赤と重ねて
兄さんは、可哀相な人だった。
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「あ。」
小さく声を上げた拍子に小刀を取り落として、それが足に刺さらないように後ずさる。柔らかい土を少しばかり抉って、冷たく閃く。切先には濁った赤が付着して、しかしそれが果実のものでないことはわかっていた。
「にいさん。」
向かいでヘタを取っていたミナトが顔を上げた。長い髪が肩を滑り落ちる。まっすぐに向けられた目は嘘を許さない。
「ちょっと切っただけ、大丈夫。」
努めて明るい笑顔を振りまきながら答えた。目尻に滲んだ涙には気づかれていないことを祈る。昔から不器用だった。刃物を扱えば怪我は付き物、幾度となく繰り返してきた手当も一向にうまくはならなかった。止血をしようとしてもどんどん溢れてくるばかりで止まる気配がない。いっそのこと放っておくかと諦めると、まだ赤が滴る手を取られる。
「ミナト? 汚れるよ。」
ふるふると首を振った彼女はその小さな口のまわりを赤で汚しながら、滴る血を丁寧に舐め取る。
「駄目、ばっちいから。」
吐き出すように促しても、僕の指を咥えたまま首を横に振る。歯が傷口に当たる。白いブラウスの胸にこぼすんじゃないかと気が気でない。
「……じゃあ、兄さんに頂戴。」
なおも食い下がろうとする歯に圧迫される痛みに顔をしかめながら、指を抜き取る。ほんのり赤い糸を引いて、それも途中で切れた。口まわりに固まった赤を舐め取ってから、膨らんだ頬いっぱいの唾液を引き受ける。鉄の味だ。お世辞にも美味しいとは言えない。けれど柔らかな唇も小さな舌も、僕が求めてやまないもので。僕は彼女の一番そばにいるけれど、彼女は絶対に僕のものにはなってくれない。彼女の白い髪も翡翠の眼も僕のそれと何ら変わりはないのに、僕らは別のもので。数多のズレが生んだ血塗られた口づけだけが、愛してやまないミナトと、妹と交わした唯一の契りだった。
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街のひとはもうほとんど生きていなかった。対処法を探す医者達は真っ先に全滅した。埋葬が追いつかないまま葬儀屋も死に、正規の手続きを踏んで弔うこともできなくなった。大きな穴を掘って、次々と投げ込まれる死体を見るのはあまり気分のいいものではなかったし、自分もいずれああなるのか、それとも埋めてすらもらえないのか、そういうことを考えると余計に気がふさぐ。
「それに第一。」
ミナトがそういう目に遭うのは耐えられなかった。どこの誰とも知らない奴の手でその他大勢の仲間入りを果たすなんて。
「どうかした?」
「……いや、何でもないよ。」
「そう?」
「そう。」
食べ終えた食器を洗おうと席を立つ。踏ん張りがきかずにつんのめった。赤く変色した指を隠すためにずっと靴下を履いて過ごしているけれど、これではすぐにバレてしまいそうだ。へらへらと取り繕いながら腕をまくる。赤茶の筋が覗いて、しまった、と思う。彼女の様子をうかがうと即座に目が合った。
「兄さん、また手首切ってるの。やめてって言ってるのに。」
「違うって、山菜採ってたら枝で切って……。」
「その言い訳聞き飽きたわ。」
「その、兄さんにも事情があるんだ、だから、ね。」
「その事情とやらを話してくれてもいいじゃない。」
「いやそれは、それだけは無理。」
大げさに顔の前でバッテンをつくる。彼女は溜息を吐いて食事に戻った。
「……そろそろ髪切った方がいいと思う?」
「思わない。」
即答だった。しかもこちらを見向きもしなかった。そうか、と呟きながら髪を縛り直す。少し切りに行くのをさぼっていたら、長いほうがいい、と言われて伸ばし始めたのだった。親には見分けがつかないからやめろと言われたが、彼女と僕は有する記号の種類が似ているだけで本質は違うのに。だいたい年端も行かない子供ならまだしも、二十歳目前の男と十七の女の子を見間違うだなんてどんな目をしてるんだ。まぁ、そんな親も今は穴の底に積み上がっているんだけど。つい先週、夫婦そろって心臓が止まったばかりだ。不思議と涙は出なかった。両親は両親で気持ちが悪いくらい仲が良かったし、ふたりの間から弾き出された僕と彼女は自然と一緒にいることが多くなった。確かめたりはしなかったけれど、僕の相手が嫌になったから彼女をつくったんじゃないかと思っている。
結果的に、僕はそれでよかったけど。彼女は、それでいいとは思えない。街の人からは奇異の眼で見られるし、彼女をその視線にさらしたくないから家に引きこもった。外に出るときも人の少ない早朝や深夜を選んで、そうまでしても彼女のそばを離れたくなかった。
「じゃあ、まだそのままにしておこうかな。」
うん、と呟くのが聞こえた気がした。
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赤は足首まで侵食してきていた。昨日はまだ歩いてみようとする元気があったが、今日はもう何もする気が起きなかった。枕元に置いておいたナッツを適当につまんで頬張る。もはや咀嚼するのも面倒臭かった。コップの水で流し込んだ途端に、派手な音がして噎せる。
