通学路にある家のような
三島小明
通学路にある家のような
正確にいつだったのかは覚えていない。小学生のとき、通学路にあった古い家が取り壊された。
三軒並んだ一軒家の真ん中の家。重機で崩された壁の向こうに、台所と居間がむき出しになっていた。何年も、毎朝、前を通っていたのに家の中を見たのは初めてで、妙に印象に残ったのだ。
その後、まっさらになった家の跡地を見て思った。 なくならなければ、わからないものもあるのだと。
俺、平川啓介には片野ゆいという家が隣の幼なじみがいる。顔は……かわいい部類に入るような気も、そうでないような気もする。 よくわからない。
ごくありふれた地方都市のベッドタウンが俺たちのいる町だ。お互い建て売りの一軒家。 付き合いは幼稚園に入る前から。小さい頃はよくお互いの家へ行き来して、一緒に遊んでいた。
これを聞いてドアトゥドアならぬウィンドウトゥウィンドウでお互いの部屋を出入りする男女を思い浮かべた人間はロマンチスト、 夢を見過ぎだ。
第一に、普通、家と家の間には塀なりフェンスなり仕切りがある。向かい合わせの窓なんていうストレスとトラブルの発生源なんてわざわざ作らない。
第二に、忘れたい失敗--おねしょだの鼻に指突っ込みすぎて鼻血だしただの--をお互い両手で足りないほど知りすぎている。そういう目で見れるわけがない。
おまけに女子はませるのが早い。家の行き来があるのは幼稚園までと思ったほうがいい。 その内、仲がいいのはお互いの母親同士だけになる。同級生のママ友同士ってなんであんなに仲がいいんだろう。
つまり。 少女漫画的な状況など皆無。ゼロ。ナッシング。なのに俺たちは小学校のあいだ、ずっと付き合っているとうわさされ続けた。小学生とは本当にバカな生き物だ。
一年生のときはまだよかった。ませた女子が数人、ゆいとひそひそ話すだけだった。 二年生になって、人を困らせることに喜びを感じる愚かしい男子たちが、ことあるごとにはやしたてた。最初はそのたびに否定していたが、あまりのしつこさに俺もゆいも疲れた。
テレビゲームの勇者にも負けない過酷な戦いの日々だった。下品な三文字単語を連呼して爆笑するガキだった俺が、レベルアップしスルーを覚えた。
三年生のときのクラス替えで、運よく今まで同じクラスだった連中とバラバラに分かれたので、俺たちはお隣だということを隠すことで結託した。
作戦は順調だった。俺たちは平和に過ごしていた。
ところがだ。
俺が風邪で休んだ時だった。事情を知らない担任が、プリントを届けてくれとクラスメイトの前でゆいに頼んでしまったのだ。どうしてだと問いつめられ、ゆいは家が隣であることを白状してしまった。
風邪が治って登校すると地獄が待っていた。 誰ともなくにやにや笑いを浮かべて
「つきあってんだろ~!」
と冷やかし続けるのだ。小学生とは本当にバカで残酷な生き物だ。
ゆいはさらにレベルアップして、必殺技の凍てつく視線を覚えた。冷たい目ってこういうのを言うのかと俺は感心した。先生すらドン引きさせる威力で、くらった同級生--ついでに周りで見ていた連中も--は固まり、 それから何も言わなくなった。効果はばつぐんだった。
けど、いつも誰かから見られているのを、 俺たちは感じていた。少しでも隙があれば茶化し、冷やかし、おもちゃにしてやろうという気配。
学校で平和に過ごすため、俺たちはどちらともなく、なるべく顔を合わさず、話さないようになった。
俺たちはそれぞれ別の私立中学を受験した。 公立に進学したほうが家計に優しいのはわかっていたが、同じクラスだった奴らとまた三年間一緒になるのが絶対に嫌だった。
週五で塾通いして一日六時間の猛勉強。俺にしてはかなり頑張ったと思う。補欠から繰り上げぎりぎりで、自宅から自転車で三十分の、中の下くらいの私立に進学した。
ゆいは県内の進学校をいくつか受験し、全部合格して、その中から一番行きたかったとこを選んだ。
同じクラスだった連中と全員おさらばできたので、俺たちにやっと平穏が訪れた。冗談抜きで牢屋から釈放された気分だった。牢屋に入ったことないけど。
近所で会ったら顔を見て軽く話すぐらいになったほどだ。
「久しぶり。元気?」
「おう。どっか行くの?」
「塾。××高校目指すなら今から準備しないとダメなんだって」
「あー、偏差値すげー高いとこか。がんばれな」
「うん」
あいつは塾、俺は部活で顔を合わす機会はあまりなくなった。向こうの塾がない日に遅く帰ってくると、家族と話してる声が聞こえることあったが、だいたいはいつも、静かに二階の部屋の明かりがついていた。
家の行き来は幼稚園以来なくなったが、部屋の位置は覚えている。よくあれだけ勉強できるもんだと感心した。
