【後編】

昨日、オナトモと飲みに行った。

 

 午後22時すぎ。

 平日だからか、店内はもぬけの殻だった。


 テーブルの上に置かれた砂肝の残骸と飲みさしのハイボールを眺める。

 黒箸が皿の上を寝転がり、お手拭きが服を脱ぎ散らかして、汚れた肉体を見せつけている。

 メニュー置きで区切られたカウンター席。

 そこでは腕すらも伸ばせない。



「……東京オリンピックが終わって、もう何年だ」



 ぬるくなったハイボールをちびちびと飲みなおしていると、オナトモが感慨深そうに告げた。

 十年だな。早いものだ。



「お前、健康診断行ったか? 俺この前血尿出たんだけどな……」



 歯が痛い、歯が痛い、と抜かしていたオナトモが、爪楊枝を片手に語り出す。

 まだ昨夜の仕事の疲れが取れていない。


 俺たちは充分に歳を重ねてしまった。親の介護のことも、自身の健康のことも、将来のことも、色んなことが気になる年齢になってしまった。

 昔はあれだけ政治に無関心であったのに、今や政治のことばかりを語るようになってしまった。数年前に問題になっていた年金のことや税のこと、保険や日本の未来のことなど、若者じゃなくなった俺たちにとってはそれはいずれ来る“未来”であり、いつか来る“現実”であった。


 車椅子に乗っている老人を見て「可哀想だな……」と感じる立場から、俺もいつかああなるのかな、と不安に覚える立場になってしまった。

 過去のことを段々と思い出せなくなる。

 身体は重く、目はぼやけ、痛みに鈍感になった。


 8年前に経験した大失恋も、今覚えはそんなにたいしたことではなかった。


 あの頃、大人たちが語っていた「若いうちにもっと冒険しておけよ!」という言葉が、今になってようやく実感を得てくる。

 会社での立場も変わってきて、時間もなくなり、海外旅行なんてとてもじゃないが行けなくなってきた。

 金はあるが、体力がなくなってきた。

 階段の上り下りを走ってできなくなってきた。


 口内炎が痛む。怪我の治りが遅い。髪も薄くなってきた。

 面白いと熱中してたものを、冷めた視点で批評するようになった。

 若い連中に上から目線で「将来のことを考えておけよ」と告げるようになってしまった。

 38歳と聞くと、世間的にはまだまだ若輩者かもしれないが、自分という人間を40年近く生きてくると、自然と己の限界がわかってくるようになる。

 いつしか俺は俺を諦めてしまっていた。


 

「すいません。温かいお茶を二つ……」


「あいよ!」



 若い店員がお茶を持ってきてくれた。喉に流し込むと、ほんの少しだけ酔いが醒めた。

 美味い。茶がとても……美味い。


 昔は、好き放題お菓子を食べ、好き放題炭酸ジュースを飲み、好き放題焼肉を貪り食っていた。

 深夜にラーメンを食べて、徹夜でドライブをして、仲間たちとボウリングをしていた時代がとても懐かしく思える。

 もうそんな体力はない。加齢により衰えてしまった。

 風邪は治りにくい。足腰が痛む。苦しい、悲しい、将来のことで不安だ。


 金なんて要らないから休みが欲しい。肉体的ストレスと精神的ストレスを一気になくすことができる回復薬が欲しい。癒しも要らないから、睡眠時間が欲しい。疲れを消せる魔法をください。



「鮭の雑炊うまそうだな」



 オナトモが濃くなった髭を振って、メニューを眺めている。

 まだ、飲めるのか。



「卵とじか。お前も食う?」


「……半分だけなら」


「了解」



 オナトモが注文した[鮭の雑炊]は若い店員曰く「少し時間がかかる」そうだ。

 個人店舗のゆったりとした店だ。

 丁寧な作業をおこなっていることだろう。



「最近、飯を食うことがなによりの幸せなんだ。ほら、エネルギーを摂取しないと人は死んでいくだろ? とにかく、飯が食いたい。性欲よりも、食欲が勝る」


「あー……なるほど」


「ア◯ル?」



 お前まだまだ現役だろ。



「腹が出てきてしまったから、セックスできなくなってきたな。すっかり年寄りの仲間入りだろ」


「痩せろよ」


「女じゃないんだから」



 くっくっくと笑って、オナトモが腹を見せてきた。殴ろうと思ったが、やめておいた。

 ぷにぷにのけむくじゃらだな、オイ。



「同棲してた女に振られて、俺に泣きついてきたときは流石に笑ったよ。お前、あれだけ俺に説教してきておいて、どのツラ下げて甘えてきてんだよな。ほんと、人のこと言えんのかよって」


