痕に這う

有理

痕に這う

花咲 慶一郎 はなさき けいいちろう

花咲(相良) 紫 はなさき(さがら)ゆかり



※「摘まれた花の」のスピンオフ作品です。



慶一郎N「腕の中。眠る君はあの頃と何も変わらない。」

紫「がっかりした?」

紫「誰にも、言わないで。」

慶一郎N「今も変わらない。高嶺の花だ。」


紫(たいとるこーる)「痕に這う」


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慶一郎「おはよう。」

紫「おはよう。コーヒー淹れるわね。」

慶一郎「自分でやるよ。座ったままでいい。」

紫「でも、」

慶一郎「副作用。今日は辛いだろう。」

紫「…ごめんなさい。」


慶一郎N「ごりごりというミルの音は苦手だ。威圧感を与えている様で、手で機械を覆う。彼女は窓の外をぼんやり眺めている。」


紫「今日は雨が降るかしらね。」

慶一郎「天気予報は晴れだ。」

紫「そう。」

慶一郎「でも、傘を持っていくよ。」

紫「ええ。その方がいいわ。」

慶一郎「昼食は、何か準備しておこうか?」

紫「…」

慶一郎「何か食べた方がいい。」

紫「今日は、いいわ。慶一郎さんが帰ってきたら夕食は食べるから。」

慶一郎「昼も一度戻るよ。」

紫「でも、」

慶一郎「果物でも買ってくるから。一緒に食べよう。」

紫「ごめんなさい。心配かけて。」


慶一郎N「彼女と出逢ったのは高校1年の入学式。一際目立つ栗色の髪に端正な顔つき。貼り出されたクラス表を見ているだけで絵になる様だった。」


---


紫「あの、すみません、」

慶一郎「は、はい」

紫「私の名前、どこにあるか分かりますか?」

慶一郎「…名前」

紫「これ、」


慶一郎N「差し出された紙には“相良紫”と書いてあった。」


紫「人が多くて、よく見えなくて。」

慶一郎「ああ、そうですね。」

紫「あなたは背が高いから見えるかと思って。」

慶一郎「まあ、えっと、6組みたいですね。」

紫「ありがとうございます。」

慶一郎「いえ。」


慶一郎N「小さくお辞儀をして、人混みから去っていく。彼女の姿を何人もの人が振り返って見ていた。高貴で凛とした女性だと誰もがそう思っていた。」


---


紫「おかえりなさい。」

慶一郎「ああ。」

紫「はい、鞄。」

慶一郎「いいよ。」

紫「今日、天気が良かったから病院に行ったの。」

慶一郎「そうか。」

紫「今度また旦那さんと来てねって。」

慶一郎「…。明日行こう。」

紫「すぐにって言ってなかったわ。次のお休みでも、」

慶一郎「いや、明日行こう。」

紫「…ごめんなさい、」


慶一郎N「謝る彼女にかけるべき最善の言葉を俺は知らない。」


紫「今日はどこかに食べにいくの?家政婦さん作って行かなかったから。」

慶一郎「いや、俺が作るよ。」

紫「え?」

慶一郎「消化のいいものを部下に聞いたんだ。」

紫「疲れてるのに、」

慶一郎「疲れてない。ほら、座って。」

紫「珍しい。明日は槍でも降るのかしら。」

慶一郎「天気予報は晴れだ。」

紫「そう。」


慶一郎N「ふわりと笑う彼女は窓際のロッキングチェアに腰掛けた。そして、俺が渡した本をペラペラ捲る」


紫「ねえ。慶一郎さん。昨日ね部屋を片付けてたら卒業アルバムが出てきたわ。」

慶一郎「そうか。」

紫「顔って案外変わらないものね。歳を取っても。」

慶一郎「そうだろうな。」

紫「やっぱり、昔の方が綺麗?」

慶一郎「変わらないよ。」

紫「そうかな。この目元とかやっぱり、」

慶一郎「変わらない。」

紫「…ふふ、変なの。」

慶一郎「なにが?」

紫「キッチンに立ってるなんて。変なの。」

慶一郎「そうか。」

紫「…あなたは私に言わないの?」

慶一郎「どうして?」

紫「…なんでもない。」


紫「明日、雨が降ればいいのに。」

慶一郎「そうか。」

紫「そしたら、相合傘してくれる?」


慶一郎N「叩きつける様な雨の日は必ず高校2年のあの日を思い出す。彼女と交わした秘密は今でも燻ったまま。」


---


慶一郎N「塾の帰り、その日は朝から雨だった。傘を跳ねる音が喧しい。いつも通りの街並みに不可解な景色が一つ混じっていた。よく見ると歩道に裸足で座り込んだ女の姿だった。」


慶一郎「あの、大丈夫ですか」

紫「…」


慶一郎N「どす黒く変色した栗色に打たれた頬、俺の知っている凛とした姿などどこにもない、相良紫がそこにいた。」


慶一郎「あの、相良さん、」

紫「…よく知ってるんですね。私の名前。」

慶一郎「風邪をひいてしまう、立てますか?」

紫「放っておいてください。」

慶一郎「そういうわけには」

紫「放っておいて、と言っているんです。」


慶一郎N「頬を伝った水が涙なのか雨なのか全くわからなかった。ただ、放っておいてはいけない、そう強く感じた。」


紫「な、」

慶一郎「立てますか?」

紫「やめ、」

慶一郎「肩をかしますから。ほら」


慶一郎N「細い腕を掴んで引き上げるとスカートの合間から太腿が見える。その内腿には無数の火傷痕があった。」


紫「っ、誰にも、言わないで、」

慶一郎「…ほら。歩いて。」


慶一郎N「半ば引き摺るように、彼女を家へと連れ帰った。」


--


紫「…」

慶一郎「俺の服で申し訳ないが、とりあえず着替えて体を拭くといい。」

紫「…」

慶一郎「…着替えられないほど衰弱しているのなら手伝うが。」

紫「自分で。」

慶一郎「そうか。」

紫「…なんで、」

慶一郎「何?」

紫「放っておいてくれてよかったのに。」

慶一郎「俺の勝手だ。」


慶一郎「着替えるだろう、部屋の外にいるから終わったら、」

紫「いい」

慶一郎「な」

紫「いい。ここにいて。」


紫「見られるのには、慣れてるから。」


慶一郎N「白いシャツをあっさり脱ぐといたるところに散らばる火傷痕があらわになる。目のやり場に困った俺は俯くと、彼女が言う。」


紫「醜い?」

慶一郎「いや、そういうわけじゃ」

紫「がっかりした?」

慶一郎「…」

紫「気持ち悪くないなら、見てて。」


慶一郎N「彼女は。高貴で凛とした歪んだ彼女は、そこに立っていた。」


紫「知ってる?足が綺麗な女には気をつけなくちゃいけないのよ。」

慶一郎「どうして?」

紫「人を騙して上手に生きる術を持ってるんですって。」

慶一郎「それの何が悪い。」

紫「騙されて喜ぶ人がいる?」

慶一郎「騙される方も悪いだろう。」

紫「…変な人。」

慶一郎「そうかな。」

紫「私が人を誑かしたりしないように、お父さんは痕を付けたの。」

慶一郎「…」

紫「傷モノは誰も欲しがらないでしょ、って。」

慶一郎「…そうか。」

紫「…優しい、でしょ」

慶一郎「…そう、だな。」

紫「ねえ、あなた名前は?」

慶一郎「…花咲、慶一郎。」

紫「花咲?」

慶一郎「ああ。」

紫「あなたに咲かせてもらう花はきっと幸せね」

慶一郎「…なんの話だ。」

紫「大きなお家に、大きなバスタブ。あなた何の苦労もせずに育ったでしょう?」

慶一郎「…」

紫「幸せしか知らない人が育てる花は、きっと幸せよ」

慶一郎「嫌味のつもりか?」

紫「あら、嫌だった?」

慶一郎「…試してみるよ。」

紫「何。」

慶一郎「俺に育てられた花が幸せかどうか。」


慶一郎「中庭の花壇。花が咲いたら聞いてみてくれ。幸せかって。」

紫「…ふふ、本当に変な人。」


慶一郎N「落ちる水滴が凹凸のある傷痕を舐るように這っていく。俺は相良紫に、恋をした。」


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紫「っ、」

慶一郎「…どうした。」

紫「薬を、薬を飲まなきゃ、」

慶一郎「夜の分は飲んだだろう。」

紫「だめよ、足りなかったのきっと、足りなかったのよ。」

慶一郎「処方された分はきちんと飲んでいる。大丈夫だ」

紫「いいえ、だめよ。あなた、取ってきて。リビングのテレビ台のところに、」

慶一郎「紫。」

紫「またおかしくなってしまうわ。みんなに変だって笑われてしまう、きっとあなたも」

慶一郎「紫。大丈夫だ。」

紫「飲まないと、いけないのよ、」

慶一郎「うん。」

紫「愛して、もらえな、くな」

慶一郎「あいしてるよ。紫。」

紫「うそ、」

慶一郎「明日は雨だ。」

紫「あめ…」

慶一郎「天気予報は雨だよ。」

紫「…」


慶一郎N「彼女の寝息を確認すると真っ白になった拳を解いてやる。掌には血が滲むほど爪痕が残っていた。」


慶一郎N「紫は。ずっと俺が守ってやらなければ。あの雨の日の様に。ずっと、傘をさしてあげなければ。」


慶一郎N「だから俺は雨の日が、嫌いだ。」


-


紫「雨が降ればいいのに」


紫N「そういうと、必ずあなたは目を伏せる。」


慶一郎「天気予報は晴れだ。」


慶一郎「でも、傘は持っていくよ。」


紫N「あなたは私を決して変だと言わない。」


慶一郎「あいしてる。」


紫N「生きやすく管理されたこの温室は、窮屈でしかたないくせに。私はここから出たら、すぐに死んでしまうんだろう。」


紫「あなた何にもさせてくれないんだもん。掃除もハウスキーパーの人が来られるし、洗濯もクリーニングだし。私の料理嫌いなの?」


慶一郎N「好きに決まってるだろう。ただ、何が引き金でお前が苦しむのか分からないんだ。雨音が聞こえないように高層階の部屋を買った。火傷や怪我をしないよう家政婦を雇った。たばこの匂いがする店は全て調べて行かない様にした。俺は、後悔は、したくないんだ。」


紫「“恍惚”あなたは嫌いなんでしょう?」


慶一郎N「お前と一緒に湖に落ちるのは、きっと俺ではないだろうから。だから、嫌なんだ。あの本は。」


紫N「青く揺れる湖の水面は私においで、と手招きしているようで。」

慶一郎N「この水底に今、2人で落ちてしまえばいいのに。」

紫N「雨の日が好きなのは、」

慶一郎N「雨の日が嫌いなのは、」

紫N「あなたが私を見つけてくれたから。」

慶一郎N「お前が泣いている気がするから。」


-


紫「おかえりなさい。」

慶一郎「ああ。」

紫「はい、鞄。」

慶一郎「いいよ。」


紫N「私はこの牢獄でしかきっと息ができない。」


慶一郎N「何も変わらない。腐っていようが、」


慶一郎「高嶺の花だよ。」

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痕に這う 有理 @lily000

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