蓑虫さん

ほうがん しゅん

第一話 ミノムシさんと仇名されたワヒネ

 蓑虫みのむしさん

       蓑虫よ一途な恋を貫くか 碇



 それは突然だった。背後から聞こえてくる図太い男の声に娘はギクリとした。

 この辺り一帯、どこもかしこも変わっているじゃぁないか。

 そうか・・そうだったのか、それほど長い時間だったんだ。

 やはり俺は、俺のひとり、独りよがりだったということか

 彼女に悪い事をしてしまったんだ。

 やり直せるものならば俺はやり直したい。 

 などと言う主を探し視ると初老の男だった。

 こぶしを硬く握りしゃべるその手は小刻みに震えている。


 男の髪はロマンスグレー、歳の頃はそう六十を少し回った頃合いだろうか。精悍せいかんな顔立ちをしている。白地に真っ赤な花柄模様のアロハシャツ、濃紺のズボンに真っ白い短靴という身ごしらえは一見してド派手だ。だが、不思議と違和を感じないのは彼の風貌ふうぼうからの印象だろう。色浅黒く彫のふかい精悍せいかんな顔立ちが異和いわを感じさせないのだろうか。



 甲高かんだかい罵声が上がった。奇声ともつかぬ罵声ばせいである。交差点際に突っ立つ若い男は身体を揺らし虚勢きょせいを張っている。その場に居合わせた人々は怪訝けげんな表情をし、思い思いに道を分けた。すると一筋の空間が現れた。折しも取り残された男がいる。彼は訳わからずに辺りを見回した。遠くに立つ若い男を視た、視線は合わなかった。されば喧嘩けんか相手は自分ではないと足早に遠のいてゆく。


 虚勢きょせいを張る若者は穴の開いたジーパンを穿いている。しかもずり下げている、何ともはやだらしない格好だ。目は充血し肩をいからしながら再び大声で叫んだ!


 お~い じじいよ!

 おい爺、お前だよ。

 しらを切って逃げるんかい

 二の矢三の矢を放った。が立ち止まる者は誰一人としていない。

 射った矢が的に当たらずでは喧嘩けんかにならず怒り狂ってか顔は真っ赤だ。

 ややすると交差点を渡り切った辺りで立ち止まる男がいた。その男を視ればつい先ほどハチ公像の前で独り言を放っていたあの初老男だった。

 

 だれが俺に喧嘩を売っているのか、いったいどんな奴がと振り返った。

「しらを切る? この俺がかい・・ 

 そりゃ、何のことだ。

 俺が・・何か、あんたに何かしでかしたとでもいうのかい」 

 初老の男は不意に降りかかってきた不快な感情を隠しながらきびすを返した。



 幾人かの野次馬が遠目で眺める渦中は一触即発のようだった。が、初老の男は理性を失っていない、いたって冷静に対峙しているようである。若者といえば一歩も引けを取らぬぞと語気を荒げ強気なのだ。


 事の展開を遠巻きに見詰める野次馬の中にひとり女性がいた。彼女は黒髪にカトレアの花を挿しロングドレスの似合う美しい年配の女性であった。年齢を感じさせぬ美しさに野次馬は見惚れている。

 彼女は初老の男の一言一句を聞き逃すまいと心を集中しているようである。その様子は特別な感情があると思えるのだ。小首を傾げ記憶を手繰たぐり寄せ不確かな記憶と照合しつつ頷いていると思えるからである。女性の口元が動いた。


「あの・・人は・・尾藤さんだわ。

 彼は・・尾藤さんだわ。彼が帰ってきた」 と・・ 

 安堵と緊張とが複雑に織り交ざる心境が言葉となって漏れたのだろうか呆然と初老の男を見詰めている。

 意を決した彼女は群衆から離れると携帯電話を取り出し何処へと去って行った。



 若者は眼をむき威嚇いかくし続けている。が初老男は全く動じず赤子相手の喧嘩程と思っているのに違いない。案の定、若者は小汚い暴言を連射し恐怖心を煽り続けている。が、不動な態度を貫く初老男の不気味がまさっている。初老の男が後ろ手を解かず半歩ほど身を乗り出したその時だ。

 警察官が割り込んできた。警察官は若者を一目見ると嘆くように言い放った。


「また、お前か・・ 何を、何をやらかしているの」

 思いもよらぬ展開に若者はうろたえた。臨場りんじょうした警察官を一目見て自分を見知る警察官だったのだ。警察官が近づくにつれ若者の態度が変わった。形勢不利けいせいふりと視た若者はうわずる調子で自らの正当性を主張するのみだった。


「肩が当たった。肩が、肩が当たったんですよぅ、あの爺が、なんも言わずだからよう・・」と捨て台詞を放ち雑踏の中へと走り去ってしまった。

 取り残された初老の男は半ばあきれ顔だ。

「あいつは安酒を飲んではめ事を起こす常習者でしてネェ、困った奴なんですョ」と警官が言う。


 そうか、なるほど、彼はトラブル・メーカーなのか。そう云えば酒臭かった。桁外れに強い自尊心が揉め事を引き起こすのだろうが、そのような生き様ではこの先、辛かろうと思った。なるほど、あの若造の心には安息あんそくの地がなかったのだろう。憂さ晴らしで喧嘩を売るのか・・・ 困った事だがよくある話だ。


 警察官は騒動の詳細を無線報告し終えると話しかけてきた。

「災難でしたねぇ。お怪我はありませんか。困ったものですよ、まったくあいつには・・」



 ★



 彼の行く目的地は道玄坂上の一軒のバーであった。そこに向かう道すがら「久々の街は騒々しくなったものだ」と心を曇らせた。


 俺は昔日のあの日、無性に酔いたいとこの辺りを徘徊した。気になる店構えの飲み屋を見つけては看板を見た。店内の様子を想像して性が合わぬと思えば次を探した。暫しの安息の地をと探していた。一軒のバーの前にいた。外壁は街明かりを受けウミホタルのようにまたたく外壁だった。きれいだと思った。廃業さえしていなければその店はあるはず、必ず探し出したい。しかし彼女とは三十数年前に一度会っただけで以後一度も逢っていない。いわば口約束の相手だ。


 彼女の源氏名げんじなはワヒネとしっかり記憶している。俺との約束を覚えているだろうか、彼女のこころの中に俺はいるのだろうかと不安が過る。それが、この近くだと思うと一刻も早く逢いたいという感情が激しく込み上げてくる。兎にも角にも彼女と出逢った店を探し出さなければ話は進まない。彼は臆する心を励まし先へと進んだ。ここぞと思しき路地を見つけると覗いた。高ぶるこころに背を押され探し続けるのだった。


 記憶の中の景色を整理しつつ交番の近くの小路から入ったのだが見当たらない。今いる小路はその小路だと踏んでの事だったのだが見当たらなかった。するとここは小路違いか、或は既に廃業してしまったのかと不安になって来た。

 戻って交番手前の小路から探そうと気を取り直すことにした。すると不確かな記憶と現実とが一致するところがあるではないか。それは隣地りんちとの境界を示す境界標きょかいひょうだ。よし、近くまで来た、確かにこの近くだとこころが弾みだす。


 小雨に濡れた路面は歩きにくく水たまりに映る看板の明かりに心は浮き立っていた。一歩一歩と進めば夜の街の懐かしさが眩しく感じる。次々と現れる見覚えのある個所を見つけるたびにラッキーだと一喜一憂した。かつてさ迷い歩いた小路を、時を経た今宵この今俺は歩いているんだ。よっしゃ、と気合が入った。あとはスターダストという店を探せばよいと奮い立った。気負い立つ足元が路面のくぼみに捕られ蹴躓つまづいた時だ、女の声が聞こえた。


 薄暗い中ではっきりしないが酔客に抱き付くホステスと目線が合った彼の眼はくぎ付けになった。女性はまるで絵画から抜け出たと思うほど美しい、願わくは抱きしめたくなる艶美えんびな夜の女に目がくらんだ。視線を逸らし酔客をちらりと見遣りながら思った。

「お前さんが抱き付く美人さんはこれも仕事の内だと仕方なく抱かれているのだよ。お前さんは惚れられていないぜ。彼女が惚れ込んでいるのは、お前さんの懐に御座おわす財布の中身だよ。まぁ、せいぜい頑張れや、金の運びやサンよ」つい口走っていた。酔客に媚を売る美女の顔を覗きこむとは、やはり俺は助兵衛だと思わず苦笑した。


「青い小鳥」という看板が目に留まった。看板の灯りが頼りなく点滅している。青い小鳥、まったく記憶にない。店構えも違う、此処ではないと先へと進んだ。先の角を曲がるとなだらかな下り坂になっている。所々に雨水がたまる悪路に足元を気遣いながら歩いているときだ、すれ違いざまに中年の男がよろけてきた。


「狭い道なのだからさぁ、落ち着いて歩いてくれよ。大事な花束を危うく落とすところだったじゃぁないか」聞こえぬよう呟いてしまった。


 よろけてきた男は五十代そこそこの脂ぎった会社員風の男だった。この辺り一面は雨水の溜まる悪路だ。恐らく水たまりを避け損なって足を捕られたのだろうと先の自分に重ねて思った。が、違った。男の腰にしがみつく女性がいたのだ。なるほど、連れの女性がつまづいた弾みの共倒れだったのかと納得した。ならば男はたまったものではない、支えきれなかったのだと理解した。

 たぶん女性は酒を飲みすぎた末の酔いに負けたのだろう。深酒の恐ろしさを知らぬ者が酒に呑まれてブッ倒れるという不運はよくある話である。彼らは身体を支え合い薄暗い路地奥へと消えていった。


 悪酔いした女性は大人になり切れぬ幼さを漂わせていた。二十歳を少し過ぎた歳頃に思えた。おだてられ、しこたま呑まされ一気に酔いが回ってくる酒の恐さなど想像できぬ年頃だ。俺にさえ覚えがある。それにしても、年頃の娘の深酒を見過ごした連れの男に憤慨ふんがいした。


 あの娘を見てあの年頃の娘が俺にもいてもおかしくはないと思いつつ何気なく路地先を見て驚いた。そこに怪しげな出入り口があるではないか。


 ほう、あのご両人、上司と女子社員という隠密行動かよ。男にしがみついていた娘の顔は地面すれすれだった。地面から俺を見上げた時のでっかい目は恥じらいと驚きとが混ざった表情だった。素早く男の背に隠れる娘の狼狽ろうばいぶりが今もなお目に浮かぶ。男の背後に隠れたのは素性すじょうさらした恥ずかしさからだろうが、クッソガキめ、つい今しがた己の股ぐらに男を銜え込んだガキが何をいまさら恥ずかしがるのかと思った。


 腕時計を見ると午後十時半だった。この辺りは道玄坂の喧騒が半減されるほどの静かさだ。しかし、記憶を辿たどればこれ程まで奥まっていた所ではなかった。しかも、新旧が入り交ざる光景は歳月の経過を知らしめ、方向感覚が定まらず、まるで異次元に迷い込んでいるようだった。

 路地角を曲がると開けた空間の先に点滅するネオンが見えた。その瞬間狭苦しいトンネルから解放され清々しい風が混ざるのを感じた。


 ★★


 繁華街のなかに在ってぽっかりと空いた都会ならではの空間、眼下を見渡すと己の人生の轍と重ねた。顧みれば数奇すうきな経験を経たものだとため息を吐くのだった。

 都会に在ってほのかな風景に懐かしさを感じ始めていた。すると広々とした空間、くぼ地を見下ろすこのくぼ地・・・ そうだ、この先に石段だ。


 閃きは正解だった。彼が思った通りの石段があった。石段の下方を覗き見ると薄暗くて踏み石の端がはっきりしない。が次から次へと鮮明に浮かぶ記憶と風景とがよみがえりつつあった。そうだ!そう、そう・・降る中ほどに狭い踊り場があって、そこから道玄坂へと通じる小路があるはずだ。が、まてよ、その先の記憶が蘇らないのだ。彼はとりあえず降りながら様子を見ることにしよう。そう決めると踏み石のコケを踏まぬよう降り始めた。


 数段降り始めると眼下に人の気配がある。彼は目を凝らし見た。薄暗くてよく見えないが石段を上がり始める人影を認めた。眼を凝らし視るとネオンの明かりに浮かび闇に消えるその人影は女性のようだった。彼女はドレスの裾を踏まぬようつまみ上げている。彼は思った。この石段半ばですれ違うには狭すぎる、ならば広い所へ戻って遣り過ごすことにしようと・・。


 踵を返す人影を認めた女性はニヤリとし「昔のままだわ、紳士ぶるところが・・」と少しの怒りを込めて言い放った。その彼女の目尻には希望の涙が滲んでいる。石段を一歩一歩と上がるにつれて高揚する女性のこころの動揺は極限に近づいていた。


 実のところ、踵を返す男がこの地に来ることを彼女は予見し、確信していたのだった。それはこれより先、意外な場所で彼女は彼を見かけていた。が、声をかけるチャンスではなかった。ならば出逢った所でと待っていた。彼が渋谷に来たならば必ず吾が元へと来るはずと踏んでいたのだ。

 しかし、待てども暮せども中々姿をみせない、道にでも迷ったかとしびれを切らし出向いていたのだった。


 彼女はこころしていた。わたしから話しかけなければ彼は私を、わたしだとは認識できない。それは、わたしはかつての風貌ふうぼうではないからだ。心許こころもとない彼との約束を貫くために、夜の街を生き抜いてきたわたしは、多難な年月を経て風貌は変わってしまった。だから、だから・・・ わたしから、このわたしから話しかけるのだと心していた。がやはり・・・女である。願うも叶わぬ待ちに待った再会を目前にしたこの今、山ほどある話したい想いの言葉は喉元で詰まっている。


 わたし・・ あの時のわたしですと話しかけたいのである。

 確約の無かった再会であるも湿った砂時計を揺すって時間を巻き戻し、時新たに刻ませるのだと自身を励ましつつ石段を一つ一つと踏みしめて上がる。彼は、わたしがわたしだとも知らず通り過ぎるのを待っている筈だわ。


 だが、彼との思惑は天地の差ほどあるのだ。両者の距離が近づくにつれて緊張が激しくなっていた。上りきる数段を残したときだった、彼女は堪え切れず呼び掛けた。それは、溢れる女の思いの丈を伝えたい一心からだった。 


 尾藤・・さん、あなた・・ 

 尾藤さんでしょう。昔の面影があるわ。

 堰を切った流水の如く訊く。その心中は待ちに待った彼であってほしいという願いなのだろう。こころから逢いたいと思う尾藤本人だと確証するもやはり一抹の不安がある、それを押し切って問い質さねばという心境なのであろうか。

 思いも寄らぬ事の展開に茫然とする男。

「あなたの左の目の下にホクロがあるわ、尾藤さんですよね、おかえりなさい」


 心を奮い立たせ問う彼女の真剣な眼つき、瞳は潤んでいた。この今、言葉が詰まれば喉元を引き裂いてでも女の思いの丈を晒すのだと必死だった。彼が尾藤ならば、約束を履行すべく私に逢いに来たならば、私は、わたしは霞んだ青春を取り戻せる恋路に終止符を打てる。と心していたのであろう。この今、彼女は命がけなのである。未来を拓く一世一代の色気を秘めて迫る彼女なのであった。



 道を譲るべく待つ彼は度肝どぎもを抜かれた。軽く会釈を交わし素通りする筈の女性からわが名を呼ばれては驚くのは当然だろう。まして薄暗い所で呼ばれたのだ。彼にしてみれば、まったくの想定外で思いも寄らぬ突然の出来事なのである。茫然自失ぼうぜんじしつに陥る彼の思考は止まる。

 気を取り直し女性の顔を見定める、が解らずにいた。まったく見覚えはなかった。彼は考えた。俺の名を訊き質す女性は、年老いたこの俺を俺だと見抜いているのだ。見抜いた上でのアタックなのだ。俺を見知っていて、声をかけてくる女性と言えば、俺が探し求めるあの彼女しかいない。さすれば彼女の記憶の内に年相応の俺が存在していたのだ。しからばこの女性こそ探し求める彼女であると思った。



 彼女は誘う・・

「すぐ、すぐそこだから」

 言うが早く、尾藤の手を掴み引く。せかすように石段を降り、道玄坂へ通じる脇道へと連れて行くのだった。女性の黒髪には一輪のカトレア、尾藤の手にもカトレアの花束。それは、いうなれば両者が示し合わずとも彼らの関係を証明する割符わりふであり、暗黙の合い言葉であるのだ。尾藤は閃いた。彼女は本気で俺を待っていたのだと強く確信した。


 ここよ。覚えている? 懐かしいでしょう。

 なるほど、直ぐ其処そこだと言う彼女の言葉どおりだった。店は石段を下る途中から道玄坂へと通じる中ほどにあった。目印の岩壁は夕刻の雨に濡れて街灯りを弾き返す海ボタルのようにきらめいている。