「兄さん。」
薄い壁越しに彼女の声が聞こえる。体を捻って壁に耳をつける。
「どうした?」
「……私も歩けなくなった。」
「そっ、か。」
他に何を言ったらいいかわからなかった。お揃いだねも、お大事にも、ごめんねも違うような気がした。
「ねえ兄さん。」
「ん?」
「私が見に行けないからって、また手首切らないで。」
「……ん。」
手に持っていた小刀をもとの場所に戻した。見えていなくてもわかるのか、と少し嬉しくなったけれど、心配しかさせてないなと申し訳なくもなった。
「兄さんは、ここを出ようと思ったことない?」
「ここって、家?」
彼女のことをずっと見てきたはずなのに、こんなことを考えているなんて気づきもしなかった。面食らうと同時に、何もわかってないじゃないか、と苦笑が零れる。
「そう。街でもいいけど。」
「ないよ。」
「ないの? お母さんもお父さんも冷たかったし、訳の分からない病気が流行ってるのに。」
「兄さんにはミナトがいればいいから。」
「私が出ていくって言ったらついて来る?」
「歩けないんじゃ無理だ。」
「まぁ……そうよね。」
それからふたりして黙り込んだ。腹が減ったわけでもないのにナッツをつまんで、また水で流し込む。何度かそれを繰り返して、飽きて、こんなにつまらない日が、死ぬまで続くのかと思うと嫌気がさした。
「ミナト。」
「なに?」
「兄さんのこと名前で呼んでみてよ。」
「名前なんだっけ。」
「酷い。」
「冗談。でもどうしたの急に。」
本気で涙が出かけた。
「いや、特に何かあるわけじゃないんだけど。」
「ふーん。」
「……呼んでくれないの?」
「手首切る理由を教えて。そしたら呼んであげる。」
逡巡する。いろんなものを天秤にかけて、かけた結果言うことにした。聞く人も、噂する人も、そもそも自力で動ける人はいないだろうから。
「兄さんのことはどれだけ気持ち悪がってもいい、けど、ミナトは自分のこと嫌いにならないって約束してほしい。」
「ちょっと、私絡みなの?」
「他に誰が?」
「……いないよね。」
「どう? 約束してくれる?」
「約束、はできるかわかんないけど、話してみて。」
「……僕はミナトのことが好きなんだ。」
「ありがとう、私も好きよ。」
「いや違うんだ、家族愛とかじゃなくて。その、性愛?の対象、みたいな。ミナトのことはそういう目で見ちゃいけないってわかってた、わかってたけど。あのさ、昔兄さんが指切った時のこと覚えてる? 指なんて今まで何百回と切ったから覚えてない、よね。」
言葉尻が徐々に小さくなって消える。壁の向こうからは何の反応もなかった。
「……ミナト?」
「覚えてる。続けて。」
「そのとき、に、ミナトとキスできたのが嬉しくて、その、血を流したらまた、できるんじゃないかなーと、思って……。気持ち悪くてごめん、本当に。」
「兄さんは馬鹿なの?」
「え?」
「意味わかんない。そんな婉曲表現伝わるわけないでしょ。」
「そうだよね、ごめん。」
「ごめんじゃなくて、死んだらどうするの? 兄さんが死んだら私どうすればいいの?」
ほとんど金切り声で叩きつけられた言葉に目をむく。僕が死んだところで、彼女は何ともないと思ってた。僕が両親に対して抱いていたそれと同じものを、彼女は僕に抱いているんだと思い込んでいた。
「私だって兄さんのこと、大事に思ってるんだから。」
でも、僕と彼女の気持ちはやっぱり違うみたいだ。ちょっとでも期待したのが恥ずかしい。同じはずがないのに。僕と彼女は、別のものだ。
「じゃあさ、最期に、会いに来てよ。」
「だから歩けないってば。」
「うん、それでも、さ。」
手にした小刀に映る自分の顔が、ひどく情けない。いつもか。震える手で首筋にあてがう。金属の冷たさが、不安となって襲い来る。
「どうか妹だけは、生き延びられますように。」
「ちょっと兄さん? 何言ってるの?」
噛み合わない歯を無理やり食いしばって、手に力を籠める。止めていた息を吐き出しながら、重力に任せて掻き切った。
「兄さん? 聞いてる? 兄さん、ミラト!」
赤く染まる視界の中、彼女の呼ぶ声が遠のいていく。結局、赤からは、逃れられないんだなと、そう思った。
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這いずって壁の向こうに辿り着いた時、兄さんはもう冷たくなっていた。
「私どうすればいいの?」
兄さんは何も答えてくれない。もう何も聞こえてない、見えてない、感じてない。開いていた瞼をそっと閉じる。
「答えてよ、兄さん……。」
涙は一筋伝い落ちただけで、それもすぐに渇いてしまった。外から、訳の分からない言葉が聞こえた。ドアを開けて、階段を上る硬質な足音。私が開けたあとそのままにしていた扉の陰から出てきた人物の顔は、逆光でよく見えなかった。ただ、その人が、兄さんと同じ髪型でなくてよかった、とだけ思った。
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