もともと頭もよかったし努力もするもんだから、ゆいはずっと成績優秀だったようだ。 俺はといえば中学生活を全力でエンジョイしてしまったので、まぁ説明するまでもなく、ことあるごとに親から比較対象にされ続け、いたたまれない気持ちで過ごしたが。
だが不思議とそれが悔しくて追い越したいとか、逆にゆいの成績が悪くなればいいとかは思わなかった。プライドがないと言われればそうなのかもしれない。小さいころから背丈も成績もあいつの上になったことがなかったので、それが当たり前だと思っていだ。
そんなわけで、ゆいは目指していた県有数の公立の進学校にすんなり合格し、俺は中学からエスカレーターでそのまま高校へ進んだ。
せっかく志望校に入ったってのに、あいつは間髪入れずにもう次の受験勉強に向かっていた。単に俺が見逃していただけかもしれないが、中学生以降、あいつが遊んでる姿を見た覚えがまるでない。
高校一年の夏休みに、近所のコンビニで向こうの塾帰りに鉢合わせしたことがある。
「お。今帰り?」
「うん」
高校生だってのに、見るからにくたびれていた。ふー、と会社帰りのサラリーマンみたいな長いため息をついて、ゆいはジュースを買って外に出て行った。窓のそばで栓を開けているのが見えた。
俺は二本入りのアイスを買った。外に出て包みを開けて、ジュースを飲んでいたゆいに一本差し出した。
「お疲れ」
「……ふふふ」
「なんだよ、その不気味な笑い方は」
「いやぁ、あの啓介くんがこんな気遣いできるぐらい成長したんだなぁって」
「何言ってんだ。同い年だろが」
「あはは。背も伸びたよね。ついに完全に抜かれちゃった。声も低くなったし」
中学まで伸び悩んでいた身長が、高校に入った途端、急にぐんと高くなった。そういえば前は目線が向こうとあまり変わらなかった。 今は少しつむじが見える。
「ありがと」
アイスを渡したとき、ちょっとだけ甘い感じの匂いがした。飲んでたジュースか、あるいはシャンプーかなんかだろうか。なんとなく一人分くらい間を開けて並んで、アイスをかじった。
「勉強ばっかで疲れねぇ?」
「疲れる」
「だろうな。あんま根詰めすぎて爆発すんなよ。お前キレるとこえーから」
「……実はこないだ、ちょっとしちゃった。 家族に」
「あーあ」
「自分で決めてやってることなんだけどさ、 なんか、うまくいかないね」
「そんなもんだろ。俺らまだガキなんだし」
「うん……ねぇ啓介くん」
「ん?」
「もしかしてさ、彼女できた?」
俺はぎくっとした。確かに、少し前に告られて同級生と付き合っていた。
にやり、とゆいは笑った。
「当たり?」
「……なんでわかったの」
「ふふっ、なんとなーく。勘?」
「……うわぁ、こえ~」
「あはは!」
何が成長したなぁ、だか。同い年なのに、 小学校の頃からゆいの態度には年上のようなところがあった。背丈を抜いてもそれは変わらなかった。
あいつとしっかり話したのは、もしかしたら、あれが最後だったかもしれない。
どうやらその頃にはもう、ゆいは進路を決めていたらしい。
俺が勉強やクラブや学校行事に勤しみ、無意味に親とピリピリする世間一般的な反抗期を迎え、彼女とうまくいかなくなってフラれ、 おおむね高校生らしい青春を送っている間に、 向こうは志望校目指して猛勉強。俺が赤本片手に必死で机にかじりついていたときには、 あいつはすでに都会の某国立大から合格をもらっていた。
俺は自宅からぎりぎり通える地元の公立大学になんとか合格した。慌ただしく新生活の準備をしている間に、ゆいは引っ越し先も家具もなんもかんも準備万端。
そして、なんとなくあいさつの機会を逃し。
気づいたときには、あいつはもういなくなっていた。
何の問題もなく大学生活は始まり進んだ。
講義の出席日数は確保しつつ、サークル活動も、合コンでできた新しい彼女との付き合いも、バイトも楽しんだ。
ゆいが帰ってくるのは、夏休みと年末年始ぐらいだった。
「久しぶり、啓介くん」
「……おう」
「どうかした?」
「いんや、別に。元気?」
「うん」
あのがり勉がずいぶんあか抜けていて、俺は内心ビビった。進学先が都会だとこうなるのかと妙に感心した。 なんだか雰囲気も明るくなった。都合、六年以上続いた受験勉強の日々からようやく解放されたからだろう。ずっと張りつめて疲れてるように見えてたから、いいことだと思った。
こりゃ彼氏できたかなと思ったが、その辺りを根掘り葉掘りするのはなんだかダサいし違う気がして、結局聞かなかった。あっちはあっちで、念願の大学生活を謳歌しているのだ。余計な詮索はしないのが男というものだろう。
講義、課題、彼女とデート、バイト、サー クルとめまぐるしくしていたところへ、卒論と就活まで加わって、文字通り時間が飛んでいった。
