第5話 おおきなケーキ ~おおきいの~

冬の姫、ローレンシアは窓から外を眺めて思う。


やはりあれが原因ね・・・

あのケーキはきっかけに過ぎない。

見られてしまった。

二人の逢瀬を。

あれは些細な事だった。

いつもなら起こるはずもない出来事。


ローレンシアはほぉっと溜息をつく。吐息は白く、今が冬だと気付かせる。

吐息は窓を曇らせ、窓から見える暗い夜空を覆い隠した。


あれは収穫祭の準備を殿下としていた時。

今年は例年になく豊作であり、殿下と共に忙しい日々を過ごしていた。


殿下を支える4人の姫。

王国の掟に縛られし4人の女。

それでも自らの意思で殿下に愛を捧げる事を誓った4人。


私達には役割がある。

私達の1人が王国の中央に聳え立つ塔に入る事で、王国には季節が訪れる。

冬が要らない?

馬鹿言わないで。

冬は確かに困る。

寒いし、作物もまともに育たない。雪が降れば雪かきだって大変。

でもね。冬というのはじっと耐えて力を蓄える季節。

外の寒さから身を守るために体を寄せ合い、信頼出来る人と互いの絆を確かめる季節。

凍える程の寒さの中に1人いるのではなく、暖炉を囲んで皆でいる事の大事さを知る季節。

そうやって確かめ合った絆が春に芽吹くの。


今は私が塔に入っている。だから冬。

だけど冬を迎える前の秋の収穫祭。

その時にあれは起こった。


忙しく準備に追われる殿下の傍で私もまた忙しく動いていた。

普段から体を鍛えている殿下と違い、部屋にこもる事が多い私は倒れそうになった。

そんな私を殿下は倒れないように優しく抱きしめてくれた。


すぐに離れれば良かったのかも知れない。

でも二人とも離れられなかった。

布越しに伝わる愛しい人の感触。

普段ではありえない程に近いその眼差し。

私の腰へと回されたその逞しい腕とかけられる王子の気遣いの言葉。

私の体調を気遣うその表情と笑みはまさに私の心を溶かす魔法。

求めて止まない愛しい人との距離が不意に縮まった事で、私はその距離を失う事が惜しくなった。

恐らく殿下もそうであったと思いたい。


その姿は数人の側仕えには当然見られている。

でもそれだけでは済まなかった。

春の姫、フェミナ。

彼女も偶然そこに居合わせた。

金髪ブロンドの髪と青い目が綺麗な彼女。

明るく朗らかに、巧みな話し方で皆を楽しませる事が得意な彼女。

その花が綻んだような笑顔は私には出来ない。

交渉も上手。機微を読むのがとても巧い。

私には無い色々なものを持っている。


フェミナに見られていた事に気付いた時には遅かった。

彼女は普段とは違う、とても悲しそうな表情を浮かべて去っていった。

大きく見開かれた瞳と強張ったこわばった表情の後に浮かべたはにかみにも似て違う表情は私の何かを貫いた。

彼女が去る後ろ姿を呆然と眺めた私と殿下は、ようやく自分達の姿に気付いて距離を取った。

あの時の温もりと罪悪感は今も覚えている。



そっと、曇らせた窓を指でなぞる。

まっすぐに引いたつもりのその隙間から、曇らせた窓を通して見える景色に期待しても、暗い夜空が何もかも見透す事を許さなかった。

月明かりもない、そしてひどく荒れた吹雪は誰かの心を表わしているようで、いつもなら塔から見えるはずの暖かな街の灯りすらも遮る。

私はそこには見出せなかった何かに失望し窓から離れた。

窓に指でまっすぐ引いた線から伝った水滴は、まるで晒け出す事の出来ない想いの代わりに溢れ出した涙のようにその場に残った。




凍てつく寒さに凍えそうになる心を暖める為にわたしは暖炉の前に座る。

くべられた薪は静かに燃え、やがて灰になる。わたしのこの気持ちも灰になればよいのに、と思いもするのに少しも灰になってくれない。

時折音を立てて崩れる薪は、どこかわたしの心を表わしているようにも見え、誰に向ける事もない言葉の奔流はその出口を見付ける事はない。

忘れられないあの光景。それがわたしの気持ちを逆立たせる。


何時からか、4人は一緒ではなくなった。あれはそう。多分あの時。

わたしは忙しく政務をこなす殿下を楽しませるために、殿下の元へと赴いた。

寄り沿う二人、見つめ合う二人。

二人は身を寄せ合っていた。

その光景が信じられなかった。

4人一緒。そう小さい頃に話し合った。

4人で喧嘩して殿下を困らせたから、殿下を困らせたくない為に皆で決めたルール。

だからこそ信じられなかった。

そこには金髪ブロンドに青い瞳を持つ殿下と、銀髪に紅の瞳を持つローレンシア。

二人の寄り沿う姿は太陽と月に例えられる事もある。


彼女の姿は際立って目に映る。

あるパーティでの事。巧みに言葉を操り皆の注目を集める事に成功した時に、ただそこに登場するだけでその視線を奪い去った彼女がいた。

わたしではとても読み解けない書物を殿下の為に読む彼女がいた。

難しい判断が必要な時には常に彼女が殿下の側にいた。

そう。二人が寄り沿う姿を見たあの収穫祭の時も。

彼女はわたしには無い色々なものを持っている。



いつからか、いつからか。そうあの時から。

あの時から目につくようになった。ほんの僅かな違い。

そのほんの僅かな違いはわたしの心に棘となり突き刺さり、わたしの心を削り、わたしの心を擦り切れさせていった。

あの日もそう。

殿下は私達4人の為にお茶会を催してくれた。

王国の為に塔へと入る私達の為に。

殿下はお優しい。いつだって気遣ってくれる。

そう思っていた。


皿に取り分けられたケーキをメイドがカートに乗せて運んでくる。

カートは王子の側で停止し、メイドが恭しく一礼をして下がる。

そのケーキを王子が私達の前へと並べてくれる。


真っ白な綺麗さがありながらも、ホイップでデコレートされたショートケーキ。

美味しそうな苺がその赤色で、より白さを際立たせている。

その中央に飾られている鮮やかな赤色の大きな苺は真っ白な汚れなき下地の上で、まるで愛の象徴とでも言うかのような存在感を放っている。


いつだってそう。王子の気くばりにわたしはいつだって喜びを噛みしめていた。

でももう違う。

たった少し、ほんの僅かな違い。それに気付いたわたしにはもう純粋に喜びを噛みしめる事は出来なかった。

彼女の前に並べられたケーキは、そのケーキだけは他のものより大きな苺が乗せられていた。

偶然なら良かった。でも違う。

あの日もそうだった。あの時だってそう。

そう。気付いてしまったわたしの心はその事だけを見つめ続けて来た。


殿下のやさしさが、私達に注ぐその思いやりが大きい程に、その残酷さはわたしの心を抉った。

届かない距離。望んでも得られない距離。

ほんの少し指を伸ばせば届きそうな所にいるのに、どこまで手を伸ばそうとも届く事のない距離。

わたしがどれだけ巧みに話をして殿下を楽しませても入れ替わる事のない距離。

わたしがどんなに殿下を支えるために儀式を行っても縮まらない距離。

日々を重ねる程に、現実はわたしにその事実を突き付ける。


これ以上、わたしはわたしの心から溢れ出しそうになる言葉を抑える事が出来そうに無かった。

言葉を押し留める堰はもう壊れる寸前で、一度壊れてしまえばもう二度と戻る事もない。

だからわたしは席を立った。

走り去るわたしに殿下は何か告げたようだけれど、わたしにはその言葉を聞く余裕なんてどこにもなかった。



わたしはそのまま領地へと逃げるように戻り、そして王都へは戻らなかった。

わたしの役割には愛し合う二人を祝福する役割があった。

幸せそうに笑いあう二人を、わたしも幸せな気持ちで祝福していた。

でもそれももう出来そうもない。次に二人にあった時、どんな顔で会えばよいのか分からない。

いいえ。わかっている。わかっているつもり。

でも出来そうもない。

まだ出来そうもない。

後少し、少しだけ。気持ちを整える時間をください。

わたしの中にくすぶり続ける、黒く、淀んだこの気持ちが消えるまで。



暖炉を見つめるフェミナに側の者が何かを言うも、それはフェミナにとってはどうでもよい事のようで彼女は反応しない。

いまだに煌々と燃え続ける炎をその瞳に宿しながら、彼女は今日も心を王都へと飛び立たせる。




塔の前にある広場。

季節の変わり目に姫が交代する儀式以外ではさほど使われる事もないその場所は、姫達の語らいの場だった。

セミロングの金髪ブロンドと青い瞳、顔立ちは可愛いというより綺麗という言葉が似合い、あまり柔らかい印象を与えない。

その外見に相応しい口調を伴って夏の姫、マーガレットは隣に座る女性に話しかける。


「フェミナ、交代の儀式に来なかったわね」


その言葉を聞きながら、ティーカップに口をつける女性が頷く。

赤毛に栗色の目、どこかあどけなさの残るその姿は、その魅力において隣に座るマーガレットとは対照的に映る。

秋の姫、ララは答える。


「あの子は繊細だから、多分気付いたのだと思う」


マーガレットはその言葉に眉をしかめながら、クッキーを手に取り、割って口元へと運ぶ。

ララはマーガレットに目を向けながら言葉を続ける。


「いつまでも4人一緒。そう言っていた頃はもう昔の出来事。いつまでも子供のままでは居られないわ」


ララの言葉をクッキーと共に噛みしめたマーガレットは自身の心の内を晒け出す。


「それでも私は今、充分に幸せよ。それって私が殿下を愛していないって事なのかしら」


