切欠

 シングルサイズのベッドはノーアふたりが寝転ぶには少々、いやかなり、手狭だった。缶詰、という言葉が頭をよぎる。今はもう存在しないが、昔は食料を保存するために金属の容器に詰めたらしい。わざわざ取り出しにくくしなくても干せばいいのに、と思いながら読んでいた本を閉じた記憶がある。そんなことはさて置き、どうして冬が来る前に何とかしなかったのかという後悔ばかりが脳内を駆け巡る。ベッドが狭いというのは数年前から薄々感じていた。しかしベッドを作るといっても、家自体がさほど広くない上に設計は僕がしなければならないし、力仕事は彼に任せるにしても組み立ての指示は当然僕の仕事だ。本音を言ってしまえば面倒臭かった。かと言って毎晩椅子で寝るのは辛いし、角のせいで床に寝ることもできない。旅寝のスタンダードはハンモックだ。ふと、先代はノーアのくせに角がなかったことを思い出す。よく森で倒れているひとだった。

「ドールならもっと寝やすかったろうに。」

 寝台を軋ませながら寝返りを打ち、何度も頭の位置を直す。巻き込んでしまった掛け布団を彼の方に押しやって、枕に頬をうずめる。耳の血流が途絶えて冷たくなっていくのが分かった。

「……なー…………。」

 甘ったるい声が後頭部に降り注ぐ。寝返りを打ったばかりなのに反対側を向くのが癪で、顔を背けたまま答える。

「何。」

「あのさぁ、寝る前に、最後、ねー、かお……。」

「結論だけ言って。」

「じゃあさ、言うから、言うよ、こっち向いて。」

 ああもう、どうしてこうも。ぐるぐると半回転して彼と向き合う。琥珀色の瞳は眠たげな瞼に半分以上隠されていて、それでいてきらきらと訴えかけてくる。

「はい、何。」

「あのね、おれ明日から、起きないと思う。」

「だから何。」

「ちゅーして。」

 へにゃ、と融けるように笑いながら伸ばした手を、放り出された手に絡める。冷たい彼の手に熱を奪われ、同じ温度になるのに時間はかからなかった。

「たまにはカシャからしたら?」

 意地悪く笑ってみせる。寝ぼけ眼を見開いて呆ける彼の顎に手をやって、下唇をめくる。綺麗に並んだ歯列と桃色の歯茎がのぞいて、指に触れる柔らかい唇に、じわりと唾液があふれる。

「えー。」

「じゃあしない。」

 唇から手を離して仰向けになる。繋いでいる手はぎゅっと握りしめられて、振り解けない。

「えぇー。」

 しばらく抗議が続く。目を瞑って狸寝入りを決め込んだ。沈黙と、手を握る力の強弱だけが伝わってくる。

「かお、ほんとに寝たの?」

「なー、かおってば。」

「かーおーぉ……。」

 答えてしまいそうになる唇を噛んですべてスルーする。なんてったって今僕は寝ているから。

「かおー……。」

 諦めたのかそれ以上の呼びかけはない。かわりに布団を跳ねのける音と、寝台のきしむ音が控えめに数回。

「いぎっ。」

 思わず目を開ける。髪を引っ張られたのか左側頭部が痛い。横目に見ると彼がついた肘の下に髪が挟まっていた。二の腕をつまんで抗議する。何のことかわかっていないようで目を瞬かれる。

「肘、髪、挟まってる、痛い。」

「あっ、あ、ごめん、かお……。」

 慌てて肘をつき直す。顔が近い。なんだかんだ目は覚めた様でぱっちりしている。垂れ下がってくる前髪を払いのけて、白い肌に指を這わせる。頬が薄桃に染まっていくのを眺めて、優越感に浸る。

「まだ?」

「ま、も、もうする!」

 気合を入れた勢いでしっかりと目を瞑って、徐々に近づいてくる。一瞬触れたかというところで急速に後退していく。

「あー!やっぱり無理!」

「意気地なし。」

「……かおー。」

 眉尻を下げて、目を潤ませて。彼は頭こそ弱いけどこういう仕草からわざとらしさを排せるのは一種の才能だと思う。そしてそれに僕は勝てない。ずっと繋いでいる右手はそのままに、左腕を彼の首に回す。ぶら下がるように頭を起こして口づけた。手と口を同時に放して倒れ込む。

