オレンジの恋

プラナリア

オレンジの恋

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 全ての始まりはある日の夕暮れ、柑菜かんな椋介りょうすけを見かけたことだった。無人のグラウンドで、椋介は一心にボールを蹴っていた。彼の周りだけ空気が張り詰め、すぅっと音が消えている。柑菜は思わず立ち止まった。

 今日はサッカー部の試合だったはず。1年の初試合だと張り切っていた笑顔を思い出し、柑菜は試合の結果を悟った。

 椋介ってこんな顔もするんだ。幼稚園の頃から一緒の幼馴染なのに、知らない人のようだと柑菜は思った。中学入学後急に背が伸びた彼を見て、女子が騒ぐのを不思議に思っていた。そりゃあ友達としては大好きだ。明るく大らかな椋介といると、気持ちがふわりと軽くなる。でも呑気でお調子者で、全然かっこよくないのに。

 椋介は体全身でシュートを放った。夕陽に照らされた精悍な横顔。ボールがネットに突き刺さった瞬間、柑菜は胸が震える音を聴いた。

 柑菜は駆け出した。走っても走っても、彼の横顔が消えなかった。沈む夕陽と共に、柑菜の世界は変わってしまった。


 翌日の土曜日。柑菜が部屋に入ると、姉の杏菜あんなが鏡に向かい化粧をしていた。姉が高校生になった途端、メイク用品を揃えだしたのを不思議に思っていた。お金もかかるし面倒くさそうだし、大人になってからすればいいのに。けれどその日は吸い寄せられるように杏菜の仕草を見ていた。鏡の中で目が合い、杏菜が驚いたように振り返る。

 「わっ、どした?」

 「あ……メイクしたら、ほんとに変わるのかな、と思って……」

 口をついた言葉に自分で驚く。頬が熱くなっていくのが分かった。ぽかんとした杏菜が、急に抱きつく。

 「春ね……! 柑菜ちゃんに春が来たのね!!」

 「お、お姉ちゃんどうしたの? 今はもう初夏だよ?」

 「アオハルよ、アオハル! お姉ちゃんに任せて、もっと可愛くしちゃう♡」

 たじろぐ柑菜に構わず、杏菜はメイクパレットを手にとる。

 「アイシャドウ、少しラメ入れてみよう。チークはまぁるく……くはあぁぁぁ、私の妹が可愛すぎるうぅぅぅ!!」

 大興奮の姉を見て、柑菜の脳裏には人形の着せ替え遊びに付き合わされた幼い日の記憶が甦っていた。 


 柑菜は憔悴していた。歩く度、慣れないヒールに躓きそうになる。

 「なんでこんなことに……」

 あの後、杏菜は大量の服を並べて柑菜を着替えさせた。「ばっちり! いってらっしゃい♡」と無理やり送り出されたものの、行く先など無い。ショーウィンドウに映る自分が目に入る。鮮やかな花柄のワンピースは、大人びていて気後れする。淡いピンクの唇が自分ではないようで、柑菜はなんだか泣きたくなった。

 昨日から迷子みたいだ。気付けば彼の横顔を想う。こんな私は知らなくて、違う世界に入り込んだみたい。

 溜息をついた時、近づいてくる自転車に気付いた。柑菜の心臓が大きく跳ねる。椋介だ。


 気付かないで。

 私を見て。


 相反する思いがぎゅっと心を絞った。まるでオレンジみたいだと柑菜は思う。握りしめた手のひらに伝わる弾力、滴る果汁と鮮烈な香り。こらえきれずに舐めた指の、痺れるような甘酸っぱさ。


 椋介は柑菜に気付くことなく遠ざかっていく。ショーウィンドウに映る少女の瞳から、ぽろりと涙が零れ落ちる。


 🌿

 桂人けいとは思わず足を止めた。塾帰りの頭は覚えたての英単語で一杯だった筈なのに、道向かいの彼女の姿を見た途端真っ白になった。

 「あれ、同じクラスの……」

 いつも俯きがちで目立たないクラスメイト。私服はずいぶん派手だと思ったが、大胆な花柄とそれを恥じらうような初々しさが妙に心をくすぐった。ノースリーブの肩の、透けるような白さ。

 不意に彼女が顔を上げた。頬が桜色に染まり、見開いた瞳が切なく揺れる。彼女と自分を切り裂くように自転車が通り過ぎ、その瞳から涙が零れ落ちる。


fall in love


 桂人は初めてその意味を知る。それはまさに落下なのだ。自分の意志とは関係なく、ある日突然世界は変わる。



 あの日から、桂人は気付けば柑菜を目で追っている。セーラー服の柑菜は今まで通り大人しい。けれど時折、別人のような表情を見せる。間近でその顔が見たくて、学級委員という立場を利用し接近を試みている。今も、柑菜と一緒に職員室までプリントを運んでいるところだ。