 これだ、ここだと懐かしくって目映く感じた。岩壁に埋め込まれる店名を視ると「枯れ木星」、書体は疲弊した心を癒す温かさを感じさせる書体だった。だが、枯れ木星と小声で反芻するもなぜかしっくりこないのだった。輝く岩壁は記憶があるが表記されるこの店名は全く記憶がない。腑に落ちないのである。


 あの日俺は深酔いしていた、それは確かだ。だからといって店名を確かめずに店に入ることは無い。如何に酔っていようとも店構えと店名とを確かめた上で決める。そして相性が合いそうならば入店するというのが俺の流儀だ。あの夜は今宵と同じく雨上がりの晩だった。近隣のネオン光が濡れた岩壁に弾き返される光のグラデーションに惚れた。店名は枯れ木星ではなく「スターダストだった」と思うが、確かな店名を思い出せなかった。


 俺が逢いに来た女性はワヒネ。

 あなたはワヒネか、と確かめようとした時だった。店内に入るように促され、確かめるチャンスを削がれた。

「今夜はもう閉めてあるのよ。だから、誰も来ないわ」



 天井に埋め込まれたスポットライト、壁際の間接照明の灯りが心を酔わせ落ち着いた雰囲気に胸騒ぎを思う。カウンターへと促され腰高な丸椅子に腰を下した。彼女は飾り棚の引き出しからコースターを取り出すとカウンターに置いた。オンザ・ロック・グラスの一つに砕いた氷を入れバーボンを注いだ。そして自分用にスイート・ベルモットを並べて置くと小皿に盛り付けたカナッペを差し出した。


 そうだわ。オレンジビタースをワン・ダッシュだったわ。

 どう?私の記憶、すごいでしょう。


 あぁ、その通りだ。IWハーパー その通りだ。バーボンは俺が好むウイスキーだ、俺の好みを覚えていたワヒネに魅了された尾藤である。琥珀色のバーボンが解ける氷に馴染む色合が美しい。互いのグラスを合わせ見詰め合った。


 手作りのレザークラフトのコースターだろうか、コースターの中央はコルク、美しい仕上がりだと感じた。バーボンはコーンの風味と共に強い刺激が口腔内を刺す。久し振りのバーボンの薫りを堪能しつつ視線を壁に移したときだった。


 なぜ此処に、どうしてここにあるのだと驚いた。壁に埋め込まれたガラスケースの中に見覚えのあるカマカが飾ってあったのだ。彼のこころはそのカマカに吸い寄せられていた。近寄って凝視した。すると糸巻きの中央にKの文字を縦に連結した金色文字のロゴマーク。そして、そのロゴマークの脇にT・Bとイニシャルが書き込まれていた。やはり俺のカマカだ、イニシャルは俺がサインした。彼は棒立ちになった。やはり、彼女はワヒネだ。ワヒネは笑みを絶やさず尾藤を見詰めていた。



 ウクレレを見て思い出したのね、尾藤さん。

 わたし・・ ワヒネよ。

 ワヒネ! やはり、あなたはワヒネ。

 そう、わたし、ワヒネ。やっと思い出してくれたのね。尾藤さん。あなたがわたしに預けたこのコンサート・ウクレレ、此処に来る客の誰一人として触れさていないわ。私の大切な宝物なのだから。


 ショーケースを開錠しカマカを手にした尾藤は爪弾いた。爪弾く音の響きに眼を見開いて言った。「調律が出来ているね。しかも音程と音色が実に爽やかで素晴らしい」

 なんとピッチが正確に調律されていたのだ。すると彼女は楽器の手入れと調律、そして弾き方を専門家に教えてもらい、閉店後に弾いていたという。そして、開店前の一時間ほどスピーカーの傍にウクレレを置き、音楽を聞かせていたというのだ。道理で鋭い音ながらもナイロン弦の柔らかな音色が快く響く。


 マホガニーで造られたボディの光沢は昔のままだ。いや、それに増して音色が、かつて俺が弾いていた頃より暖かく包まれる澄んだ音色になっている。尾藤はワヒネに感謝を思った。手渡されたカマカを握る彼の左指はコードを覚えていた。だが爪弾く指が弦に馴染まず違和感があった。指の腹の脂っ気が抜けてしっくりしないのだった。尾藤は年老いた具合だろうかと思った。

「これを使って、指を暖めるといいわ」ワヒネが温かなお絞りを差し出した。お絞りで指先を温めて爪弾くと指先の腹に吸い付いてくる弦の感触を懐かしく思った。が、コードを押さえる指に食い込む弦の硬さに懐古を思った。



 あのねぇ、尾藤さん。そのコースター私が作ったのよ。もう、三十年以上も前になるかなぁ。

 唐突にレザークラフト教室に通い作ったのだと言い出した。そして、このコースターを使うのはこの今、この時が初めてだと言うのだ。彼はカマカをカウンターに置くとコースターを手にした。ぶ厚い牛皮革で作られたコースター、中央はコルクが薄く張られている。本体は地味な色で染色されていた。コースターに付着した水滴を拭うと英文字で刻印された文字に目を見張った。なんとTakashi Bitou Whom I Love と刻印してあるのだ。ひと文字一文字に心を込めてハンマーを打つ痕跡を感じる作品だった。刻印された文字を指先でなぞる尾藤の心のひだは感動のあまりに涙が滲んでいた。コースターを手にして言う。


「素晴らしい、素敵な出来合いです。ありがとう・・とても素敵です。」

 そして尋ねる。「結婚は・・」「いいえ・・」黒髪の左側に挿す一輪を指差しながら答えた。結婚していなかった。この俺を待っていてくれたと心が浮き立った。

 でも、母親になった娘がいるわ。


 結婚はしていないが母親になった娘がいる。と静かな声で答えた。それを聞くと一瞬目がくらんだ。彼女は美人ママだ。世の男共がこれほどの美人を放っておくわけがない。結婚はしたが離婚したと解釈すれば理解できるものの喉が一瞬にして乾ききった。語り合う言葉が途切れた静寂の中で両者は沈黙に身を任せている。複雑な想いが脳裏を彷徨い始めた。


 彼の視線がワヒネの黒髪を改めて捉えた。黒髪の左側に挿すカトレアの花。黒髪の左側に花を挿す意味とは・・・ そうだ、そうだった。独身だが愛する彼氏がいるというサインだと思い出した。彼氏との間に娘を授かるも結婚せず未婚の母となった。そして私には心に想う恋人がいる、私には愛する彼氏がいる。という宣言、意味なのだ。


 ワヒネは緊張を隠した声で語り始めた。世の中って不思議だというのだ。それはどういうことかと訊き返すと仲の良いご夫婦にも児を授からぬご夫婦がおられる。お二人がどれほど不妊治療を施されても授からないのにわたしは、好きに成りかけたお方との一度のご縁で娘を授かった。だから、不思議だとワヒネは答えたのである。尾藤が尋ねた・・

 その後、その方とは? 気になる核心を突く。


 すると、ワヒネの表情が一変した。温和な表情が一瞬にして消え去ると鋭い目つきで威迫してきた。尾藤はたじろいだ。触れてはならぬ領域に触れてしまったのかと後悔の念が全身を貫いていた。


 彼が尋ね意図するところは別れた相手とのその後の関係だ。尾藤のもっとも気になる核心を彼は尋ねたのだ。それを確かめるべく「その後その方とは・・・」と娘の父親である人物との関係を尋ねたのが気に障ったのだろう、と解釈した。だが、なぜ彼女は激怒するのか理解できずにいた。意に反した彼女の変貌ぶりに困惑を覚えた時だった、太腿にえぐられる激痛が走り尾藤は悲鳴を上げた。


 いきなり抓るとは酷いじゃぁないか。激痛を堪え太腿をさする尾藤の手にワヒネは手を重ねてきた。まじまじとワヒネを見詰める尾藤に哀愁を帯びた笑みを返すワヒネ。すると彼女は身を寄せてきたのである。あっけにとられた尾藤はハッとした。


 そうか。そうだったのか。

 彼は激痛を知って気付いたのだった。彼女の娘の父親とは俺だと気付いたのだった。我に返った尾藤は、なんと長い年月を、彼女の貴重な人生を余白にしてしまった。すまないとワヒネの肩を引き寄せると黒髪にキスをする。そして思う。あの時、期待と不安とを伴う恋の成就をなぜ求め尽さなかったのかと悔やんだ。しかし過ぎ去りし日のときめくこころの再現など、時を経たこの今、再現など出来やしない。どれほど神仏に願っても過ぎ去った歳月を元に戻して遣り直すことなどできやしない。この今、この今より新たな人生を共に歩む決意を示し合い誓うこと以外にないのである。


「愛している」

「わたしもよ」

 抱き合う二人は心を溶かし合っていた。彼は彼女の黒髪に指を絡めてキスをする。紅潮するワヒネの両頬を両手で包んだ。黒髪に顔を押し付けては唇で愛撫する。二人の他に誰もいない親密な空間なのだ。昔日の過ぎ去りし一夜の再燃をかもす息遣いはハーモニーとなり激しくなる息遣いが充満している。互いに互いの温もりを与え合い奪い合う彼らの抱擁は恋心を求め合うのではなく枯渇していた恋を恋の一片を奮い立たせ甦らせるのだった。それは休火山が前触れもなく噴火するに似て地底奥深くに蓄積する恋のマグマが一気に噴火し爆発し心の内外を余すことなく晒し合う激しい恋の息遣いであった。


 ★★★


 グラスに残るチンザノを自らのバーボンと混ぜ合わせ二つに分けた。「分かるかい。マンハッタンだ」このカクテルこの一口が恋の成就となり愛を誓うのだと同意を求めた。誓い合うグラスをかざすワヒネは目を細めて語り始めた。


「ねぇ、口の悪い常連さんたちの間でネ、わたしは蓑虫さんと仇名されているのよ。うふ・・ メスの蓑虫は樹木の外皮を使って、そう、おうちを造るの。で、おうちの中に籠ってね、好い人の来るのを唯ひたすら待っているの。だから、わたし・・・ 蓑虫さんと仇名された。うまく言い当てているわ。」と目線を下げて言う。それは明るく振る舞う仕草のなかに愛の存在を垣間見せていた。


 蓑虫、蓑虫さん・・か。他人の目とは鋭いものだ。客は彼女の心情を見抜ききった上で比喩していると思った。ワヒネを抱き寄せ「本当に済まない事をした、許してほしい。」と懇願した。彼女は屈託のない好い客に恵まれていると思った。


 府に落ちぬ疑問がひとつあった。その疑問とは店の名だった。入口の小さな看板は「木枯らし星」だ。この店名は、まったく記憶になかった。当時の店名は確か・・「スターダスト」だったと記憶していた。この疑問を尋ねた。すると、「そうよ。その通りだわ。記憶力は良いのね。でも、気づくのが遅いわ」と語気を強めて言う。彼女は店名を改めた理由を、いつ訊いてくるのだ。と待ちかねていたとおどけた声で言いつつグラスをかざし、店名を改めた訳を語り始めた。


 やはり彼の記憶通りスターダストだったという。昔日の夜、彼がふらりと入ってきたあの時の店名はスターダストだったのだ。彼の記憶は間違いではなかった。正しかったのだ。ワヒネは続ける。


 あなたと逢って五年後のある日のことでした。ママが病気を理由に引退したいと切り出した。ママはこの店を買い取ってほしい。買い取ることが出来ぬならば廃業し、他人に譲渡したその金で療養に専念したい、店舗を買い取ってくれないかと持ち掛けてきたのだった。唐突な話だったが彼女は躊躇なく買い取ったのだと語った。


 オーナーから売却話を持ち掛けられたときワヒネは焦っていた。それは、若し、自分がこの店を買い取らねば他人の手に渡る。そうとなれば尾藤との再会は不可能だ。初めて会ったときから、わたしはあなたを生涯の伴侶、夫と決めていたその夢が悲恋と化し消えてしまう。というのである。私にこの店を買い取ってくれというママの配慮に感謝したワヒネは躊躇なく買い取っていたのだった。銀行から借りた借金は既に返し終えている。借金の完済と同時に店名を「木枯らし星」と改めた。


 外装は当時のままを維持する補修をした。それはあなたを忘れないために、そしてあなたが迷わず、わたしの店に辿り着けるようにと外装を変えずに補修した。そして店名を変えたのは、敢えて暗黙の了解である合言葉を意味する店名にしたのだと言い切った。


 ワヒネは唐突にいう。私たちの間でのみ知る暗黙の了解である「木枯らし星」という言葉の意味を覚えているかと尋ねてきた。外装を変えずに店名だけを「木枯らし星」と改名した意図を貴方は知っている筈だと投げかけた。だが、問われるも尾藤は答えられなかった。何を根拠にわたしは知っている筈だというのか、どれほど考えても解らずであった。するとワヒネは、「木枯らしの・・ 」と詠いだした。


『木枯らしの秋の夜空を飾る星 散り散る想い枝々の間に・・・』


 この短歌は貴方の腕を枕に貴方を見詰めていたとき、あなたが詠ってくれたのよ。ねえ、覚えておられるでしょ、わたし二度三度と繰り返し聴くうちに、私のこころは柔らかく溶け出していたのよ。だから、わたしのこころはあなたの怯えている心を包んだわ。そしてね、それがわたしの胸のなかに宿った。


 短歌は枯渇寸前の私のこころを潤し癒してくれたの。

 遅くにひとりぼっちでアパートの部屋にいても、この歌を口ずさむと寒い部屋が暖かくなって、あなたがわたしを包むように抱きしめてくれる感覚に入れたわ。わたしは夢心地になれて仕合わせな私に戻れた。わたしにはあなたがいる。そう想うと心強かったわ。店を買い取った時、決めたわ。「木枯らし星」と。


 一年、三年とあなたが迎えに来るのを待った。でも、あなたは姿を現さなかった。なんの連絡もしてこなかった。とても寂しかったわ。その頃よ、お客様の誘いに乗らない私を不思議に思う人がいた。その方は奥様とご一緒に来てくれる信頼できる人だった。わたし、その方の奥様と友達になれたわ、親身になってわたしの相談相手になってくれたの。だからその奥様にあなたの事を話した。すると奥様はね微笑みながら仰ってくださったわ。蓑虫みたいね、あなたは・・みのむしさん。


 でも、わたし、からかわれてはいないと思った。子供の頃、垣根の枝にぶら下がる蓑虫を沢山見ていたから、意味はすぐに理解したわ。その奥様との出会いが無ければお店を買い取る勇気はなかった。


 あなたには退っ引きならぬ事情があった。この事はわたししっかり理解していたわ。だからわたしへの恋心を排斥してまでも、頑なに己の意思を優先せざるを得ない事情をあなたは抱え込んでいたのでしょう。木枯らしに吹かれ、寒さに震えながら星の明かりの下で、孤独に耐えて意志を貫くあなたを想うとき、二人に共通する合言葉とは「木枯らし星」。わたしの元に還ってきたときのランドマークとなる合言葉は、これだと決めたわ。だからネ わたし、店名にしたのだという。


 遠い昔、俺がワヒネに捧げた短歌を、覚えていてくれたと尾藤は感激した。ワヒネは続ける。 


 貴方は言ったわ。都会の空に空はない。見上げても空とは言えぬ汚れた空間があるだけ、夜空にまたたく星らを観たくとも視えない。秋から冬へと季が移るころ木枯らしが暴れる、木々らは厳冬に備えて葉を落とせば木々の隙間より星々が見える。星の瞬きの下で我らの心は癒されて、迷う心を支えてくれて、苦難や苦境から抜け出す手助けをしてくれる。

 星々はこう言うだろう、ほかに行くべく道はないのか、もう一度考えろ、考えるのだと、悩むわれらに勇気を与えてくれる。そして、そう、僕らの愛を支えてくれる、恋するこころに宿る愛を貫く信念を励ましてくれるのが星々の瞬きなのです。この先、僕らはどこにいようとも、必ずこころの奥深くに輝く星々がいるのだよ。と、わたしを諭すように話してくれた貴方はこの短歌を覚えているかと訊いてきた。


 勿論覚えている、と答えてしまった。ワヒネの侘しらなる声の響きに心が揺れていたからだった。おんなの成熟したワヒネの声の響きに並々ならぬ苦労を思うと思わず覚えている、と答えてしまったのだった。これは失態である。更につい先のあの失態をも恥じた。一夜を共に過ごした仲だと言うのに、互いに互いの身体をむさぼり合った仲だと言うのに、こうして再会できたというのにワヒネを即座に思い出せずにいたそのことだった。彼女を愛しく思うこころに宿る年若き日の面影だけを生甲斐としていた自分を恥ずかしく思った。



 彼は一夜の刹那に自身の数奇な境遇の全てを話していたのだ。ワヒネはもがき苦しむ尾藤の話を聞きながら涙ぐみ彼の決意を理解した。そして無事に解決をと願った。そして、そしてその決意が成就した証にわたしを迎えに来てください。わたしはあなたを信じられる人だと感じています。


 翌朝、朝早くに「わたしはあなたへの愛を育てたいのです。」と書き残し先に帰っていた。以後、互いに連絡をせず逢瀬を楽しむ事はなかった。


 それなのにゴールポストが視えない三十余年という歳月が流れるとは想いもよらなかった。それでも彼女は信じ続けていた。若き日の一夜に交わし合った男女の約束は決して偽りではないと一途に思い続けていたのであった。


 尾藤とて初めて会ったワヒネを愛おしく思っていた。一夜の語り合いは濃密だった。刹那であっても固く愛を誓い合った男女の愛の要の意味するところを二人は忘れてはいなかった。

 だからこそ、梨のつぶてのまま放っては置けぬ。だが、やらねばならぬことを放棄出来ぬと尾藤は葛藤しつつだったのである。そしてこの日、彼は時遅くも良心に従い彼女の待つ渋谷へと戻ってきたのだった。


 ただし、若し、彼女が結婚していたならば、吾がこころに宿す彼女への愛は残愛とし、打ち明けることなく、彼女の前から立ち去ろうと決意していた。それは一夜限りの大人の遊び相手だったとすればよいことだ。そうであれば彼女のこころの中に居残る俺はいないと考えるからである。だが、しかしだ。万が一にも俺を待っていたとしたら、いや、その様な奇特な女が今時いやしまいが、万人に一人もいないだろうと覚悟していたのだが、その万人に一人のワヒネは待っていたのだった。



 常連客に蓑虫さんとあだ名を付されるほど彼女は常連客に愛されていた。常連客のこころの深さは量らずとも身に染みた筈だ。職業柄誘惑の多い環境の中で現実の誘惑に溺れることなく、尾藤への愛を祖とした恋心を頑なに貫き続けたワヒネのこころ。それはワヒネ自身にとっても新たな発見だった。周囲に対しても彼女は頑なほど身持ちがよいという証になる仇名である。先の見えぬ不確かな愛を貫く女に俺は値するのだろうかと彼は思う。その迷う心を押しのけた彼はワヒネのこころに応えるべく心を決めた。彼はこの先如何なる事態になろうとも彼女への愛の証となる行動を余すことなく、偽りの無い真情を捧げ尽かさねばなるまいと心を強く固めたのだった。



 白ワインに薬草や香料を配合して造られたベルモット。この酒は不思議な風味をかもす食前酒。ベルモットを人の生涯に重ねてみればまさにワヒネのこころはスイート・ベルモットのようであった。チンザノの風味を意中の彼への愛の糧として守り抜いた彼女は、凛とした愛のかたちを秘める不思議な女だと思った。



 尾藤さん! 

