34話 蘇りの言葉

 テディの表情は苦悶に満ちていた。

 カナタの目には、その魔女がいまにも恐怖で押し潰されてしまいそうに見えた。言葉を発しているテディの唇は、小刻みに震えを伴う。溢れ出す彼女の執着心に、カナタは少しだけ怖くなった。だが、恐怖よりも別の、愛情のようなものも感じた。テディの言葉の裏からは、優しさが見え隠れしている。目の前の魔女は、ただひたすらに自らを心配している母のようだった。


「答えておくれ。私とともに屋敷へ戻るか。それとも、ここでみな死ぬか」


 テディが再び、その破滅的な問いを投げかける。

 カナタは首を横に振って答えた。


「屋敷へ戻ることは、したくない」

「なぜだ」

「だって屋敷へ戻ったら、ここであったすべてを忘れてしまうじゃない。それは私の望みじゃない」

「いいや。違う。いまは頭が混乱しているだけなんだ。忘れてしまえば、きっと元に戻る。辛いことはすべて忘れる方がいい。誰かに裏切られたことも、その角を失ったことも、大切な友の死も。忘却の言葉が全てから解き放ってくれる」

「母様はそれを選ばなかったはずよ。西を目指した」

「レイラとお前は違う。レイラはもういない。母の後を追うのは止めておくれ」


 カナタは胸の前で結んでいた風呂敷を解いて、その中からルークの亡骸を取り出した。布を床に広げて、ルークの身体をその上に優しく寝かせる。


「なんのまねだ?」

「あなたが教えてくれたこと」


 カナタは深く息を吸い込み、魔女から教わった言葉を唱える。

 正しい発音で。

 蘇りの言葉だった。

 唱え終わると、一つ間を空けて、ルークの鱗が不思議な力で一枚、ぽろりと剥がれ落ちた。鱗はその後、二枚三枚と、ぽろぽろ零れるように剥がれてゆく。そして中から白い光が漏れ出した。


「使ったのか」


 テディが確かめるようにつぶやいた。

 光は強さを増し、眩しさで眼を背けそうになる。しかしその一部始終を見届けたい一心で、カナタは眼を逸らさなかった。


 光は熱となって、亡骸の体内に埋もれていた肉と臓器を燃やし始めた。臭気を漂わせながら身が溶けて、大気中へと煙が上る。蛇の身体はみる間に太い一本の背骨と、そこから無数に生えている小さな骨だけとなった。まるで百足の足のように小骨が動き出し、かたかたと骨だけの蛇が風呂敷の上を回り始めた。床を嘗めるような進み方はしない。背骨から生えた無数の骨を脚のようにして、かたかたかたと前進する。蛇はすぐにカナタの存在に気付いて、寄ってくる。そしてカナタの膝下から這い上がってきた。カナタの腰を伝い、背中を巡って、右肩へとたどり着いた。首から先は失ったままだ。顔が分からない心配も間もなく解消された。首先から骨が伸び始め、蛇の頭蓋が形作られてゆく。そこに赤みのある身と筋がまとわりついて、丸い眼球が眼窩の下からぬるりと姿を見せた。身体から剥がれ落ちた鱗の一部が頭部に張り付いて、ルークの顔だけが元に戻った。その鱗の微細な模様も、目の輝きも、ちろちろと見え隠れする舌の長さも、まごうことなきルークそのものだった。


「なぜ唱えたんだ」


 テディがその様をみて、不憫そうな目でこちらを見つめてくる。


「忘れないため。大切な友達を失ったことを、私は絶対に忘れない。今日という日を、ひとときも忘れたくない。だからこの子と一緒に旅をする」

「なぜそんな選択をする。辛いことが待っているというのに」

「忘れてしまう方が楽かも知れない。でも、それじゃダメだって気付いたの。ルイ君が気付かせてくれた。私に必要だったのは、戦う勇気だったんだって」

「勇気だと?」

「私は弱い自分がずっと嫌いだった。苦しみから眼を背けて、自分を理解してもらえないことが不幸だと思っていた。でも違ったの。この旅であった苦しみも、悲しみも全部、背負って行こうと思えた。そうじゃなきゃまた同じことを繰り返すわ。母様だって、その選択をしたはずよ。母様は自分の夢を隠すことをしなかった。私はその強さに憧れたの。私もあんな風になりたいって」