隠す事もあまりない、彼女のそんな性格に彼女らしさを感じつつ、ララは言葉を返す。


「ええ、分かっているわ、マーガレット。あなたの愛は決して小さくない。捧げた愛に見合うだけの愛情を欲しがる私達がいるだけだわ」


いつもはそこに居たはずの、今は誰も座っていない椅子を見て、その後にはるか遠くへと目を向けるララとマーガレット。

彼女がここに居ない事に対して何か出来る事はないかと思いながらも、まだ自分達の出番ではないと知る2人は揺らめく心を抑えつつ、その時を待つ。

もう一口、残っていた割れた片方のクッキーを口へと運びながらマーガレットは独り言のように呟く。


「一人の持つ愛に限りが無ければ良かったのにね。そうすれば皆に望むだけ与える事ができるのに」


ララはその誰にとも向けられていない言葉に言葉を重ねる。


「でも大きな愛を貰っているわ。それは限りある愛だからこそ言える事でもあるの」


ララの言葉はマーガレットには何の慰めにもならずただ一言を紡ぎ出させただけだった。


「でもだからこそ。私達は一人占めしたいとそう願ってしまうわ。それがいけない事だと知っていても」


2人はそれ以上の言葉を交わす事なく、遅れている今日の主催者の登場を静かに待った。




マーガレットはティーカップを揺らして起こるさざ波を見つめながら想う。

私は早くに気付いたのだろう。

私の役割はあまり殿下との距離を縮める為には役立たなかった。

軍事教練、乗馬、護衛の扱い方、領地の視察。そんな女性らしくないものばかりだった。

殿下と共に歩き、共に鍛え、共に目指す。

それは私にとって楽しい日々だった。

それでもやはり気付いてしまった。

城へと戻る時、誰かが必ず出迎えてくれる。

だからこそ分かってしまった。

殿下が誰と話す時が一番楽しそうにしているのかを。

殿下の横に立ち、同じ視点で同じ物を見る。

そうすれば嫌でも見えてくる。


あの子が一番殿下と共有する時間が長い。

殿下の執務に必要な資料を運び、選び、指示を出す。

少しでも殿下の負担を減らすため。

そんな気くばりを見せられて、私はあの子に嫉妬すら持たなかった。

いや・・・そんな事はない。

わずかながらも持ってしまった事もある。

あの子が出迎えてくれる日は、殿下の足運びは速くなった。

あの子と語らう時の殿下は自身では気付かないのでしょうけど、どこか浮わ付いていた。

視察の際に、「帰ったら相談だな」、と呟いた表情は、遠くを見つめたまま困ったようではあっても口元に笑みを浮かべていた。その表情はきっとあの子のためのもの。

私に無くてあの子にあるもの。

それは数え切れない程にあるのでしょう。

でもあの子に無くて私にあるもの。

それが少なくても私は知っている。

だから私は悲しまない。だってその時、殿下は私と共にあるのだから。

私が殿下と共にある時、あの子もきっと、私が殿下と共にいない時の気持ちを受け入れていると思う。

それでも僅かに望むなら、あの子と一緒にいる時に、殿下が私の事を想ってくれれば私の心も喜びに震える。

それがいけない事だと知りながらも、ほんの少しの至福の時を、向うへと傾いた天秤が僅かにこちらへと傾く事の喜びが、ほんの僅かな彩りを日々に与えてくれる。

勿論向うへ更に傾く天秤に喪失感を感じ、焦る事もある。

でも無くならない。殿下と共に築いた時間は無くならない。

私が私である限り、無くならない。

なぜなら殿下のためのマーガレットは私一人。それはあの子では代わりにならない事実。

願わくば、もう一人のあの子もその事に気付いて欲しい。あなたの代わりは誰にも務まらない。




もの憂げなマーガレットを横目で見、そっとしておく事にしたララは自身も想いに耽る。


フェミナが去ったその日から、ローレンシアも塔から出なくなった。

側付きの者達や塔へ入る許可を持つ者達は彼女を心配して外出を促す。

でも彼女は出なかった。

その理由を聞いた際の彼女が言う言葉は「フェミナが来るまで待ちます」、その一言だった。

周りの者もフェミナとの間に何かあったのだろうと察しながらもそれ以上の事は聞かなかった。

後はただ、フェミナが来てくれさえすれば良かったから。



それでも今年の冬は長すぎる。

皆、なぜ春が来ないか理由を知りたがっている。

理由などどうでもよいから早く春が来て欲しいと願う者もいる。

長すぎる冬は絆を確かめ合うだけでは足らずに行き過ぎ、諍いの原因にもなっていた。

春の訪れと共に感じる解放感はいまだ得られず、周りを閉ざされた閉塞感から心は棘を持つ。

ここ数年続いた豊作で、食糧にはまだ余裕はあったがそれも長くは続かない。

何よりも燃料が足らない。薪不足になったためにあまり暖が取れず、それが更に皆の心を凍てつかせた。