 それは悲鳴に近い大声だった。突然の声に驚く彼は身構える。彼女自身も自ら発したものの彼の驚き様に目を丸くした。高ぶる緊張を制御できなかったのだ。


 彼らは無言で見つめ合う。言葉を交わさずに唯々ひたすらに見詰め合う。この今、生涯においてたった一度限りの青春という享楽を空白のまま過ごしてしまった後悔を埋めるべく、時を巻き戻す静寂に包まれている。

 ときめく鼓動は恋する心の振動音と化し愛する心と融合し未知への一歩となる演奏が始まった。不安と安堵とが複雑に入り交ざり女の丈という旋律が重なり心を激しく揺さぶる。喜びを醸し、時には不安に貶める旋律を繰り返しつつ休符号の織りなす静寂の真っただ中で次なるハーモニーの展開を二人は期待していた。


 ねぇ。尾藤さん。

 第一音の旋律はアルトの音域から奏された。

 わたし、あなたと過ごした・・あの夜のことを、忘れてはいないわ。


 語り始めながらワヒネは自らのグラスにチンザノを注ぎ足すと、「あなたは私にとって、初めての人なの。そして・・あなたは、最後の人」と・・・アダージョ、落ち着いた口調で始まる楽章を奏でるのだった。


 初めての人で最後の人と告白され、目を細くして頷く彼はワヒネの旋律にハーモニーを重ねる。

 カウンターの端に置いていた花束を引き寄せる尾藤のはぎこちない仕草で差し出した。彼女の音程が一オクターブ上がった。

 お花、お花でしょう。彼女は私に下さるのかと訊いた。勿論、君に捧げるために用意してきたと答える。あら、カトレアだわ。私にくださるの。


 そう、君のために、いや、僕らのためだよとワヒネの黒髪に挿す花を指さしながら答えた。ワヒネは小さくうなずき花束にキスをした。そして黒髪に挿すカトレアを指差すと言った。貴方が愛している花、私も愛しているの。わたしは貴方が教えて下さった思い出を・・と口を開いた。


 カトレアの花言葉には、ワヒネと源氏名を名乗る私と相通じるものがあると貴方は言ったわ。わたし、調べてみた。「優美な女性、魔力、成熟した魅力」って本に書いてあった。あの頃の私・・にはどれも当てはまらないと感じた。あなたは、わたしをからかっていると思った。


 貴方と初めてお会いしたあの頃の・・わたしは田舎から出てきて間もない頃だった。田舎の皆は誰もが素朴で良い人ばっかりだった。友達と連れ立って東京に出てきた私は事務の仕事に就いたのだけれど、その会社が倒産してしまった。失業した私は新たな仕事を探していた時、ここのママと知り合った。次の仕事先を見つけるまでで良いから店を手伝ってくれないか。とママが誘ってくれた、と笑顔を作り言う。事務員の収入は生活するだけで目一杯だった。それでも私は少ない給金から僅かずつ蓄えていた。でも、その蓄えは直ぐに底をつくだろうと思っていた。それが恐かった私はママの誘いに応じてここで働いたの。


 田舎育ちの私は、お客様の目に素朴に映ったのね。どのお客様も私にやさしく接してくれて私が嫌がることなどせず店に通ってきてくれた。そんなある日、珍しく誰一人も客が来ない、このままお茶を引くのかと思う間際に一見のお客様がお店に来たの。その人が貴方よ。尾藤さん。貴方よ。


 若い客だからとママに言われて私が貴方のお相手をした。あの日、貴方の目は輝いていたわ。でも、その輝く瞳の奥底に何かに恐れているこころが視えた。あなたのこころの内側を窺い知る事など出来ないまでも、何かに恐れをなしている、脅え切っていると田舎育ちの私にでも伝わってきたわ。

 あなたがバーボンのロックを飲むときの目は、遠くの獲物を探し見る鋭い眼だった。優しい眼差しと鋭い目つきとが交互に現れる度に貴方の目頭に涙が滲んでいたわ。二杯目のバーボンを一口含むとビタース、そうオレンジビタースを垂らしてくれ、と言われたけど、初めて耳にしたビタースという言葉の意味が私には解からなかった。だからママに訊いたわ。ママは棚から小さな小瓶を取り出して渡してくれた。オレンジビタースの扱い方を教わり、教えられた通りに一振り注いで差し上げたら、貴方はわたしの目をみつめて、わたしから目を逸らすことなくこう言ったわ。「悪酔いしないように薬用酒をワン・ダッシュするのです」と仰った。そして、貴方は続けて言ったの。


 僕は酒が好きだが一度に多くは飲まない。なぜなら、酒は人格を破壊する毒と化し醜態を晒す。多くの友人が醜態を晒す醜さを僕は知っている。その醜態は罪のない無関係な周囲の人々を困らせ、愛する人を困らせること他ならない。過ぎたる酔いとは、わが身を滅ぼすのです。遠い昔、ギリシャの全能の神ゼウスの子供、酒の神バッカス。そのバッカスがぶどうを栽培し、葡萄から酒を作る術を編み出した。バッカスは人々に酔いがもたらす快さ、こころの和みを教えてくれた。酒は希望をもたらす飲み物だと我らに酒を与えてくれた。


 一日の労働から解放された夜に、疲弊した心身を癒すべくバッカスは我らへ葡萄酒を与えてくれた。さらに葡萄酒は寂しがり屋の我々に語らう場の仲介をしてくれる。友人らとの語らうことの楽しさを促進させてくれた。勿論、名も知らぬ偶然居合わせた隣人らとの語らいをも周知の友になれと仲介してくれた。


 この今、あなたと語らいながら楽しめる酒に僕は喜びを思う・・ 酒の神バッカスにどれほどの人々が癒されたことか。酒を通じてどれほど友好を深めただろうか。酒こそ神よりのお恵みといえる。


 しかし、バッカスは酒に二面性のあることを隠していたのです。過度な飲酒がもたらす弊害は恐ろしい事なのです。それは自暴自棄に陥っているときの飲酒、大切な隣人との不仲を思いながらの飲酒は己という己の人格を抹殺し自分の主張のみを正当化し相手をどの様に抹殺するかを探るのです、そうして吾がこころを悪魔へと変身させてしまう毒液だという事実を隠していたのです。


 だから僕は思う。だから僕はネ、悲しむ時や人を憎むときには酒は飲まない様に心がけていた。けれども、僕の心は弱いものだった。今、こうして貴方を前にして毒液を飲んでいるのだから、僕の意志は非力だと思う。こんな僕を、笑ってもいい、僕を見下しても良い。と初めて会った私の膝にあなたは顔を埋めて、あなたは泣いていたの。貴方の身体が震えていてね、その震えは地鳴りのように私の太腿からわたしのこころへと伝わってきたわ。わたしの膝から私の心の中へ奥深く染み込んで来たの。暫くすると私の太腿はあなたの涙で湿ってきたのよ。


 あなたの涙は温かかったわ。わたし、初めて会ったあなただけれども、わたし、は、貴方を放っておけないと思った。そのように感じたこと、この様に思ったことはわたし、わたし生まれて初めての体験だった。

 わたし・・ネ、異性に対する初めての感情は憐れむこころだったわ。ワヒネは往時を描くように語り続けた。


 あなたの動揺ぶりに接して思ったことは甚大な憎悪、出来事、う~ん?禍かな、禍がこの今も貴方の心の奥底に襲っているのだと察したの。あなたの真情を訊けなかったけど、ずっと気になっていたのよ。そんなあなたが、辛い時には酒を飲まないように心がけているあなたが、その貴方が一度に沢山のお酒を飲まざるを得ない訳が・・、強い意志と戦う葛藤から苦悩を生むのであれば訊かずにしてあげようと思った。私の膝に男のあなたが隠れて男泣きする貴方を愛おしく感じた。わたしの膝の上で貴方を心置き無く泣かせてあげようと思っていたと告白した。


 カウンターの内にいたママは、わたしたちの様子を察してか店の鍵を私に託して先に帰って行った。あのママがそう云う事するのは初めてだった。きっと貴方のこころを、人柄を透かし視ることを出来るのだと思う。それは三十余年を経た今、こうして再会できたことが、いいえ、あなたがわたしを迎えにきてくれた今日と云うこの今を、貴方の人柄を読み違えていなかったという証だわ。その証は、あなたがわたしにくださるカトレア。わたしの髪にも、ほうら、こうして一輪いつも身に着けていたの。これはいつ迎えられても貴方についていく覚悟の証しなのよ。



 ハワイ語でワヒネとは女性を意味し妻という意味もあるとおっしゃった。そして、あなたはわたしと生涯添い遂げたい、妻にしたいと言ってくれたわ。そしてね。カトレアの花言葉には優美な女性、そしてね、成熟した魅力と魔力でしょ。だから寂しいときや疲弊した心を癒すのよ、こころに響く地熱のような温かさがあるの。だから、わたし、そういう女に成りたいとおもった。わたしは貴方の言葉を信じていたわ。私はあなたの心を支える女に成りたい一心で今日まで頑張って生きてきた。わたしってね、あなたを・・信じて・・・生きてきたの。高揚する感情を抑えることなく、往時の心情の全てを曝け出す彼女は女の思いの丈を激白する。


 貴史・・・もう・・・・

 わたしを独りにしないでください!

 何処にも行かないでください!  


 今日から一緒にいられるのね。本気だと思っていいのね・・


 今日までの三十余年もの間、恋するも反応が無かった恋心を終焉とすべく、愛の境地へいざなうべく女は女の思いの丈を投げた。彼への想いは時を経て成熟していたのだ。肩を引き寄せられ、導かれるままに恋と愛とを通わせ確かめ合った。ワヒネの心情を裏切らぬと力を込めて肩を抱き黒髪へ顔を埋めて応えた。香しい黒髪のなかで息遣いは次第に激しさを増す。

 見つめ合い触れ合うことが全ての過去を許諾する証と信じて彼らの恋は終焉した。この刹那、それまでの悲恋は消え無償の愛を捧げあう愛の境地が確立したのだ。彼らの抱擁は彼らの成熟したこころとこころとが溶け合う真の愛の形なのである。


 愛する女の髪に埋もれる尾藤は我を忘れた。

「もう、どこにもいかない、君を離すもんか」

 恋い焦がれる尾藤に抱かれ仕合わせに浸るワヒネ。この悦びを金輪際手放したくないとワヒネは思った。尾藤に抱かれながら、かつて彼が語った言葉の一言がふと過ぎった。それは二面性があると言っていた酒のことだった。


 酒は人のこころを癒し朗らかにし身体の疲れをほぐします。社会に於ける人と人とのこころを繋ぐ潤滑油という効用をもたらす絆ですと語っていた。その潤滑油であるべき酒が牙を剥き、彼の家族に襲ってきた、と全身を震わせ語っていた尾藤の姿を思い起こしていた。


 ★★★ ★


 貴史、あの事件は残酷な事件です。妹さん、そしてお父様の命を奪った憎き男を警察が捜していると、あの日あなたは話されていました。警察が彼を確保する前にあなた自身の手で犯人を追い詰めたい、その容疑者を自らの手で捕らえて決着をと強い意志を抱いていたのでしょう。その容疑者とは妹さんが通う大学の先輩でしたね。お父様ともよく話をされていて・・・ ですから・・さぞかし複雑な感情が貴方のこころを揺るがしたと思っています。その男とあなたとは面識があり、その人物をあなたは快く思っていた。ですから妹さんの先輩の犯行だと信じ切れず呆然とされたとお話されていました。


 そうです、その通りです。

 尾藤はグラスにアイスキューブを足すと天井を見上げた。ワヒネは記憶を辿りながら思い起こしていた。彼の数奇な過去があったからこそ私たちは出逢えた。彼に不運が、甚大な不幸が彼に、彼のご家族に襲ったからこそ、私へ幸運が廻り来たという二面性があった。これが禍福は糾える縄の如しということなのだろうか。この相反するは神の悪戯か、或は運命かと思うのだった。


 尾藤が口を開いた。その容疑者とは妹が恋慕する男でしたと語り始めた。

 妹さんが恋い慕う男が・・ 三人もの命を奪った経緯を聴いていたのだがワヒネの記憶は薄れていた。ただ・・そこに、おぼろげに酒が絡んでいたというキーワードだけが、こころへ焼きつき覚えていた。

 彼はバーボンで唇を湿らして天井を見上げる表情は巡る苦悩を見せまいとする表情があった。天井を見遣る目尻には情感を堪える涙が滲んでいた。


 暫しの沈黙を経て語り始めた。

 妹は、僅か二十三年・・ たった二十三年という時間しか生きられなかった。そう話す声は震え声だった。妹は愛した男の手によって生涯を絶たれ、妹が抱く夢は無残にも恋した男に命と共に絶たれてしまった。幼い頃から夢見ていた妹の宿望は絶たれた。僕は妹の夢と希望とを同時に奪った男が憎かった。


 僕は妹と父母との墓前で奴を引きずり出すと誓ったのです。あいつの生家へ行き奴のご両親に会った。奴の子供の頃の様子や性格を両親に尋ねた。奴は男ばかりの五人兄弟の末っ子だった。

 ご両親の話では歳老いて授かった男の子だったと言う。四男と奴とは七年の歳の差があり、長男との差は十五年も離れている。家族の皆が猫の子を可愛がるように接して育ててしまったと母親が話してくれた。

 怒られると叱られるとの違いが理解できない子だった。啓二が欲しがる物はなんでも与えてしまった。幼い頃、啓二は興味を示すそれが自分の物にならなければ暴れる始末でした。兄たちが手にする物を欲しがれば、兄たちに我慢させたのです。私たちは末っ子の可愛さに負けてしまった。啓二を諭すように叱っても怒られていると思い込む子供になっていたのです。ですから私らが息子の性格をゆがめてしまったのだと思います。今更ですが、どれほど後悔をしても謝りきれません。と啓二の母が涙を流して語ってくれたのです。


 他の人が大事にしている物は、それがたとえ壊れていても、その人にとって思い出のある尊い宝物なのです。その宝物は心の支えとなるのですから、相手のこころを思い遣る心遣いは大切な事だと教えなかった。

 勝手気儘な言動は避けなければなりません。社会の中で生きる為には何と言われようとも、我慢せねばならぬときがあるのだと教えなかった。たとえ、己の我慢が、相手を思い遣るこころが、相手に気付かれなくとも良いのだ。お前が他人を思い遣るこころを常に心がけることが大切であり、それを契機にやがて信頼が生まれ育つのだと教えなかった。


