途轍もなく非情なリアルだからこそ、一時のフィクションのような救いに耽溺

 冒頭を読んでただの百合モノだと思ってしまうのはもったいない。家庭問題・人間関係・性自認・社会的問題・性差別・スクールカースト・弱者強者の優劣・宗教的問題・親子愛・陰謀論とさまざまなテーマが随所随所にちりばめられていた。見つける度に興味を引き込まれてしてしまうのは、某大衆イタリアンチェーン点のキッズメニューの間違い探しのよう。
 最初は本当に、心の溝を埋めるためにパートナーを求める百合の話のように展開する。その心の溝を、二人の主人公を掘り下げる度に輪郭をはっきりさせてくる。彼の物語の魅力の一つだ。
 そして、この物語でもう一つ、魅力を感じたことは、主人公の周りの人物が、主人公を形成している点にある。悪役でさえも主人公の人格の形成の一端を担っている。これは、「人と人との関わり合いこそが人格で、それによって完成されてきた主人公たちの人格なんだ」という裏付けに他ならない。
 欲を言えばもっと掘り下げてほしい点はあった。しかし、それがまた良いのである。何も解決していない。だからこそあのラストシーンの救いが輝いて見えた。
 タイトルにもあるように「明日がリアル」。そう、途轍もなく非情なリアルが、明日、ひいてはそう遠くない未来に迫っている。それがわかっていながらも、あの冒頭の一泊と、ラストの一泊二日という限られた救いは、彼女たちにとって紛れもなく非日常で、フィクションのようで、揺るぎの無い”救い”だったのだ。多くのテーマに先が思いやられるような気もする。
 でも、そんな”リアル”があるからこそ、その”救い”は純度の高い彼女たちの心の支えになるのだろう。縋ったって良い、永遠を望んだって良い。彼女たちがリアルに溺れる者だからこそ、その救いをどこか非現実的なモノと感じているようで、一連の物語の流れに痺れた。