「おまえはレイラとは違う」


 テディレディが否定する。

 それでもカナタは確固たる意志を持って、自らの言葉を伝えた。


「私はもう、自分の弱さに嘘を吐かない。寂しさに逃げたりなんてしないわ。バンキャロナールの娘として、いつか鬼族が自由に町を歩けるように、母様の意志を受け継ぐ。そのために、西へ行くわ」

「お願いだから、レイラに憧れるのは止めておくれ。西へ行くことは危険が多い。私の気持ちがなぜわからない!」

「あなたの気持ちはよくわかる」

「いいや分かっていない。お前を誰よりも心配しているのは、私なんだ。そこの狼でも、屋敷にいる他の誰でもない。私だ」


 カナタたちを取り囲む無数の蛇たちが、呼応するようにうごめき始めた。その拘束が、緩やかに強くなる。蛇たちは次第に攻撃性を増し、カナタとルイは身動きが取れなくなってしまった。


「テディ止めて。どうして私たちが争わないと行けないの」

「おまえが言うことを聞かないからだ。こうする他ないんだ」

「そんなの間違ってる」

「黙れ」


 テディが叫んだ。

 蛇に覆われているルイの手が少し動いた。剣を握りしめ、反撃に出ようとしているのが、そのわずかな動きから見て取れる。ルイの眼は、テディを狙っていた。

 無用な争いなど望んではいないのに。


「私の気も知らずに。我が儘を言いやがって!」


 テディが頭を抱え、低く呻いた。噛みしめた唇から血が滲み、爪を立てて髪をかきむしる。その怒りは行き場を失い、いまにも爆発してしまいそうだった。


「おおー。見つけたぞ。そこを動くな!」


 遠くから、声が響いた。

 テディレディが頭を上げて、周辺を見回す。

 だが、声の主の姿はない。

 遠くに見えるのは、残された兵たちの群れだけだ。


「ここじゃここじゃ!」


 上空を仰ぐと、明かりの差し込むステンドグラスの窓の縁に、なにかがぶら下がっていた。そのなにかは石壁の凹凸を器用に伝って、みながいる階下へと降りてきた。


「ロズワルド」


 カナタが名を呼んだ。


「いやはや、ようやく追いつきましたぞ」


 ロズワルドが四足歩行で素早く駆けてくる。兵たちの頭上をぽんっぽんっと飛び越え、あっという間に、側にまでやって来た。

 白い髭を生やした老いたラット族。上半身は相変わらず裸で、丸いヘソが見えている。リネン生地の半ズボンと薄皮の靴を履いた見慣れた従者の姿だった。

 ロズワルドは側にまでやって来るや、ルイにまとわりつく蛇たちを掴んでは投げ、掴んでは投げを繰り返し、ルイの手から剣を強引に奪い取った。そして目の前のカナタに向かって言った。


「姫様。この剣を樽に放り投げるなど、言語同断。許されざる冒涜ですぞ。あれから樽の中で一夜を過ごしたんじゃ」

「いまはそれどころじゃないわ」

「いいや、それが一番重要な問題じゃ」


 側にいた魔女の姿を見上げる。


「なんだ、テディ。居たのか。久しいの。ところでお主、まだあの森に引き籠もっておるのか? ずいぶん暇を持て余しとるのう」

「老いぼれめ。猿芝居しやがって。さては、お前が焚きつけたな。そこの狼を」

「なにをじゃ」

「とぼけるな。剣を渡したのはお前だろ。何のつもりだ」

「何のつもりも、記憶にない。見ての通りお主と違って、儂は老いとるんじゃ。誰になにを渡したかなど、いちいち覚えておらんわ。儂はただ姫様のお供がしたくて、ここまで来た。それだけよ。剣は目を覚ましたら誰かに盗まれとった」

「誰がそんなこと信じるか。老いぼれのふりをするのは止めろ」

「さあ、姫様。ワシもお供しますぞ。長旅は慣れておる。分からないことはワシを頼るといい」

「待て。話を進めるな」


 テディが制止する。

 ひときわ巨大な蛇が床下から姿を見せ、ロズワルドの身体を丸飲みにしようと牙を立てた。

 ロズワルドはその蛇の口元にまで歩いて行き、口の中に潜り込んで、どかんと腰を下ろした。


「おお。いい椅子を用意してくれたな。ちょうど座りたかったところじゃ。もうちょっと舌を高くしてくれんか。ところでテディ、お主は行かないのか」


 そう問われ、魔女が怪訝な顔になる。


「私は娘を連れ戻すのが目的だ」

「誰の意志でかの?」

「レイラとの約束だ」

「いやいや、母君はそんなことお前に依頼しとらん。外は危険だから、姫様を守れと言い残したんじゃ。お前は屋敷にいる方が安全だと考えて勝手に連れ戻そうとしているだけじゃないか」