 今、想えば、それが仇となり、私らへ返ってきたのだと思います。啓二の父親が涙を流しながらその様に話してくれた。年老いた奴のご両親がひれ伏して謝ってくれたのです。

 しかし、人は虚言を言う。肉親や愛する人をかばうために、あえて虚言を真実だとして証言することがあるのです。犯しやすい誤った愛なのです。


 僕は、このご両親は息子を庇っているのではと思いましたが、違いました。しかし、ことの真意を見抜くことは容易いことではないのです。が、この親御さんから真摯なこころを感じたのです。決して虚言を言わないご両親だと僕は感じ取ったのです。彼らはこころの優しいご両親だと、真摯な心を宿されているご両親だとこころから思いました。このご夫婦とならうまい酒を交わせると思いました。その日の夜、僕は東京に戻った。


 ★★★ ★★


 気がつくと渋谷の街をさ迷い歩いていました。あの啓二という男は僕にとって憎き男です。妹を、父を殺して母に重傷を負わせた男だ。この俺の手で事実を知り、時代錯誤だと思うけれど仇を成したいと思って奴の両親に会って来ましたが、悪魔を生んだ親でも、あのご両親を憎むことなど出来やしない。彼らには何ら罪はない、親に罪はない。

 彼らは罪を犯したわが子に代わり、ひれ伏して謝罪をする親を目の当たりにした僕のこころは揺れました。息子の性格を歪めたまま育ててしまったと、ご両親はその罪を悔いていた。だが奴は許せない。許せないが、俺のこの手で奴を殺めれば、かの親に複雑な思いをさせてしまうだろう。その様に考え始めた僕は、僕は葛藤し始めていたのです。

 気がつくとあなたの膝の上で悩む僕がいたのです。君の膝は温かかった。君の膝は僕のこころを温めてくれたよ。あの啓二のご両親のこころのように温かかく、君の心遣いがありがたかった、とワヒネの手を握り締めた。ワヒネは頬笑みを絶やさず頷いている。


 僕は僕の母親のぬくもりを知らないと言い出した。突然の言葉に彼女は驚いた。僕は僕を産んでくれた実母の温もりを僕は知らない。僕は孤児だったのです。唐突に自分は孤児であると告白したのである。

 今思うと、何処のだれの子とも判らぬ僕を引き取り育てるという友愛なこころをありがたかったです。しかも大学までも面倒を見て戴いたのですから、ご恩ある育ての両親にいつの日にかに、ご恩返しを、いつか、きっと、ご恩返しをするのだと常々考えていたと語った。



 彼は大学を卒業すると東京の商社に入社した。配属先は関西支社だった。彼は語る。

 父母が卒業祝いと就職祝いとを兼ねて居酒屋で祝って戴きました。それは、贅沢を思うほどの料理で励ましてくれたのです。これでお前も大人の仲間入りだ。いつの日にかに男同士の議論を交わし合いたい。その日の来ることを心待ちしている、と言ってくれたのです。そして、自分は子供の頃から絵を描くことが好きで芸大を目指していたという話をこの日初めて耳にしました。その日家族全員で人生や将来について語り合った。僕はこの日この時の時の流れが速すぎると思った。時計の針をどれほど憎らしく思ったことか。それでも沢山の話題を語り合え、充実したひと時を家族と共に過ごせたと感謝したのです。初めて家族揃って飲み交わした酒は嬉しい酒だった。


 帰り道でのことでした。妹は父に進学の相談事を持ちかけた。すると父は母と私に先に帰るようにといい二人は喫茶店に入って行った。


 母と二人して帰宅する帰り道でした。母が私へ伝えたいことがあると切り出してきました。母は遅くなってすまないと口火を切り語ってくれました。

 母が語るには生後間もない僕は孤児院の玄関前に毛布一枚で包まれていたという事でした。赤ん坊の身元を明かすものは何もなく、ただ、水天宮様のお守りをひとつ身につけていただけでした。施設や警察でも産みの母親の行方を追うが手掛かりはありませんでした。実母にはよほどの事情があったのだろうと思います。実母に会いたいと思うこともあった。しかし、もう、私は大人。実母とてよほどの事情を抱え込み、悩んだ末の事でしょうから、探し出し問い詰めたりしたくありません。私は育ててくれた両親を実の父母だと思っています。ですからお母さん、お父さん意外に私の親はいません。



 尾藤が関西支社の独身寮に入寮してから五年目のある日のことだった。突然、東京の警察から事件の知らせを受けた尾藤は動揺した。電話口で知らせを受けただけで詳しい状況は何も分からず、ともかく駆けつけなければと急ぎ上京した。東京駅からタクシーで所轄の警察の玄関にたどり着いたのが二十三時を回っていた。警察の受付で担当の刑事の名を告げると二人の刑事が出迎えた。定年間近を思わせる目つきの鋭い男と若い小太り気味の男だった。殺風景な部屋に案内され事の説明を受けたが、家族の二人を一夜のうちに失い、母親が重体だと言う理不尽な事件を知らされ、精神状態はどん底に追い込まれていた。差し出された茶を飲む気になれず、口内が乾ききった粘りを堪えながら話を聴いたという。遺体は病院の霊安室に安置されている、身元確認をして呉れといわれた。


 病院に着くと案内された霊安室は地下にあった。霊安室へ通じる廊下を歩む乾ききった無機質な靴音は一歩一歩と近づくに連れて一層不安を煽りくるのでした。霊安室の前に立つと僕は極度の緊張からか鳥肌が立っているのが解るのです。


 彼は手を合わせながら思った、父と妹がこの部屋に・・・いるのか、と周囲の者に届かぬ声を漏らしていた。病院の職員が扉を開ける音と共に線香の匂いが漂って来た。白い布で覆われた父と妹とが眠ると思しきベッドが並んでいた。彼は一礼しつつも人違いであってほしいと願った。


 合掌し終えた刑事は躊躇なく白布を静かに引き上げた。蛍光灯に晒された遺体は確かに父だった。父は誰彼の区別なく仁徳あふれる白狼の如く人々と接していました。死した父の死に顔は精悍を失せていました。妹は恐怖におののく無残な姿だった。二人の遺体に接しても僕は涙することはなかった。父と妹はどれ程の恐怖に怯えながら殺されたのだろうと思うと、無念の感に感情を失っていたのです。遺体は間違いなく父と妹ですと刑事に告げました。


 自宅は当分の間、現場保存だと告げられ立ち入り禁止だという。母は別の病院に搬送されていました。母の証言から妹と付き合っていた啓二を重要参考人として緊急手配したと聞かされました。なぜ、なぜ彼が犯行に及んだのかと思いました。ただ想い返せば昨年の正月休みに帰郷したとき、妹は彼氏が出来て付き合っている、明日彼氏を自宅に招待するから是非会ってくれないかと言う笑顔が脳裏に蘇ります。


 僕は母の退院を待って葬儀をと考えましたが、退院には三ヶ月ほどの治療を要するとの診断でした。先ずは霊を迷わせてはならぬと母の希望で内々に葬儀の準備を進めることにし、遺体を斎場の霊安室に移送してくれる業者の紹介を頼むと快く承諾してくれた。


 葬儀を終えて三ヶ月後に母親は退院した。母一人での生活は困難です、僕は六か月の休職願いと同時に東京本社へ転勤願いを出しました。

 母の介護の合間を見て啓二の両親に会って話を聴いてきました。この上はないと云う事件を犯した奴の親だ、親も勝手気儘に振る舞う奴らだろうと思っていたのですが、違いました。僕は途轍もない心得ちがいをしていたのです。あの方たちはとても良い方たちだった。

 呼び鈴を押すと父親が出迎えてくれました、彼に訪問の目的、身元を明かすと彼は全身を震わせ瞬時に顔面蒼白になりました。息子が犯した事件の家族だと知ると彼の目は瞬く間に潤み始めました。彼は僕の手を包むように握り、震える声で話すのです。彼は息子が犯した罪の重さを謝罪してくれました。同時にとんでもない息子に育ててしまったと自責の念に駆られているのです。


 僕を応接間へと案内すると一旦奥へ引っ込んだのです。それは息子たちを呼び寄せるようにと奥さんに連絡させていたのでした。間もなく兄弟が次々と集まってきた。兄弟は近所に居を構えていたのです。その一人一人が連れ添う奥さんまでを連れてきたのですから僕は驚いた。そしてその方々が次々に弟の犯した罪を謝罪したのです。そして、若し、啓二が此処へ来たならば首根っこに縄をつけて警察へ連れてゆくと誓って呉れたのです。



 情感を堪えながら語る尾藤の手をワヒネは握り包んだ。啓二の父親は自身の言動さえ厳格を課す人物だった、と尾藤は感じとっていた。両親の証言を得て背景の一端を知った。

 さらに知りたいと母の介護の合間に多くの人に会って訊きあさった。その中には妹の素行を悪く言う者もいた。聞きたくない話もあった。それらの証言も貴重な証言だと思い多くの情報を集めた。勿論小学校の同級生までも訊きあさった。それらから得た情報を礎に奴と対峙する。対峙すれば当然奴は自己弁護に明け暮れることだと思う。当然奴は己の正当性を貫くため虚言を吐き連ねるだろう。

 啓二が学生だった頃の考え方、奴の価値観は自己中心的な言動ばかりだった。奴は欲しいものを目の前にした時、己の欲望を満たすべく巧みな話術を使うようになっていたとの証言も得ていた。これも奴の父親の言うとおりだった。恐らく同年代の相手ならば高確率で奴の術中にはめてしまうほど、それは巧みだったと元友人の男から証言を得た。その彼は奴の話を信じたゆえに煮えたぎる油を幾度も幾度も飲まされていたという。


 人を疑うということを知らぬ妹は、交際相手が仮面を剥げば悪魔だとは思いもよらなかったのだと思います。見抜けぬ妹は仮面を被る啓二に一目惚れしていたと言うから当然だったのでしょう。啓二は学費稼ぎにホストクラブでバイトをしていたことを突き止め、ホスト仲間から啓二の評判を訊きだしたとき愕然としました。


 若さと甘いマスクを武器に女性客を翻弄していたという。まったく、ひどいものだった。嘘八百を並べ立て、女性客らから金品をせしめることをやっていたというのだ。だまし取った金を元手に株投資の資金とし利ザヤを得ていたとの証言を得たとき愕然としたという。株投資自体悪くはない、悪くはないが、その投資資金の調達の方法が悪い、と彼は語った。

 株主は株価変動における差益を追求するものではない。例えば企業が新たな商品の開発を立案したとき、その事業資金の必要を世の投資家へ呼びかけ、その計画に賛同した投資家が企業へ資金援助をする、それが本来の株主のあり方だと思う。事業資金を元手に企業が計画を実行し営業利益が出たときに株主へと配当する。本来株式とはそういう目的で考えられたものだと尾藤は思っている。しかし、現代での投資家は企業を育てることなど毛頭考えてはいない。金を以って短期に利ザヤを追求する、金が金を生むのだという認識しかない者が多いと思う。金銭欲に溺れる啓二もその口なのだった。



 娘が交際する相手を連れて来れば両親は好意的な応対をしたと思う。ごく普通の男であれば交際に反対する理由などないですからね。当人同士が気に入っているのですから容認するでしょう。

 母が話してくれました。妹に紹介された男の印象は愛想の好い人と思ったようです。ですが半年ほど過ぎた頃でした、彼の服装や装飾品に変化が見られたというのです。学生だというのに高級品を身につけていると父が不思議がっていたと母が話してくれました。


 着衣や装飾品のことを父が尋ねたそうです、すると株に興味を持ち運用してその利益で買ったと答えたそうです。父はその運用資金の出所や株を運用する理念を尋ねたようです。彼の考える理念とは短期運用、利ザヤを追い求めるというものでした。啓二は熱弁したそうです。

 父は自分の理念と異なる考え方を理解したく思ったのでしょう、父は興味を持って啓二と語り合ったそうです。父は短期運用も長期運用もそれなりの理があると理解したそうです。ですがね、話が投資資金の元手、資金の捻出に及んだとき彼は当初バイトで得た金を引き当てたというのですが、それにしては元手に対する利ザヤが大きすぎる、バイトで貯蓄した運用資金だというが、どう考えても見合わない。そこで父はバイトとはどういう職種かを問う話になったようです。次第に奴は返答に窮したのでしょう、父が納得できる説明ができず、父に追い込まれたのです。まさか、ホストクラブへ通う女性から巻き上げた金を資金にしたとは言えず、啓二は返答に窮した筈だと尾藤は語った。その日はそれで終わったそうです。


 その晩、父は啓二の人間性を感じたままに彼の資質について妹に話したそうです。彼の物の考え方に、言動に危険がある。つまり、自己中心的な言動が多くて信用できない。彼との将来を考えるなら相応な覚悟をするようにと諭したようです。妹は悩んだと思います、惚れた相手の表面しか見えていなかったでしょうから、彼の心のありか、生き様を父から知らされた妹は彼の言動に細心の注意を払ったようです。すると父の評価に錯誤はなかった、恋に溺れることなく彼を観察したと母に話したようです。ですから妹は将来を考えた末に決別をしたと聞きました。妹をだますのは容易いことだろう。しかし、父の目はだませやしないのだと尾藤は語った。


 その三か月後のことでした。一旦引き下がったはずの啓二が問題を起こし始めたのです。妹から別れ話を切り出され、一旦承諾したものの、引き下がったはずの奴は付きまとい始めたのです。そう、ストーカーです。デートに費やした金を返せとか無理難題を突き付けてきたのです。その都度父は追い返しました、警察にも相談に行きました。警察官が接近禁止を警告すべく出向いた先に啓二は住んでいませんでした。

 それは、あくどい投資家に騙され、大金を失ったと推測できます。啓二は卑怯な株価操作を企てる投資家と親密な関係にあったと証言を得ていましたからね。彼らは意図して株価操作を企てては利ザヤを得ていたのです。そのような奴らに啓二はまんまとだまされ丸裸にされた。金の亡者の彼らにとって、啓二の有り金すべてを騙し取ることなど赤子の手をひねるようなものだったのでしょう。


 交際が断絶に至ったのは父の差し金からだと邪推したのでしょう。さらに株の師と仰ぐ者から騙され財産を失ったことの恨みとが重なり、精神的に経済的にダメージを受けたと思います。となれば、恐らく、取れる処から取ってやろうとしたのだと思います。啓二は夜遅くに押しかけ家にずかずか上がり込んだのです。父との言い争いが始まりました。妹が警察に電話をしようとした時でした、奴は登山ナイフで父、妹、そして母を襲い逃走したのです。母の証言では奴の吐息に強烈な酒の匂いがしていたと言っていました。尾藤は此処まで一気に語ると深いため息を吐いた。ワヒネは尾藤の肩に身体の全てを預け寄せていた。


 尾藤は事件後の数年の間に啓二と縁のあった多くの人々から貴重な証言を更に収集していた。その証言は啓二と対峙するその時に奴を追い込むことが出来る。司法の力を借りず自らの手において裁くのだ、この手で仇を討つのだと決意をしていたからだった。ワヒネは彼の太腿に手を置くと問うた・・



 あなたは神の存在を信じますか。

 唐突な質問だった。いきなり神を信じるか、と尋ねられ尾藤はあっけに取られた。この場にあって話のつじつまが合わない。ではなぜ神を信じるかと問うのだろう、信心深いのかと思った。彼は尋ねた。

 あなたはクリスチャン?

 いいえ、クリスチャンではありません。

 どこかの、宗教の・・・信者ですか?

