彼岸花の庭

小此木センウ

彼岸花の庭(1話完結)

 いつの間にか降り出した雨の粒が彼岸花の細い花弁をつるつると滑り、私は顔を上げる。

 一面が彼岸花で埋め尽くされた、庭というには広大すぎる野が、雨で薄くけぶっている。その中にぽつんと、花の化身のような少女が、こっちを向いて立っていた。


「ようこそ」

 手を大きく振ると、少女は小走りでこっちにやってきた。

 感情が豊かで活発そうな、あまりここには似合わない子だった。冬物の重たそうなコートを着込んでいるが、雨のせいかずいぶん濡れていた。

「良かった。こっちに来て会ったの、あなたが初めて」

 少女は少し震えていた。

「ここはどこなの? ……死後の世界、とか?」

「そんなところ。歩きながら話しましょう」

 私は少女の冷たい手を取ると、小高い丘の上に見える小屋に向けて進む。

「死後の世界って、こんななのね。天国とか地獄とか、そういうのがあると思ってた」

 つないだ手を振りながら少女が言った。私は左右に首を振る。

「天国も地獄もないわ。肉体がなくなったら新しい体験なんてできないもの」

「でも、私はここにいるよ?」

 少女は口を尖らせた。

「あなたがいるのは、生きている人たちがまだあなたを覚えているから。人間の心はつながっているの。生きていたあなた自身だけではなく、他者の中のあなたも含めて、あなたという存在なのよ」

「ええっ? じゃあ私は、他人の心のつぎはぎなの?」

「そうとも言える。でもね、そもそも、生きている人間の心だって、様々な感情が湧いては消えのつぎはぎよ。それと変わらない」

「うーん、そうなのかなあ」

「ええ。身体が一つでも、心は一つなのかどうかさえはっきりしないわ」

「まあ、わかったよ。いないはずの私がここにいるのは確かなんだし」

 そう言った後で、少女は立ち止まり、腕組みした。

「だけど、もしそうだとして、みんなが私のことを忘れたら――」

 私も足を止め、背後を振り向く。雨もやに半分沈んだ彼岸花が、少女の心を映すように震えた。

「そうなったら、少しずつあなたはなくなっていく」

 少女はひどく不安そうな顔をした。私は笑って首を振る。

「大丈夫。そうなる前にここから出ればいい。そうすれば、新しく生まれ変わることができるから」

 歩き続けて、ちょうど小屋の入り口だ。私は一旦話をやめて、きしむ扉を開ける。


 外観はひどいあばら屋だが、中に入れば息がつける程度にはマシだ。

 私は戸棚を開け、まず乾いた大きなタオルを出して少女に渡す。濡れた髪をふく間に手早く湯を沸かして、今度は小さめのタオルを湯にひたしてから固く絞り、かじかんだ手に握らせる。

 熱いタオルで顔をぬぐうと、少女はようやく、取り戻したような笑みを浮かべた。

「そのコートも脱いだら? ずぶ濡れじゃない」

 そう聞くと、少女は私を指差した。

「あなたも同じよ」

「ああ、雨の中で庭の手入れをしてたから」

 自分の肩口に手のひらを当てると、思ったよりもひどく濡れている。とはいえ着替えもないから仕方ない。手についた水滴を払い、椅子を二つ引いて、一つには自分が座り、もう一つを少女に促す。

「ありがとう」

 礼を言ってから、すぐには腰かけず、少女は窓辺に立ってひびの入ったガラスの彼方を眺めた。

「ここから見たほうがきれいね」

 少女のコートの裾から、ぽたぽたと水がしたたった。

「ちょっと、やっぱり脱がないとだめよ」

 少女は私を振り返って、軽く首を振った。

「いいの。私、水に飛びこんだの」

「うん――」

 そこまで言わせてしまったことを、私は心苦しく感じる。

「あなたはずっとここにいるの?」

 黙りこむ私を見て、少女は話題を変えた。

 自分の死に触れても大きくは感情を乱さず、逆にこっちを気遣ってくれる少女に、少しほっとしながら私は答える。

「そうよ……と言いたいところだけど、本当はまだ来たばかり。仕事も覚えたてなの」

「仕事――。ここでも仕事があるのね」

 少女は室内を見渡した。しかし、仕事道具と呼べそうなものは何もない。

 怪訝そうな顔に向かって、私は答える。

「私の仕事はね、墓守。それから探偵」

「墓守はわかるけど、探偵?」

 少女はくすっと笑った。

「こんなところで、お客さんがいるのかな?」

「いるらしいわね」

 私は応じる。

「自分がいなくなった後、家族がどうなったか調べてほしいとか、そもそもどうして自分がここに来たのかとか」

「へえ、そうなんだ」

 感心したようにうなずいてから、少女は私を見つめた。

「そういう話なら、私も一つお願いしてもいい?」

「もちろん。そのために私がいるんだから」

 私は軽く胸を叩く。

「どんなことを調べて欲しいの?」

 少女は自分の濡れた袖を、ぎゅっとつかんだ。

「その、ね。私が……死んだ時のことなんだけど」

 私は姿勢を正し、少女の一言ひとことに注意を傾ける。

「私、……自分から飛び込んだのは覚えてる。だけど、その時に自分がどんな気持ちだったのか、どうしても思い出せないの。それを調べてほしい」

「何のために? あなたはどうして、それが知りたいの」

 あえて尋ねると、少女は両手で自分の体を抱え込んだ。

「私は生きたかったから。次に生まれ変わっても生きたい。それなのに、どうして自分が死んでしまったのか、わからないのは怖いよ。次の生でも、同じことをしてしまわないか」