「黙れ」


 蛇が口を閉じ、ロズワルドを飲み込もうとする。首だけを外に出した状態で、ロズワルドが続けた。


「殺せないのはよく分かっとる。レイラ様との約束だからな。お主は約束を律儀に守る。優しい魔女よ」

「丸飲みにされたいのか。減らず口をいますぐ塞げ」

「お主も気付いているはずじゃ。姫様の意志に従うべきだと」

「異論など聞きたくはない。西へ行くことは危険なんだ。どいつもこいつも、それがなぜ分からない」

「危険だから行くのだ。レイラ様が言った言葉だ。お前の方こそ、レイラ様の気持ちをなに一つ理解できておらんな。また、どやされるのが目に浮かぶようじゃ」


 テディの手がわなわなと震え出し、その場に座り込んだ。自らの黒髪をかきむしりながら、切なそうな声を上げる。やがて両手で顔を塞ぎ、嗚咽を漏らしながら子供のように泣き始めた。


 カナタたちにまとわりついていた蛇が、元いた場所へと帰って行く。ロズワルドをくわえていた大蛇も警戒心を解いて、ロズワルドを乱暴に吐き出した。


「おわっ!」


 蛇の口から飛び出たロズワルドが、ルイの腹に落下する。


「痛いっ」

「いや、すまん。全く。老体の扱いがなっておらん」

「ロズワルド、どうして」


 カナタが尋ねた。


「どうして? 姫様が望んだことではありませんか。西へ行くのなら、かつてレイラ様と旅を共にした我々を連れてゆくのが筋と言うもの。この狼はまだ半人前もいいところ。見てくだされ。いまもこうして寝そべって怠惰の極みではありませんか」

「ルイ君は死にかけたのよ。そっとしておいてあげて」

「退いて! 重いよ」


 ルイがロズワルドを押し退け、腹をさすりながら立ち上がる。


「この魔女も情緒は相変わらず安定せんが、役に立つだろう。なあに、根はいいやつよ」


 ロズワルドがうずくまっている魔女の背中を軽く叩きながら、そう言った。

 カナタはテディの方へ視線を向けた。

 魔女が立ち上がり、目の前に歩み寄ってくる。カナタは顔をまじまじと見つめられた。目を赤く腫らした魔女が、小さくつぶやく。


「私は怖いんだ。お前がレイラのようになるのが」

「母様の最後を知っているの?」


 テディレディは答えない。代わりに右手を差し伸べ、カナタの頬に優しく触れる。暖かい温もりを感じた。


「レイラの声が、いつでもこの耳に届くんだ。なぜか笑っている。不幸なことがあっても、それは自らの選んだ結果だと、そう言ってるんだ。私はその気持ちが分からない。どうしてだと思う?」


 カナタは問われ、答えた。


「母様はいつも一生懸命だった。自分の気持ちに正直に生きたから、笑っていられるんだと思う。私も母様のように生きたい」

「本当に西へ行くのか?」


 カナタはうなずいた。

 テディレディが目をつむり、観念したように返事をよこす。


「分かった。私もお前について行く。レイラとの約束を果たす」


 抱き寄せられて、カナタもその懐かしい匂いのする魔女に身を任せた。幼い頃、どこかで出会っていたような気がする。その記憶はもう残っていない。

 何かに気付いた様子のテディが、カナタを引き離した。

 小走りで駆け出したかと思うと、すぐに足を止め、周辺を警戒しながら大声で呼びかけた。


「来たか。ふん。スカーレット、お前の予感はいつもこうだ」


 それは自らの中にいる何者か、スカーレットと会話しているらしかった。だがそのやり取りは、テディ以外の耳には聞こえない。


「魔女の臭いだ」


 今度はルイが言った。

 ロズワルドから剣を取り戻し、周囲を警戒する。


 アッシュ・ギレイの亡骸の近くで、何かが動いた。

 そちらへ視線を送ると、亡骸の近くの影が波打つように揺れていた。

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