2002.7 マウンテン・ブレイカー ①

30ヶ月前───






『愛しのサーシャ、見送りにいけない私をどうか許しておくれ。


 しかし信じて欲しい。私が何度も駅へ向かおうとしたことを。


 お前の祖父は既に快復しており、外を出歩くのに何ら問題がない状態なのだということを。


 ───にも関わらず、病院の連中は私を老人扱い。


 少しでも歩き回ろうものなら大げさに騒ぎ立て、やれ病人だ、やれ安静にしろだと私を病室に監禁する始末!


 なんとけしからんことだ! 孫のハレの日に見送りすら出来ないとは!


 私は今、燃え盛る憤りと深い哀愁の中でこの手紙を綴っている。


 愛しのサーシャ、お前が16歳を迎えたその日に職種学校へ入学したいと言いだした時は、文字通り心臓が止まるかと思ったものだ。


 当然だろう、何故なら職種学校を卒業すれば自動的に2年の兵役が始まるのだから。


 戦場へ赴かんとする孫娘の行く末を案じない祖父がいるだろうか?


 まだ先のことだとお前は笑うだろうが、私は今この瞬間もお前の将来が心配でならない。  

 

 もちろん元軍人の私が教えられることは一通り教え、必要な知識と術は与えた。


 決して過度な評価ではなく、身内びいきでもない。お前は優秀な生徒だと言えるだろう。


 しかし、それでも私の心を覆った闇は晴れない。それほど戦争というものは、戦場というものは予想がつかず、強大で、恐ろしい怪物なのだ。


 魔女一人の力など容易に飲み込まれてしまうだろう。


 お前を不安にさせる気は毛頭ない。しかし、私がどれだけお前のことを大切に思っているか、それだけは知っておいてほしい。


 同封した鍵は、その思いの証でもある。


 それは私の書斎にある机の、一番下の引出しの鍵だ。


 そこに私の娘であり、お前の母さんの形見が入っている。最後まで渡すかどうか迷ったが、お前を信じ、託すことにする。それを持って職種学校へ出立しなさい。


 母さんがきっとお前の力になってくれる。


 最後に、ケガと病気に気を付けて。大麦よりも強く、沢山の友達を作りなさい。


 

 ─────────────── イヴァン・ヴォルコフ 』


  



祖父からの手紙を読み終え、サーシャは深いため息を吐いた。

何回も読み返した内容だったが、取り零した情報はないかと最後にもう一回目を通していた。

結果、新たな発見はなく、わざわざ列車にまで持ち込む必要はなかったなと安堵する。

読み終えた手紙を両手で丁寧に潰し、小さく丸める。

片手で納まる大きさになったそれを右手に握りこみ、意識を集中───

拳骨の指の隙間から光が漏れたかと思うと、空気が抜けるような音がして、黒い煙が上がった。

再び手を開くとそこに手紙は存在せず、代わりに在るのは黒い塊。消し炭となった、紙だった物。

煙と匂いが車内に籠るとマズイ。慌てて窓を開け、車外に手を伸ばして掌を払う。

風に撒かれ黒い紙片がパラパラと列車の後ろへ流れていった。

カンペキな証拠隠滅だ。

煙も窓から出ていったとはいえ念のため周囲を見渡して乗客の反応を窺う。人はまばらで直近の乗客も離れた所に座っている。見咎められるようなことはないと思っていいだろう。 


……しかし都市部へ向かう列車なのに、始発駅から近い地点だとこうも乗車率が低いのか。


もっと混雑した車内を想像していたので肩透かしを食らった気分だ。

手紙を読み終えて手持ち無沙汰になり、視線は自然と、開け放たれた窓へ向かう。正確には窓の向こうの景観へ。

家よりも背が高く、何年も生きてきた逞しさが感じられる太い木、木、木、木。窓の外を走るのは樹木ばかり。それはそうだ、森の中を走る列車からの景色なんて限られる。深い緑と、無骨な茶色と、不気味な暗闇。

路線の仕様とはいえ、精神を病んでしまいそうな不変的配色にげんなりする。

ああ、退屈だ。

こんなことなら文庫本の一冊でも持ってくればよかった、と後悔するが、あちらで買えるような物は余計な荷物になるから持って行かない、と決めたのは自分だったことを思い出し、なんとも言えない気持ちになった。

ままならないなあ、とイラつきにも似た感情が胸の下で燻り始める。

乗車して十数分、早くも“気分転換”が必要となってしまったようだ。

隣の席に置いた鞄をまさぐっていると通路を歩いてきた女性と目が合った。

背の高い女性だ。長い赤毛のポニーテールが黒いライダースジャケットとよく合っている。

旅行者だろうか?それにしては随分大きなボストンバッグを抱えている。

女性とは僅かに目が合っただけで、彼女はすぐに目線を外し通路を行ってしまった。

しかし後ろ歩きですぐに戻ってくる。

空いている席、私の荷物、サーシャの顔を順番に見回したかと思うと、人懐こい笑顔を浮かべながら話しかけてきた。


「おねーさん、ここ空いてる?」


ナンパか? と思った。

明らかに他の席は空いている。わざわざ他人が座っている近くに来る必要はない。

それに見た目も(よく見ると田舎には似つかわしくないほどバッチリ化粧している)失礼だが遊んでいるように見える。

しかし不審者には見えない。

ちょうど話し相手が欲しかったところだし、怪しいとは思いつつも断る理由は見つからなかった。

首を傾げて肯定の意思を示す。


「ありがとう!」


大きな声で礼を言った女性は対面に座り、バッグを隣の席に立てかけた。

同席を許したとはいえ、4人掛けのボックス席で初対面の人間の正面に座るとは、なかなか肝が据わっている。いや、手慣れていると言うべきか。

やはりナンパか? それとも、単に窓際に座りたかっただけ?


「………あ、やっぱりダメだった?」


知らないうちに見つめていたらしく、視線に気付いた彼女が気まずそうに伺ってきた。


「いや、だいじょうぶ。………鞄が重そうだなと思って」


「ああ! そういうこと? そうなんですよねー、引っ越しするんだー」


引っ越し、というには少ない荷物だ。しかし旅行にしては多い。

もしかしてこの女性は、自分と同じ理由でこの列車に乗ったのかもしれない。

自分がこの女性に興味を抱いていたように向こうもこっちに興味を持ったらしく、彼女は物怖じした様子もなく声をかけてきた。


「ね、おねーさん。前に座ったついでって言っちゃあなんなんだけど………」


それどころか彼女は人懐こい笑みを絶やすことなく、人差し指と中指をハサミのように構えて見せる。


「煙草、持ってない?」



列車最後尾、バルコニーへ続く扉には注意書きが貼ってあった。

それには法律がどうの規則がどうのと几帳面な文章が長々と記してあったが、簡潔に言うと「火災の原因になるので森林区間を走行中は喫煙禁止」という内容だった。

二人はそれを無視してバルコニーへ出る。

後尾ということで風は強くなかったが、木々から発せられる緑の匂いは車内とは比べ物にならないほど強い。深呼吸するだけで健康になりそうだ。

まあ、今から健康とは真逆の行為をするわけだけど。


「なんでわたしが煙草を持ってるって分かったの?」


「雰囲気かなー。吸いそうなカオしてたから」


「なにそれ」


失笑しつつ、鞄から上着のポケットに移しておいた紙箱を取り出す。

その紙箱から煙草を一本、貴重品でも扱うように丁寧に抜き出すと、紙箱を赤毛の彼女へ差し出した。


「アレクサンドラよ。長いからサーシャって呼んで」


彼女も嬉しそうにそこから煙草を抜き取る。


「エリザヴェータ・マイスキー、私もリーザでいいよ。………カオの話は、まあ半分冗談だけど、あそこの席から物が焼けた匂いがしたんだよね。煙の匂いを纏ってる人間なんて、殺し屋か喫煙者ぐらいしかいないでしょ」


なるほど、煙の原因は煙草とは関係ないけれど、リーザはある程度の洞察力と低品質なジョークセンスを持っているようだ。


「あるいは“どっちも”ね」


「それはそう、確かにそう」


笑みをこぼすリーザを一瞥し、サーシャは人差し指を煙草の先に当てる。

煙草と指の接触面が幽かに光ったかと思うと、次の瞬間には煙草の先端が黒く焼け始めていた。

草の束から有害な空気を深く吸い込み、森林の清潔な空間へ吐き出す。

排煙は揺蕩うことなく、ひも状に後ろへ流れていった。

一連の動作を見ていたリーザが感嘆の声を漏らす。


「うまいね」


煙を吐き切ったサーシャがリーザの方を見ると、彼女の煙草にはまだ火が点いていなかった。


「まだ吸ってないじゃない」


「いや煙草が美味いって意味じゃなくてさ。発火、火をつけるのが上手いなーって」


「ああ、これ?………使う?」


言いながらサーシャはリーザの鼻先に人差し指を突き出した。

リーザのまさしく目の前で、指の先に蝋燭のように小さな火が灯る。


「ありゃ、こりゃどうも」


すかさず煙草を咥え火に当てる。

その所作を見て、火を貰い慣れてる…吸い慣れてるな、とサーシャは感じた。


「サーシャさんマナのコントロールすごい上手いよね。宝石とかも使わずにさ。もしかして軍人さん………には見えないから、お巡りさん?」


「どっちもはずれ。ただの一般市民だよ。………まだ、ね」


「含みのある言い方だなー、もしかして秘密警察とかいうオチ? だったら最悪だわー。まだ帝国のスパイだった方が笑えるー」


「そのジョーク、ぜんぜん笑えない」


そう言いつつもリーザの明るい調子に連られてサーシャも微笑んでいた。


「学生よ………と言ってもまだ入学してないけど。終点のブルクにある職業学校に入学予定なの」


「えぇ!? じゃあ同期だ! 私もブルク校に入学するんだよー!」


やっぱりな、とサーシャは思った。あのバッグの大きさと「引っ越し」という表現、入学の日程と彼女の容貌から、レクサンドル職業訓練学校への入学予定者なのでは、と予想していたのだ。

しかし疑問が残る。


「そう…でもなんでこの列車に? 失礼だけどあなたみたいなファッションの子って、列車が出発した田舎町には皆無だし、単純にあなた見ない顔だわ」


投げかけた質問に対しリーザはきょとんと呆けたかと思うと、すぐに感心したような、興味深げな表情を向けて答えた。


「鋭いねー。サーシャさんが思った通り、私の家はこっちじゃないよ。実家はブルクにあるんだー。こっちに来たのは、まあ………簡単に言うとお墓参りかな」


墓参り、という単語に一瞬サーシャは眉を顰める。


「その田舎町に有るでしょ、陸軍墓地。そこに私のおばあちゃんが眠っててね、兵役に入る前に挨拶してきたってわけ」


そう言ってリーザは長く煙を吐き、目を瞑って再び煙草を吸い始めた。目を瞑ったのは、必ずしも煙が目に染みたからではないだろう。

サーシャは罪悪感で胸がいっぱいになる。


「………ごめん、無神経だった」


「んっ!!? ゲホッ…ブフォ………なんで!?」


何を慌てたのか咳き込むリーザに、サーシャは弁明する。


「いや、言いづらいことを訊いて気を悪くしちゃったかと思って」


「全然だよ!? 気にしてない気にしてない!ぜーんぜん気にしてない! そもそも言い辛いことだったらはぐらかしてるって」


「………そう? なら、いいけど」


「お気遣いどうもー。そんなことよりサーシャさんっていくつ? 見たところ20歳くらいかなーって思うんだけど、もしかしてタメだったりしない? ………あっ私は18ね!」


あからさまな話題転換。向こうが気を遣ってくれるのを申し訳なく思いつつ、同時にありがたいなとも思った。


「16よ」


「じゅうろくぅ!!? 年下!? “おねーさん”とか言っちゃってたよ恥ずかしっ! ………てか煙草吸ってんじゃん、駄目だよ18歳未満が煙草吸っちゃあ」


「よくゆうわ。自分だって18になる前から吸ってたでしょ? その吸いっぷり、とても年齢制限を守ってさいきん吸い始めたようには見えないよ」


サーシャ指摘にされ、リーザは口をつぐみ目を泳がせる。図星だったようだ。


「口が達者だなー、話してて全然年下って感じないや。大人っぽい」


「そう? ふつうだと思うけど………リーザの方が大人っぽいよ。かっこいいし背も高い」


「おぅナチュラルに褒められると照れるね! しかも年下に! いや、ではなくて、雰囲気というか表情かな? きりっとしてて、仕事が出来る大人の女って感じ」


「それ褒めてる?」


「褒めてる褒めてる!」


リーザは快活に笑いながら吸い終わった煙草をスモーキングスタンドに押し付け、火が消えたのを確認してから吸い殻穴へ落とした。

サーシャの煙草はまだ少し残っていたが、リーザだけ先に戻られるのもなんなので捨てることにする。

二人は連れだって喫煙所を後にした。


「16ってことは、今年で17歳?」


「いいえ、誕生日が4月なの。今年で16よ」


「うっわ、最年少入学。春に誕生日で夏に入学する人って本当にいるんだ」


「どうせいつかは入学しなきゃいけないし、早く一人立ちしたかったから」


「それでも早いよー。在籍年齢16歳からって言っても、普通は中等過程卒業してから入学するんだから」


席に戻ると荷物が盗まれていた………なんていうことは無く、席を離れた時と同じ場所に、荒らされた様子もなくおとなしく置かれている。

神経質過ぎるな、とサーシャは内心で自嘲する。こんなに客の少ない列車でしかも走行中に、置き引きなんてある訳ない。


「そういうリーザはちゃんと卒業してから来たんだ?」


「まーねー、本当はもう少しティーンを楽しんでからでも良かったんだけど、20歳から入学するとどうしても周りから浮いちゃうでしょ? ワケアリで20歳越えてから入る人もいるけど、私はそーいうんじゃないしねー」


