さつきが咲いてしまう頃
砂藪
本編
「春の時分に、あの人は帰ってくると言ったのです」
彼女の細い腕と足を隠していたきらびやかな着物は、一昨年から質素なものへと変わっていった。彼女が恋した人間は、偉い人に仕えていて、滅多に帰ってくることもなくなったしまった。
巷では、槍だの鉄砲だのと、鍬の代わりにもできないものを持ちだしては、やいのやいのと騒ぎが起こる。そんな中、薄紅色の花弁に囲まれたこの庭園には彼女の落ち着いた声音だけが響く。決して大きな音ではないのに、はっきりと聞こえるその声は心地がいい。
「もうこの花が咲いてしまう季節なのね」
彼女は悲しそうに薄紅色の花弁に触れるか触れないかの位置まで指先を近づけたと思うと、肩を落とした。
ああ、彼女は知らないのだろう。
妻ではなく、人には知らせずに彼と会っていた彼女に、泥と鉄の弾と血の中で彼が死んでいったことを、誰も伝えてはくれない。
彼女も薄々勘付いてはいるのだろう。
彼と共になると決め、父の決めた男性との契りを結ばず、逃げた彼女にはもうきらびやかな着物もなく、このあばら家にひっそりと咲くさつきの花弁しかないのだ。
「……現でも夢でもいいから、私を連れて行ってはくれないかしら」
私にもし両手があるのならば。
翼の代わりに両手を、くちばしの代わりに口があったのならば。
彼女の頬を撫で、彼女の名前を呼んで、笑顔にすることができるのに。
人の来ないあばら家の片隅で、彼女が掲げた指先に止まりながら、私は今日もそんなことを考える。
さつきが咲いてしまう頃 砂藪 @sunayabu
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