『創作は非現実的だから成り立つものである。(後編)』


「ええ、あれは黒巣に差し上げた漢方薬です。」


 あっさり認めた森亜亭に穂麦と和戸は愕然とする。


「漢方薬は医師が私に処方してくださったものです。あの人と夫婦だった頃から服用しております。この件に関しましては先ほど刑事さんにもお話しました。」

「黒巣氏は自分の体に合わない成分が含まれていることをご存じでしたか?」


 穂麦が問い掛けると森亜亭は驚いた様子で答えた。


「あら、そうでしたの?常備薬が切れると直ぐくれくれ騒ぐので幾度も渡してましたし、離婚してからも執拗に求めてきたのでまとめて出してやったりもしました。」

「何故貴女に?黒巣氏自らが医師に処方して貰うべきじゃないですか?」

「世間一般的にはそうでしょうね。でもあの人の普通は違いましたもの。」


 自尊心と思い込みだけは昔から人一倍でしたし、と森亜亭の表情が憂いに染まる。


「うっかり口にした食べ物で人はあっさり死んだりもします。同じ薬を何度も口にしているから平気だと油断して突然発作が起きた、なんてこともあります。」

「森亜亭さん、貴女は」

「私がなんですの?穂麦さん。」

 

 黒巣を死に追いやったと?


 そう訊ねるように真っ直ぐ見据える森亜亭は毅然としていた。ここまで明白な証拠があれば罪に問われる可能性が高いのに彼女は静かに結果を待っている。


 異常なほどに冷静な森亜亭を穂麦は一瞬疑うも何も言えなかった。この疑念のせいで自分は無実の人間を犯人に仕立て上げてしまった過去がある。言葉を詰まらせる彼に森亜亭は淡々と語った。


「勘違いをし続けた末に今日独りの男が運悪く死んだのです。その死を促すきっかけを作ったのは私でしょう。それは否定致しません。」





 有り得ない、と言いたい様子で和戸は頭を抱える。


 黒巣の件は事故として処理されるに至った。周囲の証言により森亜亭は罪に問われることはなかった。それどころか無実を証明し、確固たる証拠として彼女は黒巣との不仲を録音したデータを出してきたのだ。

 そして結婚生活でのいざこざから離婚後の揉め事まで網羅した膨大な音源はDV・ストーカー関連で警察や弁護士が動かざるをえなかった。


「いやはや、恐ろしい婦人だ。」


 穂麦と和戸が真相に近付こうとすればするほど森亜亭は切り札を出すように守りを固めてくるのだ。

 まるで直ぐに途切れてしまう細い糸を様々な方向から伸ばして繋いで狙った獲物を決して逃さない蜘蛛の巣のようである。


「こんなのって、ないですよ。」

「和戸くん。」


 苦悩する和戸に穂麦は声を掛ける。


「今回の私達は依頼人に呼び出されて偶然立ち寄った旅館で事件、いや事故に巻き込まれた。それだけに過ぎない。」


 その言葉に和戸は反論するように勢いよく顔を上げた。


「でも、穂麦さん!」

「彼女の肩を持つつもりは更々ない。だが不幸ってのは突然落ちてくるもんだ。」


 罰が当たったのよ。最後に彼女は静かにそう言い放った。


 にわかに信じがたいが多方面からの証言や無実を裏付ける証拠が黒巣を【悪い夫】、森亜亭を【苦労の絶えない哀れな女性】へと作り上げたのだ。


「着々と外堀を埋めて周囲に疑惑を持たれないように仕向けていたとしたら?我々をわざわざ呼んで言い争いに巻き込んだとしたら?彼の性格を理解・把握した上で従順に自分の薬を渡していたとしたら?しかしこれらは憶測でしかない。身近な人間の体調を気にもせず、自分の都合ばかりで動く人間は当たり前のようにいる。彼はまさにそれだった。」


 君の親戚達のようにね、と付け加える穂麦に和戸は表情を強張らせて言いかけた言葉を飲み込んだ。 


 あれだけ元気だった祖父が日に日に衰弱していった。その姿を目の当たりにした当時の和戸は両親に指摘したが「お祖父ちゃんも年だから」と相手にしてくれなかった。親戚に任せっきりした結果、祖父は帰らぬ人となり葬式では両親や親戚達の言い争いに巻き込まれてしまった。


 穂麦が祖父の遺書を持って現れなければ、祖父は老衰ではなく親戚によって食事の量を減らされて病院で処方された薬を飲めなかったことを知らなかったら自分は復讐に燃えていたかもしれない。


「人間ってのは運命に左右されたりもする。いつものように家を出たら事故に遭ってしまったた、こんなはずじゃなかった。なんてよくある話さ。でもね、」


 穂麦は真剣な面持ちで告げる。


「相手が死んで当然と思えるような人間でも、その命を奪ってはいけない。直接手を下してなくても己の犯した罪に向き合わなくてはならないんだ。」


 必ず彼女の尻尾を掴んでみせる、と意志を固める穂麦に和戸は学生の頃を思い出す。


(僕はなんて馬鹿なんだ。)


 僅かな証拠を見つけ出して祖父の死の裏にあった保険金絡みの陰謀を暴いてくれた。


(穂麦さんはまだ諦めてないのに、僕は諦めかけていた。)


 彼はあれを【偶然の事故】ではなく【意図的な犯行】として見ている。


(僕に出来ることは決まっている。穂麦さんと一緒に謎を解き明かすことだ。)


 和戸は弱気になっていた自身を奮い立たせた。


(この事件、僕達が必ず追究してみせますからね森亜亭さん!)

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天狼旅館殺人事件 シヅカ @shizushizushizu

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