1.6
花咲マーチ
1.6
とある男が、刑務所から出所してきた。ボサボサの髪に、長い間剃っていない髭。しわくちゃのシャツとズボンをまとった男は、人目を気にすることなく歩いていた。
「見てあの人。あの事件の人じゃない?」
「出所してきたのね……近所に住んでるっていうし、怖いわ。」
通り過ぎる男に聞こえるように、主婦たちは井戸端会議をしていた。それを男は気に留めることはなかった。
主婦たちのいうあの事件というのは、 10年前、
10年前―
桑は結婚間近の彼女、
「色々なところに行って楽しかったけど、少し疲れたわね。」
「そうだね。ここからだとホテルも近いし、早いけどチェックインしちゃおうか。」
「ええ。」
たくさん歩いて疲れた二人は、予約しておいた高級ホテルに向かった。
「天地様ですね。本日はご宿泊ありがとうございます。」
受付でチェックインを済ませ、部屋に入る。
「うわあ……すごい……」
部屋はダブルのスイートルーム。桑が今回、高級ホテルのいい部屋を選んだ理由は、雪にプロポーズをするためだった。
「いい部屋だろ?雪が喜んでくれると思って予約したんだ。どうかな?」
「ええ!とても気に入ったわ!ありがとう!」
大はしゃぎする雪の姿に、桑も嬉しくなった。だがその時だった。
―プルルルル……
突如、桑の携帯電話が鳴った。しかし桑は一向にでようとしない。
「桑、携帯なってるよ?出ないの?」
「ああ。いいんだ。」
「でも……」
「いいんだって。あ、そうだ。何か食べる?ルームサービスもあるんだ。」
話を逸らそうとする桑をよそに、携帯電話は鳴り続く。
「桑。何か隠してる?」
「……」
―プルルルル……
「もう!」
しびれを切らした雪は、鳴っている携帯電話を手に取ると、
「もしもし?」
「ちょ!雪!」
自ら電話に出て見せた。
「もしもし桑?もう、電話出るの遅すぎ。あ、ねえ!ちゃんと彼女さんと話してくれた?早く私と結婚してよー。」
電話の相手は女。しかも、雪の知らない人物で、どうやら桑の浮気相手のようだった。
「あの、私、桑の彼女ですけど?」
「はあ!?ちょ、ちょっと!桑?!!どういうこと?」
「それはこちらのセリフです。あなたと桑はどういう関係ですか?」
「え、あ……えっと、別に一回一緒に夜を過ごしたって関係です。まあ、でもたった一回で子供ができちゃって、責任取るって言われたから待ってるんですけど、一向に話が進まなくて、電話するなって言われていたんですけど、電話したって感じです。」
「そう……ですか……」
雪は力が抜けてしまい、携帯を床に落としてしまった。
「雪……」
床に落とした拍子に偶然、通話は終了したようだった。
「ごめん雪。その、彼女と結婚する気はないんだ。色々あって、納得してもらうために仕方なく……」
「大丈夫。私は、桑のこと信じてるから。」
「雪……!」
桑は雪の表情までは見ることはできなかったが、許してくれたと思った。
電話の件から雪は黙り込んだまま一切話すことはなかった。
「なあ雪。怒ってるのはわかるけど、折角の旅行だし、もっと楽しまないか?」
「……」
すると、急に雪が口を開いた。
「ねえ、電話の女の人。結婚してくれるって桑が言ったって言ってたわ。桑は、その人と結婚するの?」
「え……」
「私、少し期待したの。旅行に行こうって誘ってくれて、高級ホテルを予約してくれて、さらに式場の下見とかドレスの試着もさせてくれて。もしかしたらプロポーズかなとか色々思ったの。でも浮かれていたのよね。」
「いや、雪の言う通りだよ!プロポーズするために旅行を計画したんだ。本当はサプライズで言おうと思っていたけど、今言うよ。僕と結婚してください。」
桑は跪いて指輪の箱を渡す。
「普通は箱の蓋を開けて渡すんじゃないの?」
不思議に思いながらも雪は箱を開ける。
「え……」
しかし雪が目にしたものは、空っぽの中身。指輪が入っている部分には何もなかった。
「どういう……っ!」
雪は体に突然電流のような強い刺激を受け、気を失った。
「ごめん。雪。」
桑は手にスタンガンを持っていた。
「ん……んん!!」
雪が目を覚ますと、シャワールームにいた。しかし、雪はなぜか裸で、口と手を布のようなもので拘束されていた。
「んんー!!」
「おはよう雪。」
「んんんん!!」
雪を見下ろす桑は、とても冷たい顔をしていた。雪は何となく自分の命が危ないと思い、逃げようと必死にもがいたが、狭いシャワールーム。おまけに一つしかない出入口には桑が立っている。雪には逃げ場などどこにもなかった。
「んん!」
「本当はこんなことしたくなかったんだよ。でもしょうがないんだ。だからごめん。」
「んんんんん!!!!」
