【実話】忘れたい食べ物

かのん

お好み焼き

三人目を産んで退院した朝。病院に迎えに来た夫は夜勤明けらしく、人生最悪の夜を乗り越えたように疲れ果てて見えた。これではどっちがお産をしたか分からないなと思いながら家まで歩いていると、彼は言った。「昼飯はおかんが準備して、家で待ってる」。彼の弾んだ声は空腹と、不吉な予感をもたらした。彼の好物はたいだい苦手だった。「何だった?」「お好み焼き」。沈黙。夫は言葉を続けた。「彩がお好み焼き嫌いって、おかんに言ったんよ。でも」「もう良いよ」。腹の音は言葉の嘘を暴いた。彼に抱かれた新生児がもぞもぞと居心地悪そうに動くのを眺めながら、私は十数年前の大学の部室棟に入っていった。


大学一年の私は足で部室の扉を開けた。生協で温めた昼食で両手はふさがっていたからだ。六畳ほどの汚いタコ部屋には学生たちがぎゅうぎゅうに詰め込まれ、各々が炭水化物を胃に押し込んでいた。親からの仕送りを本と酒に使い切った私は、数日ぶりの食事だった。しかし、それは手から滑り落ちた。先輩にぶつかったと気付くのと笑いがどっと起きたのは同時だった。私はそそくさと残飯をかき集め、ビニール袋に入れ、部室を逃げ出した。袋の中でぐちゃぐちゃになったお好み焼きが揺れるのを感じながら。


そのお好み焼きが今、食卓に並んでいる。だが当時のものとまるで別物だ。ふわふわで厚みがあり、微かな磯の匂いは食欲をそそる。あおさとソースの模様は芸術作品のようだ。「どうして上手く作れるんですか? お義母さん大阪出身じゃないのに」「おとうさんが大阪の人やろ。味にうるさいんや」。夫が口をはさんだ。「おかん、おやじと昔ケンカばっかりしてたよな。こんなん食えるか! って怒られてばっかで」。義母は首を振った。「いちいち覚えてたら、あかんよ」。


私は息を呑んだ。いつまでも過去を生きている自分がばかばかしく思えた。席につき、一口食べてみた。ぎっしりと詰った具材は互いを邪魔せず、味に深みを与えている。箸が止まらず、くたびれた私の血となり肉となった。「あれ、彩ちゃん。嫌いなんやないの?」。義母が空の皿を見て、目を丸くした。私が作り方を教わりたいと言うと、彼女は口角を上げた。「小エビとあおさは絶対入れる。粉は山芋が入ってるやつ。ソースは絶対おたふく」。それは歌のように心地よく響いた。夫に目をやると、幸せそうにお好み焼きを頬張っていた。彼の膝では赤ん坊がすやすやと寝息を立てていた。

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