私達皆で考えた、楽器も歌も玩具も遊びも、長過ぎる冬を埋める事は出来なかった。


いつだって彼女の知識を頼りにした。

なぜなら彼女は博識で、努力を惜しむ事がなかったから。

それが殿下の為である事を知るにはさして時間がかからなかった。

だから私も努力した。

彼女と共に殿下を支える事に何のためらいもなかったから。

彼女の一族が計画し、私の一族が作る。

その役割があるために私と彼女はうまくつながった。

より密接に、お互いを必要とし、お互いなくして殿下を支える事など出来はしない。

だからといって、マーガレットやフェミナがそうでないなんて思わない。

彼女達のそれぞれの役割はローレンシアが計画して私が作ったものを使いこなす事にある。

彼女達だからこそうまく殿下の為に使いこなせる。

私達は殿下を通じて一つにつながっている。

フェミナにもそれに気づいてもらいたい。


フェミナ、彼女がわがままなんて思わない。

彼女はたくさんの幸せそうな二人を見てきただけ。

お互いを見つめ合う二人、手を取り合う二人を見てきた彼女の想いは彼女が抑えきれない程に膨らんだだけ。

いつかそう、あんな風に。

でも掟が私達を縛る。

4人は一緒。だからこそ。

それは特権であり、呪いなのだと思う。

逃れられない甘美な呪い。手に入れてしまった日々は今更捨てるには大き過ぎる。

だからこそ気づいて欲しい。

フェミナ、私達はつながっている。私達は裏切らない。

ほんの些細な諍いはあるだろうけれども、私達は離れられない。

それは殿下への愛故に。



2人の心は王都を離れ、はるか遠くにいるはずの、1つを織り成す離れた欠片を想う。

穏やかな冬の日差しはそんな2人を暖めるように陽光を降り注ぐが、いまだ冬の凍てついた空気は2人の頬を撫で、暖める程には至らない。




塔の広場に足音が響く。どこか早足で、いつもとは違う。

マーガレットはその理由に気づいてはいるもあえて口に出す事はない。

近付く足音に、ララと2人で目を向けるとようやく今日の主催者が顔を見せた。


急用があり遅れて出席したマークは2人と視線が合うと笑みを浮かべた。

だがその後に少し眉をひそめ、2人の待つテーブルへと辿り着く。

ここにいない誰かを探した後に、マークは口を開く。


「マーガレット。ローレンシアがいないようだけど?」


マーガレットはその不躾さを気にもしなかった。

共に視察に出向く時はそれほど礼儀に厳しく行動など出来ない事を経験している。

だからといって、遅れた謝罪も茶会の挨拶も省くという事には思う所もあるが今更その事を気にする程の仲でもない。

そういう事にしておいた。

ティーカップを皿に置き、マーガレットはマーク殿下に答える。


「ローレンシアは塔からは出てこないそうです。彼女は殿下が塔の前まで来てくれる事を望んでいます。後で扉越しにでも話をしてあげてくださいませ」


男子禁制の塔には殿下は入れない。だからいつも茶会はこの広場。けれどもローレンシアは出てこない。

ローレンシアの姿がない事を残念だと態度に示しながら、マークはララに声をかける。


「ララ、どうしてフェミナは来ないか知らない?」


マーガレット程にはマーク殿下の失礼を流す事の出来ないララはマーク殿下に目線も合わせずただ正面を見て話す。


「そんなの決まっていますわ。殿下が迎えにいかないからです」


その考えからあえて自身を遠ざけていたマークはララの一言に言葉を詰まらせる。


マーク殿下から何も言葉が帰ってこない為にララは言葉を付け足す。


「ローレンシアが待っていますわ。早く話をなさって上げてくださいませ」


ララは手に取ったクッキーを割りながらそう答えた後に口へと運ぶ。

マーガレットもララと同じようにクッキーを口へと運んだ。


目線を合わさず口を噤む2人から目を逸らし、マークは塔へと足を向けた。

その背中に2人の視線を感じながら塔の扉の前に立つ。


「ようこそおいでくださいました。茶会に出席出来ず申し訳ありません。このままでの挨拶は失礼かと存じ上げますがお許し頂きたく思います」


扉は開かず、門番はすでに人払いされている。ローレンシアはマークが塔に訪れるのをずっと待っていた。

そしてあまりにも普段とは違う対応にマークは戸惑いつつも問いかける。


「ローレンシア。会いにきたよ。どうして塔から出てきてくれない?」


その言葉にローレンシアはきつく口を結ぶ。

会いたくても会うわけにはいかない胸の内とは裏腹に、無意識に伸ばした手は扉に触れて、偶然触れた鈍色の冷たさにハッと我に返る。

一度は伸ばした手を胸に寄せてローレンシアは答える。


「私はフェミナが来るのをここで待ちます。彼女に笑顔を向けて欲しいから」


マークは何も答えなかった。

ローレンシアの伝えたい事はその態度から分かる。

だがそれはマークの望むものではなく、その行為はローレンシアへの想いを裏切るのではないかとそう思い、ずっと避けていた。

拳を強く握りしめ、マークは吐き出すように言った。


「どうしても行かなければ駄目なのか。私の想いがどこに向いているかを知っているというのに」


言葉に表われないその感情に、心打ち震えるローレンシアは、その言葉とともに祈るかのように腕を胸の前で組み、唇を震わせ目を伏せる。



だけれど掟が許さない。私達を自由にしてくれない。

掟が与えた幸せは、いとも容易く私の手の平からこぼれ落ちる。


心に宿った激情は、手に入れなければ失う怖さを知る事もなかった。

心に宿った激情は、手に入れなければ己の醜さを知る事もなかった。

向けられた想いは、手に入れなければ失う怖さを知る事もなかった。

向けられた想いは、手に入れなければ彼女を傷つける事もなかった。


だからこそ。

いつからか、いつからか。そうあの時から。

幼い頃に4人で決めた、

掟が縛る私達を、その責務の大きさに身を寄せ合い震えた私達を守る為に決めたルール。

私はそれを口にしなければならない。


「私達は4人一緒。幼い頃にそう決めたわ。それは殿下を困らせない為のルール。だからお願い」


私はいつの間にか自身でも気づかない程の震えを言葉に乗せていた。

それは意図せぬままに秘めた胸の内を晒け出す。



その言葉を聞いたマークは力強く言葉を紡ぐ。


「困らせているのは君じゃない!フェミナだ!」



違う。そうではない。フェミナだけに押しつけて良い事ではない。

今が壊れる事に怯えた私、私達はただそっとささやかな秘め事を繰り返してきた。

それがいかに彼女の目に映り、いかに彼女の心を抉ったのか想像もつかない。


浅ましい自らの感情が邪魔をして、言えない言葉に口を噤む私を、所詮は自分の事しか考える事の出来ない女だと、醜い自分が嘲笑っていた。

ええ、そう。認めましょう。

それも私なのだと。

でもそれだけじゃない。

だから私は言葉を紡ぐ。咎人として。彼女に罪を押しつけないために。


「そのきっかけを作ったのは私。彼女のせいじゃない。だからお願い。彼女を迎えに行って欲しいの」


ようやく口に出来た言葉に、重荷を降ろす事ができたような安堵と、その言葉を紡ぐ事でいまだ生まれる胸にくすぶる暗い気持ちが混ざり合う。

でもそれだけじゃない。


4人で築いてきた絆は、彼女と築いた絆は今もここにある。

共に笑い、泣いた日々。手を取り合ってお互いを確かめ合った。

彼女を失いたくない。

彼女の事を想うこの気持ちも確かなもの。

信じられる。

そう。信じられる。


だから信じる。


私達の想いは変わらない。



「わかった。待っていてくれ」


ローレンシアの言葉に私は短い返事をし、それ以上言葉を交わす事なくきびすを返し、力強く歩を進める。



私は彼女の言葉を受け入れる事にした。

たった一言。たった一言だ。

彼女がその言葉を紡ぐ為にどれだけの勇気を振り絞ったのかを考えたら断る事も出来なかった。

自分を良く見せようとする事に慣れていない彼女は今も自身を傷つけながら親友を気遣う。

大丈夫。

フェミナなら分かってくれる。

君達の絆はそんな脆いものじゃない。

だから断言出来る。


私達の想いは変わらない。




馬車から見える景色は白一色だ。

降り積もった雪はいまだに溶けず平原を染め上げる。

その白さは私の想い人の髪の色に似て今も遠ざかる彼方に未練を残させる。


すでにフェミナの住む領地に入り、もうすぐ街へ着く。

関所で揉めたが強引に通った。

私にはこれ以上時間をかける余裕はない。

恐らくは伝令が先に到着しているだろう。

それは良い事でもなく、まず間違いなく関所と同じように妨害を受けるだろう。

領主は娘が軽々しく扱われたのだと思っているのだろう。

そして王国の掟に必要な姫の重要さを示し、権威を誇示する。

普段ならともかく今の私にその余裕はない。



「殿下。あまり気を張り詰めないでください。フェミナに会う前に疲れてしまいます」


ハッと我に返り、マーガレットへと視線を向けると、気遣わし気に向けられるその瞳と合う。

その瞳に、私の心の在処を見透かされたようで思わず目線を逸らす。

落とした視線はそこに3対の足を認識する。

フェミナを迎えに行くと告げた時、マーガレットとララも喜んでついて来てくれた。

それには感謝している。フェミナと共に馬車に乗り、何を話せば良いのか。王都への帰路は私を悩ませるはずだった。

彼女達が対面に座り、私の隣は空席となりそこに座る事になる彼女の不在を告げていた。

自らの想いを向ける先故に、隣に座る彼女を私の想いは投影し、矛盾する行動を取る自身から目を背けるために窓の外へと目を逸らすがそこにも彼女の影があった。

約束したはずの私の心にはまだ覚悟が足りず、この想いを踏みにじる、いや、この想いを昂ぶらせ、痛みに耐える勇気が足りない。


目を上げるとそこにはただひたすらに私を見つめるマーガレットの姿があった。

いつだって彼女には助けられてきた。

弱音を吐く私を叱咤し、励まし続けて来た彼女。

そう。


私は覚えている。訓練の後、そっとタオルを差し出す彼女の姿を。

私は覚えている。模擬戦の時、彼女の私に寄せる信頼を。

私は覚えている。旅の折、「もうすぐ目的地だ」と互いを見て微笑みあった事を。


彼女は今日も側にいる。

「もうすぐ目的地だ」とその目が告げる。「私が側にいる」とその目が告げる。

この期に及んで今だ躊躇する私を信頼し、励ましてくれる。

彼女の想いは裏切れない。

これまで彼女と積み重ねてきた日々に泥を塗る事など出来はしない。

だから彼女と共に前を見よう。臆する事なく。

彼女に恥じない自分である為に。



ただひたすらに見つめる彼女の視線をまっすぐ受け止めた私を見て彼女は微笑む。

ようやく心に余裕が出た私を見つめるもう一つの視線に私は気づく。

その栗色の瞳は無邪気に私を見つめ、ただひたすら私の在り様を肯定し続けてくれているようだった。


私は覚えている。彼女の作るものはよく私の手に馴染んだ。

私は覚えている。難しい注文を嫌な顔を一つせずに喜んで引き受けた事を。

私は覚えている。私に応える為に額に汗する姿を。


彼女の想いは裏切れない。

これまで彼女と積み重ねてきた日々に泥を塗る事など出来はしない。

だから彼女を支えとしよう。ためらう事なく。

彼女に恥じない自分である為に。



私は信じるべきだったのだ。

彼女達を。

そう。この道の先で待つ彼女と過ごした日々を信じるべきだったのだ。

今が壊れる事を恐れた私は、ありのままの自分を見せる事をためらった。

だから信じよう。今度こそ飾る事ないありのままの自分で彼女に会おう。

今、私を見つめている彼女達に恥じない自分である為に。

この道の先で待つ彼女に恥じない自分である為に。

私の帰りを待つ彼女に恥じない自分である為に。




いまだ凍てつく空気の中にあってさえ感じられる確かな温もりを私と共に馬車は運び、彼女の待つ街へと辿り着いた。


街へ入る為の門で止められた馬車の前方で騒ぎが起こる。

伝令は確かに届き、私の到来を告げていたのだが、むしろ悪手へとつながった。

私は馬車を降り、門へと向かう。

護衛の騎士が数名続き、交渉の任につく外交官と門番が口論をしている所へ辿り着く。

門番は手に持つ槍を交差させ、馬車の進行を止めていた。

門番とのやり取りに業を煮やした外交官は私に頭を下げた後、おもむろに言葉を連ねる。


「殿下。かの門番達が領主命令により殿下の来訪を阻んでおります。王国に忠誠を誓う臣下にあるまじき行為。いかがいたしましょう」


その言葉を聞いた私は門番へと目を向ける。

私に目を向けられた門番は多少怯むかと思ったのだが平然とした態度でこう告げた。


「領主様からの言いつけにより、王族の馬車は通すな、と言われております。私共はただその命に従うのみ。お許しを」


じっと見つめる私の視線に耐えかねて、門番は最後に自身の窮状を述べる。

その言葉に彼らが引き下がる事もない事実を知った私は同時に自身が行うべき行動を知る。


「わたしはフェミナに会いたい。どうあってもここを通る」


そう告げた私は門番が構える交差した槍を押し退けて歩き出す。

門番達はそれ以上の抵抗を示さずにただ私が通りすぎるのを見守っている。

事情を察した側付きがマーガレットとララに伝え、彼女達も馬車を降り付き従う。


護衛の騎士を引き連れて、私は私の足で一歩、また一歩と領主の城へと近付いて行く。

その足取りは確かに彼女の元へと近付いている実感を与えた。

馬車で凝り固まった体をほぐすにも丁度良い。彼女に会った時にぎこちない振る舞いをせずに済む。


まっすぐに城を見据えた私の耳に不意に聞こえた幼い声。


「フェミナ様をいじめるな!」


道の端に目を向けるとまだ幼い子供が涙目で叫んでいた。その手に持った石がいままさに投げられようとしている。

その姿に合わせて護衛の騎士は私を囲むが、更にその前に飛び出す一つの影。

マーガレットが子供と私達の間に立ってくれていた。

子供の投げた石はマーガレットへ当たるが彼女が怯んだ気配はない。

子供の突然の行動に驚いた母親は子供を後から抱え、両膝を地面に付き頭を垂れ慈悲を乞う。