「起こして。」

 繋いだ右手を引かれ、上半身を起こす。彼の正面に回り込み、長い足をまたいで膝をつく。これでやっと目線が合うのだから世界は残酷だ。主に身長的な意味で。

「終わったらちゃんと寝る?」

「わかってる、うん、大丈夫。」

 きつく右手を握りながら、左手には腰を抱かれる。薄い胸板越しに伝わる彼の音。同調するように速くなっていく自分の音。月さえ出ていない夜には光る目だけが道標だった。頬に手を添えて薄く色づいた唇を舐める。そのまま自分の唇も湿らせて吸いつく。甘い唾液を掻き混ぜながら、ざらざらした舌で触れ合う。離れるときにかけた橋をすぐに近づいて壊す。合間で上がった息を整えつつ、彼が泣いていないことに少し安堵していた。

「かお。」

「何。」

「ありがと、おやすみ。」

「……おやすみ。」

 いい夢を、と言いかけたがやめた。まだ眠っていたいなんて言われたくない。

「愛してる。」

「へへ、おれもー。」

 だんだんと感覚が麻痺してきた手を握り直しながら、琥珀の残像を眺める。この手は、朝まで解けないでいるだろうか。


■□■□■□■□■□

 小鳥のさえずりと、窓という名の穴から差し込む陽光に揺り起こされる。日が高い。すっかり昼だった。いつもは僕より先に起きる彼も今日は寝ている。繋いだ手はそのままになっていて、寝相がいいなぁとか、そんなことを思った。指を一本ずつ解いて冷たい額に軽く口づけを落とす。掛け布団を直して今日は何をしようかと首を巡らす。街の方も今頃静かになっているだろう。天気もいいし、例の美容室でも訪ねてみようか。

