどい言われようね」

「なにをしにきた」

「それはこちらの台詞よ。ここは私たちの国。争いを持ち込んだのはあなたたちじゃない」


 エデギアがアッシュの頬を撫でて、力なくつぶやいた。


「そう。敗れたのね。エン族たちの国は興せなかった」


 その口調には、どこか寂しさがこもっている。


「でも仕方がないわ。アッシュがいないなら、国を興す意味もない。私の計画はここでおしまい」


 エデギアが羽織り物の中から何かを取り出した。

 鬼の角だった。


「私の角」


 娘が一歩前に踏み出し、叫んだ。


「お願い、返して!」


 エデギアの口元に笑みが浮かんだ。その魔女はゆっくりとした動きで、羽織者の中からさらに別の何かを取り出した。信じられないことに、鬼の角が六つ、一本の紐で縦に繋がれていた。


「貴様どこでそれを」


 テディの顔に影が差す。

 布にくるまれている魔人の化石も反対の手に握られていた。


「エデギア。なにを考えている? 気でも狂ったか?」

「こんなもののために血を流し、争いを続けているの。救えないと思わない?」

「どうする気だ?」

「どうもしないわ。これらはアッシュのために集めたの。でもアッシュがいないんじゃ、どうしようもない。無駄なもの」

「私の角を返して」


 娘が繰り返す。

 するとエデギアは娘の方を見つめて、答えた。


「返して欲しくば来なさい鬼の娘。待っているわ。我らの集会でね」


 エデギアの身体が影の中へと沈んでゆく。

 足下から見えなくなり、腰まで沈んだ。


「テディ、もちろんあなたも一緒にね。みな待っているわ。裏切り者のあなたのこと」


 テディはそれに答えない。

 影に落ちる間際、エデギアがアッシュの亡骸を抱き締めた。それは魔女エデギアの仕業なのか、彼女とともにある女の意志なのか、スカーレットの眼には判断がつかない。アッシュの動かなくなった身体とともに、ふたりはゆっくりと闇に飲まれてゆく。


「アッシュ。疲れたでしょう。いまは安らかに眠りなさい。あなたは十分に戦った。いつか理想の国を興しましょう。誰にも邪魔されずに。いつか。きっと」


 全てを飲み込んだ後、影は波紋を広げ、そして何事もなかったかのように、その揺らめきを止めた。


「ティナ」


 娘が気の毒そうにつぶやいた。

 テディが反応する。


「あの女を知っているのか? エデギアは人を操る。もう女の記憶は残っていないだろうさ」

「エン族たちの町で話をしたわ。悪い人じゃないと思うの」

「おまえは優しいな。悪党でなくとも、おまえに害をなす奴は星の数ほどいる。それはみな敵だ」

「ねえ、魔女の集会に行けばまたあの魔女に会えるの?」

「私は反対だ」


 とテディ。


「でも私の角を返してもらわないと」

「反対だよ。あいつらはこの大陸を終わらせようとしているんだ。そんな奴らの元へこちらからのこのこ出て行くなんて、ああ、ダメだ。やっぱりおまえを西へ行かせるなんて。私は心配で心配で。胸が張り裂けそうだ」


 テディがまた泣き出しそうな声になる。


「泣くなら後にせい。急いだ方がよいぞ」


 ロズワルドが冷たく言った。


「くそじじいめ。なに指図してやがる」


 テディが怒り出す。


「テディ、ロズワルドの言う通り、悠長な話をしている暇はありませんよ」


 スカーレットも加わり、テディを催促する。

 嵐はまだ過ぎ去っていない。


「早く、急ぎましょう」


 その言葉で、テディが不満を漏らしながらも、道の先導を始めた。行き先は伝えてある。

 狼の少年が娘を背負い、ロズワルドも剣を抱えて駆け足で後を付けてくる。テディの道案内に従い、みなで上階を目指した。


 王の間から続く階段を駆け上がると、胸壁に守られた開けた場所へと出た。

 空は青く晴れ渡り、白い雲が流れている。


 しばらく降り続いていた雨が、嘘のように止んでいた。

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