 「ごめん、手伝わせて。副委員長が休みだからさ、助かるよ」

 柑菜は「気にしないで」というように微笑み、桂人は緩みそうになる表情を引き締める。

 階段にさしかかった時、柑菜のポケットからヘアピンが落ちた。柑菜は目に見えて狼狽え身を屈めようとしたが、抱えたプリントに邪魔されバランスを崩した。桂人はとっさにプリントを投げ出し彼女の肩を支えた。制服越しに伝わる華奢な体つき,

彼女を包む瑞々しい香り。ライスシャワーのようにプリントが舞い、桂人の心は楽園に飛んだ。

 「ごめんなさい……」

 態勢を整えた柑菜は素早くヘアピンを拾い、散らばったプリントを集めていく。陶然としていた桂人は我に返り、謝りながらプリントを受け取った。

 微笑んだ彼女が、小さく息を吸った。大きな瞳が揺れる。自分の背中越しに、誰を見つけたのか桂人は悟った。自転車に乗っていた人影。

 この瞳だと思った瞬間、胸を鋭い痛みが刺し貫く。それでも、想いは殺せない。その瞳に宿る切ない光が、桂人の心に沁みこんでいく。


 ⚽

 椋介は友人と歩きながら、前を歩く柑菜に気付いた。幼馴染の彼女の隣にいるのは、涼やかな顔立ちをした学年一位の秀才だ。二人がプリントを抱えているのを見てクラスの仕事だろうと思ったが、違和感が消えない。横目で様子を窺っていると、突然柑菜の体が傾いだ。スローモーションのようにプリントが舞い、桂人の手がゆっくりとその肩に乗る。

 墨のような雲が椋介の心に湧いた。雲は次第に濃くなり心の隅々に広がっていく。何だこれは。面食らいながら椋介は雲の正体を探る。ドリブル中にボールを攫われた瞬間みたいだ。つまり、柑菜はボール? ボールは友達? 当然だ、あいつはいつも一緒の幼馴染。だから何だ?

 「今日さ、部活終わったら一麺亭行かねぇ?」

 混乱した頭に友人の声が響く。一麺亭は学生御用達のラーメン屋である。豚骨、大盛、替玉。雲は吹き飛び椋介の心は白濁したスープで満たされる。

 「行く行くー!」

 満面の笑顔で友人に頷いた椋介は、彼を見つめる幼馴染の視線に気付かない。


 ✾

 「はあぁぁぁぁぁ……」

 柑菜は自室で一人、溜息をついた。誰かに話を聞いてほしくても、どう言えばいいか分からない。舞い散るプリント、肩にのった手、こちらを見てもいなかった椋介。言葉にすれば取り返しがつかなくなりそうで、黙り込む。

 縁遠い存在だった学級委員長。最近雑用を仰せつかるのは自分を下僕化する気かと危ぶんだが、恐縮する彼は予想外に不器用で、優しかった。間近で見た端正な顔立ちに、どきんとしたのは本当だ。少女漫画めいた展開に、100人中80人くらいは恋に落ちるものかもしれない。それでも。

 椋介の顔を見た途端、襲ってきた「どきん」はその比ではなかった。

 柑菜は手のひらにヘアピンを転がす。花をかたどった青い硝子は、校則違反にならない程度の慎ましさだ。それでも、熟考の末選んだそれを髪に挿すのは躊躇われた。学校でも取り出してみては、ポケットに戻すの繰り返し。

 鏡に映る自分を見つめる。「綺麗な二重でいいね」と友達は言ってくれるけど、タレ目の困り顔だ。もっと可愛ければ、オシャレしても似合うのに。

 ……もっと可愛ければ、椋介の反応だって違うだろうか。違う瞳で、自分を見てくれるだろうか。

 柑菜は思わず首を振る。気持ちに蓋をしようとする度、心の奥で叫ぶ声がする。


 私を見て。


 今まで、こんなこと無かったのに。

 ヘアピンを握りしめ、まるで鍵のようだと柑菜は思う。この鍵を差し込めば、未知の扉が開いてしまう。何処へ流されるか分からぬまま。

 「バカみたい」

 ヘアピンを引き出しに放り込もうとして、その手が止まる。きらきら輝く硝子の花を、もう一度握りしめる。


 🌿

 放課後の教室。桂人は教師に頼まれたプリントの仕分けをしていた。もちろん隣には柑菜がいる。時間を引き延ばすように、桂人は丁寧に作業をする。努力の甲斐あってか、最近柑菜も少しずつ言葉を返してくれるようになった。