桑は一言謝ると、ナイフで雪の心臓部を貫いた。痛みで声にならない悲鳴を雪は上げるが、布のせいでその声が部屋の外に聞こえることはなかった。
「雪……」
雪が動かなくなると、拘束していた布を外し、返り血をシャワーで流す。凶器のナイフもきれいに洗い、桑は予備の服に着替え、チェックアウトした。平然とした顔をして。
後日、桑の家に警察が来た。証拠を隠滅する間もなかった。
「……俺が雪を殺しました。」
逃げようと思っていたが、証拠がある以上、罪を認めるしかなかった。
天地桑は、殺人容疑で逮捕された。
これが10年前のあの事件である。
そして10年後の今日、桑は出所した。もちろん、浮気相手は桑との連絡を絶った。道行く人々は、桑を見るたび、嫌な顔をした。
殺人犯の桑はふらふらとした足取りで自宅に着くと、預金通帳を見た。
「これなら足りるな……」
そう言って、通帳だけを持って家をでた。その足で、ATMに向かい、お金を引き出す。その後旅行会社に向かい、ホテルの予約を取った。
「あの、ダブルの部屋ですが……」
「構いません。それと、10年前に事件があった部屋ができればいいんですが。」
「ああ……えっと、その部屋は少し変わったことが起きる部屋でして……」
「何が起こるんですか?」
幸い、旅行会社の人は天地桑だとは気が付いていないらしく、詳しく話してくれた。
「10年前の事件があってからしばらくは使われていなかったんですけど、お祓いとか色々して使えるようにはなったみたいなんです。でも、ひとつだけ電気が電球を変えてもつかなかったり、シャワールームから出るお湯は赤黒い色をしているんだとか。でもしばらくすると透明になるみたいなので、特に問題視されてはいません。それから、体重計に乗ると、必ず1.6キロプラスになるらしいんですけど、シャワールームを使った後はプラスにならないそうです。まあどれも気味が悪いので、この部屋は避けるお客様が多いです。」
「そうですか。でも大丈夫です。その部屋でお願いします。」
「かしこまりました。ではこちらの用紙に記入をお願いします。」
旅行会社の人は名前などを書く用紙とペンを渡してきた。桑は記入を終えて用紙を返すと、旅行会社の人の表情は一変した。
「あなた……」
「今日は空いていますか?その部屋。」
「空いています。予約を取りますのでお待ちください。あ、もしもし……」
嫌そうな顔をしつつもあの部屋の予約を取ってくれた。桑が店を出る際、ありがとうございましたとは、言われなかった。
桑は10年前雪と泊ったホテルを訪れた。チェックインの際も嫌な顔をされたが、入室を断られることはなかった。
「久しぶりだね。雪。」
部屋に入ると、桑は誰もいない部屋にそう言った。そして雪を殺した現場、シャワールームに向かった。
「雪、あの時はごめん。俺がどうかしてた。浮気した俺が悪いのに雪に酷いことした。本当にごめん……」
桑は涙ながらに静まり返ったシャワールームに謝った。
『いいよ。顔を上げて桑』
「え……」
雪の声がした気がして顔を上げる。しかしどこにも雪の姿はなかった。
「気のせいか……」
その後桑は、一泊するとホテルを出た。
「はあはあ……体が重い……」
ホテルを出た桑は、真夏でもないのに汗をびっしょりかきながら歩いていた。手ぶらなのに重い荷物を持っているかのような歩き方だった。
「苦しいし、重い……なにが……わあ!」
桑はなにもない地面で転んでしまった。起き上がろうとしたが起き上がれず、できたのはせいぜい寝返りをうつだけだった。桑が仰向けになると、
『やっとこっちを向いたね』
「!?」
ウエディングドレスを身に纏った雪が青空を遮るように存在していた。
「雪……なのか?」
『ねえ桑。私ずっと桑のこと待ってたの。この純白のウエディングドレスを着て。10年前、一緒に選んでくれたよね。私ね、桑と一緒になれるのを楽しみにしていたの。だからね、一緒に逝こう?これが私の最期の望みよ。』
「君のドレスは純白じゃない。真っ赤だよ。だけどそれは、俺がしてしまったんだよね。本当にごめんね。雪。今更遅いけど、一緒に逝くよ。それが君の望みだというのなら。愛してる。」
すると突然、誰もいない式場の鐘が鳴る。まるで誰かを祝福するかのように。
その後、通行人に発見された桑は病院に運ばれたがそのまま死亡した。死因は不明だった。
桑が亡くなった後、事件のあった部屋では何も起こらなくなった。電気も、体重計もシャワーも。他の部屋と何ら変わりなく使えるようなった。
そういえば、雪が流した血の量も1.6キロだった気が……?
1.6 花咲マーチ @youkan_anko10
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