「茶色いお茶のことも知りたい。」

 というのは半分口実みたいなもの。冬に来てと言ったあの婦人。カチェといったか。僕と同じなのか、それとも。

「あと、」

 彼女の恋人。一見ノーアのようだが角がなかった。気がする。何しろ邂逅は刹那のことだったのでうろ覚えだ。

「それに。」

 伸び放題で時々雑に切られた髪をつまむ。

「ひとに切ってもらうのも、たまにはいいかな。」

 問題は、金がないということだ。



■□■□■□■□■□

「ごめんください。」

「はーい。」

 ドアは外開きだった気がするのでノックした位置から一歩下がる。すぐにドアが開いて、鼻先を掠めていった。下がり足りなかったようだ。

「あら、いらっしゃい。」

 カチェがドアの隙間から顔を出す。室内の暖かい空気が漏れ出て、感覚の薄れた耳にふわふわと当たる。外の空気ですっかり冷えた体には心地いい。

「お邪魔します。」

「今日は緑のお茶も用意しておいたわ。」

「ありがとうございます。あの、実は、髪を切ってもらいたくて。」

「じゃあこちらの椅子にどうぞ。」

「でも、その、お金がなくて。つまらないものなんですけど、これ、お代の代わりにできますか。」

 秋のうちに集めておいた胡桃を一袋、彼女の手に握らす。そのまま突き返される。

「今日は要らないわ、お代。」

「……どうしてですか?」

「あなたの角が抜けたら、持ってきて欲しいの。それがお代。」

「角、ですか。」

 指し示された椅子に腰を下ろし、首にタオルを巻かれる。その上からケープに腕を通し、鏡に映る自分と目を合わせる。霧吹きで髪を濡らし、てきぱきと櫛を通していく。

「イヴァって、知ってる?」

「いえ……。」

「同族喰らい。」

 ライムグリーンの瞳と、鏡を通して目が合う。

「そう、でしたか。」

「私はね、角を、食べちゃったのよね。昔。」

 上方の髪を留め、鋏を入れていく。はらはらと落ちる髪が光を反射して、その光線を再び鋏が断ち切っていく。

「前の彼と喧嘩別れして、その時彼の角折っちゃったんだけど。」

 思わず角に手を伸ばしそうになる。途端に背後が不安になってきた。

「普通なら、角を手に入れれば付け角に加工するのよね。でもあいつの角なんか見るのも嫌だったから、すりおろしたのよ。」

 背中を嫌な汗が流れ落ちる。すりおろすって。角を、すりおろすだって。

「そうしたら粉になるでしょう。後でどうとでもしてやろうと思って置いといたの。そうしたらパンに入れる小麦粉と間違っちゃって。」

 運が悪いって思ったけど、付け角を作るって理由で角は手に入れられるし、運がよかったのかもしれないわ。彼女はそう言って鋏を置き、鏡に向かって微笑んだ。


■□■□■□■□■□

 そこにあるはずのない小麦粉の存在に気づいたのは、焼き上がったパンを怒り任せに頬張っている時だった。さっと血の気が引く。口に残っているパンは慌てて吐き出したが、もうほとんど飲み込んでしまっていた。視界をちらちらと緑の点が舞う。顔を洗って、そのまま水を飲んで座り込む。

「食べ、た。」

 禁忌とされている同族喰らい。なぜ禁忌とされているか。そんなことは考えなくてもわかる。同族の体が、美味しくて、美味しくて、美味しくて堪らないからだ。水を飲んでなお口内に残る甘美な後味。思わず吐き出してしまったが、決して不味いなんてことはない。むしろその逆、何物にも代えがたく、いくらでも欲し、すべて胃に収めて体の一部にしてしまいたい。

「あんなやつの、食べ、た、私?」

 混乱する頭とは裏腹に手はパンへと伸びる。きつね色に焼き上がったそれはほのかに暖かく、半分に割ると湯気が一筋立ち昇る。目の前が一瞬曇り、気づいた時には顎はもぐもぐとパンを咀嚼していた。

「やだ、いや、だ、や……。」

 幸い誰にも見られることはなかったが、どうしてすり潰したりなんかしたのだろう。どうしてパンを焼こうなどと思ったのだろう。どうして焼き上がってすぐに食べてしまったのだろう。後悔ばかりがぐるぐると渦を巻き、その中心へ否応なく引きずり込まれていく。

「私、私……これから、」

 どうやって生きていけばいいの? 後悔の最後尾にぽつりと付随していた不安。気づいた途端に雷に打たれたように体が強張り、痺れを伴った気怠さが支配する。ゆっくりと倒れ込み、冷たい床に頬をつける。その拍子に零れた涙が、鼻の上を伝って髪に沁み込んでいった。



■□■□■□■□■□

「こ、こんにちは……。」

「いらっしゃいませ、ずいぶん小さなお客さんね。」

「あの、あの、僕、お金、なくて……。でも明日、お祭りの出し物に出るんだ。だから、かっこよくして欲しくて……。いつか必ず払います、から!」

 大きな紅葉色の瞳と目が合う。あいつの眼もこんな色だった、ふとそんなことを思い出して口内に唾液が満ちる。少年の角は年相応に小振りで可愛らしい。次から次へと溢れる唾を飲み込みながら、どう答えるべきか悩む。この場合の適切な対応は『お父さんやお母さんは?』と訊くこと。頭では理解していたがその時の私はそうしなかった。少年と目線を合わせるようにしゃがんで、耳元に囁きかける。

「生えかわりの時に、抜けた角を持ってきてくれる?」

「いいけど、でも、なんで?」

「付け角を作るの。」

「ふうん。」

 付け角の必要性に疑問を抱いているのか首を傾げていた少年だったが、最終的には頷いてくれた。カット用の椅子に座らせ、タオルを首に巻いてケープをかぶせる。後ろで髪を括っていた紐を解き、湿らせながら櫛を入れる。アッシュグレーの細い髪は絡まっているのか、ところどころ櫛通りが悪い。いちいち解しながら櫛を入れていると、絡まっているのではなく塗料がついていることに気づく。絵描きの息子だろうか。

「お名前は?」

「カル! お姉さんは?」

「私はカチェ。カル君は絵描きさんの子なの?」

「父さんが看板を描くお仕事をしてるよ。明日はね、王様の絵を描くんだ!」

「そうなの。うちの看板もお願いしようかな。」

「父さんに訊いてみるね。」

「違う違う。カル君にお願いしたいの。」

「僕? でも僕、まだ修行の途中なんだよ。」

「それでいいのよ。」

 訳が分からないといった風に首を傾げる。頭を支えて垂直に戻し、カットを再開する。肩甲骨くらいまであった後ろ髪は思い切って肩口まで切りそろえ、さらに整えながら短くしていく。長い前髪も目にかからないようにし、後で編み込めるように右側は少し長く残す。

「お姉さんはなんで美容師になったの?」

「んー、なんでかな……。自分の髪を、切り飽きたから、かな。」

 鋏を持ったままライトブラウンの髪をつまむ。鏡に映る私はベリーショートの髪を無理矢理つまんでいるせいか、側頭部に鋏を突き付けているように見える。鋏を置いてタオルに持ち替え、顔にかかった髪を払っていく。それが終わるとケープやタオルを取って、右の前髪を編み込み、後ろでハーフアップにする。

「はい、できた。」

「すごい! お姉さんすごいね! あっでも、お祭りは明日からだよ。僕自分でこんな風にできないよ……。」

「明日の朝もいらっしゃい。」

「……いいの?」

 夕焼けの色を映した瞳が期待と不安に揺れながらこちらを見る。そういう目はだめだ。あいつを思い出す。目を閉じて振り切り、いいよ、とその柔らかい髪を撫でた。


■□■□■□■□■□

 明日から収穫祭。今日は準備のため午後から休みだ。カルを見送ってから店仕舞いをする。暖炉の火を消し、ドアを一枚隔てた住宅部分に引っ込む。暖かかった店舗から底冷えのする自宅に戻ったことで、一気に現実を突き付けられた気がする。

「私は、今も変わらずイヴァで。」

 あんな小さな子の角まで欲した。

「どうして私はノーアじゃないの。」

 どうして我慢できないの。私ひとり堪えればそれでいい話なのに。騙して、嘘を吐いて、ひとに頼ってしか生きられない。

「ひとの髪を断つのはあれほど容易いのに。」

 自分ひとりの命さえ絶つことができない。堪える強さも、終わらせる強さも持ち合わせていない。

「こういう時だけ、会いたいなんて思うのは、ずるいよなぁ……。」

 ずるずると壁伝いに座り込んで膝を抱える。小さくて、弱い自分が嫌でヒールの高い靴を履いた。ノーアみたいに髪を切った。でも中身は何も変わっていない。

「ごおぉっ、おっめんくだざいぃ……。」

 耳を疑った。こんな情けない声を出した覚えはない。そもそもまだ泣いてない。泣く予定があったわけではないけど。

「おおぉー、めえっえ、え、んさいうっ……。」

 私の声じゃない。外? ふらつきながら立ち上がってドアを開ける。店舗に入ると声がはっきり聞こえてきた。さらにドアを開けて、開けたところで、何かにぶつかった気がした。ドアの裏側を覗き込む。

「だ、大丈夫?」

「ええっう、んんぁ……。」

 大丈夫じゃなさそうだ。鼻血が出ている。とりあえず屋内に引っ張り込んで座らせる。手近にあったタオルを濡らして鼻にあてがう。

「ああっう、いお、う。」

「喋らなくていいから鼻血止めよう、ね。」

 アッシュグレーの髪を振り乱しながら頷く。編み込んでいた前髪はすっかり解けて顔の右半分を隠していた。時々しゃくりあげるように呼吸を乱しながら乱暴に目元を拭っている。あんまり見ない方がいいのかな、と思って彼の右隣に腰を下ろした。私の肩の高さに彼の頭がある。散々小さいと思っていた自分よりも、小さくて弱い。震える背に手を伸ばすと温かかった。鼻血も止まって呼吸も落ち着いたところで、彼がタオルと一緒に袋を握りしめていたことに気づいた。

「タオルもらうね。」

「ありがとう、汚してごめんなさい……。」

「そろそろ引退させようと思ってたとこ。お茶でも淹れてくるね、待ってて。」

 再び火をつけた暖炉にかたく絞ったタオルを放り込み、沸かしたてのお茶を手に戻る。

「あの、カチェさん、これ。」

「なに?」

 握りしめていた袋を差し出される。受け取ると、かなりの質量があった。中身は貨幣、それも結構な大金だ。

「どうしたの、これ。」

「父さんに、これやってもらったって、見せたらすっごく怒られて、お金渡して謝ってきなさいって、それで、謝ってこなかったら、明日のお祭り出してくれないって……。ごめんなさい。」