 いいえ。


 では、神との出会いがなかったとしたならば、あなたの、今はありますかと問い返した。すると彼女は即座に答えた。

 神様との出会いがなければ、わたしは、私はこの世にいないでしょう。即答したのだ。


 神の存在を信じるワヒネ。神との出会いがなかったならばこの今、この世に、自分は存在していない。と断言するワヒネ。宗教家でもないワヒネの崇拝する神とは・・・その神の存在とは・・、考えるも解らなかった。不意な質問に戸惑いつつ考えた。どれほど考えても、解らない・・


 ワヒネは答えた。

「かみさまは・・ あなたよ」と、答えたのだった

「このわたしが・・・ 神様だ・と・・」ワヒネは続ける。


 わたしは、あなたとのご縁で娘を授かった。あなたの子を宿したことを知った時、不思議な感覚が漂って来て安らぐ心を感じたの。おなかに宿る子はあなたとわたしとを引き寄せる神様の子だとおもったわ。いつの日にかに、私たちを迎えに来てくださる。と信じることが生甲斐となって三十余年という歳月を娘と共に生きてきました。

 私が朽ちることなく生きてこられた訳の一つがあなたの娘を授かったことだった。わたしは決心したわ、神様の娘の存在を糧としたとき、わたしの心の核心に御座すあなたを想う根源となった。悩めるとき貴方の存在が神の声となってわたしを励まし勇気を与えてくれた。

 そう、神様のようにお姿を隠して弱気な私のこころを神様が支えてくれたの。だから、だから、将来を見失うことなく今日を迎えることができ、わたしはあなたを待つ運命を自ら背負うことを選んだの。


 お店へ通う常連客から蓑虫ママと呼ばれることは、私にとってなんら辛くはなかった。むしろ、蓑虫ママと名付けたお客様は優しいこころを持つお方なのだと感謝を思ったわ。

 彼らはつり銭を受け取らなかった、僅かだが何かの足しにという心遣いが三十余年も続いているのだと語った。戴いたつり銭は貯めてあるという。月に一度、小さな箱から取り出しては郵便局へ預金したその金額が一千万円を超えた。

 あのね、尾藤さん、わたし、貴方という神様に出逢えなかったら、わたし、私は今日まで生き抜くことは出来なかった。わたしにとってあなたは神さまなの・・・だから、わたしはあなたを信じた。わたしが想う神様との出逢いが無かったなら、わたしは恐らくこの世にいない、とワヒネは語ったのである。


 さらに語る。世の恋人たちは愛おしさを心に秘めて逢瀬を楽しみ恋に挑むわ。恋の成就を得て愛の神様のご加護を得るの。でも、わたしにはこころときめく逢瀬は無かった。私には恋の神様からのご加護は無かったけれど、愛の神様が芯柱となってわたしの胸の中に宿っている。あなたへの愛を捨ててはならぬと励ます神様の声が聞こえたのよ。

 恋するときめきはなくとも、愛の種子が育っているのだ、お前は種子から愛の花を育て結実させるのだと・・愛の神様は私を諭しつつ苦労を架してくださった。だから私はあなたへの愛を捧げるべく身命を賭けたの。


 神様は難癖をつけてはわたしを悩ましてきた。この今思うと、それらはこの今を耐えて未来を信じ生き抜けという私への試練だったわ。きっと、神様があなたとわが子への愛の深さを試されていたのだと思う。だから軽はずみな言動と決断だけは避けられた。


 ワヒネが見入る視線の先には、かつて尾藤が愛用していたカマカが在った。彼女が恋した男の大切な楽器を身近に置くことで尾藤への愛の絆を断ち切ることなく繋ぎ止めていたのであろう。そして、愛する娘のために苦難を耐えてきたのだろう。それは荒波の中で彷徨う船旅であったと思う。荒れ狂う航海は辛くて恐怖の連続であったはず、甘い言葉を耳元でささやく悪魔にすがりたいときもあった筈だ。彷徨うとき彼女は社会に潜む様々な神々によって翻弄されたはずだ。それらの体験を経たからこそ魅力ある女性の風貌が備わったのだろう。


 彼女は女の思いの丈を彼に投げた。彼女自身まったく意図せぬ内に、女の、思いの丈を叫んだのだった。


 尾藤さん。もう・・・ わたしの傍にいて欲しい

 何処にも行かないでほしいの、わたしの傍に、いて欲しい・・・

 これ以上、一人で暮らすつらい試練など、もう・・たくさんだわ

 寂しくて、寂しくて苦しい試練なんか、もう・・嫌、いやだぁ・・

 寂しさを、耐える試練、この先、もう、耐えたくないわ。


 泣き叫ぶ顔は崩れ、流れる涙を拭いもせずすがりつくワヒネの肩を強く引き寄せる尾藤の表情は崩れ、むせび泣く声で語り始めた。


 あの男を捜すも居場所、立ち回り先さえ突き止めることは出来なかった。若しあの男と出くわしたならば、啓二と出くわしたその時、あの啓二を、雄叫びを挙げて殺してしまう覚悟が過日に有るにはあった。父と妹そして母の仇を討つためにです。奴を追い始めた当初、私はそういう覚悟をしていました。


 だが、しかし、僕は、その後の僕は、司法の力によって拘束される。いかにあだ討ちであると主張しても、現代の法の下では通らない話。通らない話だと解かっていても、奴を引きずり出したかった。この今思う事は、探しきれなかったのは、たぶん、君の考える神様の思惑、神様のご加護があったからこそだと思うのです。なぜならば、僕が奴を殺せば君が望む、いや我らが望む我らの将来が、司法の力によって引き離され閉ざされる。それは、われらの人生をわたしが自ら放棄することを選択する、と考えたからです。君との将来を考えるならば、仇討を諦めるべき、です。


 昨年のある日の事です、どこからともなくあなたとの平安を選択せよ。と命令する声が聞こえました。驚いた僕は、辺りを見回しました、誰もいませんでした。これは、そう、恐らく、ワヒネ、君が言う神様の御心なのでしょう。


 この決断は・・・ 決断を、思えば・・ 遅すぎる決断でした。貴女と再び巡り合えたこの今、願うことは君の願いと同じです。僕はあなたに誓います、この今、怨念を消し去ることとしたい。奴を追い求めることに終止符を打つこととします。

 彼は誓った。貴女の希望はわたしの希望でもあると、ワヒネを抱く腕に力を込めた。

「正直なところ絶望に抗う君の姿を想像していなかった。僕は・・頑なで、ききわけのない子供のようだった、いや、子供でした。本当に、僕は愚かだった」と詫びるのだった。「これからは、日々一日を我らの生涯と思います。


 君を、だれよりも愛しています。愛しているよ」強く抱きしめた。ワヒネの身体から伝わりくる心地よい体温は温かい。尾藤は彼女の温みを感じつつ口走る。「俺はこれまで自分の事しか考えていなかった。こんな俺でもけなげに待っていてくれたおんなを、この女の体温を二度と失いたくない、俺はバカだった」と駄々をこねる子供のようにすがりついていた。


 愛の絹糸は切れてはいなかった。二人を結ぶ絹の糸、愛を紡ぐ絹糸はか細くもしなやかに絡み合う。愛している。愛しているわと互いに告白し合い、反応し合った。彼は絡み合って言葉で伝えなければ紡いだ糸が解けてしまうと口走っているのである。

 ワヒネとて同じだ。激白する愛を逃すまいと無心に応えた。激しく混ざり合う鼓動は祭り太鼓の如く全身に響き渡り、愛の脈動は磯辺に打ち寄せる波音のように留まらない。この今、成すことは、恋の成就に言葉などいらぬ、久遠の愛を確かめ合うのだと恋心をさらけ出すのだと肌を合わせた。愛の成就へ誘い誘われた者同士が悲恋の余白を埋め合う形なのだ。ワヒネは問い詰めることなく恋から愛の存在を見いだすと受け入れた。神様はこの私に人生の伴侶を返してくれた。神の御心をこころから感謝するワヒネは肌で実感しているのであった。



 彼女は信じられぬ永い歳月を待っていてくれた、と感謝しつつ決してやり直すことのできぬ昔日を顧みていた。家族の命を奪った憎き奴、妹の元恋人であった啓二を深追いし過ぎていたそのことだった。あの日、彼は疲弊した心と身体を癒そうと立ち寄った先でワヒネと出会った。一見客であるにもかかわらず親身に酒の相手をしてくれたワヒネ。彼女は彼の心情を察してか、でしゃばることなくこころの相手をしてくれた。そのこころ遣いが嬉しかったと顧みていた。そして、初めての情交でワヒネは俺の子供を宿していた。子供は女の子で既に結婚し一児の母親になっていると知った。そうだ、我が子に逢ってみたいものだと思った。しかし、娘に逢いたいと願っても、大手を振って逢える訳が無い。わたしが自分の娘だと認識していても、相手は既に一児の母親になっているのだ。何をいまさらと俺を見下すに違いない。娘の、彼女の言い分は当然だと尾藤は思った。逢えないのかと思った時だった。彼の心を察したのかワヒネが口を開いた。


 もう娘は一人の子を持つ母親です。娘は私のこころの中に貴方と言う人が宿っていて、この世の中のどこかにいることは知っているわ。

 それは、僕の存在を承知尽くしているということですか。

 うん、私には、あなたと言う人がいるということは承知しているわ。でも・・・

 でもと言いかけたが喉元で止めた。

 彼女は言いかけた言葉を飲み込み一呼吸したのちに語り始めた。


 そう、娘が幼稚園に通い始めてから間もなくのことだったわ。娘はわたしの袖を引っ張ると涙目をして訊いて来たの。友達にはどの子の家にもお母さんとお父さんとがいるのに、わたしのお家にはどうしてお父さんがいないの。と訊かれたことがあったのよ。幼い子供に大人の恋を話し聞かせたとしても到底理解できないと思った。だから、貴方のことを少し湾曲して話し聞かせていたのだと語った。


 わたしは貴方への恋するこころを忘れてはいない。

 あなたへの愛を捨て去ることもしない。

 この気持ちを幼い娘にどう説明すればいいの。わたしは分からない。分からなかったわ。初めて出会った男に恋をして、その日の内にあなたを授かったなどとは、とても言えない。でも、いずれ詳しく話さねばならない。そう考えていたから、娘が初恋をしたそのときに女同士の話として聞かせたという。

 全てを曲げぬままに事実だけを話聞かせていたというのだった。


 娘が父親のいない訳を訊いてきたのはそれっきりだった。娘は自分に父親がいないのだと思い込んでしまったのね。それ以来あなたの事を聞かぬままに彼女は大人になって私の手元から離れた。

 大学を卒業すると貿易会社に就職して二年目頃だった。娘が初めて男の人を連れてここに来た。その人は堂々としていて立派な男だった。いけしゃーしゃぁとした顔で娘はいきなり、わたし、この人にプロポーズされたのというのよ。


 わたしは驚いたわ。なんの前触れも無く、唐突にプロポーズした相手だと紹介されたのだから呆気にとられたわ。さらに言うの。お母さんこの人を知っているか、と真顔でいうものだから知る訳が無いと答えるとね・・・


 先日はありがとうございました。娘の彼氏が礼を言うのが解せなかった。初対面の私になぜ礼を云うのだろう、理解できなかった。が、見覚えがないと思っていた彼氏の顔をまじまじ視て思い出したの、わたしは驚いた。

 彼はそう、一ヶ月前に独りで客として店に来ていた一見のお客様だったわ。独りで来た彼はカウンターに腰を下ろすとバーボンをダブルでロックでと注文していたことを思い出した。お酒をつくる間中、私から目を逸らさず頬笑んでいた。一見客だったけれど、やさしそうな方だとわたしのこころに焼きついた。それは、あなたとの面影に重なったからだと思う、だから枯れそうであった私のこころへ深く焼きついた。でも、一見のお客様に好感を得るも、こういう人が娘の相手だったらば、というほどの好感だったわ。本当よ。


 娘の彼氏が話す間合い声色には感じ入るものがあった。相手を気遣いつつ言葉を選び使うのよ、歳の割には似合わない枯れた話し方に違和感はなかった。礼儀を心得た方だったと思い出したわ。

 そう、この人が恵理の未来のだんな様なの。わが娘は男を視る目があるぞと目配せをしたら、娘はニヤリ笑って、わたしってね、お母さん似なのよ。にやけていたわ。

 恵理・・ あなたの娘の名よ。孫娘は柴乃というの。娘と孫娘の名を聞く尾藤は目を細めていた。


 ワヒネは続ける。

 そんな事があってから一週間後の朝だった。早朝、部屋の掃除をし終えてのんびりしていたときだった。娘がいまから彼氏を連れてそっちへ行く、わたしの返事も聞かずに勝手に電話を切ってしまった。まったく、こちらの都合も聞かずに自分勝手なものだと思ったわ。



 娘はそれから二か月後の秋に入籍を済ませると、シカゴへ赴任する彼と行ってしまった。フランクリン・パークという町に五年間の予定だった。娘たちが、なぜ式を挙げずに入籍を急いでいたのかと不思議に思った。それを問うと彼にシカゴへの赴任話があったからだと答えてきた。なるほどそのような事情があったのか。そういうことならば入籍を急ぐのは分かると理解したのだった。だが彼らが入籍を急ぐ深刻な訳がもうひとつあった。彼の赴任話と同時期に彼の子供を宿していたのだった。彼らは結婚を前提に付き合っていたし、まあ、現代ではごく自然な成り行きで当然のことだ。それらを契機に急ぎ入籍したのだったというのが事実だった。


 シカゴでの生活、異国での生活は大変だったと思う。娘は言葉も解らずにシカゴでの生活をし始めた。そして半年後に孫が生まれたと娘から知らせが届いた。生まれた子は女の子。おかぁさんにとても良く似た女の子だと写真を添えて手紙をよこした。まだ命名前の赤ん坊の写真を眺めるワヒネは溢れる嬉しさと同時にとても寂しさを覚えたという。わが娘が孫娘を産んだというのに、逢う事もできぬ遠い異国にいる娘に、よくぞがんばったとわが娘を抱きしめることもままならぬ遠い異国の地。


 娘はワヒネの心を察してか泣き言の一言も言わず不慣れな異国で初孫を育て上げた。子供って凄いと言う。孫娘は近所の子供らと遊ぶうちに英語を覚えてしまった。一児の母となった娘の恵理はいまだに片言なのに・・ 

 その孫娘にボーイフレンドが出来たと話すワヒネの口元がほころびている。

 ワヒネは娘の話をし終えると突然黙りこくった。マンハッタンを一気に飲み干すと氷を揺すり回し始めた。ロックグラスの淵に当たる音は哀愁を帯びる音だった。グラスの中でくるくる回す氷を目で追い音に聴き入るワヒネ、無心に耽っているならば邪魔立てをせずにしておこうと尾藤は思いマンハッタンを飲みながら待つこととした。ワヒネは虚空を見詰めている。


 尾藤は新しいグラスにアイスキューブを入れるとグラスの淵に当たる硬い音だけが部屋中に響く。マンハッタンを注ぎ分けレモンピールをし、その一つを差し出したが一瞥しただけで手を触れず沈黙を貫いている。グラスにまとう水滴がコースターを湿らすほど沈黙の時が流れゆく。見やる先の何を視ているのかと尾藤は気になった。彼女の鋭い視線は岩をも射抜く鋭い視線なのである。苦境に追い込まれた時もあっただろう。或いはわれらの行く末を見通しているのであろうか。


 あの日、俺はこの女と出会わなければ彼女は蓑虫にならず、他の男と仕合せな人生を送ったと思う。しかし、運命を思わせるあの一夜で彼女は俺の子供を身篭った。妊娠を知った時、彼女はどれほどの困惑を覚えたかと思う。見ず知らずの男の子供を宿してしまったと、どれほど悔やんだだろうことか。若さゆえだったと自責の念にかられただろう。宿した子を産むべきか堕胎すべきか、堕胎すべきか産むべきか。その決断は女の人生において重大な岐路に立たされたに違いない。俺はこの苦悩に立たされた彼女の心の内を想像すらできぬ。恐らく彼女は俺という男の無責任さに怒りを覚えたに違いない。

 彼女は涙眼をして自らを蓑虫さんと常連客から呼ばれていると話した。その姿に俺のこころは打ちのめされていた。俺の目をみつめる彼女の瞳に映っていた俺は老人顔だった。気づけば老いを感じるほど長い時間を俺は彼女を拘束していたという事だったのか・・と尾藤は再認識した。それだけに胸を貫く強烈な痛みが心に走るのを感じた。


 蓑虫という仇名で呼ぶ常連客の中には彼女を一夜の遊び相手として口説くために通う男もいたはず。交尾相手の飛来をひたすら待つ習性に喩えて、一夜の遊び相手だと名付けた仇名とも取れる。であれば、私が、私はワヒネのために重責を負わねばならない。汚名を晴らすべく蓑虫の蓑を剥ぎ取るのだ。と考えたとき高浜虚子の句を思い起こしていた。


「蓑虫の父よと鳴きて母もなし」

「蓑虫を養ふ記あり逝かれけり」

 私にはこの句の意味はわからない。だが解からぬまでも一抹の寂しい情景を詠む作者の心境が俺のこころを刺激する。


 彼女は俺の子供を産み育てることを選んだ。その決断は生涯に一度限りの青春を捨て去る覚悟の道を選んでいたのだ。この重大な決断は彼女にとって、若き日の彼女にとって過酷な道を歩むという決断であったはずだ。そして出産した娘はすでに一児の母親になってしまうほどの長い年月をおれは放っていたことになる。故に俺の罪は重いと思うのだった。一夜の俺との口約束を頑なに信じ、どこの誰ともわからぬ子を出産し、育て上げた彼女のこころを裏切ってはならないと彼は唇をかみしめ、ワヒネの脇に立った。自らの胸に手を当てて、わが罪を許諾してくれたワヒネに感謝を思いつつ彼女の脇に立った。



 どうしたの。話しかけるも黙りこくったままだった。彼女が見遣る視線の先を追った。彼には想像できぬ女の、女のこころの余白を解らずにいた。どうしたの、再度問いかけると彼女は唇を真一文字に引き締め睨んだ。唇を震わせ半泣き顔に頬笑むと尾藤の手を握ると豊満な胸へと導いた。それは窮地に陥った己から脱出を助けてくれと告げるサインのように思えた。涙目で見詰める半泣き顔に愛おしい女の色気を覚え抱き寄せようとしたその時だった。ワヒネの右手が尾藤の左頬を思いっきり打った。打った手を胸元に当てる彼女の表情は、涙であふれこれ以上崩れようがないほどグチャグチャだ。