そうして、気づけば大学四年。
「ゆいちゃん、いいとこに内定もらったんだって」
母親づてに、あいつが都会の会社に就職したのを聞いた。
「え」
俺は驚いた。 けど、何に驚いたのか、自分でもわからなかった。
俺は自宅から通勤可能な地元企業に就職した。
新人研修が終わり担当の部署に配属されたら、間髪入れずにハードな実地研修が始まった。失敗して怒鳴られたり、へこんだり、慰められたりして、あっという間に半年が過ぎた。あいつもまた忙しくしているらしく、今年の夏は帰ってこなかった。
地方から都会に出ると、そうしてだんだん疎遠になっていくと聞く。きっとあいつもそうなるのだろう。
ある日の、疲れた会社帰りだった。
家のそばまで来て、隣の家の二階が目に入った。当然、明かりはついていない。そりゃそうだよなと思って。
不意に、身体のどこかに、小さな隙間ができたような気がした。
そして、唐突に実感した。
--ああ、もう戻らないんだ。
正確にいつだったのかは覚えていない。小学生のとき、通学路にあった古い家が取り壊された。
三軒並んだ一軒家の真ん中の家。毎日毎日、 必ずそこを通っていた、意識すらしない日常の風景。
ある日、急に重機がやってきたと思ったらすぐ取り壊しが始まった。屋根も床も柱も、 なんの躊躇もなく手当たり次第に壊されていった。
重機で崩された壁の向こうに、台所と居間がむき出しになっていた。何年も、毎朝、その前を通っていたのに、家の中を見たのは初めてだった。俺はその家のことを何も知らなかった。
かなり古くなり傷んでいたことも、住んでいた人がとうの昔に引っ越していたことも、 俺は何ひとつ知らなかった。
家だったがれきが全部どこかへ運ばれていって、まっさらな更地ができた。壊された途端、それは突然、存在していたことを主張しだした。
急に書き割りの背景だったものが立体になった。そこに確かに存在していて、そして失われた。今まで目を向けてこなかったことを責めるような、あの空白。
今になって気づいた。俺は、ゆいが戻ってくるもんだと思っていた。こんなに何年もたってやっと気づくほど、無意識に、心の裏側のほうで。大学の期間がイレギュラーだっただけで、ほぼ人生の長さ続いてきた、あいつが隣で暮らしている生活は変わらないと思いこんでいた。
そんなわけがない。俺は今年二十三歳だ。 二十年。自分だけじゃなく、人も、物も、町も、世界もなにもかも、小さく大きく変わるのに十分すぎる時間だ。ずっと同じものなんてあるわけがない。
ゆいに特別な感情はない。あいつをそういう目で見ることはない。
ただ。
時折交わした会話。帰り道で聞こえた声、 見えた部屋の明かり。 今までと変わらずに、あいつがいるという気配。
自分でも気づかないうちに続くと信じていたものが、なくなったんだという実感が、本当に今更になって、全身にどっと押し寄せた。
「……おっせー」
ひどい遅さだ。自分の鈍感に皮肉な笑いが浮かぶ。
付き合いこそ長いが、会う約束をしたことはない。顔を合わせたら話す程度。あいつがあんなに猛勉強して目指していた夢が何なのかを、俺は知らない。
特別仲がいいわけでもない、たまたま家が隣りなだけの、言ってしまえば他人だ。
なのにこの先、もういないんだと気づいた途端に惜しくなるとか、どれだけ身勝手なんだか。
まぁ、盆と正月ぐらいは帰ってくるだろう。 仕事を辞めてUターンしてくる可能性もゼロじゃあない。
でももう、あいつが暮らす場所はここじゃなくなった。向こうで結婚でもすりゃなおそうなるだろう。
いつかやってくる、当たり前のこと。それだけの話。ただ、それに気づいただけの話だ。
「……まぁ、いいんだよな。お互い何も問題ないんだし」
嫌なことや苦労はそれなりにあったが、大きな不幸もなく、俺もゆいもここまできた。 あいつは努力をして夢をかなえて、俺は俺でそれなりにやってる。
俺たちは、今、まあまあ幸せだ。なら、これでいいのだ。
暮らしなんて、気づかないうちに次々新しくなっていく。 あの通学路の家のまっさらな跡地には、すでに買い手がついていたのか、あっという間に新しい家が建った。みんな、前の家のことなんか気にするそぶりもなく、普通に通り過ぎた。俺もそうだ。
この隙間にも、きっとそのうち別の何かが埋まって、俺は平気になって、忘れていくのだろう。
だから。今だけ。
「あーあ。大人もうまくいかねぇなあ」
今更な、当たり前の別れを惜しんだ
通学路にある家のような 三島小明 @Koaki_Mishima
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます