画面の向こうの友人:81の場合

好きになった人

 ガチャン、と音を立てて、飲んでいたカフェラテが入ったマグカップが倒れる。自分の声より早いスピードで机の上はカフェオレの海になった。


「うわ~……ああもう、フジさんちょっと待ってね!」


 画面の向こうの通話相手に向けて話しかければ、はいはい、と笑う声がヘッドホンから聞こえてくる。かっこ悪いなあ……俺。


 フジさんは『灰色の港町』という、今はサービスが終了したネトゲで知り合った友人。水彩で描かれたワールドマップを自由に探索して、自分好みの町を作ったりモンスターを倒したりする、かわいいイラストの割に戦闘は血みどろのちょっと変わったゲームだったが、優しいタッチで描かれたキャラクターと、雰囲気が好きで割と長いことプレイしていたと思う。


 普段は格ゲーかFPS系しかしない自分にしては珍しいゲームにハマったからだろうか。いつもなら自分から話しかけるなんてほとんどしないのに、たまたま欲しかったアイテムを身に着けていたフジさんにチャットで話しかけて交流が始まった。


 最初のうちは文字のみだった交流も、不思議と気が合い、通話もするようになった。話していくうちに仲良くなってゲーム外でも通話をするようになって数年経つ。


 『灰色の港町』のサービスが終了したあともこうしてたまにどちらからともなく連絡を取り通話をするというのは、人付き合いが苦手で、外に出なくても金を稼げる職業についた自分にとって新鮮なできごとだった。


 単純な話だが交流していくうちにフジさんのことを意識するようになって、柄にもなく高校生のように寝ても覚めても頭の中は彼女のことばかり考えるようになった。なんてざまだ。


 他のゲームではガンガン人を殺して金を稼いでいる俺が、ネット上の友人に恋をしているだなんて、高校生の自分が聞いたらどう思うだろう。


「イチさん大丈夫ですか?」


「カフェオレがお亡くなりになりました」


 とりあえず適当にもう使わなそうな古いタオルで机を拭いていると、ご愁傷様です、とフジさんから声がかかった。


 普段ならこんなミスは絶対しない。プロゲーマーにとってPC周りの水分管理は絶対条件だ。昨日だって、倒しても良いようにペットボトルの水を用意して対戦に挑んだ。


 今日に限ってマグカップでカフェオレなんか飲んでいたのは、昨日フジさんと通話できなかった腹いせに戦場に出て夜通し対戦相手をボッコボコにしていたから。気付いたら朝になっていたので、もうひと対戦行く前に目を覚まそうと淹れたものだった。


 カフェオレを淹れてPC前に座ると、昨日開きっぱなしにしていたミーティングアプリのトークルームに「フジ」の名前を発見して慌ててアプリを開いた。こんなイベントがくるって知ってたらカフェオレなんか入れなかったのに……。タオルをゴミ箱に放り、イスに座りなおす。


「ごめんごめん、あーびっくりした」


「ふふ、誰にですか?」


「……フジさんって意外と意地悪だよね」


 そうですか?なんて、わかって言ってるくせに。


 4つ年上の彼女は、普段話しているときはおっとりしてつかみどころがないくせに、急に年上ぶって俺をからかって楽しむことがある。


 薄暗い画面に浮かぶ白いコスモス。数えきれない通話をしたけど、彼女のことはなんでも知っているという訳ではない。


 でも、実は俺は彼女の顔を知っている。


 1年くらい前、いつものようにミーティングアプリを開くと、コスモスの花の代わりに黒髪のショートヘアが映し出されていた。一瞬だったけど、真っ白な部屋と、ワイシャツからのぞく白い肌を覚えている。


 たぶん、仕事の打ち合わせの設定のままにしてあったのだろう。すぐに切り替わったコスモスは、俺が彼女の姿を見てしまったことは気付いていないようだった。その日は、正直何を話したのか全く覚えていない。


 別に、容姿が好みだったから、なんてきっかけでしかないけど、数年続く声だけの交流から抜け出して、彼女に会ってみたいと思い始めたのはその頃からだった。


「イチさん?もしかしてPCにもかかっちゃいました?」


「いや、大丈夫、です」


「なんで急に敬語なんですか」


 いやいや……とかなんとか適当な返事をしてしまった。顔が見えていない今ですらこんなに緊張しているのに、直接会うとか無理じゃない?最後に女子とまともに話したのいつだっけ?


 イチさん、と本物じゃない名前を彼女だけの呼び方で呼ばれるだけで締まるこの胸をホントどうしてくれよう。俺は女子高生か。


「ねえ、フジさんさ」


「はい?」


「俺が本当はフジさんより20も年上のオッサンだって言ったらどうする?」


 何聞いてんだ~~!?びっくりした自分で。フジさん黙っちゃったよそりゃそうか。あたしがブスでも愛してくれる?ってか?ギャルかな?


 そもそも好意があるのは俺だけ。フジさんは年下の俺をからかって面白がってるだけなのに、どうするもこうするもないだろ。こんなこと聞いてこの通話もなくなったらどうしよ……。なんでこんなこと聞いたんだろ。時間巻き戻したい。


「そうなんですか?」


「え?」


「だから、20年上なんですか?」


「えと……違います。普通に25です」


「知ってます」


 なんです急に、とヘッドホンから笑い声がする。


「もしかして、本当に会ったとき、私が幻滅するかもなんて考えてます?」


「う、まあ……クソ陰キャだしね、俺」


「あれ?前に月9俳優に似てるって言ってませんでしたっけ」


「そんなん今持ち出してこないでよ……」


 あはは、といつもより大きめの笑い声がして、思わず頭を抱える。何やってんだ俺は。


 フジさんの気を引きたくて、毎回送るメールの件名を旅行行きましょうだのデート行きましょうだのふざけた内容にして、余裕ぶってた俺のこともお見通しだろうとは思ってたけど、お互い触れないようにしてきた。いざ触れられると、こんなにも俺に分がないとは。くそ、この陰キャ野郎、大学まで行って何を学んできてんだ。


「ねえ」


 抱えた頭の中に、あまり聞いたことない崩した話し方の声がする。癖なので、と敬語を崩してくれないフジさんの、初めて聞く呼びかけだった。慌てて体を戻す。


「イチさんが何だって、今更嫌いになんかならないから」


 体の左側が急に音を立て始めたのがわかる。うるさいなもう聞こえないから静かにしてくれ。


「早く迎えに来てください」


 窓の外を朝陽が照らしていくのがわかったけど、窓の方は見られなかった。イスにかけてあったパーカーを羽織ると、画面のコスモスに向かっていつものように話しかける。


「伊豆の美味しいもの、検索しといてね。フジさん」


「はいはい、超特急でお願いします」


 ログアウトのボタンを押す時間も惜しくて、そのまま部屋を出る。玄関に放り投げてあった車のキーを手に取ると、ドアを開けて階段を走るように下った。普段使うことのない筋肉が痛い。


 車に乗りバックミラーに映る徹夜明けの自分を見て、シャワー浴びてくれば良かったと後悔しつつ、眠気の吹き飛んだ頭で思い出すさっきのフジさんの言葉に思い出し笑いをした。


 こんなつまんない恋愛ドラマみたいなこと自分がするなんて思わなかったけど、フジさんに会ったら笑い話にはなるだろう。さっきからうるさい心臓の音をかき消すように、エンジンをかけた。

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