「この子に悪気はなかったんです。どうか、どうかおゆるしを!」


子供は自分のしでかした事の大きさを理解できずに、自分の母親が頭を下げる姿と周囲から向けられる視線にただ戸惑い泣きそうになっていた。

そんな子供を取り押さえようと護衛の騎士が動く前にマーガレットはこちらに振り返り私に言う。


「どうか殿下。私からもお願いします。どうぞお慈悲を」


わかっている。その子供に罪はない。その子はただ私達に巻き込まれただけだ。

私がただ曖昧で甘美な微睡みの中に浸っていた日々がその子の今日の行動を決したのだ。


「よい。許す」


ただ一言を告げる。マーガレットが浮かべた安堵の表情に私も笑みをこぼした後、頬を引き締め城を見据え改めて歩を進める。

いつしか集まり始めた領民達の視線に晒されながら私は城を目指す。




「突然の御来訪のため、我が領の領主はすぐにはお会い出来ません。領主に代わり御息女でありますフェミナ様が出迎えさせて頂きます」


急な訪問は突如として願ってもない状況をつくり出した。訪れる予定もない来賓を出迎える準備はなく領主は不在のようだった。

城まで歩いた体は暖まり、その熱の冷めぬままに広間に入る。

急な来訪であっても失礼のない様領主に代わり出迎える役を担うフェミナの姿がそこにあった。


流れる金髪ブロンドに伏し目がちな青い瞳はそのもの憂げな表情により彫刻のような美しさを放っていた。

だが違う。彼女の美しさはそうではない。彼女の美しさは花が綻んだような溢れんばかりの笑顔がつくり出すものだ。

あの美しさを知れば、今の彼女のどこか儚げな雰囲気に気づくだろう。


彼女が紡ぐはずの言葉はいつまでもその口からは流れ出さず、目を合わさないままに沈黙が場を支配する。

彼女の逡巡が生み出す私達との距離は、壊れそうになる何かを思わせ、距離を詰める事を躊躇わせた。

不意に声が響く。


「ここは私達にお任せください。きっと彼女は殿下の来訪を喜んでくださいます」


そういってフェミナに向かって歩きだすララとそれに従うマーガレットの後ろ姿を私はただ眺める。




とうとう来てしまった。わたしの決意が固まらぬままに。

後少し、もう少し。そうすれば微笑んでその目を見つめる事も出来たかも知れない。

でももう遅い。

まだ出来そうもない。

震えそうになる体を抑えても、定まらない私の心のせいで顔を上げる事が出来ない。

顔を上げて微笑んでも、溢れ出す涙がその虚飾を剥すでしょう。

歓迎の言葉を紡ごうとしても、震える声では喜びは伝わらないでしょう。

どうすればわたしはどうにもならずにどうする事が出来るのか、ぐるぐると渦巻く思いを扱いきれずにいた。

不意に声が響く。


「ここは私達にお任せください。きっと彼女は殿下の来訪を喜んでくださいます」


2つの足音に顔をそっと上げると、穏やかな笑みを浮かべるマーガレットとララの姿があった。

彼女達の笑みに心休まる部分を感じながら、恐れるあまりにあえてその視界に見えるはずのあの方を避けた。

マーガレットは言った。


「大丈夫。あなたはあなた。あなたの代わりなんてどこにもいない。失う事なんてない」


ララは言った。


「大丈夫。私達は4人で1つ。殿下を通じてつながって、殿下を支えて互いを助けるの」


2人はフェミナの手を握りしめる。


マーガレットは言った。


「あの子と比べる必要はないの。あなたはあなたらしく、あなたを見つめる殿下を想えばよいわ」


ララは言った。


「あの子は月よ。太陽の光が届かぬ場所を照らす。太陽はその姿に恋焦がれたのでしょうけど」


ララは続けて言った。


「知っている?あの子と殿下は太陽と月に例えられるけれども、あなただってそう。あなたと殿下は二つの太陽に例えられるの。二つ揃う事でより一層輝きを増す太陽」


マーガレットは言った。


「私が殿下といない時の気持ち。あの子も同じように知っているはずだわ。私のほうがその気持ちを知る時間は長いようだけど。それでも私もあの子も一緒だわ」


ララは言った。


「私達は同じじゃない。でもだからこそ4人一緒。同じように殿下を支えられる。気づいて。何もなくならないの。今日まで積み重ねて来た日々も。今日から積み重ねる日々も。あなたがそこにいてくれる。それが私の願い」


マーガレットは言った。


「あなたはあなたらしく輝きなさい。それはあの子にだって出来ない。あなたが銀髪ではないように、あの子も金髪ブロンドではないの。太陽と月を同じように比べても互いの良い所を比べる事なんて出来ないわ。だからあなたらしく輝きなさい。私達は私達らしく輝いて、殿下を支えるの。だから4人一緒。それが私の願い」