「……すまん」



 当時病んでいたのはオナトモではなく、俺の方だった。

 俺はきっと毎日の退屈さに飽き飽きしていて、こいつに依存していたのだろう。

 こいつにもこいつの人生があるというのに。



「おっ、きたきた」



 若い店員がトレーを片手に雑炊を持ってきた。

 レンゲが二つ、お皿に置かれている。



「先に食えよ。今日は俺の奢りだ」


「……恩に切る」



 蓋を開ける。雑炊からは湯気が立ち込められている。

 黄色くなった白米の中で塩鮭の身が砕かれている。


 三つ葉、青ネギ、ごま、卵。


 食材たちがバランス悪く、乱雑に散りばめられている。パズルのようだった。

 これらを一気に口の中に入れると、ピースがハマったような感覚になるのだろうか。



「……」



 レンゲを入れる。すぐに沈んだ。とろとろとしている。

 数回かき混ぜてから、口内へと運ぶ。


 熱い。が、食べられないことはない。

 咀嚼するほどでもない。

 一気に食べると勿体ないので、舌先でしばらく待機させておいてから、飲み込んだ。


 単なる雑炊なのに、やけに旨く感じられた。

 舌の上で、塩鮭と卵が踊っているようだ。


 ……いや、踊っているという表現はありきたりかもしれない。塩鮭が泳いでいる。この雑炊の中で泳いでいる。ただの白米をお湯で煮たものに、これらを食材を入れるだけでここまで変わるとは、日本料理の凄さを改めて感じる。

 ほっと息を吐けるような、胸の奥から温もりがくるような、そんな味だった。



「旨かったか?」

「ま、まあ……それなりには」

「俺からの餞別だよ。全部、食え」

「いいのか?」

「食えって。いいから、ほら」



 オナトモに勧められて、また一口。

 今度はごまの風味が、鼻腔をくすぐった。

 鮭の切り身を奥歯で噛み、喉の奥へと運ぶ。

 やはり、うまい。



「お前、鬱だったんだろ?」


「……え?」


「聞いたんだ。お前の妹から。数年前に」


「……」



 オナトモが水を勧めてくる。黙って、飲んだ。



「お前言ったよな。俺に憧れているって。でも、俺からしてみれば、俺の方がお前に憧れていたんだよ。これだけ暴れて好き勝手して、それでもお前を俺を見捨てずに、こうやって今でも酒に付き合ってくれているだろう。その気持ちが嬉しいんだ」



 オナトモがグッと肩を抱いてきた。



「元気出せよ、相棒。お前はやりたいことを我慢しすぎだ。まともになろうとしすぎだ。真面目すぎるんだよ。もっと楽をしていい」



 オナトモがパンパンと背中を叩いてきた。

 顔が近いので、息が臭かった。



「人生ってのは長い目でみれば色んなことがあるんだ。確かにあの当時、俺は迷走してた。でも、コンビニで働いていた経験があるからこそ、今があるんだよ。全てが繋がっている」



 オナトモはコンビニ店員を数年務めたあと、本部からオーナーを任されて、更に事業拡大のために海外に送られた。そこでコンビニの新たな可能性を発見して、今は海外を飛び回る生活を送っている。日本の枠組みだけではとらわれない、彼の柔軟な発想と行動力がなくしては、おこなえないことであろう。



「コンビニが日本を牛耳っていると語ったのに、お前は人の話をちゃんと聞かずに先走って、俺に説教して、本当に悩んでいたんだなと心配してたんだ。ふつうに毎朝同じ時間に起きて、ふつうに働いて、ふつうに残業して、帰宅する。そんな日々にお前は疲れていたんだよ。だから、俺に理想を押し付けた。……違うか?」


「……ああ。違わない」



 もう一口。涙が出そうだった。



「人生ってのは難しいよなぁ。ちゃんとルール通りに生きていても、それが常識から外れるときがくる。終身雇用なんて今の時代なんてもうなくなってるのに、まだのたまう老害もいる。再婚・転職が当たり前なのに、今の老人どもはそれが常識だと思いたくないから、否定する。いつの時代もそうさ。『最近の若いのは……』がお決まりだ」



 うんうんと、口の中に雑炊を運ぶ。

 レンゲがちんと音を立てた。



「……コンビニが24時間営業じゃないと文句を言う奴がまだ世にはいる。日本は遅れすぎなんだよ。視野をもっと広くしないと、停滞するのみだ。頑張れよ、総悟そうご。しっかりと自分の目で世界を見ろ」


「お前は俺の親父なのか? ガキ扱いしないでくれ」



 オナトモが「総悟」と俺の名前を呼んでいる。

 いつもは呼ばないのに珍しい。



「結婚したいな。今からだと遅いか? いや、そんなことはない。40でも俺はイケイケだから余裕」


「……腹が出てるのにか」


「人のこと言えるのかよ。彼女に浮気されて、捨てられたクセに。お前も良い人見つけろよな」


「……こっちのセリフだっての」



 完食しきった皿を見る。お茶を飲んで、一息つく。

 オナトモが「あー」と唸った。



「飲んだ飲んだ。久々に食った。あー、ホテルに帰りたくない。明日のフライトの時刻を考えたくない。しんどいなー。生きるのはよぉ」


「……頑張れよ、オナトモ」


「オナトモじゃねぇーよ。俺は尾奈友おなもとだ。友だけど、もとなんだよ。ややこしいけどな」


「オナトモでいいだろ。オナトモ」


「オナニーしてるみたいじゃんかよ。もー、してないって。総悟も人のこと言えんのか? 相互鑑賞してんじゃねぇのか?」


「うるせえよ」



 酒のせいか、フランクな会話になってきた。

 かつての、学生時代のノリを思い出す。


 よくこうやって、安いチェーン店の居酒屋で、女と未来の話をしたもんだ。



「ふー。でも、オナトモでもいいかもな。俺らはオナトモだ。同じ場所で時を過ごして、同じ時代を生きて、同じものを眺めて、同じもんを食って、そうやって生きてきた。同じクラスの友達であり、オナニー友達だ。考え方は違って、生き方は違っても、俺はオナトモさ。この先もずっとな」



 オナトモがそう言って、どこからか隠していた焼き鳥の串を俺に差し出してきた。

 しぶしぶ食う。

 冷めて美味しくなかったが、奴は「はっは」と笑った。

 すっかりおっさんだった。



「俺らはもう20年近くの付き合いか? 早いもんだな。総悟に電話で説教を食らったのが、つい最近のことのように思えるよ」


「……俺もだよ」



 内ポケットからタバコを取り出してくる。

 合法麻薬に、今は酔いたい気分だった。



「古い銘柄だなぁ。今どきタバコって。ほぼ税金なのによく吸えるよ。時代錯誤も大概にしろよ」


「……うるせぇよ。お前は勝手に未来を生きてろ」



 ふぅーと息を吐く。ここが禁煙可能のお店で良かった。

 銀の灰皿にトントンと灰を捨てる。



「……俺も一本吸わせてくれよ。長時間のフライトで疲れてんだ」


「タバコやめたんじゃないのかよ」


「周りが嫌うからそう言ってるだけ。海外の銘柄はキツいんだよ。頼む」



 飯を奢ってくれると語る友人にケチなことはできない。

 オナトモは「thank you」とヤケにハッキリとした発音で述べた。

 なんだか少し、カッコ良かった。



「……俺にお前に憧れて良かったよ。ありがとな、オナトモ」


「なんだよ急に。お前もいつまでも燻ってないで夢を見つけろよ。人生100年まだまだ長いんだ。自暴自棄にならずにほどほどに頑張れよ」



 オナトモはそう言って、ライターをカチッと鳴らした。

 ふぅーと息を吐く。

 俺もふぅーと息を吐いた。


 タバコの煙が天井まで昇ってゆく。

 ゆらゆらと流れて、見えなくなる。


 消せない灯火に祈りを込めて。

 俺らは今日を生きている。

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昨日、オナトモと電話をした。 首領・アリマジュタローネ @arimazyutaroune

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