 「柑菜さんって、あの女優に似てる気がする。雰囲気がなんとなく」

 会話のネタにと観始めたドラマの話を振ると、柑菜はみるみる真っ赤になった。

 「に、似てないっ」

 「そうかな」

 「だって、私なんか全然……」 

 「え?」

 見ると、俯いた柑菜の瞳が潤んでいる。桂人は慌てた。

 「ごめん、変なこと言ったかな」

 違う、と答えた声は既に涙声だった。黙り込んだ桂人の前で、柑菜は困ったように首を振る。

 「ごめんなさい……私が変なの。ダメなの、私なんか……」

 ポロリと零れた涙に、桂人は気付いたら口を開いていた。臨界点に達した気持ちが溢れ出す。

 「『なんか』じゃないよ。僕にとっては」

 柑菜が呆気にとられたように桂人を見た。初めて、あの大きな瞳が自分をまっすぐ見つめている。

 「僕は、ずっと……」

 言いかけて、桂人は口をつぐんだ。あの切ない光が、今の彼女の瞳には無い。行き場の無い想いを、手のひらに握りしめる。

 「……ヘアピン、似合うと思うよ」

 仕分けたプリントを抱え、教室を出る。吐息が零れた。

 恋愛なんて理不尽だ。どれだけ想っても努力しても、報われるとは限らない。でも惨めだとは思わない。誰かを想う横顔でも、僕が見つけた宝物だから。


 ✾

 教室のカーテンが揺れ、風が柑菜の火照った頬を撫でた。桂人の痛いくらいの眼差しが甦り、鼓動が早くなる。

 彼が向けてくれた優しさが嬉しかった。応えられるものなら、応えたかった。けれど、心の奥の声は沈黙したままだ。

 桂人の握りしめた手が震えていたのを思い出し、柑菜は再び泣きそうになる。


 「『なんか』じゃないよ」


 ありがとう。そう言ってくれたあなたの想いに、恥じない私でありたい。


 ヘアピンを取り出す。青く輝く鍵を、扉へと差し込んでいく。


 ⚽

 椋介は英語の教科書が無いのに気付き、立ち上がった。こんな時、男友達に借りるとロクなことが無い。頁の隅のパラパラ漫画、デフォルメされた教師の似顔絵。授業中吹き出したことも一度や二度ではない。やはり持つべきものは真面目な女友達だ。椋介は柑菜のクラスを覗いた。一瞬例の秀才と目が合ったような気がしたが、思い過ごしだろう。教室を見渡し、窓際の席に幼馴染の姿を見つける。声を掛けようとして立ち止まった。

 頬杖をついた柑菜に、午後の陽射しが射し込む。視線は窓の外に向けられていたが、心はもっと遠くにあるようだった。伏せた長い睫毛、ゆらゆら揺れる瞳。今にも涙が零れそうで、見ている自分の胸が痛くなるような。

 「柑菜!」

 思わず声を掛けた途端、華奢な肩がぴくんと跳ねた。振り返った彼女と目が合う。横髪に挿した青い小花が煌めく。彼女の唇が開きかけ、閉じた。声にならない言葉を発するように、彼女は瞳を揺らして自分を見つめている。

 椋介は不思議な気持ちで彼女に近づく。ずっと一緒の幼馴染。けれど、目の前にいるのは誰だろう?

 「……髪型、変わった?」

 彼女は頬を染め、「ちょっとだけ」と俯く。椋介は首を傾げる。

 「顔、変わった?」

 「え……?」

 自分を見上げた彼女から、仄かに甘い香りがする。これは一体何だろう。フリーズした頭に予鈴が響いた。

 「やべ、英語の教科書貸して」

 「あ……うん」

 差し出された教科書を受け取る時に、一瞬白い指が触れた。椋介は弾かれたように踵を返す。遠のく甘やかな香りが胸を締め付ける。椋介は考える。これは一体、何なのだろう?


 ✾

 柑菜はノートから目を上げ、窓の外の青空を眺めた。授業にはさっぱり身が入らない。自分の名を呼んだ、彼の声ばかり思い出している。

 「しのぶれど色に出でにけり我が恋は……」

 堅苦しい教師の声が、今日は柔らかく響く。今頃、椋介は自分の教科書を使っているのだろうか。一瞬触れた彼の指先を思い出し、柑菜はそっと俯いた。

 カーテンがふわりと膨らみ、風が軽やかに吹き抜ける。いつもと同じようで、まるで違う時間。柑菜はカウントダウンを待つような気持で時計を見上げる。長針が動く度、想いが弾けて甘く滴る。

 もうすぐだ。もうすぐ、君に会える。



 誰にも言えない、初めての恋。

 どうしようもなくて、胸に秘めていたとしても。

 想いは密やかに息づいて。

 その煌めきが誰かの世界を変えることだって、あるかもしれない。


 

 

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