 それを聞き、私は安心してうなずく。

「わかった。すぐ準備する」

 少女に言い置いて立ち上がると、隣の部屋に入る。部屋といっても物置き程度の大きさしかないそこには、彼岸花の鉢植えがぽつんと置かれている。

 赤い、ちぢれた花弁が密に接した中心部と、そこから放射状に突き出した雄しべと雌しべの形作る円い周縁。美しいようでも、また何かグロテスクなようでもある。

 しばらくその様子を眺めた後で、鉢を持ち上げて両腕で胸に抱える。花弁が揺れて、透き通った丸い水滴がいくつか振り落とされ、私の服にしみ込む。

「それ、何に使うの?」

 戻った私の腕の中を見て、少女は不思議そうに聞いた。

「これは、あなたの花」

 私は少女の前に鉢植えを置く。

「ここにあるものは、どれも現世とつながっているのよ。だからあなたの花を通して、現世のあなたをのぞくことができる」

 手招きして呼び寄せ、私は少女と一緒に、そり返った花弁の綾なす半球をのぞき込む。そこに光が映る。

 あの時のことだ。


 私は水の底から見上げる。

 波立った水面に太陽の光が反射する複雑な輝きが目に映る。それは途方もなく美しく、そしてそれを見られなくなることを私は悲しんでいる。

 悲しさから連想したのか、光の中にあの子が像を結ぶ。もう会えないことへの寂しさ、けれどこれ以上あの子に心を動かされないと考えると、諦めに似た落ち着きも浮き上がる。

 しかし、何よりも大きく私を支配していたのは、何かつかみどころのない陶酔で、それはもちろん恋愛感情の裏表だ。私は誰かをこれほどに好きだと思ったことはなかったし、多分これからもない。だとすれば、これほどの幸福は今しかない。

 たとえ報われなくても、違う、報われなかったからこそ、私は、私の想いをずっと留めたいと願う。

 その方法を、幼い私はこれしか知らない。だから後悔はない。


 そこで突然光は途切れ、私たちは顔を上げる。

「これで、わかったかな」

 わずかに視線が絡み合った後、少女は目をそらし、

「わかったよ」

 言葉少なにつぶやいて、そのままうつむいた。

「私、忘れてた。あんなに大切な気持ちを、どうして忘れてしまったんだろう」

「さっき、言った通りよ」

 私は答える。

「人間の心は、矛盾する感情が同居してせめぎ合っている。あなたは、生きたいと願ったあなたの心よ。だから、死を望んだ時の気持ちは覚えていなかったの」

 少女の顔に、少しずつ生気が差した。

「そうか――そうだね」

「死を望む気持ちを知って、それでもあなたは生きたい?」

「うん」

 彼岸花の鉢を抱えこむように座り、少女は優しくうなずいた。

「良かった」

 私は少女の頭をいとおしくなでる。

「それじゃ、ここはもうあなたには不要な場所ね。戻りなさい」

「うん」

 もう一度うなずいてから、少女は私をじっと見る。

「けれどその前に、探偵のあなたにもう一つお願いがあるの」

「あら、何の依頼?」

 私の中に、ある予感が芽生える。

「とても簡単なこと」

 少女は無邪気な笑みを見せた。

「私、さっきの気持ちをもう忘れたくない。だから、死を願った私を見つけて、一緒にここを出たい」

 その笑みがまぶしくて、私は答えに困る。

「それは――。もしそうしたら、あなたはまた死にたくなるかもしれない」

「そうなっても、次は大丈夫。私は生きてみせるよ」

 少女は立ち上がり、私の手を取る。

「依頼、受けてもらえる?」

 その瞳には私が映っていた。

「――わかってたの?」

「すぐね。だってあなたの服」

 少女に向けて伸ばした腕を伝って、私のコートからしたたった水がぽろぽろとこぼれた。

「行こう」

「うん」


 私たちは小屋を出る。途端に水音がごうごうと響く。見渡す限りの光景が巨大なうねる流れに覆い隠され、小屋のある丘は、水に囲われた島のようだ。

 時折りちらちらと、うねりの中で赤い塊が浮き沈みする。

「彼岸花が流れてく」

「この世界が消えるんだわ。主人を失ったから」

 水が足元まで来て、すぐに膝へ届く。ばしゃばしゃ音を立てて走り出す私たちの後ろで、さっきまでいた小屋が崩れて流れの中に消える。

「泳ごう」

 大きな波が押し寄せ、私たちはもみくちゃにされて水の下に吸いこまれる。それでも私たちは泳ぐ。


 夢中で流れをかき分けるうち、いつかそれは緩やかになって、気がつけば、底も見えない広大な水の塊に私は包まれている。

 上の方からいく筋かの光が、淡く水を照らす。私は光の方向を見上げる。

 雨は上がっていた。はるか水面の向こうに、まだ知らない、だが美しいに違いない陽光が虹色に踊るのを、私は見はるかす。

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