 やっと・・逢えたわ。

 やっと・・あなたはわたしの元へ戻って来てくれた。

 あたたかいわあなたの身体・・・

 感じるわ。言いつつ身体を摺り寄せた。



 朝の訪れとともに濃紺色に覆う夜は西の空へと追いやられ西の彼方に居残る。神秘的な夜、その奥深くに月ではない小さな星が地平線際で威厳を放っている。早起きの野の鳥らはさえずり始めていた。都会を覆い始める朝の眩しい陽射しを浴びながら寄り添い歩く尾藤とワヒネの姿が在った。



 あの薄暗い路地でどうして僕だと判ったのかと尋ねた。

 すると、ワヒネは、あなたが今日ここに来てくれると神様のお告げがあったからよ。小声でおどける口振りだった。

 そうか、神様のお告げがねえ。僕には信じられないなぁ。

 ワヒネが高笑いした。「うっふ、それ、嘘よ。本当は、女の第六感よ」と言い直し、先の嘘を取り消した。昨夜偶然通りかけた駅前で若者に絡まれる男の声に聞き覚えがあった。誰だか判らなかったけれど聞き覚えのある声に引き寄せられたの。

 聞き覚えのある声色、しゃべり方に、もしやとピーンと来るものがあった。でね、人垣を掻き分けて覗いてみたら、やはりあなただったと話した。が、警察に電話をしたのは自分だとは言わずにいた。


 ほう、声で、判ったのか。

 そうよ、私ってね、音の記憶、すごいんだから・・

 あの様な事はこの街ではよくある光景だわ。そうそう、この先であなた若者に絡まれていたでしょう。

 些細なことを理由に理の通らぬ意地を争う愚かな人、この町では日常茶飯事なことだわ。でも、夕べは違った。その絡まれている人は珍しく凛としていた。だらしの無い服装の若者相手に少しも恐れる様子を見せず対峙する姿に、絡まれている人の声に感じるものがあったの。

 この声に不確かだけれど聴き覚えがあった。わたしは記憶の中にある声色の人物を探したわ。聴こえてくる言葉の端端に、声の響きに聴き覚えがあったの。あなたの横顔を見たそのとき、昔、わたしが恋したあなたとの面影が重なった。だから、きっとわたしを、わたしに逢いにきた、わたしを迎えにきたと思ったの。笑みを浮かべ答えたのだった。


 尾藤の胸中に込み上げる愛おしい感情が再燃した。愛おしさに背を押され尾藤はワヒネの肩を引き寄せ頬ずりをしたのだった。


 うふ・・痛いわ。

 あのう、一つ聞いてもいいかい。

 どんなこと・・

 僕を見掛けたとき、どうしてその場で待っていてくれなかったの、すぐに終わったのにさ。

 よく言うわね、私を何年も何十年も待たせたくせに、お返しよ。

 これはあなたへの仕返し、あなたを待たせたかったからよ、えっへ、女の意地よ。だけど・・わたし待てなかった・・探しに出てしまったわ・・

 肩を寄せ合える嬉しさを感じつつ道玄坂を下りハチ公像の前に来た。


 ★★★ ★★★


 夜明けの駅前広場の一角に大勢の外国人が集まっていた。彼らは皆が皆、楽しそうに微笑んでいる。こんなに朝早くに何処へ行くのだろうと、ワヒネが思ったときだった。集団の中から美しい女性が一歩前に出た。一歩前に出ると仲間を一瞥し大手を広げると深呼吸した次の瞬間、高らかに歌いだしたのだ。全神経を張り詰めて歌う彼女の声は確かな音程で歌う声は、まさに天使の声だった。透き通る歌声に、奥行きのある音の響きに二人は驚いた。彼女が歌う主旋律にハーモニーを併せる仲間が身体を揺らし歌い始めたのである。ハチ公前広場が一瞬のうちに小さな野外劇場と化した。外国人らが歌う旋律がアヴェ・マリアである事は直ぐに解った。彼らの演奏は教会の聖堂に響くハーモニーそのものだった。音と音とが響き合い、譜面に記されていない音の響きをかもしだす素晴らしい演奏なのである。その歌声はまさに天上から降りてくる天使の声だった。


 そうか、この音の響きが天使の声か。いや・・神の声だ。響き合う和音、譜面に記されぬ和音の響きの出現は心にしみる、これが神の声なのだと尾藤は感動した。


 思いがけぬ所で、思いもよらぬ外国人らの演奏を聴く事が出来たと二人して感動を分かち合った。夜が明け始めた忠犬ハチ公像前には大きな人垣が出来始めている。続いて「主よ人の望みの喜びよ」の演奏が始まった。聴衆のどの顔も驚嘆し、外国人グループの演奏を聴き入っていた。


 やがて彼らの演奏が終わった。早朝の渋谷駅前、忠犬ハチ公像前の広場には大勢の人垣が出来ていた。この場に集まった聴衆は、この今までどこに潜んでいたのかと思わせるほど多勢になっていた。大勢の人々が演奏の虜となっていた。彼らが歌い終わると大きな拍手が彼らへと贈られた。十名ほどの外国人たちは大きな拍手を受けると大きく手を振り応える笑顔が美しかった。この場に偶然に居合わせた幸運に、思いがけなく美しい音楽を聴けた喜びに皆満足気だった。聴衆らが感謝を込めた拍手は歓喜に満ち早朝のビルの谷間に響き渡った。


 ワヒネが行きましょうと促し尾藤の手を引いた。だが、彼は動かなかった。外国人らのコーラスに感動する余韻に浸っているのかと思った。が様子がおかしい。尾藤は立ち止まったまま微動だせず道玄坂下交差点の一角を凝視しているのである。どうしたのだろうとワヒネは怪訝に思った。声をかけた。


 どうしたの。

 促すも動かぬ彼に再度声を掛けてみた。

 なんと彼の身体は震えているではないか。尾藤の睨み視る先はスクランブル交差点の一角を凝視したまま、全身が小刻みに震えているのである。彼はこぶしを強く握り震えている。


 彼が震えている、遠くを見つめたまま震えている、彼の身にいったい何事が起こったのかと解らずにいた。訳も分からぬまま満身に力を籠めてしがみ付いた。どうしたの。口走る声は次第に叫び声になっていた。


 どうしたの・・どうしたの。

 ワヒネはこころを失っていた。目に見えぬが近づきくる恐怖におののいていた。ワヒネが発する声は甲高く歪んだ。彼の尋常でない形相を目の当たりにして、これはただ事ではないと本能が悟り怯えているのだ。尾藤が凝視する先はスクランブル交差点にあり、信号の変わるのを待つ一人の男を見据えていたのだ。ワヒネは正気に戻れと尾藤の頬を打った。


 ややして緊張した声で答えた。

 いるんだ。あいつが・・

 おれは視つけた。

 つい、さっき、俺の前を、俺の目の前を横切って行った。あいつが、あいつが・・ いるんだ。

 探し求めていたあいつが、すぐそこにいるんだよ。


 ワヒネは愕然とした。

 なんということだ。彼が追い求め探していたあの男がすぐ目の前に・・この今になってその姿を現すとは、なんという巡り会わせなのだろうか。


 啓二と言う人だったわね。

 そう、俺が捜し求めていた憎き啓二があそこに、俺の目の前を通って、今、あそこに立っている。なんてこったい!


 その声は野武士が戦いの出立を決意した如くであり,敵に追い詰められ行く手を阻まれ討死を覚悟する間際の如くであった。

 啓二がいると、事の事情を理解したワヒネの全身から血の気が失せた。茫然自失に陥った彼女の思考は止まった。ただ、ただ彼の腕を強く握り締める以外に為す術はなかった。この腕だけはなにがあっても離すまいと必死だった。


 あなた!

 だめよ・・・

 だめ!

 あの人の所に行かないで・・ください。

 お願いだから・・ 

 行かないで・・!

 尾藤の顔色が見る見るうちに蒼白になってゆく。ワヒネは脇目も振らず叫んだ。


 おねがいだから・・ここにいて・・あの人が見えなくなるまででいい、ここにいて、おねがいだから・・・

 追いかけないで、行かないで・・ください・・・・


 行かないでと懇願する彼女は必死な思いで尾藤の前に立ちふさがり尾藤の腕をきつく掴んだ。この先、如何なる事態に陥ろうとも決して離さぬ、やっと掴んだ仕合わせを逃すまいと懇願した。愛を交わし合える久遠の愛の境地を交わし合える彼の温もりを失いたくない、やっと取り戻したこの愛を失いたくない一心なのである。


 かつて彼女は尾藤との出会を転機に自ら暗黒劇を演ずることを選んだ。暗闇の中で人生を駆け回ることができたのは、わが心が捧げる灯を信じればこそだった。昨夜途方もない暗黒劇が終わり、奇跡ともいえる仕合わせを演じる幕を開けたばかりではないか。再び暗黒の舞台に立つのは嫌だ、真っ暗闇の中で女の生涯を演じる舞台に二度と立ちたくない。これからは、舞台の隅々まで見渡せる人生劇を彼と共に演じたい。私は仕合わせを掴んだのだ。だから、あの男の所へ行かせたくない。わたしがもし彼のこの手を放したら、もしもこの手が離れたら、もう、彼との仕合わせを二度と得ることはなくなる。


 ワヒネは思った。彼は長い年月をかけてあの男を追いかけていた。だからわたしの手を振り切って行くかもしれないと・・でも、あなたは言ったではないか、追うことを終わりにすると言ってくれたではないか。あなたはわたしに誓ったではないか。啓二という男が目前にいても、私を愛し、わたしを想うなら、私を愛しているのなら、自ら手を下していけないのよ。ワヒネは必死に制止するのである。啓二を追わないでほしいと願っているのだった。


 若し、私がこの手を放したら彼はあの男に駆け寄り、その場であの男を殺すかも知れない。それはだめ! 

 あなたは手を下してはならない。私刑だけは避けなければならないのよ。例え時効になっていても警察はあの啓二から事情聴取をするはず。だから、警察に任せるのよ。わたしを・・捨てないで・・見捨てないでください・・ 懇願するのだった。



 彼は平安な人生を送る為に捨てた怨念を捨て去らなければならない。恐らく彼は啓二を見つけた時、仇を打つべきかワヒネとの約束を守るべきかと迷ったはずだ。ワヒネを想う気持ちとの葛藤があったことだろう。尾藤が啓二を見つけたとき。彼の全身が震えていた事実を視ればわかる。信号が変われば奴はどこかへと消え去ってしまうのだ。この今、悠長に考える時間は無い。横断歩道の信号が赤色だ、尾藤は葛藤に悶えた。


 今なら間に合う、ワヒネはこの場から離れたいと尾藤の手を強く引く。車道の黄信号が点灯した、間もなく歩行者の信号は青に変わる。尾藤は衝動的に動いた。彼自身が気付かぬままに啓二らしき男のほうへ、無意識のうちに追いかけ始めてしまったのだ。ワヒネは引きずられても尾藤の行く手を阻止するのだと立ちはだかり叫ぶ。ワヒネは叫んだ・・・


 神様、わたしは・・あなたが憎い。

 あなたは昨夜私に仕合わせを与えてくれたでしょう。うれしかったわ・・

 でも、その舌の根が乾かぬうちにあなたは手の平を返した。

 なぜ、なぜに残酷な試練を私らに再び与えるのかぁ・・・

 再び暗黒劇を演じろと試練を架すのかぁ・・・

 ワヒネは神へ恨みを現す涙声で叫んだ。


 尾藤は叫ぶ。奴はまだスクランブル交差点の先にいるんだよ。

 この今、この今、絶好のチャンスを逃せない。俺の家族を殺したあの啓二を逃したくなぁい。この今奴をとっ捕まえなければ、奴を逃してしまう。もう、二度と合えないこの今だ。俺は奴を三十余年も追いかけ続けた。やっと今日、この今、啓二を見つけたんだ。このチャンスはもう、二度とないだろう。だから俺は奴を見逃せない。行かせてくれないか。


 力と力とが争えば男の力が勝る。尾藤はワヒネの手を振り切り啓二の後を追いかけ始めた。点灯する横断歩道の信号は点滅する黄色に変わった。交差店内の歩行者は早く渡りきらねばと駆け出している。掴む手を振り切った尾藤を追いかけるワヒネが走った。なんとしても彼を阻止しなければと必死に追いかけた。

 わたしとの新たな生活を大切にすると、約束すると、あなたは言ってくれたではないか。あなたは誓ったではないか。その約束を破るとは酷いではないか。滲む涙が飛び散るほどに走った。



 初めてふたりが出逢ったその刹那に芽生えた恋を愛の礎石とすれば、愛の種子は三十余年の歳月の眠りから目覚めたばかりではないか。目覚めた愛の命の続く限り、恋する心は悠久なる愛を育み二人の夢が叶うのだ。もしも、若しもこの今、愛する彼の暴走を阻止できなければ、再び暗黒劇を演じる舞台に戻されてしまう。されば切ない日々から脱する夢は儚く間に消え去ることだろう。それだけは、いやだ。絶対にいやだ、避けたい。髪を振り乱しワヒネは己に言い聞かせる。


 啓二の犯した罪はすでに時効が成立している。だから司法での拘束をと願っても司法の力は頼れないと話し合っていた。これは無慈悲にも明らかな事実なのである。万が一、彼が啓二に手を下したとすれば、それとは別に彼が司法の力で拘束され裁かれる。その様が彼女の目に視えるのだ。だから、何としてもこの今、何としても彼の暴走を阻止しなければならない。ワヒネはやっと掴みかけたこの仕合わせを失いたくないと黒髪を乱して走った。彼女は必死なのだ。


 啓二と思しき男は路地へと入っていた。後を追う尾藤。信号はすでに赤に変わりスクランブル交差点は車が入り込んでいる。数台のクラクションに追い立てられ渡り切った。渋谷駅周辺は前夜から夜っぴてたむろする若者らが目立つ。その彼らを掻き分けながら尾藤を追う。彼女は奇跡とも思える仕合わせの訪れを失いたくない。一心不乱で尾藤の後を追った。前方をゆく尾藤は男に着実に近づきつつあった。路地を抜け広い道路に出た。尾藤が男の姿をどうか見失って欲しいと願いつつ彼らの後を追った。しかし、その願いは神の御心に届かなかった。ワヒネの願いは叶わなかった。とうとう彼は男に追いついてしまった。既に彼は問い詰めている。



 啓二さん、久し振りだねぇ、意外なところで・・僕は貴史です。呼び止められた啓二、尾藤の顔をまじまじ見るも誰だかわからないでいた。

 えっ、どなたでしたっけ? 

 私ですよぅ貴史ですよ、啓二さん、いやだなぁ、僕の顔をわすれるなんて、ひどいじゃぁないですか。名乗る尾藤に記憶はないようだ。

 いやぁ、人違いではないでしょうか。

 わたしは啓二ではないです。


 どうか人違いであって欲しいと神にすがる思いで見守るワヒネ。

 尾藤の口調が変わった。語気を強め、威嚇する声色に変わった。

 あんたぁ。啓二だろう。


 いいえ。違います。


 啓二と思しき男の表情が引きつり緊張しているのがわかる。遠目に視ても怯えているとわかる。啓二と思しき彼の動きを視れば、未知なる展開に恐れをなす心の動揺を隠す素振りを感じた。彼はあくまでも人違いだと言い切っている。尾藤の背後に立つワヒネは手を合わせ、どうか間違いであるようにと願っていた。尾藤は更に詰め寄っている。彼が詰問する。


 尾藤美佐恵という名に・・記憶は無いか。語気を強めた口調だった。

 びとう みさえ・・記憶にはありません。即答する男の視線は虚空を泳いでいる。否定する男の声の変調をワヒネは見逃さなかった。あの人は嘘をついている・・彼は言い逃れようとしている・・ あぁ・・もう・・だめかもしれない。と観念した時だった。尾藤を視ると啓二から数歩下がっているではないか・・・数歩下がったところで彼が微笑んでいる。数歩下がった尾藤の様子にワヒネはホッとした。


 そうですか。記憶に・・ない。

 そうですかぁ・・人違いですかぁ・・

 尾藤がため息を吐く。暫しの沈黙の中で睨み合う視線を僅かに逸らした。尾藤のため息が聞こえた、その瞬間だった。啓二は安堵の表情を現わしたのをワヒネは見逃さなかった。

 笑みを浮かべたまま頭を下げ顔を上げると口を開いた。

 やはり・・人違いだったようです。

 これはどうも、私の思い違いのようで、申し訳ございません。


 謝罪を受ける男はホッとする表情を見せた。

 彼らのやり取りに立ち会うワヒネは胸を撫で下ろした。良かった。彼の思い違いだったわ。間違いでよかったと胸をなでおろした。だが彼は対峙する男の襟首をがっしり掴み睨んでいるのだ。つい先、外国人らの演奏に聴き入っていた穏やかな表情ではなく、この今、憎しみを込めた鬼面顔に変貌していた。更に尾藤は詰め寄る。


 嘘を言うな。啓二よ! 

 この俺がお前を見間違える筈が無い。その声は一里四方先まで響き渡るほどの声だった。さらに詰め寄る。


 三十余年前にお前と一二度会っただけだが俺はお前を一日たりとも忘れてはいないし、忘れやしない。あんたの右頬から顎にかけたアザに記憶があるんだよ。まだある、お前の左の手首から肘にかけて火傷の傷跡があるはずだ。火傷の傷はあんたが子供のころ、花火で負った火傷の傷跡があるとあんたの母親から聞いている。


 どうだ! 啓二よ! お前の手首に火傷の傷跡が無いのなら左腕をまくって自分は啓二でないことを証明するべきだ。

 ワヒネは驚いた。彼女は立ちすくんだ。眉を吊り上げ眼を剥き震えた。


「あんた。あんたなぁ、あんたは一体、誰だい」その声はドスを効かせた声だった。

 尾藤を睨み返す表情が明らかに崩れ始めていた。過去に犯した己の犯行が脳裏のなかで走馬灯のように巡っているのであろう。その表情に血の気が失せていた。顔面蒼白なのだ。

 解っているだろう。すでに俺が誰だか、何者であるか、お前には解かっている筈だ。


 やはり啓二は尾藤美佐恵という名を忘れてはいなかった。突然現れた見知らぬ男に、忘れる事の出来ぬ彼女の名を告げられ、心臓が止まる思いだったのだ。だが、目の前にいる男は一体誰なのかが判らなかったのである。しかしあの事件は既に時効だ。刑事罰で警察の者がこの俺を捜す筈が無い。だとすればこいつは誰だ。問い詰められた啓二はあれやこれや自問していた。

 この男は俺の名を知っている、なぜだ。なぜ手首に火傷痕のあることまで知っているのだ。つい口走ってしまった。

 ほう、自白したな。啓二。



 あんた、あんたなぁ、あんたぁ一体、誰だ。

 俺は美佐恵の、美佐恵は俺の妹だ。


 美佐恵の兄だと聞かされた啓二の瞳孔が広がった。恐怖におののく全身は血の気を失い青ざめた。美佐恵の兄だと宣告された啓二の脳裏に過ったのはおれは殺されるだった。啓二は詰め寄る男に殺されると思った。しかし、三十余年も経てどうして俺だと判ったのだろうかと不思議でならないでいた。あの当時の俺は二十代半ばだった。当時の俺と今の俺とでは風貌は異なっているはずだ。なぜ俺だと判ったのだろうか。啓二は不思議でならないのだった。


 彼らのやり取りに呆然とした。ワヒネは観念した。とうとう懸念していた事態になってしまったと肩を落とした。とうとう神のご加護を得られなかったと観念したのだった。この場に及んだ今、神を恨む気は失せていた。この場に於いて自分はどうすべきか考えた。なんとかせねばと理分けするもできずにいた。錯乱する状態の中では思考が全く働かないのである。働かぬ思考に鞭打ってワヒネは考えた。なにか、打つ手はないものかと考えをつくすのだった。


 閃いた。この今、対峙するこの二人を警察官が保護すればよいのだ。そうだ、それしかないと思った。警察が啓二を殺人犯として逮捕すること出来ないが任意でよいのだ。時効殺人の容疑で確保されて事情を聴取して欲しいと考えた。この願いが叶えば彼は啓二に手を下すことは出来ぬ筈だ。されば愛する彼の手は汚れないのだ。だから、そうとなれば私たちは一緒に暮らせる。ワヒネは携帯電話を取り出し事の次第を警察に通報すべく電話をかけた。


 呼び出し音が聞こえる。が、反応がない。遅い、繋がらない。早く電話口に出てほしいと願うワヒネは気が気でなかった。携帯を持つ手が震える。呼び出す音の音と音との隙間が長く感じる。全身の震えが止まらない。応答してきたならば事の事情を、どのように説明してよいのやら、説明するその言葉が浮かばない。ともかくこの場に警察官が来てくれればよいのだ。その後、詳しく説明をすればよいのだと腹をくくった。


 どれほど呼び出しただろうか、呼び出す音が消えているのに気付かないでいた。気が動転するあまりに警察官が問いかける応答する声が聞こえていなかったのだった。


「どうしましたか、もしもし」と落ち着いた声で尋ねていた。「事件ですか、事故ですか・・もしもし・・」

 我に返ったワヒネは怯えきった声でしゃべる。路上で二人が言い争っていると事の有様を告げ、一刻も早く来て欲しいと通報した。現場の位置を説明するも渋谷駅そば、ハチ公、向かい側の大きな交差点を渡ったその先の路地近く。どれも不明確で説明にならなかった。

 近くの建物の壁に住居表示があると指示されると探した。ビルの壁に表記される住所と店舗の名称を見つけると呂律が回らない口調で告げた。すると既に警察官をその場所に向かわせたと返答してきた。電話口で対応する警察官は通報者の名前を聞いてきた。争いごとに巻き込まれた主人の妻だと伝えると一応氏名を聞かせてくださいと言う。下山田京子ですと答えた。


「ハチ公前派出所から警察官がそちらへ向かっています。それに現場近くのパトカーも向かいましたから安心ください。通報をありがとうございました」言い終わらない間合いだった。けたたましいサイレンが渋谷駅方角から聞こえた。ワヒネがその方角を見た。すると駐車していていた一台の乗用車が突然動き始めた。走り出すその車の動きは異常だった。タイヤを軋ませエンジンの轟音を響かせる急発進なのである。その有様に尋常ではないと思った、しかも進路が定まらず蛇行し、こちらへ疾走してくるのであるから、ことさら恐怖を覚えた。暴走する車は更に速度を増すとワヒネの脇をすり抜け歩道に乗り上げた。暴走車は減速せず一気に歩道を暴走し店舗に突っ込んだのである。あぁ・ダメ彼が・・彼がそこにいるのよ!


 彼が・・暴走車に押しつぶされたと金切り声で叫んだ。

 何と言うことだ。歩道を乗り越え店舗に激突した車のボンネットはグチャグチャだ、ラジエターが破損し水蒸気が立ち昇っている。ガラス越しに見える運転手の頭部、顔面は流血している。車内を視れば数人の男女らは気絶しているのかビクとも動かない。


 歩道に横たわる尾藤に駆けよるワヒネ。尾藤は運よく暴走してきた車の下敷きにはならなかった。駆け寄って全身を見た。どこからも出血していない様だった。一瞬安堵するも膝を付き顔色を覗い手首に指を当てた。良かった。心拍はある、弱いが呼吸もある。ワヒネは胸を撫で下ろした。


 騒然となった事故現場を取り巻く野次馬が集まりだした。パトカーが止まった。警察官は到着直前で起きた悲惨な事故を目撃し救急車を要請していた。一人の警察官が介護に当たるワヒネに近づき怪我のほどを聞いてきた。


 ハイ。呼吸は弱いです、心拍はあります。でも、意識がありません。

 すると衝撃で気を失っているのだろう。で、あなたが通報をしてくれた下山田京子さんですか。と警察官が訊いてきた。

 そうです。私です、私が通報をしました。

 後で状況を聞かせてください。と言い残すと野次馬の整理を始めた。自転車で駆けつけた警察官は運転席の男に駆け寄っていた。


 くっせぇ、ひどいなぁ。こいつら酔っ払っていやがる。とんでもない奴らだと言い放った。別の警察官は車内に首を突っ込み、くっせぇ。酒臭い。こいつら全員酔っ払っていやがる。とんでもない奴らだ。しかも定員を超えて六人も乗っていると叫んだ。


 程なく数台の救急車が到着した。救急隊員はトリアージを始めた。応急手当を施した後に重傷者から搬送する手配をしている。隊員が路上に横たわる尾藤の応急手当を行う横でワヒネは泣いていた。隊員は手を休まず、奥さん!大きな外傷が見えないですからね、意識さえ戻ればご主人は大丈夫ですよ。慰めてくれた。


 尾藤は広尾の病院へと搬送された。呼びかけるも反応はない。脳内損傷の疑いを想定し頭部の断層撮影が施された。その結果、尾藤は頭部の強打、衝撃を受けた結果、脳挫傷ありとの診断だった。


 ★★★ ★★★ ★


 病室へと移された、ベッドに寄り添うワヒネは一刻も早く意識が戻るようにと願い回復をと願うのであった。彼の手を握ると頬に当てた。


 警察官が来た。

 ご主人様のご様子はいかがですか。と尋ねてきた。ワヒネは答えた。

 私たち、まだ入籍はしていません。その途中なのです。ありのままを答えた。彼の意識はまだ・・戻らずこん睡状態です。先生は出来る限りの治療を施したから間も無く意識は戻るだろうと仰っていました。今しばらく様子を診るようにと。

 そうですか。分かりました。

 ご心配でしょう。

 一刻も早くご主人の意識が戻られようにと思います。警察官は慰めるのであった。


 奥さん。この様な時にまことに申し訳ないのですが・・事情を聞かせていただきたいのですがよろしいですか。

 通報の要請はご主人が揉め事に巻き込まれたと言うことでした。その揉め事の相手と思われる男は車と壁との間に挟まれていましてね。救出に手間取り、つい今しがたです、搬送中の救急車の中で息を引き取りました。ですから、なにも、そう、当事者からの事情は取れず、でした。


 あの男とご主人とは、なぜ揉め事を・・そこから話を訊きたいと丁重な口調で尋ねてくる。ワヒネは尾藤との出会いから現在までの全て話した。そして彼がなぜ啓二を追っていたのか、その全てを、知る限りの出来事を有りのままに証言したのだった。警察官は幾度も頷くと驚きの表情を現しワヒネを見詰めたまま唖然としていた。ワヒネの語る話を聞けば聴くほど、にわかに信じ難い話の進展に警察官は驚愕しつつメモを取る警察官の手が折々に止った。それは彼らの一夜の恋の要が悠久の愛の形へと成しえた男女の情熱に驚嘆したからであった。

 警察官は思った。彼らとて生身の人間、であれば悶えるほど誘惑に負けそうになることもあったはずだ。だが彼らは一夜に築いたきずなを手放さなかった。その意志の強さの根源は互いに相手の意思を尊重するこころが備わり、個人主義的な考えを持ち合わせる両者なればこそ成し得たと思った。己の生涯において切なくも貞節をつくす彼女のこころを思うと、生まれ備えた資質かと考える警察官であった。

 多くの者は、ばれなければ、チャンスあればいっときの享楽に溺れるというのに、一夜の一言を頑なに信じ合う堅忍不抜の精神力を持つ男女が現代に存在するとは、稀有なことだとおもう警察官なのであった。


 愛する尾藤の意識が戻らぬこの今、気丈に証言するワヒネの話を聞きながら警察官は三十余年前の事件のことを思い起こしていた。彼は尾藤一家を襲ったその事件を覚えていたのだ。あの男があの事件を引き起こした容疑者ですか! 事件を知ったのは自分が警察学校を卒業する直前でした。眼を覆いたくなる酷い事件だったとワヒネに話した。警察官として犯人を追い詰めることが出来なかったことを詫びた。しっかり調査をしましょう。それから、事故を起こした当事者の全員が酩酊状態でした。ですから略式裁判ではなく正式裁判に持ち込みたい、と思っています。またお話を聴かせていただきたいと考えています。どうぞお大事に、ご主人の意識が戻られたら連絡をください。


 警察官を見送ると窓際に歩み寄った。窓越しの変哲もない木々の葉の揺れる景色に彼女は惹きつけられた。ほんの少し窓を開けると聞こえ来る葉音、手を耳に添わせるとサラサラと葉の擦れる音が寂しく聞こえる。葉音を聞きながらベッドを眺めるワヒネ、未だ酸素マスクと点滴に繋がれたまま微動だせず眠っている。ベッド脇に歩むと尾藤の額にキスをして手を握り締めた。


 私はやっと仕合わせを掴んだのに、このような悲運に遭ってしまった。この禍は神が私らに架す試練なのかと嘆いた。これも神の御心なのか、あまりにも無慈悲であろうと咽び泣いた。けれど、私たちは仕合わせを甘受すべくこの場を切り抜けなければとこぶしを握った。愛しい彼が追っていた啓二の死亡を知らされ、複雑な思いが脳裏を過ぎった。確かなことは彼が彼の手で殺めずに済んだ事実、これは幸いだと思った。これこそ神の御心だと神への感謝を思う。彼の額に口付けをした。握る手は温かかった。あれやこれや瞑想していると瞼にのしかかる気だるさを覚えると手を握り締めたまま眠っていた。



 物音の気配で目覚めると看護師が点滴の交換をしていた。

 お目覚めですか奥様、お疲れでしょう。どうぞ、そのままお身体を休めていてくださいな。酷い事故に巻き込まれたのですね。昼のニュースで驚きました。


 この事故に遭ってから出会う人々に奥さん。奥さんと耳に馴染まぬ呼びかけに、気恥ずかしくも嬉しい思いに浸っていた。

 ありがとうございます。看護師さん。お世話になります。気づくとワヒネの肩には毛布がかけられていた。


 あの忌まわしい事故から三日目の午後、食堂で昼食を済ませたワヒネは紅茶を飲んでいた。そこに二人の男が近づいてきた。


 あのう、突然に失礼ですが、私は街中新聞の名方三郎といいます。下山田京子さんでしょうか。大変失礼なことでしたが、警察で尾藤様が事故に遭われてこちらに入院されている、看護される貴女様のお名前を・・お聴きしてまいりました。

 見知らぬ訪問客は名を名乗り名刺を差し出した。彼らは新聞記者だと名乗った。二枚の名刺に目を通すワヒネは、ながた・・さん。珍しい苗字だとワヒネは思った。


 わたしが下山田京子です、どのような、ご用件で・・

 編集課長と名乗る名方が、現行の裁判及び時効制度の在り方は被害者感情を無視した制度であると切り出した。さらに犯罪に遭われた本人、家族に対する救済、死刑制度、時効制度の刷新を提起し論ずるに当たり多くの難問があります。受刑者の出所後の更生対策はもっとも大事とするところですし、凶悪犯に対する死刑廃止を軽々しく論ずることは避けなければなりません。わが社では犯罪に遭われたご本人及びご家族に対する支援を強化し、犯罪者の逃げ得は許せないという考えです・・、もっとも重要な課題があります、冤罪です。冤罪者の救済という無実の証明を含めて論文を公募していました。この件で昨年ご主人様が応募された論文の採用が決定しました。論文の校正を兼ねてお会いしたとき、ご主人様の生き様、境遇を、その考え方の方向を含めて、欠かすことの出来ぬ貴重なお話を聴かせていただき助かりました。


 発売日は来春を予定していますが、早版が出来上がりましたので直接お渡し致したいと考えていたのですが連絡が取れず、捜していた矢先に事故に遭われたことを知りました。この度、このような事故に遭われた不運、ご心労をお見舞い申し上げます。ぜひご主人様が書き下ろされた論文を奥様にお目を通して戴きたく本日ここにお持ちいたしました。ついては尾藤様がこころの拠所と想われているワヒネの写真を撮らせて呉れないかというのだった。


 なんと尾藤はワヒネの存在、彼女への想いを一年も前に、既にこの記者に語っていたのだった。これはワヒネを想う彼のこころが本物である証である。ワヒネを尋ね来た尾藤のこころに偽りはなかった。彼の心情に涙ぐむワヒネは撮影を承諾した。


 数枚の写真を撮ると彼らは帰って行った。預かったずっしり重い荷を解くと二冊の本が梱包されていた。彼が書き下ろした論文の一冊を、彼の様子を看ながら一気に読んだ。読み終えて思った。この論文が世の人々の目に留まる日はきた。されば大きな波紋が法曹界にも及ぶだろうと感じた。そして彼の願う冤罪の皆無、時効廃止へと刷新されるべきと思った。


 読み終えた今、彼は啓二に自ら手を下す意図はなかったのだと思った。時効が成立した後も、啓二を探していたのは犯行に至るまでの動機と啓二の偽らぬ真情を知りたかっただけなのだと。それが彼流の仇を討つということなのだと思った。彼の願いとは、重大な事件に時効ありという現行法を刷新すべきと論じていた。その上で司法の手に任せることが最善なのだと主張する尾藤の心を察した。


 九日目の午後の巡回だった。カルテを手に取る医師は首をかしげていた。心拍が良いところで安定してきましたねぇ、そろそろ意識が戻る頃なのだが、まぁ間もなくでしょうと告げた。


 病室の窓から見える木々、揺れ動く葉の擦れる音を聴きたくなった。その葉音を聴きたくて窓を開けた。頬に当たる風が心地よかった、彼女は目を細め、木々の葉が揺れるリズムに合わせ子供のように身体を揺らした。眼下に広がる景色は外洋を航海する客船から眺め見る景色のようだと錯覚した。葉の揺れを外洋のうねりに見立てれば、無機質な葉音を波の音に喩えては感じているのである。ワヒネはうねる波間を乗り越える乗船客のように揺れを楽しんでいる。


 空気があって風があるから木々の葉を揺らす・・のね。肌が感じる風は目に見えずとも感触のあることは空気の動きなのね。我らは空気なくては生きられぬ。そうだ、私にとって空気のような存在とは彼のこと、愛の存在とは空気のように姿を現さずとも悩む者の身を包むのかと思った。


 永い間、私が蓑虫のこころを貫けたのは彼のこころを信じればこその私だった。彼の姿は見えぬも、わたしが何処にいようとも空気を通してわたしは彼を感じることができていたのだろう。この今聴こえる葉音は私の心を癒す彼の言葉と喩えれば、彼が私に語り掛けてくる言葉なのだと思った。心地よい葉音を聴きながらそよぐ風が慰めてくれる言葉として感じつつ瞑想し始めていた。


 神の御心とは私を苦しめる事か。

 苦しめる御心を拒否できぬものか。

 御心を私の歩みざる運命だとしても受け入れたくないわ。

 無慈悲だ!と思った。これでは神ではなく悪魔ではないか。神は正体を現さぬまま我らを操っている。わたしは運命から逃れられないのだろうか。


 目に見えぬともわが心の内外に吾を操り制する神が存在する。対して吾はわが欲求を満たすこと叶わぬとき、吾は湧き出る欲求を満たさんともがく、このもがきを悪魔のささやきとすれば、わが体内におわす神と悪魔とがわが胸の中で戦う。これは、われが望まぬ戦場がわが胸の内に存在し、これらが理不尽な神の戯れであれば、われは負けられぬとワヒネはこぶしを握った。



 お母さん。

 振り向くと恵理と孫娘の紫乃が病室の入り口に立っていた。ベッドに近づく恵理が、お母さん、この方が私のお父さんなのね。私の父かと訊きただす恵理の表情は複雑な感情を浮かべていた。

 ベッドに見知らぬ老人が眠っている。彼女らにとって初めて会う男性だ。恵理にしてみれば全く見知らぬ年老いた男なのである。母にお前の父だと言われても、素直な気持ちでそうかと受け入れることなど出来やしない。父と思しき男に面会するも腹立たしさが滲み出る複雑な感情のみである。


 思う事は、なぜ今日まで私たちを放っていたのかと、ののしる事もできない状況だ。父親としてわたしは認めないとこころしていた。若し意識が回復しても喧嘩相手がベッドの上では同じ土俵に上がって戦う事も出来やしない。しかし、母が認めるのならば、子供である私は受け入れるしかないのかと恵理は思っていた。


 卑怯だわ。ふーん、この人が私のお父・・さん。

 私の父親だという実感の籠らぬそっけない口調で彼女は吐き捨てる。そりゃぁ、そうだ。恵理は三十をとうに過ぎで既に一児の母親になっている大人の女性なのである。恵理自身が今日まで、唯の一度も会った事のない言わば他人同然の男なのである、当然そう吐き捨てるだろう。

 あなたは卑怯者だわ。と・・・


 紫乃がベッドに近寄った。点滴の管に繋がれた尾藤の手に小さな手を重ねると

「おじいちゃま・・なの」

 呼びかけるのであった。返事は無い、が無心に呼びかけている。

 紫乃です・・わたし・・ 紫乃です。おじいちゃま・・


 床にひざまずき小さな手に力を込める柴乃の手が尾藤の手を握り締めている。尾藤を見詰める彼女のつぶらな瞳からひとしずくの涙が尾藤の手に落ちた。

 おじいちゃま。おじいちゃま・・ わたし・紫乃です。


 紫乃は初めて会う祖父へ彼女なりの感情を込めて話しかけているのである。幼い紫乃の心情は恵理の抱く感情、想いとは異なるのだろう。

 紫乃が尾藤を見詰める可憐な眼差しは親愛な情を抱く未踏の好奇心に満ちていた。潤ませた目尻から一筋の涙が流れ落ちた。滴り落ちたひとしずくは柴乃のこころを伝えるかのごとく尾藤の指の合間へと滴り落ちる。ワヒネは紫乃のかたわらに寄り添うと紫乃のこぢんまりした肩を抱きしめた。


 柴乃が唐突にいう。今ね、おじいちゃまの瞼が微かに動いたわ。と。

 続けて言う、おじいちゃまが私の手を握ってくれたわ、応えてくれたの。

 尾藤の容態にかすかな変化が生じたことに柴乃は気付いたのだ。あの事故いらい昏睡状態だった尾藤の意識が戻りつつあるのだろうか。


 あら、今、瞼がかすかに動いたわ。僅かだが瞼が動いたのをワヒネも気付いた。柴乃は自分にはいないと思っていた祖父。その祖父が目の前にいるのだ。幼い彼女の傍に昏睡状態で眠っている祖父を見つめると目を覚まして欲しい、紫乃をしっかり見てほしい願う柴乃の心情が涙の雫となり神の御心を動かしたのだろうか。柴乃の純真な心が御心となり祖父の心へと通じたのだろうとワヒネは思った。


 ワヒネは急ぎナースコールのボタンを押した。尾藤の指は孫娘の小さな手を弱い力で握り返していた。恵理が窓から差し込む陽射しは眩しいだろうとカーテンを引いた。


 室内の明かりの中にぼんやり映る幼さない少女の顔。

 話し声に気が気づいたのだろう瞼を開いた。目を凝らし視た。この子は誰だろう、幼い少女の背後にいる女性が目に留まった。顔に覚えがあるが思い出せずにいた。その横に見知らぬ若い女性が、この人は誰、三人の女性はいったい誰なのだろうと思うが分からずであった。それにしてもここは何処なのだろう。おれは何処にいるのだろう。彼は自身の居所を掴めぬままにいるのである。


 良かった。意識が・・戻ったのね。

 聴き覚えのある声がぼんやり見える少女越しに聞こえた。

 確かこの声は・・そうだ、彼女だ、ワヒネだと思い出した。顔を向けるとやはりワヒネだった。はにかみ顔で瞳を潤ませる彼女へ彼は瞼で返事をした。時同じく看護師が入ってきた。間も無く先生が来られます。そう告げると心電計の画面を確認していた。


 尾藤さんの意識が戻ったって、良かったなぁ。医師は病室に入るや否や大きな声で言った。

 先生、ありがとうございます、たった今、今しがた意識が戻って、彼は意識が回復して自分の置かれた境遇を少しずつですが理解しているようです。

 そっか。心電図は良好だよ。先日の血液検査でも大きな異常は無かったからね。あとは、体力の回復を待って退院できるよ。間もなく退院できそうだと告げる医師は看護師に指示を与えると病室を後にした。


 尾藤は自分の立場を理解しようとするも、その切っ掛けを掴めないでいた。ベッド脇にいる小さな女の子が俺の手をきつく握り締めている。この少女は一体誰なのだろう。窓際に立ち自分を見詰める女性はワヒネだ。するとこっちにいる若い女性は誰だろう。懸命に思い起こそうとしても思い出せずにいた。ワヒネは言った。


 貴方の娘の恵理と孫娘の紫乃です。

 娘と孫娘であると聴かされた尾藤は腰が抜けるほどに驚いた。反射的にベッドから起き上がろうとするも身体が動かない。ワヒネの介護で上半身を起こす尾藤は目を見開き恵理と紫乃とを交互に視くらべていた。逢いたいと思っていた娘と孫娘が目の前にいる。二人を前にして言葉を失うほどの驚きようだった。先ずは名乗らなければと思った。が言葉が見つからない。自分を彼女らにどのような言葉を以って父だと名乗ったらよいのか解らずにいた。そうと察したワヒネが切り出した。


 この方が貴女のお父さん。この方が貴女のおじいちゃんよ。

 この方は、これまでわたしのこころの内に宿り、わたしを励まし続けていた私の大切な人、わたしの旦那様なのよ。と尾藤を紹介した。そして二冊の本を尾藤に差し出した。この新書はあなたが応募した論文が刷り上ったからと新聞社の方が届けてくれたのだと伝えた。そうか。刷り上ったのか。自分の書いた論文が二冊の本となってやっと世に出るのかと嬉しそうだった。


 先立ってわたし読ませて頂きましたよ。すばらしい主張です。感動しました。一冊を尾藤に、もう一冊の本を恵理に差し出すと付け加えて言った。この本を読めば私たちの全てを理解できるわと・・


 いまだに不機嫌な態度の恵理は仏頂面を解くことをせず、差し出された本を力なく受け取った。表紙の体裁が綺麗に仕上がり重量感のある本である。紫乃は母が手にした本を見ては目を丸くしていた。


 尾藤は初めて会った実の娘と孫娘との存在に戸惑いながら尾藤貴史です。あのう・・一言では言えぬ訳があってお会いするのが今日になってしまいましたが、私があなたの父親である尾藤貴史です。

 落ち着いた響きのある口調で自らの姓名を名乗った。


 紫乃は、びとう・・たかし、幾度も初めて会う祖父の名を反復すると、わたし、紫乃です。はじめまして、おじいちゃま。自分を紹介したのである。


 恵理、そしてワヒネは共に驚いた。紫乃は初めて会った男をわが祖父として、たじろぐ事も無く受け入れたのだから驚いた。数奇な出会いだが紫乃の心は素直な気持ちで順応していたのだ。恵理は娘の言動を見て思った。そして口走った。紫乃はお母さんにそっくりだわ、と・・

 初めて会った人をためらう事も無く自分の祖父だとすんなり受け入れる事が出来るなんて、お母さんの性格に瓜二つだわ。

 尾藤がワヒネに目線を送ると同時に微笑んだ。

 どうやら懸念していた数奇な紹介は峠を越したようだとワヒネは胸を撫で下ろしていた。


 お父さん。わたし、このご本をしっかり読ませていただくわ。そして、母が言うお父さんのこころを理解します。

 わたし、娘の、貴方の娘の恵理です。複雑な感情の真っただ中、自然と滲み出てしまう涙を拭いながら緊張する声で自己紹介をしたのだった。尾藤の目じりの濡れる一筋をワヒネは拭っていた。尾藤は小声でワヒネに話しかけた。お店で聞いた話では、いや、確か恵理さんがフランクリン・パークで出産されたお子さんは男の子ではなかったか。そう聞いた覚えがあるのだと尋ねると、あら、わたし、気が動転していたのかも、この子です。顔を赤らめ言い直した。


 そうか、言い間違えていたのかと話し合う傍らで微笑む柴乃に笑みを返した。すると紫乃は尾藤の頬へとキスをしたのだ。思いがけなくも孫娘からのキスを受けた驚きに嬉しく頬笑み返した。

 いや、ちがうよ、僕の記憶違いだ。あなたは、確かに女の子だと言っていた。僕の思い違いだったと尾藤は訂正するのであった。


 お父さん。わたしたち、又お見舞いに来ます。

 そうか、今度、ゆっくり、話をしたいと思っているから。ありがとうな。


 恵理と紫乃とが病室を後にした。廊下に出ると足音を立てぬよう玄関へと向かった。実のところ恵理は紫乃の意外な行動につられ素直に受け入れてしまった自分を不思議に思っていた。やはり私も母の娘かと苦笑いをしていた。

 恵理は母を待たせるにも程があると憤慨していたのである。いまさら母の前に出て何の企みがあるのか。心を括って怒りをぶつけに来たのだと言うのにすんなりと受け入れてしまった自分自身にあきれた。やはり私も、やはり母親似か・・・


 エレベーターの下降ボタンを押し到着を待っていたそのときだ。看護師が血相を変えて走って来る。一目見て父を担当する看護師だと思った。相手も恵理を覚えていた。


 戻ってください。病室に、戻ってください。

 その口調は緊迫した命令調の声だった。どうしたというのだ。突然、病室へ戻れという看護師の意図を理解できぬままに紫乃と共に急ぎ病室へと駆け戻った。病室に戻ると医師と数名の看護師が慌ただしく動き回っている。

 娘らが病室を出て間もなくの事だった。尾藤は急に頭が痛い。頭が割れそうな痛みだ。部屋の明かりが眩しいと眼を押さえ訴えていたのだった。そして、何も食べていないのに吐き気がすると訴えていた・・


 医師は緊張を隠した冷静な声で看護師に訊く。血圧、心拍は・・

 看護師の返答を聞くと脳動脈の破裂の恐れがある。部屋の明かりを消せ。酸素、降圧剤だ。立て続けて指示をする。緊急手術すべくストレッチャーを準備すべく看護師が部屋を出た。脳動脈の破裂を懸念した医師は即、断層撮影すべく準備を告げる。ワヒネは唖然とした。


 お母さん! どうしたの。

 分からない。わからないわ。

 お父さまは、どうしたの!

 心の騒ぎを抑えきらぬも恵理はそう聞くのが精一杯だった。

 おじいちゃま・・・

 心拍をカウントする心電計の画面を視て医師はカンフルをと指示した。

 カンフル剤を注射した直後に悲劇が起こった。心電計が心拍のカウントの停止を知らせる音が響いた。


 皆さん廊下のほうでお待ちしてください。刺激が強いですから。

 促されて通路で待つ間、ワヒネらは祈るしかなかった。

 電気ショックを施す度にとび跳ねる音が通路まで聞こえた。しかし効果は無かった。

 心拍は。

 反応・・ありません。病室から漏れる声・・


 どれほどの時が流れたか。心拍はと訊く医師の声が通路まで聞こえた。やがて看護師が深々と頭を下げて沈痛な声で病室へお戻りください、告げに来た。三人は呆然とした。医師が時計を見ながら十九時四十分、ご臨終です。脳動脈溜の破裂でした。色々と手を尽くしたのですが、残念でなりません。号泣するワヒネの声が病室の外へ漏れてきた。紫乃が泣き叫んだ。

 おじいちゃま。逢えたばっかしなのに・・ おじいちゃま・・・



 それから十余年の歳月が流れた。ここは西伊豆、小高い丘の上の老人施設。名称はドラセナ。南国を想わせる植物が遊歩道わきに点々と植樹されて、海岸際に行くのも丘を下れば波と遊べる公園もある環境の良い所だ。


 施設内の遊歩道を車椅子で散策する一組の女性がいた。

 遠のく船を眺めながら車椅子に座る高齢の女性に語り掛けている女性、車椅子の女性はワヒネだった。彼女は白髪で髪型を短くしていた。唇を軽く引き締めて常に頬笑む表情がことさら美しく見える。膝の上には愛する尾藤が遺したウクレレがあった。車椅子を押す女性は成人した孫娘の紫乃だった。


 おばあちゃま、わたし、おじいちゃまが書かれたご本、おかぁさまから借りて読んだわ。

 うん、そうかい、それは、ありがとう・・

 何度も何度も繰り返して読んだわ。

 初めて読んだとき、訳がわからなかったの。取り返しのつかない罪を犯した人が、時効を以って罪を問わないとする制度を理解すること、わたしには難しかった。


 でもね、おじいちゃまは愛する家族のために気の遠くなる歳月を掛けて答えを探していたのでしょう。辛くて苦しかったと思うの。わたし・・わたしネ、高校の時、改めて読み返したのよ。大学の友達とも話し合ったわ。で、やっと、解ったわ。そしてね、おばあちゃまの存在が、おじいちゃまのこころを支えていたとわたし理解したわ。それって素敵だと思った。法律のことはわからないけれども、恋すること、愛すること、それはわかってきたの。おじいちゃまとおばあちゃまの恋の軌跡にわたし感動したわ。友達の、どの子に話を訊いても信じられない、と答えが返ってきたわ。


 でもね、わたし、おばあちゃまのこころのありかを応援する。おばあちゃまの恋は素敵だわ。そして・・おじいちゃまもだよ。愛し合うことって、信じ合って感じる事なのね。おばあちゃま・・ 


 柴乃ちゃん、しあわせってネ 愛する人と奏でる音楽なのよ。抒情詩を奏でるのよ。二つの楽器が互いに気づかって反応し合って、気取らずこころを晒し合うのよ、思いの丈を表現する旋律が、そう・・絡み合って支え合える二重奏なの、至高の音楽よ・・


 潮風を全身に受けながら遊歩道をゆっくりと歩む二人。広大な海原の果てへと落ち行く太陽は赤々と燃える夕陽へと姿を変えた。すると雲はオレンジ色の化粧を施し絹糸で織った衣をまとう姿と化し見得を切る。舞台を茜色に染めた残照が映える中、海鳥が舞い始める。その様を詩歌で巧みに歌えばいたるとも及ばぬ絶妙な美を誇る天地が織り成す舞台。前人未踏な光景を創造する残照は神の力だろう。思えば、いばらの道をあえて選び、悲恋を確たる愛の基礎とし全うせし者を称えているのであろうか。



 完






 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

蓑虫さん ほうがん しゅん @sarasapaipaipai

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