左の女 8

「えー、このように蛙の頭を押さえて、こう、こうやって、脊髄ピスをします。すると、はい、蛙は全身不随となって動けなくなります。だらーんとしているでしょう。ではこの蛙の筋繊維に電気を加え……」

 教授が巨大なウシガエルを手に得々と実験内容を語る、その様を、花は引く思いで眺めていた。生物学実験の、この手の解剖の話などは苦手だった。教授の研究室では実験後に供養としてあの気持ち悪いウシガエルを唐揚げにして食べるという。絶対に嫌だ、自分ならばごめん被る、と花は思った。

 花のグループは予め切り取られた蛙の喉を使い、ウイルスなどを喉の外へと排出する線毛運動の実験を行った。斜めに固定した喉の一部に分銅を置くと、分銅は喉の坂をせり上がって行く。ひぃ、と声を漏らしてしまうような光景だった。

 グループの子とデータを取りながら、このグロテスクな光景は倫理上有りなのか、という話をする。皆もそう思っていたらしく、話が弾む。実験とはいえ、非道だよね。グロい。蛙に権利はないのか。半ば暴論で、けたけた笑ってしまう。喉の切片を前に笑うのも不謹慎だ、と思うと余計に笑ってしまう。

 これまで様々の実験を重ねて来た。その中で、実験に対する短い感想を漏らしては、笑い合った子がいた。美園貴美子。あまり派手さはないが、地味ながら滋味のあるトークを展開する彼女とは波長が合うのを花は感じた。言葉にして確認したわけではないが、友としての親しさを感じていた。彼女は、花にとって初めての大学での友人だった。

 分銅を取り上げて、一度喉の切片を生理食塩水で湿らせてからまた分銅を坂の下に設置する。今度はより力強く分銅が坂をせり上がる。

「は、早い」

 花が言うと、

「悪魔の科学だね」

 ぼそりと貴美子が口にして、全くもってその通りだと花は思う。

「ほんとだね」

 と花が口にすると、

「私たち、あの世で蛙に復讐されるよ、きっと」

 と貴美子が言う。

 どんな復讐をされるのだろう。自分の喉にも分銅を置かれるのだろうか。それは嫌だなあ、と思う。

 そう思ったら、ふふふと笑えて来た。貴美子は真面目な顔をして、次の瞬間、ふっと筋肉を緩める。

 何かが通じ合っている、そんな気がする。それは何と心地良いことだろう。花は初めて感じる感覚に耽溺しながら、次第に考えが暗い方に移って行くのを覚える。

 私にも、友達できたみたいだよ、紫苑ちゃん。

 ダブルスのペアに、紫苑は花を選ばなかった。灯さえ選ばず、サークルを辞めてしまった。残された花としては唖然呆然だった。紫苑が花を選ばないのはまだ分かる、だが、サークルをすっぱり辞めてしまうなんて。

 と言いつつ、花も紫苑が辞めたのを機にテニスサークルを辞めた。元々紫苑と繋がるために入ったのだから本来の目的を果たせなくなった以上在籍し続けてもしょうがなかった。紫苑は上級生に留意されたが、花は何も言われないまま退部となった。

 あれから、同じ生物科学科として、幾つかの一般教養の授業で一緒になった。紫苑が自分を選ばなかったことに大いに引け目を感じながら何食わぬ顔で左隣に座ってみたが、紫苑は厳しい顔で、話しかけて良い雰囲気を作らなかった。花は結局何も言えなかった。いや、実際には辛うじて紫苑ちゃんと呼びかけたが、その声は無視された、それが現実だった。

 紫苑ちゃんはもう私には振り替えらない。それだけはっきり分かった。

 どうして自分を選んでくれなかったの。どうして、どう見ても魅力的な灯を選ばなかったの。どうして、いきなり辞めちゃったの。訊きたいことはあれどもう確認のしようもない。

 花はしばらく絶望していた。どうしていいか分からなくなった。何を目標に、どこをゴールに学べばいいか分からなくなった。突き詰めれば紫苑と同じ学校の同じ学科に通えればいいという考えで選んだ進路だ、深い考えなど無かった、だから選ぶことなど花にはできなかった。闇の中で霧に会うような先が見透かせない状態に陥っていた。

 それでも、いや、それだからこそ、何も分からないまま花は大学に通い続けた。律儀に授業に出席し続けた。必死に講義について行った。結果、たまたま履修者数制限の関係で一緒に取れなった生物学実験の授業で、美園貴美子と仲を深めることができた。

 それがラッキーなことだったとは、花は思えない。一番はやはり紫苑の隣に居続けることだった。それが花の最大の幸福だった。その幸せから弾かれて、花は寄る辺のない恒星間小惑星のようだった。どの惑星の重力下にもない、自由の刑。自由は心地良いまでの孤独なのだった。

 それが今、美園貴美子という重力を得て、再び人間界と繋がり始めた。何も見えなかった先に、新たな展望が見え始めていた。

「貴美子ちゃんが蛙だったら」花は訊いてみる。「自分に理不尽を行った人間を恨んで復讐する? それとも、新しい生へと進む?」

 貴美子は顎に手を添え、考える。「そうだなあ」と言う。「自分なら、生まれ変わるほうを選ぶかもしれない」

「そう、だよね」それがいい。きっとそうなのだ。

「でも」と貴美子が付け加える。「理不尽の恨みは捨てられないだろうから、なんとか人間に生まれ変わって、蛙の待遇を変えよう、っていう抗議活動を勃興させるんじゃないかな」

「……それって、駄洒落なの?」恐る恐る訊く。

「寒かった?」貴美子は嬉しそうに問う。

 花はふふっと笑い、「エアコン、寒いね」と答えた。

 時は夏。生物学実験室は、よく冷えている。

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右の女と左の女 ――左の女―― 大和なでしこ @KakuKaraYonde

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