「お金なんていいのに……。」

「もらって! じゃなきゃ僕がまた怒られちゃう……。」

「そっか、じゃあ角はいいよ。」

「ううん、それも抜けたら持ってくる。だから、」

 紅葉色の瞳が艶々と潤って、光がまっすぐに私を捉える。

「またここに来てもいい?」

「……もちろん。」

 頭を撫でようとした手が角に触れて、慌てて手をひっこめた。



■□■□■□■□■□

 収穫祭一日目。街の端でも喧騒は地を轟かし、酒とご馳走に酔ったひとびとの笑い声が耳を突く。王様の肖像画を描く、いわゆるライブペインティングが行われるというのは街一番の広さを誇るカルナバル庭園。王様は代々自身の名を冠した施設を造る。現王が造ったのはカナタ神殿だが、神殿はこれひとつなので滅多に名前では呼ばれない。庭園のそばにはテーブルが列をなし、色とりどりの果実が崩れんばかりに盛られている。立食パーティーさながらの賑わいをかきわけて進むと、背丈の倍ほどはある大きな白壁、そしてそれを取り囲むように組まれたやぐらが姿を現す。近づいていくとより壁が大きく感じる。

「あ。」

 やぐらの天辺に座るカルの姿に気づく。ペンキの缶に筆を突っ込んでくるくる回していた。下でペンキ缶を運んでいるのは彼の父だろうか。長く伸ばして後ろで括っている髪の色が同じだ。背後の缶を取ろうとしたのか、座ったまま彼が振り向く。一瞬目を丸くして、すぐに笑顔になる。こちらに手を振りながら足場に立ち上がって、その拍子に缶に足を引っかけて、簡素なやぐらには満足に掴まれるところもなくて、彼の小さな体は容易に格子をすり抜けて落下する。ぐじゅ、と嫌な音がして、いつの間にか瞑っていた目を開ける。目を開けても、音がした方向に首が回らない。次第に耳元で聞こえる騒ぎ声が大きくなっていって、それに引っ張られるように目が、そちらを向く。

「あ……。」

 人だかりができていた。何も見えなかった。そのことに少し安心していた。

「おいあんた、大丈夫か?」

 肩を叩かれて我に返る。顔を覆ったまま座り込んでいた。ふらつきながらも立ち上がる。

「あ、はい、大丈夫です……。ただの貧血ですから。」

 医者を呼ぼうと言うのを丁重に断って家路を急ぐ。ここにいても私は何も出来ない。何もしない。数歩駆け寄ることだって。なら、邪魔にならないように退いた方が賢明だ。重い足を引きずって来た道を戻る。だんだん笑い声が増えてくる。まだ知らないからだ。私が庭園に足を運ばなければこんなことにはならなかった? じゃあ、初めに断っていたら? 意味のない問いが巡る。

「人並みなんて、もう、無理なの?」

 聴衆が怪訝な顔で私を見る。

「……そうよね。」


■□■□■□■□■□

 閉じようとしない目を無理やりに瞑って、布団を頭からかぶる。息がこもって暑かったがこうでもしないと眠れそうになかった。何かしていないと昼間のことを思い出してしまうから、帰ってからはひたすら家事をこなしていた。大掃除も終えてしまってすることがなくなった。体は疲れているはずなのに一向に眠れない。

「……おえあ…………。」

 耳をふさいでいるのに幻聴まで聞こえてきた。手をさらに強く押し当てる。

「ごおっえんええあ……。」

 押し当てる手の強さに反比例して幻聴は大きくなる。なんだか聞いたことがある声のような気がする。

「えんあさ!」

 はっとして布団を蹴り上げる。あの子だ。カルだ。どうして気づかなかったんだろう。開けた扉を閉めるのも忘れて玄関まで駆ける。気づかなかった。雨が降っていた。雨粒が屋根を打つ音を聞きながらいやに進みが遅い足に心中で悪態を吐く。走ってきた勢いでそのまま扉を開けようとノブに手をかけたが、思い直してドアの向こうに声をかける。