マーガレットとララは言った。


「だから大丈夫」



いつからか、いつからか。そうあの時から。

幼い頃に4人で決めた、

掟が縛る私達を、その責務の大きさに身を寄せ合い震えた私達を守る為に決めたルール。

私達は4人一緒。



幼い頃と同じようには思えなくなったけれども、確かに私達は4人一緒。誰が欠けても足りない4人。

今日までの日々が確かに私達を結び、今日からの日々が更に私達を結ぶのでしょう。

だから私は一筋の涙でその想いを肯定する。


「マーガレット、ララ。心配かけてごめんなさい。もう大丈夫」


わたしが2人に微笑むと2人もまたわたしに微笑み返す。

マーガレットがわたしの涙を拭い、ララが少し横に逸れ、道を開ける。

わたしはようやく晴れやかな笑顔で殿下を迎え、歓迎の言葉を述べる事が出来た。


「ようこそ殿下。はるばる王都から足をお運び頂き感謝の念が絶えません。王に忠誠を誓う臣民として心からのおもてなしをお約束します」


わたしの言葉を聞き、殿下は近付いて来る。

殿下は優しい瞳でわたしを見つめこう言った。


「心からの歓迎の言葉、確かに受け取りました。その溢れる忠誠心に王はとてもお喜びになるでしょう。でもね。フェミナ。今日私が言いたい事はそうじゃないんだ」


殿下は私の手をそっと握り、言葉を続けた。


「フェミナ。迎えに来たよ。一緒に行こう」


分かってはいてもその言葉は私の心を震わせ、喜びは体中を駆け巡る。

問わなくてもわかる。どちらであっても喜びは私を貫いた。それでも問わずにはいられなかった。


「彼女が殿下に頼んだのでしょう?」


殿下はわたしの問いに怯む事なく答えた。


「ああ。ローレンシアも君が帰って来るのを待っている」


殿下は言葉を続ける。


「でもね。私は覚えているよ」


「パーティの時、君が向けてくれたあの笑顔を」


「言葉巧みに操り、皆を楽しませた時を」


「交渉の際、その機微を捉え、私を支えてくれた時の事を」


一度言葉を止め、もう一度殿下は話し出す。


「これもね。覚えている」


「あのダンスのステップは確かに難しかった。君が間違う程に。あの時の舌を出して頬を染めた君は・・・」


「殿下!もう充分私に届きました」


慌てて私は殿下の言葉を遮り、顔を真っ赤に染めた。


ええ、覚えている。

そう。失くならない。あの日々は。ララの言う通り。

そう。失くならない。彼女では得られない私だけの日々は。マーガレットの言う通り。


だから大丈夫。もう大丈夫。

わたしは曇りない気持ちでこう言える。


「殿下。ローレンシアが待っていますわ。早く帰りましょう。私、あの子を祝福しないといけないわ」




冬の日差しは暖かく風もない。少し前の荒れ狂った吹雪が嘘のような天気だった。

わたしは塔の前に立ち、彼女を出迎える。

開いた扉からゆっくりと歩いて来た彼女は少し哀し気かなしげで、少し嬉し気うれしげで。

だから大丈夫だと伝えたい。


「ローレンシア。私、あなたを祝福しに来たの」


その一言に彼女は驚き、僅かに見開いた目はその後に細まり潤む。


「私、あなたに酷い事をしたわ」


確かにわたしはその事実に慄いた。でもそれだけ。受け止められなかったのはわたし。


「もう気にしないわ」


彼女の瞳が更に潤むのを見て、わたしは慌てて彼女の手を握り想いを伝える。


「わたし達は4人一緒。今もそうでしょう?」


その一言は彼女の中の何かに触れ、一筋の涙が頬を伝う。

そして彼女はこう言って微笑む。


「ええ。私達は4人一緒。これからもそう」


例えるなら彼女の笑顔は冬の日の暖かな日差し。誰も灼く事なく、もう少し、もう少しと求めてしまうもの。

ある時は、ひっそりと輝く月のよう。確かに輝いているけれど眩しいわけでもなく、けれどもその姿をつい見てしまうもの。

そのどちらもわたしには真似出来ない。

わたしには無い色々なものを持っている。


比べてくすぶる気持ちを持つくらいなら、時間を費やすくらいなら、わたしにしか出来ない事をしましょう。


「あの日をもう一度やり直しましょう。皆一緒に」


わたしはそう言って彼女に微笑みを返す。




例えるなら彼女の笑顔は大輪の花。溢れんばかりのその嬉しげな表情は誰をも虜にする。

ある時は、花が綻ぶような動きのある豊かな表情で、皆の視線を惹きつける。

そのどちらもわたしには真似出来ない。

私には無い色々なものを持っている。


そんな笑顔を与えてくれるあなたに応える為に、私は私にしか出来ない事をしましょう。





二人は頷き合い、皆が待つテーブルへと歩きだす。


冬の日差しは暖かく、それでもまだ冷たい空気は二人の手を凍えさせる。

けれど触れた時には冷たかった手は、互いの触れ合う部分から二人の温もりで少しずつ暖まっていった。

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