「入学がおくれると、兵役のあとで社会進出するときに不利になるかもしれないしね」


「噂は聞いたことあるけど、本当なのかなー?」


何気ない会話を交わす中で、サーシャは目の前に居る3つ年上の女性に対し、なかなか高い評価を付けていた。

まず顔がいいし身なりもしっかりしている。年下の自分にもフランクに接してくれるが、かといって媚びたような態度は見せない。

親縁関係を大事にしているようだし、頭も良さそうだ。………なにより、愛煙家というのは非常にポイントが高い。

入学してからも積極的に親交を持ちたい人物だ、そうサーシャは思っていた。

その後、家族のことや入学してからの不安事項等、当たり障りのない会話をしているうちにあっという間に時間は過ぎ、気付けば目的地まで半分という駅まで来ていた。

乗務員の交代と車両点検で長めに停車するらしく、それに気づいたリーザが急いで立ち上がる。


「ここのホーム、パン屋があるんだよ! お昼用に買って来る!」


「ああ、いってらっしゃい」


座ったまま手を振るサーシャに、リーザが顔をしかめる。


「じゃなくて、サーシャは何がいい?」


どうやらサーシャの分も買って来るつもりのようだ。

確かにサーシャは昼食を用意していないし、そろそろお腹が減ってきたと感じてはいたが、唐突のことで面食らってしまい返事が遅れる。


「………じゃあ、スモークサンド」


「りょーうかい!」


注文を聞き終えたリーザはさっと翻り、小走りで乗降口へ行ってしまう。

車外へ消えてしまう前に、その背中へ叫んだ。


「なかったらドーナツでいいから!」


思ったより大きな声が出てしまったが、おかげでちゃんと聞こえたようで、車外から伸びた手が何度か上下した。

ほっとするも、もう結構な乗車率になる車内で注目を集めてしまい、恥ずかしさで身を縮める。

乗客からの視線を気にしないよう窓の外へ意識を向ける。反対車線と、その向こうにも別の路線のホームが見えた。都市部へ近づいたからか、キャリーケースを引くオフィスレディ風の者や旅行鞄を背負った若い女の多さに目がいく。

中にはサーシャやリーザのように、職業学校へ向かうであろう少女の姿も見られた。

女、女、女、見える範囲には女ばかりだ。まあこれは仕方ない。なんせ世界の女男比が7:3なのに対し、この国、サリオ共和国の女男比は8:2だ。男を探す方が難しい。

これで過去に何度も戦火を交え、現仮想敵国のデルーツ帝国の女男比は9:1というのだから、いやはや徹底しているというか何というか、帝国男性には哀れみしかない。

いやしかし、それも当然なのかもしれない。


何故なら男にはマナを操る能力がないのだから。


「ただいまー!」


突然声を掛けられ反射的に体が跳ねあがる。

確かめるまでもなく、声の主はリーザだった。


「わっはははは、今ビクッてした! ビクッて!」


からかいながら席に座り、パン屋で買ってきたであろう紙袋を差し出してくる。


「もう、おどろかさないで!」


わたしは抗議の声を上げながらもそれを受け取る。中を覗くと、注文通りのスモークサンドが二つ入っていた。


「ありがとう、いくら?」


財布を取り出して問いかけるが、リーザはお金のことなんて気にも留めていなかったという様に、無心でピロシキをぱくついている。


「んん? お金? ……ああ、いーよいーよ、お姉さんが驕っちゃる」


「そんな、わるいわ」


「気にしないでよ、私これでもお金持ってるんだから」


「でも………」


気持ちは嬉しいが、会って間もない人間にご馳走になるのは居心地が悪い。

ちょっと神経質だろうか?

煮え切らない気持ちが表情に出ていたのか、わたしの心情を察したのだろう。リーザは「んー」と宙を仰いで少しの間考え事をしていたかと思うと、わたしと視線を合わせ、こう言った。


「じゃあこうしよう。さっきの煙草のお返し。それならいいでしょう?」


お得意の人懐こい笑みで言われたら、もう何も言い返せない。


「………ええ、及第点ね。じゃあ遠慮なく、いただきます」


「どういたしまして♪ あ、コーヒー飲む? パン屋で水筒に入れて貰ったんだー」


「用意がいいのね」


「んーんー」と(「まーねー」と言いたかったのか?)早くも三つ目のピロシキを咥えたリーザが水筒にコーヒーを注ぐ。


「………そんなにいそいで食べると太るわよ。そうでなくても揚げパンなんだから」


「嫌なこと言わないでよー。入学決まるまでずーっと食事制限続きでさ、滅多に揚げ物なんて食べられなかったんだから」


「食事制限? ふーん、ダイエットが必要な体にはみえないけど」


「へへっ照れること言わないでよ、褒めてもコーヒーぐらいしか出ないよ?」


湯気の立つプラスチック製のカップが差し出される。


「いただきます」


それからしばらく二人は食事に専念していた。

結局、リーザはピロシキを五つも食べ、わたしはそれを見ているだけでお腹がいっぱいになってしまい、買ってもらったスモークサンドを一つまるまる残した。

お腹が減ってきたら食べよう、と紙袋で丁寧に包み鞄に仕舞う。

淹れたてだったのだろう、パン屋のコーヒーは熱々でしばらくは飲めなかったが、食後の一杯としては充分に楽しめた。


発車までもう間もなくという時刻、停車時に比べると乗客はかなり増えていた。

座席はほぼ満員で、通路に立っている客も少なくない。

ボックス席を二人で利用している身としては、他の乗客からの視線が気になるところだ。

鞄を網棚に上げて席を譲ろうか、そうリーザに提案しようというところで不意に声をかけられた。


「すみません。こちらの席、開けてもらってよろしいでしょうか?」


バカに丁寧な言葉に振り向くと、そこにはお嬢様がいた。

予め断っておくが、サーシャが誰かに遣えているという事実はない。

声をかけてきた女の子が、誰もがイメージする「お嬢様」なビジュアルだったのだ。

彼女が来ているのは白くてフリルが沢山付いている、ドレス風のワンピース。被っているのは白いつば広のドレスハット。手にしているのは白い日傘だし、レースの手袋もこれまた白い。

極めつけは金色のセミショートと青い瞳。ビジュアルだけ見れば、まるで高原の別荘へ向かうお嬢様だ。


「だいじょうぶよ。リーザもいいわよね?」


「ええ、構わないわ。荷物重そうだね? 棚に上げるの手伝うよ」


そう言って「お嬢様」の身の回りで唯一茶色い革張りのキャリーケースに視線を向ける。その顔にさっきまで無邪気にピロシキを頬張っていた面影は微塵もなく、笑ってはいても先ほどまでの人懐こい笑みとは違いクールで大人びたアルカイックスマイルを浮かべていた。

余所行きの表情、とでも言うのだろうか。

初対面の相手にはこうなのかもしれない。いや? でもわたしの時は最初から砕けた調子だったな。


「ありがとうございます。お優しいのね。………ああ、ちょっと待って下さいますか? 連れがいるんです。クロエさーん、こちらの席が座れますわよー」


「お嬢様」が通路の向こうへ呼びかける。自分の鞄を網棚に上げつつそちらに目をやると、子熊が歩いてきた。

もちろん本物の熊ではない。熊っぽい女の子だ。

その子は170あるサーシャの身長より頭一個分ほど低い、小柄な体格にも関わらず、自分の体と同じくらいの大きさのリュックを背負っていた。

そのシルエットがもうすでに「子熊っぽい」のだけれど、その子の目元まで隠れた前髪とパーマを当て過ぎた無造作風ヘア(これがもし癖毛だと言うのなら、ちょっとお近づきにはなりたくない無精さだ)がなんとも言えない獣の風貌を演出していた。


「わーい、やっと座れるよー。あーつかれた」


「子熊」は席の前まで来るとへたり込んでしまった。

それを見た「お嬢様」が間髪入れずその身を支える。


「クロエさんこんな所で力尽きないでください。ちゃんと席に座りましょう?」


「いやー、もうここでいいよ」


「いけませんよ。ほら、リュックを降ろして」


「お嬢様」は甲斐甲斐しく「子熊」の面倒を見ている。

この二人がどんな関係かは知らないけど、傍から見れば「主人と飼い犬」のようだ。


「改めまして、席を空けてくれてありがとうございます。わたくしエミリー・ピーターソンと申します。こちらは…ほら、クロエさん、お礼を」


「クロエ・ホワイトでーす。ありがとねー」


各々の荷物を網棚に上げた(「子熊」のリュックは流石に乗せ切れなかったので通路に置いてある)後、列車は予定時刻通りに出発し、その頃合いを見てか「お嬢様」が挨拶をし始めた。

「お嬢様」──エミリーはリーザの隣、「子熊」──クロエは私の隣に座っている。


「二人は、友達?」


名前を聞いた途端リーザがエミリーに問いかける。まずはこちらも名乗るのがマナーだろうに、ずいぶんと気が早い。


「はい。と言っても知り合ったのは一昨日ですが………そちらはご姉妹ですか?」


「わたしたちが?」


「ははっまさか!」


エミリーの言葉に思わず大きな言葉が出てしまった。

リーザは否定しつつも、ツボに入ったのか小刻みに震えている。


「私達も友達…っていうかさっき知り合ったばかりの関係だよ。第一ほら、髪の色が違うでしょ?」


「あら、確かにそうですね。ごめんなさい、どことなく雰囲気が似てると思ったものですから」


「私達が?………そうかな。ねえサーシャ、どう思う?」


「わたしにふらないで。知らないわ。誰かににてるなんて、そんなの初めて言われたもの」


水を向けられ思わず肩を竦める。

エミリーは雰囲気が似てる、なんて言っているが、会話を弾ませる為にテキトーなことを言ってるに決まっている。処世術と言えば聞こえは良いが、興味のない話に巻きこまれたこっちはたまったもんじゃない。

しかし、サーシャの推察とは裏腹にエミリーは真剣な瞳でリーザの顔を見ていた。

いや見ていた、なんてレベルじゃない。食い入るように見つめている。


「……………」


「どうかした?」


視線に気付いたリーザが笑顔で問いかける。先ほどの、大人っぽいアルカイックスマイルで。

エミリーの視線、その瞳の光が揺らいだ。


「………違ったらごめんなさい。もしかして…エリザヴェータ・マイスキー、さん、ではないですか?」


エミリーの言葉に思わずサーシャは目を見開く。何故彼女がリーザの本名を知っているのか?わたしたちはまだフルネームを名乗っていないはずだ。


「うん、そうだよ。あれ?前にどこかで会ったかな?」


「いいえ、あの………モデルをされていますよね? 貴女が載っているファッション誌、よく読んでいます」


エミリーの顔が綻ぶ。その声は、先ほどより明らかに弾んでいた。


「うわー読者の人? 嬉しいなー!」


「そんな、嬉しいのはこちらの方です。まさかこんな所で貴女に会えるなんて………」


言いながら居住まいを正すエミリー。もとより姿勢よく席に座っていたのに、それ以上どこを正すつもりだろう。

芸能人(?)を前にして舞い上がっているようだ。

………まあ、それはサーシャも同様だったが。


「リーザ、あなたモデルだったの?」


「休業中だけどね。事務所の籍は残してくれてるから、一応現役」


気恥ずかしそうに微笑む彼女の顔を改めて観察すると……確かに、モデルとして写真が掲載されてもおかしくないルックスだ、と納得する。

相手が芸能人だと分かると、その人のメイクもファッションも一般人とは質が違って見えるから不思議だ。

それにしても、芸能人か。

都会に出ればこういうこともあるだろうと期待していただけに、素直に嬉しい。自覚以上に浮足立っている自分がいた。。


「雑誌のインタビューで拝見しましたけど、職業学校に行くというのは本当だったんですのね。この列車に乗っているということは、ペテロブルクですよね? まさか同期になるなんて思いませんでしたわ」


「同期? ああ、じゃあエミリー達もブルクなんだ。もしかして留学生?」


「そんなに綺麗な瞳は、なかなか見ないからさ」と軟派な言葉を付け足すリーザ。


「まあ、お上手ね。そうです、エイギスから来ました。クロエさんとはこの国に来る時の船で会ったんですのよ」


名前を呼ばれてもクロエは反応しない。

それはそうだ、彼女は初めの挨拶の後、早々にアイマスクを着けて就寝の態勢をとっていた。


「エイギスの人かー。あはは、向こうでも私が載ってる雑誌が読まれてるって、なんだか不思議な気持ちだなー」


「こちらでの人気には及ばないかもしれませんが、向こうでもティーンエイジャーを中心にファンが多いんです。行きの列車で隣に座れるなんて、国の幼馴染に自慢が出来るわ」


二人は共通の話題に花を咲かせている。

疎外感を覚えないわけではないけれど、初対面の相手にも物怖じせず接せられるリーザのコミュニケーション能力に感心させられていた。そしてオーラや求心力と言うのだろうか、彼女の近くにいると妙に目を惹きつけられる。傍で見ているだけで人を飽きさせない、何かがある。

なるほどモデルをやるような人は、こういう所謂カリスマ性のようなものを持ち合わせているんだな。

初めて目にした芸能人に、サーシャは新しい知見を得ていた。


「でもサーシャは私のこと知らなかったみたいだし、まだまだだよ」


不意に名前を呼ばれ意識を戻される。こちらを見つめるリーザの口元が挑戦的に吊り上がっていた。

どうやらリーザの知名度について話していたようだ。


「悪いけど、わたしは認知度の統計には貢献できないよ。うちはすごく田舎だったから、若い子向けのファッション誌なんて売ってなかったの」


「そうなんだ? でもサーシャが今着てる服、貴女にとてもよく似合ってるわ」


「ありがとう。これは………はずかしい話なんだけど、親戚のおばさんが選んでくれたのよ」


「センスのいい叔母様をお持ちなんですね」


このまま身内の話に移ると家族構成のことを訊かれて面倒なことになる。

母親が他界していることを話し空気が悪くなることは避けたい。サーシャは話題を変えることにした。



「ピーターソンさんみたいに完璧なコーディネイトの人にはかなわないよ」


「あら、エミリーとお呼びになって。敬称もいりませんわ」


「年上でしょう?」と付け足し穏やかに微笑むエミリーと、それを見て吹き出すリーザ。

リーザの様子に眉をひそめるエミリーを見て、サーシャは溜息を吐いた。


「わたし、16歳よ。たぶん……間違いなく、あなたより年下」


「ええ!? す、すみません。てっきり20歳くらいかと、その…大人っぽい雰囲気だったので。いえ悪い意味ではないんです」


あたふたするエミリーを見て我慢出来なくなったのか、ついにリーザは声を上げて笑い出してしまう。


その後もサーシャ達は色々な言葉を交わした。

お喋りの内容は様々で、リーザの仕事についての話やエミリーの留学経緯、卒業後の進路希望や、ティーン特有のなんちゃって国際情勢など。どの話も飽きることなく聞いていられた。

フランクに振舞ってはいるが、二人からは隠しきれない育ちと性格の良さが感じられた。こういうのを年上フィルターと言うのだろうか?

ちなみにエミリーは今年18歳。(エミリーの年齢を知った時リーザが「タメか………」と残念そうに呟いたのを、サーシャは見逃していない)


「ええ!? エミリーって社長令嬢なの? よく海外留学なんて許されたねー」


「むしろ推奨されましたわ。世界を見るよい機会だって。………ああ、でも誘拐されないようにって再三注意されましたけど」


「なにそれ、エイギスジョーク? 社長令嬢だからってこと?」


「さいきん流行っているのよ。いや、流行りっていうのとはちがうけど。共和国の魔女、もしくは資質のある未成年が行方不明になっているの」


「この一年で百人以上と聞いていますが、何者かに拉致されたというのは本当なのかしら?」


「さあね………帝国に人身売買されてるとか、どこかのテロ組織の構成員にされてるとか、とっぴょうしもない噂だけは聞くけど、行方不明者なんて………家出むすめも数えればもっと多いんだし、警察も真相にたどりつくまで時間がかかるでしょうね」


「拉致ねー、そんなに被害者が多いんなら結構大きい組織なのかな? ……ところで、クロエ、ちゃん? さん? ずーっと眠ったままだけど何かあったの?」


「19歳と聞いていますわ。会った時からこんな感じです。眠るのが好きみたいで……」


「すてきな趣味だけど職業学校でやっていけるかしら。早朝訓練とかもあるのよ」


「お詳しいんですのね?」


「祖父が昔、そういう仕事についていたの」


「…………呼んだ?」


「あ、起きた」


「特に呼んだわけではありませんよ」


「そう……ま、いいやー、起きるよ。今どこらへん?」


「まだ駅を出てから一時間も経っていませんよ」


「まだぜんぜん眠れるじゃん……ま、いいやー、お腹すいたー。エミリーなにか食べるもの持ってない?」


「ごめんなさい、何も」


「わたしスモークサンドあるけど、いる?」


「いいの? いただきます」


「ねえホワイトさん、クロエって呼んでもいいかな?」


「んー? いーよ」


「よかったー。失礼だとは思うんだけど、このルックスで年上扱いは無理だわー」


「はは、めっちゃ失礼。さすがカリスマモデル」


「モデル関係ある?」


笑い声が上がる。

それは知らない時間だった。初めて経験する空間だった。

会って数時間としない人たちとこんな風にお喋りするのは、サーシャにとって不思議な高揚感を──心の底がほんのり温かくなるような感触を覚えさせていた。

田舎のあの家で暮らしていては、こんな気持ちになることは無かっただろう。

もちろん向こうで友達が居なかった訳ではないけれど。

新しい土地に向かっている、新しい人と出会う、楽しい。そういうこれから幾度も味わうであろう感覚が、一人立ちの日と重なったことで、より特別なことのように感じられたのだ。


(思ったよりずっと楽しくやっていけそう)


実は密かに緊張していただけに、サーシャは彼女たちとの出会いに感謝していた。

リーザ達のような人間ばかりなら職業学校での暮らしも上手くやれるだろう。

出来ればこの中の誰かと同室になれたら最高だけど、流石にそう上手くは行かないか? ……でもせめてクラスぐらいは一緒がいい。

談笑しながらサーシャはそういうことに思いを巡らせる。

遠足の準備をする子供のそれと似ていて、新天地での生活を妄想する、それは楽しい時間だった。


しかしそんな時間は、間もなく破られることとなる。



窓の外に黒い影が走った。



その影は一瞬視界の隅に入っただけだが、明らかに鳥や小動物とは違う、大きなシルエットだった。

しかも”列車の進行方向に”飛んで行った。

生物でないのは明らかだ。


「……今、何か飛んで行ったよね?」


「大きかったですわね。はっきり見たわけではありませんが、航空宝機のように見えました」


車外に見えた物体について、サーシャの考えはエミリーが言ったものと一致していた。通路側の彼女でもそう見えたのなら間違いないだろう。

宝機──宝石が埋め込まれた機械。その中でも特に、宝石から得られるマナを動力源にした乗り物全般を示す言葉。

サーシャたちが今乗っている列車も、分類としては宝機だ。動力源である宝石の大きさは、先ほど空を飛んで行ったそれとは比べ物にならないが。


「私も宝機に見えたよ。エアバイクタイプかな……二人乗りしてたけど、多分──」


エミリーの意見を補足したリーザは、神妙な顔つきで言葉を続ける。


「武装してた」



その場の空気が一瞬で張り詰める。

“武装”その言葉が意味するところを察してか、四人はしばらく一言も声を発さず、逆に息を呑んだ。

沈黙が四人の間を埋め尽くす。他の乗客も航空宝機を目撃したようで、周りはにわかに騒ぎ始めている。

静かなのは四人が居るこの空間だけ。四人は四人とも、誰を見るでもなく目の前の空間を見据えている。否、視線がそこ向いているというだけで、四人は何も見てはいなかった。

四人が四人とも、意識は己の頭の中を向いている。


都市部へ向かう列車、大勢の乗客、列車より早い航空宝機、武装した人間、


これらが意味するところは至極明解で、この場に居る四人は皆、同じ結論に至っていた。



ほどなくして列車が停止する。予定にない場所での乱暴な停まり方に、金属の車輪が不満の声を上げた。

騒然とする車内。

座席で震える者、殺気立った表情で周囲を見回す者、席を立ち通用口から前の車両の様子を見に行こうとする者もいた。

しかし四人の反応はどれとも違う、四人は席におとなしく座っている。けれどこの状況に狼狽えていたり怯えていたりする様子には見えない。

四人は落ち着き払って、座席に体重を預けていた。

車外に人影が見える。その人影は車掌かとも思われたが、制服とは違う作業着然とした単純な造りの服に身を包んでいて、しかも複数人で外を動いている。

明らかに車掌ではないし、鉄道整備員にしては携行している道具が物騒だ。物騒──車外に居る彼女らは小銃型の戦術宝器を携行していた。


宝器──宝石が埋め込まれた道具。人から放出されるマナを、宝石を通して様々なエネルギーに効率よく変換し、望む効果を得るために設計された器具を示す。

マナを火に変換するライターや、マナを動力に変換し羽を動かす掃除機や扇風機など日用品が主だが、戦術宝器といえばマナを熱・火・光の複合エネルギーに変換し、それを弾丸のように射出する銃火器としての仕様が主だ。

そんな殺傷能力のある道具を携えた彼女らは……5~6人だろうか?いつの間にか車両を囲むような配置で立っている。一つの車両でこの人数なら、少なくとも40人以上の人間が列車全体を囲んでいることになる。

これはいよいよ穏やかな状況ではない。彼女達が公僕でないというのなら、大規模な犯罪に巻き込まれている可能性が高い。

乗客達もそれを理解し始めたのか、不用意に席を離れたり騒いだりすることはしなくなっていた。緊張は更に増し、嫌な沈黙が車内に満ちる。


「どこの組織だろうね」


対面に座っているリーザが呟いた。彼女は座席に深く腰掛け仮眠するように目を伏せていたので、最初誰に向かって言ったのか分からず反応が遅れてしまう。


「どこ……って、外国のってこと?」


他の二人が反応する気配がなかったので仕方なくサーシャが尋ねる。


「うん。外にいる連中みんなフードとかマスクしてるから、顔を隠すってことは少なくとも公的機関の人間じゃあない。我が国の秘密機関っていう可能性もあるけど、それにしてはやり方が乱暴だよ。列車を山の中で止めるなんてさ」


“我が国”という言葉を強調して声にするリーザはこのような状況でも随分リラックスしている。少なくともサーシャにはそう見えた。

やはり芸能人は一般人とは違って強靭なメンタルを持っているのだろうか。いや、それとも彼女自身が特別なのか。


「他国の犯行に見せかける為、ということも考えられますわよ」


姿勢正しく、横目でリーザを見ながら反論するエミリー。彼女も随分と落ち着いている。流石お嬢様……だからか?


「ああ、確かに。その可能性もあるねー」


ちなみにクロエはさっきから一言も喋らない。

怖がっているのだろうか、と伺ってみると……驚いた。熟睡している。この中で誰よりも強靭なメンタルを持っていると言ってよいだろう。

なんだか緊張している自分がバカらしく思えてきて、サーシャは溜息を吐いた。


その時、彼女たちの車両に作業着にマスクを着けた不審者──賊の一人が入ってきた。

落ち着いた足取りで車両の真ん中まで歩いて来たかと思うと、立ち止まってゆっくり車内を見渡す。


そして彼女の口から発せられたのは、やはりお約束の、あの言葉だった。



「この列車は我々が占拠した」

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