「ちょっと下がってて。」

 声が遠くなるのを確認してからそっと扉を押す。

「おええざぁっ。」

 ずぶ濡れで、麻袋を握りしめた彼が立っていた。頭には包帯を巻いているが、ここまでひとりで来たようだし、命に別状はないみたいだ。

「すぐにあったかくするから、入って。」

 麻袋で両手がふさがった彼に扉を押さえてやる。扉を閉めてから彼にタオルを二、三枚渡し、暖炉に枯葉を足して火をつける。奥から毛布と着替えも出してきて、ついでに開けっ放しだった扉を閉める。

「私のでよかったら着替えてて。お茶淹れてくるから。」

 鼻をすすりながら頷くのを見届けて、お茶を淹れに家に戻る。しゃんしゃんと沸騰する水面を見つめながら、どうして来たんだろうと思う。慰謝料の請求に? あり得る。じゃあなんで泣いてるんだろう。怒り……ショックのあまり? 思考をかき消すように蒸気が立ち昇る。茶葉を入れて少し煮立たせ、火を止める。茶こしで受けながら注いで、カップを手に店へ戻る。

「お待たせ。」

「ありがとう、ござい、ます。」

 まだ呼吸が落ち着いていないようで一語ごとにしゃくりあげている。その度に髪から雫が垂れてぶかぶかの服を濡らす。カップを置いてから彼の肩にかかっていたタオルで、包帯をよけながら髪を拭く。

「お姉さん。」

 髪を拭く手を止める。彼が振り返る。

「「ごめんなさい。」」

「「えっ。」」

「「だって、」」

「「どうぞどうぞ。」」

 お茶を一口飲んで彼に先を譲る。

「お姉さんとの約束守れなくてごめんなさい。僕、角……。」

 言い淀んで手元の麻袋を開いてこちらに見せる。バラバラになった角が一対、そこには収まっていた。落下の衝撃で折れてしまったのだろう。オレンジ色の瞳は少し不安げに揺れている。その目を見るのが堪らなくて彼を抱き締める。

「君が無事でよかった。私のせいで落ちたのに、私、何も出来なくてごめんなさい。」

「違う、お姉さんのせいじゃない。僕がよく見てなかったから……。」

「君は何も悪くないよ。」

「違うの、お姉さん。僕もう、角、生えてこないんだって、さっき、お医者さんが……。」

 何を言えばいいのかわからなかった。どうすればいいのかもわからなかった。ただ強く抱き締め直した。

「お姉さん。」

「なあに。」

「くるしいよ。でも、」

 頭を傾けた拍子に耳がすれ違ってくすぐったい。

「このままでいて。」



■□■□■□■□■□

 玄関までカオを見送ってから家に戻る。ベッドの半分を占領しているのは図体のわりに幼い寝顔。

「あーんなに泣き虫だったのに。」

 隣に空いたスペースに潜り込んで、冷たい頬に手を添える。と、瞼の間にうっすらと橙色がのぞく。

「ごめん、起こしちゃったね。」

「いや、いいけど。……すごく不本意なこと言ってなかったか、さっき。」

「あーら地獄耳。」

「なに言ってたんだよ。」

 おーほほほと言って誤魔化した。誤魔化せてない気がする。

「カルはいくつになっても可愛いわ。」

「……子供扱いすんな。もう二十四だ。」

 目を眇めたのか、眠気で瞼が下りたのかわからない顔になっている。そうやってむきになるところが、とは言わないでおいた。

「私は三十八よ。」

 知ってる、と呟く。私達の間にある十四年はどう足掻いたって縮まらない。私は老いるし、彼だっていつか死ぬ。お揃いで開けたピアスだって錆びる。引き合わせるのが時間なら別つのだって時間なのだ。

「カチェはいくつになっても綺麗だと思うよ。」

 言葉尻が消え入るのと連動して瞼が下りる。しばらくして規則的な寝息が聞こえてくる。

「思う、ね。」

 否定はさてくれないみたいだ。

「そういうところは格好いいと思うよ。」

 寝るには少し早かったけれど、自然と瞼が下りる。来年の春は、ずっと先延ばしにしていた壁の塗り直しを頼もうかなと思った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る