33話 約束
炎がかき消えるや、娘は一目散に少年の元へと駆け寄った。
全身ひどく負傷した少年は、娘に身体を預けるように足下から崩れ落ちる。
「ルイ君!」
娘が膝を付き、それを受け止めた。
仰向けになった少年の頭を、自らの膝の上に乗せ、優しく介抱する。少年の負った傷は深かった。
「どうして。こんなにまでなって」
「約束だ。安全な町まで、君を運ぶって」
「逃げてもよかったの。ルイ君が死んじゃうくらいなら、私のことなんて放っておけばいいのに」
娘の涙が粒となって少年の頬に流れた。
負傷した背中から止めどなく血が流れ出る。
少年が、濁った声を絞り出した。
「カナタが必要としてくれたから。俺は、もうこれ以上、逃げたくなかったんだ」
「ルイ君」
娘の綺麗な手が、少年の血で染まった手のひらにまで伸びた。少年の手が少しだけ反応を見せて、その手を握り返した。
「やっと、応えられた。良かった」
少年の口元に笑みが浮かぶ。全てから解放されたような、清々しさがあった。
「だめ。死なないで。私まだ西へ行ってない。ルイ君についてきて欲しいの」
「この傷じゃ出来そうにない。ごめん」
「私の方こそ、ごめんなさい」
娘がさらに何かを言おうとして、言葉を飲み込んだのが分かった。唇を堅く結び、狼の最後の姿をじっと見つめる。
次第に、少年の重そうな瞼が閉じられてゆく。まるで悔いはないと言いたげな、そんな安らかな表情をしていた。
「ありがとう。私、ルイ君のこと絶対、忘れないから」
娘の腕の中で、少年の口元がわずかに緩んだのが分かった。少年の身体に宿っていた魂が、まさにその肉体から離れようとしていた。
死の瞬間だ。
だが、悲しいことに、死は誰にでも平等に訪れたりはしない。不死者がそれを物語る。生きることを望みながらも死にゆく者もあれば、死を望みながらも生きながらえている者もいる。
それは、あまりに不公平だ。
この狼の少年もまた、ここで死ぬ選択を与えられてはいなかった。
娘と少年のやり取りを高い場所から見下ろしていた蛇の王が、突然、笑い声を上げた。
「ははっは。うはは」
娘がそちらを見る。
とぐろを巻きながら、蛇の王が高笑いを続ける。
「いや、悪かった。せっかくの別れの挨拶に水を差すのも野暮だ。最後まで見届けてやろうと思った」
「なにがおかしいの?」
娘が怪訝な顔になる。
「よく見ろ」
娘が腕の中の少年を、もう一度見た。すると少年の傷は見る間に癒え始めていた。あれだけ激しく損傷していた背中の傷が、切り飛ばされていた右腕が、片耳が、嘘のように僅かな光と暖かい風を残して、綺麗に治癒されていた。少年の身体だけ時間が巻き戻っているかのようだ。
「どうして」
「あれを見ろ」
蛇の王に促されて、娘は敗北した戦士の方へ視線を送った。
「やつの魂がいま消えた。血の契約に勝利した者は、奪った命を糧に傷を癒す。魂にはそれだけの力が宿っている」
少年の身体が小さく跳ねたかと思うと、次に大きく咳こんだ。
「がは、ごほごほっ」
「ルイ君!」
「我の役目はこれで終わりだ。また舞台が必要になったら呼ぶといい。愉快な余興だった。ふはは」
蛇の王の頭が床へと消えた。蜷局がぐるぐると巡って、残った尻尾が地中の見えないところへと、潜っていった。
「ルイ君。大丈夫?」
「赤い川が見えた。ジルがいた」
「ジルが?」
「船を漕いでたんだ。それで、川に落とされた。棒でお
「どういうこと?」
娘が困惑した表情になる。
「分からないけど。掃除の邪魔だから、どけって言われて」
「船を漕いでたんじゃないの?」
「箒で漕いでたのかな」
狼の少年が首を傾げる。
二つほどの間が開いて、娘が思わず顔を逸らして笑い出した。
「なんで笑うの」
「いいえ。おかしくて。心配して損した」
「本当だ。生きてる。傷が消えてる? なんでだろう」
「いいよ、そんなこと。おかえり。ルイ君」
「娘の呼びかけで、少年は察したように深くうなずいた」
「うん。戻ってきたよ。ただいま。でいいのかな?」
娘は答えずに、少年の頬に手を当てた。
少年がそこで思い出したように「あっ」と声を上げた。
「なに?」
「そうだ。これ。渡してなかった」
懐から取り出したのは、翡翠色に輝く石と銀色の鎖だった。
「私の角飾り」
「大切な物なんでしょ」
「うん。すっごく」
「これをカナタに届けるって約束したんだ」
「ジルと?」
「詳しくは言えないよ。でも、俺だけの力じゃこれを届けることは出来なかったんだ。それだけ伝えて置きたい」
娘がうなずいた。そして少年の手のひらに乗った角飾りをそっと拾い上げた。
「母様の形見なの」
「うん」
「母様の思い出がたくさん詰まってる。私に勇気をくれる角飾り」
「僕もこの旅で、たくさん勇気をもらった。だからカナタには感謝してる」
少年の言葉に娘は歯を見せ、頬を綻ばせた。
膝の上で仰向けになっている少年の額に、娘の額が当てられる。ふたりの握った手に力がこもるのが見て取れた。少しの沈黙の後、娘が受け取った角飾りを、残った片方の角に結び直してから、意を決したようにつぶやいた。
「私、決めたわ」
「なにを?」
と少年。
「西へ行くことにする」
「最初からそう言ってたじゃん」
「うん。そうね。改めて決めたの。ついてきてくれる?」
「もちろん。そのために来たんだ」
ふたりが、おかしそうに笑った。
周囲のこともすっかり忘れて、心から安心しきっている様子だった。そんなふたりを遮るように、正面に暗い影が差した。
「西へ行くだと? 許されると思っているのか?」
側で静かに口を開いたのは、魔女テディだった。
娘たちが振り仰ぎ、こちらを見てくる。テディの呼びかけに、なにが起ころうとしているのか、理解が及んでいない様子だった。
「私を騙したのか? お前はさっき私と約束したはずだよ。屋敷へ戻るって、そう話していたじゃないか。聞いたよ、確かに。この耳で。そうじゃないなら、嘘を付いたことになる。違うか」
その不満はテディの心の中で膨れ上がり、スカーレットの感情にも影響を及ぼした。憤りと失望、悲しみ、全てが混濁していた。
「テディ。やめなさい。ゆっくり話し合えばいい」
スカーレットが取り持とうと試みる。
しかし、その声は感情に支配されたテディの耳には届かない。スカーレットはまるで世界の終わりが来たような気分にさせられた。
娘たちの周囲を、テディの操る蛇たちがゆっくりと取り囲んでゆく。呼吸の荒くなったテディが、ろれつの回りきらない舌で、まくし立てた。
「せっかくお前を屋敷へ連れ戻せると思ったら、これだ。西へ行くなどと訳の分からないことを口走る。そこの狼と楽しくおしゃべりしているだけで、腹が立つというのに」
「テディ、落ち着いて」
スカーレットの再度の呼びかけも、黙殺される。
「私を、煩わせるのは止めてくれ。さあ、答えるんだ。屋敷に戻るか。それとも、ここでみんな仲良く死ぬか。正しい方を選んでおくれ」
テディの第三の瞳からは、熱い涙が溢れ出していた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます