愛と言う日に
物心ついた頃から、隣には彼女がいた。広い屋敷には彼女と俺と、父と数人の小間使いだけが住んでいた。会ったことはないが、母は祖母と一緒に住んでいると聞いた。彼女の両親はずっと前に亡くなったらしい。幼い彼女は王位にこそついているが、説明されなければただの元気なドールとしか思えない。簡素な生成りの服を好んで着たり、庭を駆けまわって泥だらけになったり、およそ淑女とは思えない言葉遣い、等々権力者らしからぬところを挙げ連ねていくとキリがない。自分で言うのもなんだが、騎士である俺の方がいくらか大人しいとさえ思う。
「おい、かくれんぼするぞ! 儂が鬼だ、十数えるから隠れろ。」
「はぁ。」
かくれんぼは日課だ。いい加減隠れるところが思いつかない。
「いーち、にーい。」
壁を向いて数え始めたので、めんどくさいと思いながらその場を離れる。どこか匿ってくれる部屋はないかと探していると、うっすらと湯気の立つのが見えた。今日は台所に匿ってもらおう。物置や屋根裏部屋では寒い季節になってきた。かまどがあって暖かいし、もしかしたら何かおやつがもらえるかもしれない。廊下の途中にぽっかり空いた穴に吸い込まれていく。リズミカルな包丁の音と、爽やかな水音が充満している。
「すいません、王とかくれんぼをしていて。少し匿ってください。」
「あら、今日もなの。好きなところに隠れたらいいわ。」
「ありがとう。」
何か隠れられるものはないかと首を巡らす。部屋の隅に丸められたテーブルクロスが目についた。洗濯に出すのだろう、あれに包まっていることにした。頭からすっぽりとかぶり、端を尻の下に巻き込む。暖かさと適度な暗さで、微睡んでくるのも時間の問題だった。どうせしばらくはいつもの場所を探すだろうと、そう決めつけて目を閉じた。
「カサギ! そこにいるんだろう、出てこい!」
鼓膜を突き破らんばかりの大声。もう廻り終えたのか? いつもはもっと時間がかかるのに。
「王、ここにはいませんよ。」
包丁の音が止む。小間使いの一人がかばってくれているようだ。
「嘘はよくないぞ、儂は偉いんだからな。」
「嘘じゃありませんって。」
まずい。匿ってくれとは言ったがあまり王を怒らせると彼女がクビになりかねない。
「……王、いますよ。ここです。」
テーブルクロスの下から這い出る。彼女はそら見ろとでも言いたげな表情で仁王立ちしていた。
「儂の勝ちだ!」
「でも、なんでここが?」
「お前の父親に聞いた。」
また天井にでも貼りついていたのか。父は神出鬼没だし気配が感じ取れない。騎士というより間者か忍だ。王とのかくれんぼは時たまこういった職権乱用で決着がつく。
■□■□■□■□■□
早朝の淡い光に目を覚ます。誰にも見られないうちに着替えを済ませ、散歩を兼ねて広大な屋敷の中を巡回する。
「やけに、」
静かだ。静かというより、ひとの気配を感じない。いつもは気にならない自分の足音も甲高く響いて聞こえる。歩を進めるごとに嫌な予感が密度を増していく。それでも止まれずに、突き当りの部屋まで来てしまう。吊るされた紗の向こうに動く影はない。
「王。」
返事はない。甘い香りが微かに漂うだけだ。
「入りますよ。」
幾重もの紗を一枚ずつかき分けていく。冷たいものが背を伝い落ちて、鼓動がうるさい。知らぬ間に瞑っていた目も、さっさと開いて安心したいような、開けば最後になってしまうような、妙な葛藤に襲われる。ひらりと舞う終の一枚に手をかけ、訳が分からないくらいに力を込めて目を開く。果たしてそこには寝台に身を起こしてこちらを見つめる彼女の姿があった。
「……起きていたのなら返事をしてください。」
「お前だって同じことをしただろう。」
いつもなら仕返しに成功して、したり顔のひとつでも見せてくれただろう。数か月前から歩けなくなった彼女には、そんな余裕は心身ともにないようだった。寝台の脇に生けられた白い花は対照的に、まるで彼女の生気でも吸い取っているかのように生き生きとしている。
「どうして片時でも儂のそばを離れた? 自分の家なのに他人ばかりのこの屋敷で、儂がどんな思いをして過ごしたかお前にわかるか?」
逆光で表情は読めないが、瞳だけが哀しく揺れていた。彼女のためを思ってここを出たつもりでいた。だが結局それは俺が思い描いた彼女で、そしてそれは間違っていた。わかった気になっていた彼女のことはこれっぽっちもわかっていなかった。
「……申し訳ありません。」
ようやくそれだけ絞り出したが、彼女の耳には半分も届いていないようだった。部屋に充満する芳香にくらくらとして、寝台の隅に座り込む。彼女は咎めない。かわりに襟巻の端を少しだけ引っ張った。巻きが甘かったのかするりと解けてしまう。彼女の方を見ると、目が合った。菫色の瞳は昔から変わらない。本当にそうか? 変わらないと思っているだけで、変わっているのかもしれない。急に不安になって、その目をもっとよく見ようと枕元に腰かける。近くで見ても彼女は彼女で、少しだけ安心する。
「なあ。」
腰に回る手を振りほどけなくて、ブーツも脱げないままベッドに引き倒される。
「はい。」
やわらかい手のひらが背を這い、長い髪が首筋をくすぐる。
「少しだけ、こうしててくれ。」
彼女の吐息が唇にかかって、堪らず目を瞑る。温かい布団の上で、冷たい手袋だけが辛うじて理性を繋ぎとめてくれていた。
「誰か来ませんか。」
危惧しながら、しばらくは抜け出せないだろうことはわかっていた。どうにかこうにかブーツを脱いで、つけたばかりの手袋を外して床に放る。外れかけていたつけ角も取ってそばのテーブルに置いた。
「誰も来ない。ここにはもう、儂とお前しかいない。」
今日初めて見せた笑顔はどこか悲しげで、震える睫毛が問いただすのを拒ませようとする。死んだ後のことなどどうでもいいと、いつか彼女が言っていたのを思い出して、溢れそうになる嫌な予感を生唾とともに飲み込んだ。
「どういうことです。」
「どうもこうもない。儂が死んだ後のことはカーツに任せてある。小間使い達には昨日暇を出した。お前は、」
菫色がわずかに揺れて、淡い金髪を濡らす。いつぶりか、直接触れた彼女の肌は記憶よりずっと繊細であたたかくて。続く言葉が、せめて冷たくないようにと叶わないことを祈る。
「お前は儂を殺して死ね。」
こんなことを、言わせてしまったのが。悔しくもあって悲しくもあって、感情の処理も追いつかないまま憤りだけが先に立つ。
「王。お言葉ですが。」
「口答えするな、これは命令だ。」
上擦った声に、いつもの威厳はない。ここにいるのは王ではなくて、ただ単に、泣き出しそうなドールだった。背中に添えられていた手がぎゅっと服を握りしめる。このまま消えてしまいそうな彼女を繋ぎとめようと腰に腕を回す。
「カナタ。」
「……カサギ。」
「カナタはそれでいいの。」
「いい、もう、こうするしかないんだ。」
彼女は生けてあった白百合を一輪手折る。そしてそれを俺の髪にさした。
「似合うぞ。」
彼女に倣って、手折った花をやわらかい髪にさす。彼女のほうがよっぽど似合っていた。
「知っているだろ。」
試すような口調で、軽やかに舞うように。
「ええ。」
誰がつけたのかも知らない意味を謳いあげる。
「清浄、」
花瓶に残っていた花をすべて寝台にばら撒く。
「尊厳、」
安っぽい演出だけれど、どこにいたって彼女は綺麗で。
「純潔、」
生臭さと苦みに顔をしかめながら花瓶の水を口に含む。
「祝賀、」
永遠の絆。こぼさないように口づけて、半分を彼女に明け渡した。彼女の唾液と掻き混ぜながら少しずつ飲み下す。頭がぐらぐらする。自然と流れ出した涙は彼女の舌に絡めとられた。
「カサギが泣くところ、はじめて見た。」
糸が切れたように笑う。額のサークレットを外して静かに床に落とした。
「絶対に、見せたくなかったのに。」
乱暴に目元をぬぐう。それでも止まってはくれなかった。
「愛してる。」
唐突にも思えるそれは、しかし残りの時間を考えれば当然のようにも思えて。
「まだ、そばにいたかった。」
墓まで守ると誓ったのに。
「土の下でも一緒だ。」
本当にそうか? でも、彼女の前では言わないでおくことにした。この先のことなどわからない。
「そうか、ああ、愛してた、愛してる、カナタ。」
声が震える。
「うん、おやすみ、カサギ。」
これが別れではないと言い聞かせるように。俺達は、私達は、少し眠るだけだ。
「……おやすみ。」
先に眼を閉じた彼女を、綺麗だと、脳裏に焼き付けてから、ゆっくりと瞼を下ろした。
『ディア』 硝水 @yata3desu
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます