錆生餐

伊島糸雨

錆生餐


 世界が錆びていく。

 見慣れた景色の一欠片が、赤褐色のざらつきに覆われるのを見た。それはまるで薄ぼけた写真を燃やすように、炎に似た色彩はじりじりと日々を焼き尽くしていく。当たり前の端っこから、古びた部屋の片隅から、都市の小さな一点から。

 世界が錆びていく。

 生命いのちが、錆びていく音がする。

 酒瓶に生けた花も、街の木々も、床を這う鼠も、一様にその身を凍らせる。

 手を掲げ、私もまた錆びてゆくのだと知る。指先から、末端から、徐々に、少しずつ。私という存在の、意識の中枢に向けて、ゆるやかに行進する。

 私はそれを眺めている。穏やかな諦観に包まれながら、終末の光景を見つめている。

 感覚は鈍く、動きを止めて、腹から首へと錆は広がっていく。人の機能を喪失し、この魂の死にゆくのを、私はただ待ち望んでいる。

 これは、罪の清算だ。

 不可逆の病による、私への罰なのだ。



 *     *



 目を覚ます。

 くぐもった雨音が窓の外で響いている。ソファから身を起こして息を吸うと、冷たく湿った匂いがした。

 手のひらを翳しても、錆は見当たらない。夢を見ていたのだと、遅れて気づく。

 洗面所で顔を洗い、鏡に映る自分の姿に目を向ける。暗く澱んだ瞳が視線を放ち、舐めるように肉体の上を這い進む。顎を伝って流れ落ちた水滴が、洗面器の淵に弾けて消えた。

 襟を引っ張って皮膚を露出させると、鎖骨の下に赤褐色の鈍い輝きが見える。爪で掻くと、カリ、と乾いた音がして、削られた表層が伸びた爪の合間に残る。浸した水は、薄く茶色の線を引いて、円形の暗闇に落ちていった。

 朝食には数日前に作り置いた粥を少量の塩で食べた。テレビをつけるとちょうどニュースをやっていて、よその独立都市共同体コミュナポリスの現状が淡々と流れて行った。

 およそ半世紀前、〈終末現象カタストロフ〉と呼ばれる数々の異常災害に際して人類が建設した都市の楽園──独立都市共同体。そんなものの庇護化にあっても、終末を謳う災厄を前に、人は常に滅びの瀬戸際を歩んでいる。極小の世界情勢は、いつまでたっても不安定なままだ。

 食事を終えると、袋から取り出した錠剤を見つめ、わずかに逡巡してからゴミ箱に捨てた。最低限の化粧をして、目の下の隈と肌の色を取り繕う。予報は雨が午前で止むことを示していた。

 鍵をかけ、振り返った先の景色に目を向けると、遠く高層ビル群の影が雨の中に霞んでいる。二階から見下ろした先で、人気のないアパートの前を濡れた猫が駆けていった。

 朝のうちに友人と会う約束をしていた。予定の時刻より早くに待ち合わせの喫茶店に着いたので、先に席を取って待つことにした。店内を流れる緩やかなジャズと人々の話し声や食器の擦れる音が混じり合って、それ自体で一つの音楽のようだと思う。コーヒーを啜りながら、天井で回転するシーリングファンを眺めていた。

燕雪ツバキ、お待たせ」

 名前を呼ばれて顔を向けると、待ち人がにこやかな表情で私を見下ろしていた。茶色がかった長髪はハーフアップに編まれ、黒いパンツスーツはスラリとした肢体によく似合っている。ただ、同じものをしばらく着続けているのか、少しばかりよれて見えた。

「ナオミ」

 彼女は肩から下げた鞄を床に置くと、そのまま向かいの席に腰掛けた。そしてメニューに目を通しながら、「一ヶ月ぶりくらい?」と言った。

「そのくらいだと思う」

 彼女はココアとチョコレートケーキを注文してから、ため息と共に力を抜いて、背もたれに沈み込んだ。

 ナオミ・カキツバタ。私の元同僚にして、現在唯一親しくしている友人だった。

「薬、ちゃんと飲んでる?」

 一息ついてから、彼女は言った。私はすでに答えを用意している。

「飲んでるよ」

「本当?」

「もちろん」

「それは良かった」

 まるで幼子に尋ねるようだ、といつも思う。彼女は私の病状のことも知っているから、話をするたびにこうして確認をとってくる。私が服薬に対して積極的でないのを見抜いてのことだった。

 間もなくして、注文の品が運ばれてきた。彼女は嬉しそうにケーキを切り分けて口に運び、素直に表情を綻ばせる。昔から、疲弊すればするほどに甘味を求める人だった。「糖分が欲しかったの」私はカップに口をつけて、その様子を眺めた。

 黒い苦味は罪悪感によく似ている。例えばそれは、私が彼女に抱いているような。

 ナオミは私の言葉を信じている。あるいは、すべてを知った上で数多の追及を避けているのかもしれない。どちらにしろ、私はひどい友人だった。彼女の心配を、嘘でもって裏切り続けている。

「呼び出したりしてごめんね。どうしても話しておきたいことがあって」

 彼女はケーキを半分ほど胃に収めると、そのように切り出した。私は首を振って「いや、いい」と言った。

 ナオミは礼の言葉を口にしてから、居住まいを正して口を開く。

「あと少しで、臨床試験が終わりそうなの」

 彼女が示すものとして、思い当たるのは一つだけだ。ナオミは続けた。

「共生始原菌活性化症候群の薬。あなたが研究していたもので──」

「私を治療できる、唯一の手段ってわけだ」

「今はね」

 ナオミは肩を竦めて、カップを持ち上げた。

「認可が下りるまではまだかかるけど、今のところは順調に進んでる」

「それは良かった」

 向かい側で、ナオミは嬉しそうに「うん」と笑った。

 薬の話はそれきりだった。以降、特筆に値しない近況報告をするうちに、やがて彼女は手首を回して腕時計を見ると「そろそろ行かなくちゃ」と鞄に手をかけた。

「忙しそうだ」

「そ。ちょっとトラブルがあって、また戻らなきゃ……。本当はもっとちゃんと時間を取りたかったんだけどね。そうもいかなくて」

 またゆっくりご飯でも食べよ、と彼女は言った。私は手を振ってその背中を見送った。

 最後に飲み干したコーヒーの苦味は、口の中に残り続けて、しばらく忘れられそうもない。口直しも億劫で、そのまま席を立った。

 店を出ると雨は止んでいた。水溜りには極彩色の油膜のように、街頭広告の光の明滅が映り込んでいる。視線を上げた先、ビルの群れの合間からは、白皙の巨塔が顔を覗かせていた。

 この街──統合医療都市スクナビコナ──最大の医産複合体、ホウジョウ製薬。

 ナオミの仕事場であり、

 私が逃げ出してきた、かつての居場所だ。



 *     *



 地下研究所の揺籃区クレイドルで、マジックミラー越しに見た〝子供たち〟を覚えている。

 似通った顔立ちで、病とも障害とも無縁の、遺伝子操作された平均的な健康体。揺り籠の中で起きて眠り、管を通して栄養を与え続けられる。彼らに施される催眠学習は、脳の成長を促すための飼料でしかない。

 徹底的に管理された、揺籃とは名ばかりの飼育場。そんな場所で、私は何年も働き続けてきた。一切の疑問も、抱くことなしに。

 でも、精神を病んでようやく、それがまともなことなのかわからなくなった。自分を正当化する機能は鈍化して、耐えられなくなった私は仕事を辞めた。ナオミは何も言わなかった。ただ、悲しげな視線を寄越すばかりだった。

 ホウジョウ製薬が誇る〝多機能汎用薬剤パナケア〟は、その起源を辿ると、かつて大陸に存在した一つの少数民族の存在に行き当たる。彼らは古くより特殊な始原菌と共生しており、閉鎖環境下で細々と歴史を紡いでいたという。

 彼らが保有する菌は、通常は各種の病に対する耐性向上などに寄与しているが、宿主が死亡すると急速に増殖を始め、様々な化学物質を生成するようになるという性質を持っていた。終末が迫り、あらゆる既知と無数の未知が病の形をとって襲い来る中で、この都市スクナビコナの枢要を成す製薬会社の研究者たちは、難民として流入した人々のうちに万能にほど近い効能を持つ生薬しょうやくを見出した。

 元来人体には生薬としての効能があるが、始原菌の作用によってその働きは多様化し、健康を是とする都市において特別な価値を帯びるに至った。終末という病を抑制し、治療する。そんな過大な希望を背負うものとして。

 揺籃に蠢く彼らは特別で、その機能から唯一性を保証されている。しかし一方で、件の始源菌を保有して生まれるのは〝子供たち〟に止まらない。ホウジョウ製薬が抱えるのはあくまで人工の裔に過ぎず、人の間に生まれ落ちた末裔もまた、この街には一定の割合で存在している。

 潜在的に菌を宿しながら消費者として生を受けた彼らは、ごく稀に、ある疾患を発症する。

 共生始原菌活性化症候群。

 その病の特徴は、自他が錆び行く幻覚と妄想だと言われている。

チェンさん、お薬はちゃんと飲めていますか?」

 真っ白な診察室で、担当医は私の目を見てそう言った。「ええ」私はナオミの時と同じように答えたが、それがどれほど意味をなしているのかはわからなかった。

 存在しないはずの錆は、日に日にその範囲を拡げている。

「先生、私は治るんでしょうか」

 私はいかにも沈鬱な表情を装って口を動かした。矛盾した言葉だとわかっていた。自らの意志で治療から遠ざかりながら言うことにしては、あまりにも馬鹿げている。

「陳さんは、治りたいですか?」

 医者は変わらない様子で、淡々と言った。

 私は口を開きかけて、何も言えずに、酸欠の金魚が溺れるように黙り込む。

 治りたいです、と言うはずだった。

 声に、ならなかった。

 医者は私の様子を一瞥してから「ご存じの通り」と言った。

「共生始原菌活性化症候群は、非常に稀な病です。菌を保有しているこの都市スクナビコナの人々のほとんどが、罹患することなくその生涯を終えて行きます。発見されたのもここ十数年ほどのことで、はっきりしたメカニズムもわかっていません。名前が示すように、通常では死後活性化して化学物質を生成する菌が、存命時に活性化することで様々な影響を及ぼすのではないか、という仮説が有力視されてはいますが……現時点では根治薬もなく、ホウジョウが開発した既存の生薬で症状の緩和と進行の抑制ができるのみです。

 我々にできるのは、治療を支援することだけです。薬も、それは変わりません。主体が存在しなければ機能できない。

 治療するのは、陳さん、あなた自身なのです」

 追加で薬を出しておきます、しっかり飲んでくださいね、と医者は言った。

 院内を歩いていると、入院患者を何人も見る。開け放たれたままのドアの先には、清潔な白い空間の中、ベッドに力なく横たわった人影があって、繋がれた点滴の管を赤い液体が伝っていく。輸血ではなく、薬剤としての〝子供たち〟の血液が、死への行程を遅延させるのだ。

 〝子供たち〟はそのすべてが──骨や肉、内臓や脳なども──薬として扱われる。使用される部位によっては、各種内科疾患から感染症、精神疾患までがその効能の範囲にあって、そのために、彼ら、彼女らの血肉は、この世界で生きていくのに必要不可欠なものとなってしまっている。

 死から逃れ、痛みから逃れ、苦しみから逃れ、わずかばかりの延命を為すために、全体に対する個々の犠牲ですらなく、個別性を排した冷たい道具として〝子供たち〟を消費していく。いかな生命も解体すれば有機物以上の意味を持ち得ない。何か見出すものがあるとすれば、それは生者の側の妄想なのだと、理解しているつもりだったのに。

 偶然、患者の一人と目が合った。じっと、何かもの言いたげに、けれど何も言えずに私を見つめるその様に、私は〝子供たち〟の幻影を見る。私を見つめるいくつもの瞳。彼らは何も言わず、何も言えず、淡々と殺されていく。腑分けされた肉体は、病んだ社会の腹の中。どこにも行けない病棟に、永久に閉じ込められている。

 私は耐え切れずに、目を逸らして歩き出す。廊下には足跡のように錆の滓が落ちて、誰かが通るたびに風に巻き込まれ、かすかに舞うような気がした。

 世界が錆びゆくのは、罰なのだと思う。私が意識するがゆえに存在する、閉じた痛み。私だけの罪への、ささやかな罰だ。私は精神の牢獄で繰り返し叫ぶけれど、その悲鳴のすべては、頭蓋に阻まれてどこへも行けずに蟠る。

 たとえそれが生理的な異常によるまやかしだとしても、治療できマトモになれば消えるものだとしても、私の真実は今ここにしかないのだと実感している。どんな幻も、私にとっては現実なのだ。

 身体の内からも、外からも、ずっと音がしている。

 生命いのちが錆びていく、その悲鳴が、


 耳から、離れない。



 *     *



 翌朝に降り出した雨が止まないまま、数日が過ぎた。雨に霞む景色は退廃の色を増し、無数のパイプが複雑に絡み合った彼方の工場からは、煙の糸が細くたなびいている。梅雨の季節に入って、空気は冷たく、肌に張り付く湿気を煩わしく思う。

 毎朝鏡の前に立って服をめくるたびに、錆の広がりを目の当たりにする。胸元や背中、内股などにも錆は散見されて、爪で掻くと硬質な感触と共に滓が落ちる。シャワーを浴びれば、流れていく水には色がついた。

 幻覚も妄想も、徐々に強度を増している。いずれはあらゆる現実に干渉し、見分けもつかなくなるだろう、と──未来を想う時、それだけが確固たるものとして像を結んでいる。

 ただでさえ閑静な一帯は、悪天にあっていっそうの静謐を纏っている。風に流された雨粒が窓に点々と跡を残し、その軌跡に触れれば微かな冷感が指先に宿った。伸びた髪を雑に束ね、身体の線に沿うレインコートを着た陰気な女が亡霊のようにうつっている。私はその顔を掌で覆い、視線と共に踵を返した。

 買い出しに向かうつもりだった。階段を下り、アパートの前に足を踏み出したところで、軒下に小さな影が蹲っているのに気がついた。元は白だったと思われる病衣のような服は薄汚れ、黒髪は乱れて垂れ下がり、表情は見えない。歳の頃は、十歳より少し上だろうか。

 どこかで、見覚えがある気がする。そのように予感が告げるけれど、私は目を逸らして、早足にその場を立ち去った。

 そうやって保留して、袋を下げて戻ってきても、少女はまだそこにいた。変わらない姿勢で、膝を抱えている。その様子に安易な同情を感じてしまうのは、私のエゴでしかないと思う。自分勝手な感傷だった。

 関わるべきじゃないと、頭では思う。

 私たちはきっと、生あるうちには正しさを選べない。現実の濁流に押し流されて、選び取ろうと伸ばした手は遠ざかってしまう。だから本来は、微睡みの中で夢を見るように生きるのが、一番賢いやり方なのだろう。

 本当はそうだ。以前は、それでも構わなかったのだと思う。

 けれど、私はもう賢明な側の人間じゃない。たとえ愚かでも、眼を見開いて、痛みを抱えて行くべきだと思わずにはいられなかった。苦しみを伴う選択の方が、より正しく、理にかなっているような気がしてならないから。

 近づいて見下ろすと、その矮躯を影が覆った。少女はのろのろと面を上げて、伸びきった前髪の隙間から私を見上げた。

 今度は、逸らさない。

 その場で、深く、深く、呼吸をする。そして私は、手を伸ばした。

 果たして、少女は不思議そうに首を傾げた後、ゆっくりと腕を持ち上げた。緩慢に指を掴む手は小さく、握る力はあまりにも頼りなかったが、どうにか立ち上がると、無言で私の後についてきた。階段を登る途中で転びそうになったので、思い切って抱きかかえたまま二階に上がった。

 ひとまずシャワー室に放り込み、脱がせた服を洗った。泥と垢とを濯ぎ落とすと、本来の白が戻る。その形状には見覚えがあって、私は自分の想像に、そのあまりにも残酷な考えに眩暈を覚える。

 地下研究所の揺籃区クレイドルで、マジックミラー越しに見た〝子供たち〟を覚えている。

 彼らの服は、こんなデザインではなかっただろうか。



 浴室を出た少女には服を貸し与えた。サイズはかなり大きく、何かと余る部分も多いが、袖を折れば問題にはならなそうだ。少女は私が何をしても抵抗の意志を見せなかったので、一連の流れに乗じて、ゴムで髪を束ねて顔が見えるようにした。その面立ちは〝子供たち〟と瓜二つで、一瞬息が詰まる。

 椅子に座るように言ってホットミルクを差し出すと、おずおずと口をつけた。私は対面の席に腰掛けて、それをぼんやりと眺めていた。

 三時間ほど、私たちは同じ空間で過ごし続けた。互いに沈黙を貫きながら、ゆるやかに時は過ぎて、幾らかの食事も振る舞った。例のごとく粥ではあったが、彼女には却ってよかったはずだ。思ったより、よく食べていた。

 玄関に向かう彼女に、余っていた薄青い傘を手渡した。これでいいのかという逡巡はあった。このまま帰してしまっていいのか、と。けれど、推測に過ぎない事柄に対して、既に当事者ですらない私が必要以上に首をつっこむべきではないのかもしれないとも思う。一時の雨宿りの関係に、肩入れをする理由はないのだと、私は言い聞かせる。自分自身でさえロクに救えない人間に、何ができるというのだろう。

 彼女は不慣れな様子で試行錯誤しながら傘をさすと、反応を待つように私のことを見つめた。

「また、気が向いたら来るといい」

 私が言うと、彼女はぎこちなく会釈をして、階段を下りていく。傘の青色は、ゆったりとした速度で建物の陰に消えていった。

 数日後、少女が私の元を訪ねてきた。扉を開けた先で、彼女はまた薄汚れていたけれど、その手には傘と一緒に薄紫の小さな花が握られていた。

「……菫?」

 花の種類には疎いが、それでも目星はついた。彼女は首肯して、それを私に差し出した。

 ずっと握られていたからか、わずかに萎れている。それでも、そのやわらかな色彩は、私の日々には十分すぎるほどに、鮮やかに煌いて見えた。

 私はドアを開けて道を譲り、彼女は小さな歩幅で敷居を跨ぐ。閉じていく鉄扉が甲高い音を立てた。

 そんなことが、何度か続いた。その度に私は少女を風呂に入れて、服を洗い、ホットミルクと食事を与えた。彼女が持ってきた花は、背の低い酒瓶に挿してテーブルに飾った。

 私が少女に居候の提案をするのも時間の問題だった。彼女は、私の言葉に対して迷うそぶりも見せなかった。

 彼女は名前を持たなかったので、私は印象的だった花の名前から、「スミレ」と呼ぶことにした。名前を呼ぶと彼女は嬉しそうに笑って、私はそんな姿を見て喜びを感じると同時に、たまらなく死んでしまいたくなる。私が平然と奪ってきたものの可能性が眼前にあるのだと思うと、呼吸の仕方がわからなくなる。

 スミレは物静かで大人しかった。おそらくは催眠学習によるものだが、彼女は識字能力も言語能力も優れていると言って差し支えなく、家に置いてある本を渡すと何も言わずにずっと読んでいる。彼女がソファで寝るようになった影響で私は寝室で眠るようになり、食事の品数が一つ二つ増えるようになった。朝も揺り起こされるから、生活リズムも必然的に変わる。スミレが話すのを苦手としているのと、私もコミュニケーションがないのを苦にするタイプではなかったのもあって、会話をすることはほとんどなかった。

 ただひたすらに、静かな時が過ぎていく。

 それは安寧の一つの形であったに違いなく、けれどその一方で、私はよりいっそう、薬を飲むことができなくなった。以前よりも明確に、心が、身体が、摂取することを拒絶している。〝子供たち〟の血肉で編まれた薬剤は、私の罪悪感の象徴だったからだ。

 ナオミも、スミレも、こんな私を責めはしないだろう。

 私のことを誰よりも赦せないのは、他でもない私自身なのだ。



 *     *



 ナオミとは外で会うことがほとんどだったが、たまに彼女の方から家を訪ねてくることがあった。親しさゆえの気兼ねなさで、事前の知らせなんてものはなく、そんな時は慌ててスミレを寝室に隠していた。

 彼女にはスミレのことを話していない。けれど、スミレが〝子供たち〟なのであれば、きっと探しているだろう。あまり、会わせたい相手ではなかった。

「薬、ちゃんと飲んでる?」

「もちろん」

 決まりきった問答の後、ナオミは私のことを凝視してから、ふっと相好を崩した。「顔色、良くなったね」

 私は自分の変化を実感していたけれど、「そうかな。どうだろう」と曖昧に誤魔化した。転機は明らかだったが、それを口にするのは残酷に過ぎ、裏切りを重ねることに近い気がした。

 瓶に生けた野花に触れながら、彼女はゆっくりと新薬開発の進捗を語った。「ようやく臨床試験が終わったの。ちゃんと効果もあった……後は、承認申請と審査だけね」

 私が「おめでとう」と口にすると、彼女ははにかんで、「ありがと」と言った。

 数分、ナオミは何も言わなかった。部屋の中を歩き回りながら、家具に指を這わせて何かを考えているようだった。私は椅子に座ったままそれを目で追って、彼女はやがて窓の側で動きを止める。

「ねぇ、燕雪イェンシュェ

 彼女がその呼び方をするのは珍しかった。髪を揺らして振り返り、私を正視して、感情を抑えた声で言葉を紡ぐ。

「私、頑張るから。あなたがまた立ち上がれるように……。だから、ぜんぶ良くなったら、また一緒に色んなことしようね」

 哀愁と、親愛と、期待と、いくつもの感情が綯い交ぜになった瞳だった。

 呼吸を、忘れていた。

「……ああ」

 どうにかして、声を絞り出す。

 身軽な独身同士、ナオミとはよく夜遅くまで遊んでいた。服や化粧品を買う、映画を見る、食事をする、ずっと話している。彼女の家に泊まることも多かった。今ではもう、行かなくなってしまったけれど。

 ナオミは、他の誰よりも、私自身よりも確かに、私のことを想ってくれている。何年も前からそうだった。私を受け入れ、私に与え、私を守ってくれようとしてくれている。ただの友達と呼ぶには、些か必死すぎるほどに。

 彼女の努力に応えられないまま、私はここに立っている。

 私はいつも、逃げてばかりだ。

「きっとね」

 後付けの保証は、一体どれほどの力を持つのだろう。

 ナオミは眉を八の字にしたまま、「うん」と頷いた。



 *     *



 陳さん、お薬はちゃんと飲めていますか。

 その言葉を聞くために、私は薬をもらいに行く。指定の病院はホウジョウの本社にほど近く、傘下にあることも相まってか、両者はどこか似た空気を纏っている。時折、かつてのことを思い出しては足を止め、振り払うように駆け足になる。末端から錆びつき崩れていく。こんな私は醜いだろうと、内から湧き起こるたった一つの証言から確信している。

 あれほど慣れ親しんだ都市中央部も、今となってはその過剰なまでの清潔さを耐え難く思う。不釣り合いだという感触、居心地の悪さ。ここで生きていたという事実はまるで夢のようで、今と比してどちらが悪夢だろうと考える。この世界において、心を病むことと適応することの違いを、私は自信を持って説明できない。

 病院の後、買い物を済ませてから家に帰ると、スミレが駆け寄ってきて荷物を持ってくれた。近頃は関わりも積極性を増し、彼女の方から接近することが増えてきていた。

「スミレ」

 食材を冷蔵庫にしまいながら声をかけると、彼女は林檎を手にしたまま首を傾げた。前髪を整えた彼女は、ごく普通の女の子と相違なく見える。あまり目立つ風でもなく、いささか造形が整い過ぎているきらいはあるが、往来をゆく子供との差異も特には感じられない。

 私は一度逡巡してから、思い切って言った。

「午後は、少し出かけようか」

 しばしの間をあけて、静かな肯定が返る。続けて差し出された林檎を受け取り、野菜室に入れた。

 外出については、以前から考えていたことではあった。いつまでもサイズの合わない服を着せておくわけにもいかない。生活が少しでも安らかであるように、彼女に適したものを揃えてやりたかった。

 それに、外の世界に触れることは、スミレにとっても悪い刺激ではないはずだ。ずっと室内に押し込めているのでは、地下にいるのと何も変わらない。

 少しでも体験を増やしてやりたい。私の庇護を抜きにしても、この場所で生きていけるようにしてやりたい。それは彼女のためという以上に、私自身のエゴに塗れた贖罪として意味を持つ。救われる術は、他に思いつかない。

 昼食にはまた粥を食べた。椀の周囲の小皿には、最近になって買い始めた梅干しや漬け物がポツポツと載っており、スミレはいささか覚束ないながらも、上手く箸を使ってそれらを摘んだ。梅干しを口に入れた時の顔は何とも言えない味があって、私はその様子を見るのが好きだった。柔軟とは言い難い表情筋がきゅっと窄まる様は、実に人間的だ。

 私一人なら塩だけで十分だったものが、彼女の存在を契機に何かと工夫するようになった。成長のための栄養を思い、五感の体験を考えるようになった。矛盾しているのはわかっていた。貫けない弱さを自覚していた。それでも、罪は私にのみ帰属して、他の誰をも侵すものではないのだと思う。健やかであれと願うこと。生きるようにと手を尽くすこと。都市の孕む冷たい論理でなしに、なけなしの熱でそれを与えられるのなら、私はまだ人であったと言える気がする──ナオミが私に願うのと同じように。

 空はよく晴れ渡っている。服に着られた状態のスミレが、私を見上げて手を差し出した。私は出会った時の光景を思い出し、苦笑しながらその手を握る。

「さ、行こう」

 いつまでこんなことを続けられるのだろうと考える。目を開けてみれば永遠の不在は明らかで、しかし終幕の時ばかりが計り知れない。

 けれど、大地にこびりついた足を引き剥がし、裂けた皮膚のまま血を滴らせても、この重苦しい足を動かさなければと思う。

 終末に追いつかれぬように。

 眼前で生きる少女が、錆に覆われぬように。

 この手を引いて行くことが、いつか私の愚かしさを赦すだろう。



 中心部の複合商業施設や大型店舗は人目につき過ぎると踏んで、家から徒歩で移動可能な範囲に目的地を絞った。初回は手軽に、気楽な方がお互いにとっても良いはずだ。

 都市の中心部から遠ざかるほど、街の色彩は雑多なものに変わっていく。白から鈍色、そして微かに混じる赤褐色へ。そこから更に奥を見れば、〈涅胎化ねったいか〉によって有機物を分解する死の領域となった海は、光を吸って暗く黒く、人の住めない沿岸部は巨大な自動工場が幾何学的な稜線を連ねている。

 ホウジョウ製薬本社の高層からは、そんな景色が一望できた。コーヒーの入ったマグを片手に佇んだのも、今となっては懐かしい記憶だ。

 自分の所在を思う時、頭に浮かぶのはその映像だった。都市の中心にいたあの頃から、私はどんどん遠ざかっている。染みひとつない白皙は、汚濁し錆び付いた血と相反し、スミレと歩む道はその間で色褪せたまま。そして私のふやけた脳みそは、外周より迫り来る腐食の群れを幻視して、その這い寄るざらつきから逃れようと、スミレのあどけない顔を繰り返し見つめている。

 買い物で悩むのは随分と久しぶりで、私は試着室を前に何度も唸った。自分のものはシンプルなのが楽だとルールを課していられるのに、人のものを選ぶとなると如何ともし難い。壁に埋め込まれたディスプレイには、スミレの体格や肌の色、トレンドなどから組み合わせが提案されるが、それに従うのも癪だった。

 悩みに悩み、結局、スミレ自身の直感で選んでもらうのが最善だと思い至った。私がいくら考えたところで、スミレを着せ替え人形にしてしまうのでは意味がない。最初の一着は、それだけで特別になるだろうから。

 いくつかの店を一緒に回り、その都度気になるものはあるかとスミレに尋ねた。何度目かの否定の後、店頭に表示された家族連れの三次元モデルを前に、彼女は立ち止まった。

「……これがいいの?」

 視線の先には、白いワンピースを纏う少女がいる。彼女は前を向いたまま、「うん」と頷いた。

 それは病衣にも似て、私は自然と、スミレの本来あるべき姿を思い起こす。

 薄汚れたあの服を。均一と無垢、消費の象徴たる、無駄を排した白色を。

 〝子供たち〟も、この仮想の少女のように無邪気に微笑んでいるべきではなかったか。

 子供たちのはしゃぐ声。大人たちの嘆息。老人たちの足音。

 誰一人として、自分たちの健康が何の上に成り立っているかを知らない。当たり前を消費し、その気軽さのために省みることもない。どんな真実を知ったところで、この基準は変わらないだろう。私たちは単一の技術にあまりにも依存するがゆえに、その泥濘から抜け出すこと能わない。

 私も、スミレも、ナオミでさえも。

 死ぬのは怖い。けれど、それと同じくらいに、生きていくのも怖いと思う。

「きっと、スミレによく似合うよ」

 膝をつき、その細い身体を抱きしめる。いつでも手折れてしまいそうな脆弱さを、両の腕で、持てる限りの慈しみで。背に回された手も、頬を寄せた首筋も、確かな感触を返している。生きている。存在している。何よりもまず、祝福されるべきであったと思う。

「うん」

 小さな声は耳元で溶け、跡形も残らない。

 けれど私は、その弱々しい意志の音色を、ずっと覚えていようと思う。

 都市の誰もが、不可視の犠牲を厭わないとしても。

 この記憶が、静かに花開く意識の所在を、いつまでも私に証明するのだ。 



 夜、度数の高い酒で喉を焼きながら、何度も繰り返し見た映画を眺めていると、スミレが目を擦りながら起きてきた。買ったばかりの寝間着はよく似合って愛らしい。彼女は私の隣に腰を下ろし、身体を預けて画面に目を向ける。

「眠れない?」

 再生を停止して言うと、彼女は小さく頷いた。「刺激的かもよ」私が言うと、彼女は「平気」と言って服の裾を引いた。肩を竦めて、再開する。

 画面の中には、静寂に満ちた夜の海辺が映っている。工場と道沿いに連なった電灯、そして月の明かりばかりが煌々と照って、波に反射する光の筋は、複雑な曼荼羅模様にも見える。隣を見ると、スミレの瞳は光の瞬きを映して、うっすらと輝いていた。

 私は生まれてこの方、本物の青い海を見たことがない。〈涅胎化ねったいか〉は異常災害の原初に近く、私の知る海は最初から黒ずんでいた。今は古い映像にその影が記録されているのみで、ジャンルを問わず、海の見える映画を見ることが、以前から続く私の数少ない趣味だった。

 しばらくの間、沈黙が続いた。スミレはいつにも増して静かだったが、眠たげな様子はない。私は、寝物語でも、と、彼女に語りかける。「私はね──」

「──以前、ホウジョウ製薬にいたんだ。研究所で、薬の開発に携わっていた」

 見下ろすと、スミレと視線が交錯した。ホウジョウの名前に反応したようだった。私は苦笑して、「あなたが前にいたところだよ」と言った。

「どうして、逃げ出してきた?」

 できる限り柔らかい語調で問うと、彼女は「逃げようと、思ったわけじゃない」と呟くように言って、視線を外した。

「みんなで、誰かを外に出してみようって、なって。誰でもよかった。たまたま、私だっただけ……」

 たどたどしく言いながら、彼女は画面を見る。「……映画、初めて見た。知っては、いたけど」

「……後悔してる?」

 問いかけに、彼女は首を振った。「わからない」

 それから、でも、と続けて、

「今、私はここにいる。それがわかるのは、嬉しい」

 無意味じゃなかった、とスミレは言った。

 私は、唇を噛む。

 それは、赦しの言葉でも、断罪の言葉でもない。

 私も彼女も、いつ割れるとも知れない薄氷うすらいの上を歩いている。その下の水底には、これまでに死んでいったたくさんの〝子供たち〟と、これから死んでいくそれ以上の人々の骸が積み重なって、どん詰まりの世界で、食い物にし、食い物にされてきたすべてが、錆に侵され死んでいく。

 私たちもいつか、そこへと至るのだ。

 少女の皮膚は裂かれ、溢れ出る血は飲み干される。肉と臓器は貪り食われ、彼女のまなこは抉られて、暗い眼窩の奥に眠る脳みそさえも吸われていく。我ら悪食の徒、治療されるべき、病んだ人々によって。

「スミレ」

 声をかけると、彼女は無言のままに首を傾げた。私はじっと、数週間を共にしてきたそのあどけない顔立ちを見つめ、それから密かに息を吐く。

「ごめんね」

 彼女は小さな声で「よくわからない」と呟いた。

 私は「そうだね」と言って、彼女の頭を撫でる。髪は冷やかな感触を伴って、指の隙間からこぼれていく。まだ幼く小さな手を取ると、彼女は頼りない力で握り返した。

 その日、私たちはソファで肩を寄せ合って眠りについた。彼女の肌は生命の温もりに満ちて、指先で手首に触れれば鼓動が伝わってくる。肩を抱いて瞼を閉じるうちに、自傷に似た酩酊は微睡みの淵でいつしか朧げになり、とうに倦んだはずの光景も、時間の中に溶けていくような気がした。



 *     *



 夢を見た。

 あるいは、記憶の想起であったかもしれない。

 手元のタブレットに、チェックリストが映し出されている。リストの文字はよく見えない。ただ、そこに何が書かれているのか、自分が何をするためにそれを持っているのかはよくわかっていた。私は白衣を着ていて、周囲には人の気配がある。薄っぺらな存在感で私を取り巻いている。

 目の前には大きな鋼鉄の保管庫がある。いちいち認証を通さなければ開けることのできない棚がたくさん並んでいて、私はそれを開きながらリストに必要事項を記入していく。これはある。これもある。少し減っている。変わっていない。チェックをつける。次に進む。ひたすらそれを続けていく。中にあるものに対して特別思うことはない。何年も働くうちに見慣れたものだった。感覚は麻痺して、生きやすいように調節されている。

 何も思わない。ただ、そこにあるだけ。

 いつの間にか、私は作業を終えている。足りない分を補充するための申請書はナオミに手伝ってもらおうと思う。それから、一苦労だった、というようなことを呟いて、別の仕事に移っていく。

 やるべきことは決まっている。私は手順に従って、自分がチェックした保管庫から試料を取り出し、動物実験のためのサンプルを作っていく。本来の形を崩し、分離し、撹拌し、抽出し、必要な成分だけが最後に残る。こんなことも、幾度繰り返してきたかわからないと思う。よほど注意散漫でない限り、失敗することもない。

 ひと区切りついたところで、ナオミが部屋に入ってくるのが機材の合間から見えた。私の姿を認めると笑顔で寄ってきて、「調子は?」と尋ねてくる。「無問題モーマンタイ」作成した薬剤サンプルを傍に避けつつ答えた。「どうかした?」

「時間ができたから寄ってみたの。少し前に、揺籃区クレイドルの様子を見に行きたいって言ってたから、どうかなと思って」

 自分がどう答えたのかはわからなかった。たんに「ああ」と言った気もするし、喉の奥で呻いた気もする。「そうだったかな」と拙く取り繕ったかもしれない。私は気がつくとナオミの背を追っていて、地下へと向かう道すがら、どうしてあんなことを言ったのかと考えている。どうしても、思い出せない。

 青白い通路を歩むごとに、紡錘形の槽は数を増した。左右に連なるガラスの先では、自動化された保育機ナニーたちが、培養槽と〝子供たち〟のメンテナンスに明け暮れている。焦点をずらすと前進する私とナオミの姿が映り、着用を義務付けられたロゴ付きの白衣が、換気の風に翻っていた。

 施設奥部の観察室からは収穫間近の〝子供たち〟が見え、傍に立つナオミが私に微笑みを向ける。

「最近は質のばらつきもなくなってきてね。いい感じ」

 そこには自身の仕事が順調に進んでいることへの純粋な喜びがある。ナオミは私たちのチームと合同で新薬の開発を行う傍ら、揺籃区クレイドルでの品質管理にも一部携わっていた。

「それはよかった」私はぼんやりと口にして、口角を上げて見せる。「お互い順調で何より」

 再び視線を下ろした先では、白い病衣を纏った〝子供たち〟が、最小限に割り振られた個室セルの中で緩慢に蠢いている。彼らは収穫直前に培養槽を卒業し、徹底的な品質管理の元、この場所で最後の時を過ごす。微睡みのために継続的な薬物投与を受け、明確な自己を持つこともない。ここから何がしかの個人・・が生まれるのなら、それは奇跡に等しいことだ。

 被検体をもらうために、揺籃区クレイドルには幾度も訪れていた。ナオミと一緒の時も、一人の時も、他の職員と来る時もあった。その度に、私は区画の担当者と話しながら、彼らの姿を見下ろして平然としていたものだった。個体差なんてわかりっこない。どれも同じに見えたし、事実としてその機能に差異はなかった。情動が喚起される余地などなく、それは荒涼とした大地に転がる枯れ木の群れと相違なかった。

 何も思わない。ただ、そこにあるだけ。

 そう脳裏で呟きながら、代わり映えない日々を重ねていた。職務があり、休息があり、ナオミと繋ぐ熱があった。解決すべき課題があり、穏やかな午睡があり、ささやかな温もりに包まれていた。それ以上は何もなかった。そのはずだった、と軋む拍動の中で私は息を吐く。まだ幼い〝子供たち〟。たくさんの経験と情動を秘めた未成熟な脳みそたち。彼らのとろりとおりた瞼さえも、私たちには意味・・がある。

 その誕生から終末までを、よく知っている。その先に広がる旅路の果てが、いったいどこにあるのかも。

 ただ、言葉にするのを恐れていた。ただ、見つめることを疎んでいた。だから私はここ・・まで来たのだと、理解しているはずだったのに。

「……彼らはきっと、私たちを助けてくれるだろうね」

 口から溢れるのは、毒にも薬にもなれない言葉ばかりだ。

 殺してやれない。治療することもままならない。

 そのことの愚かしさを、私はここに来てようやく、知ったのだと思う。

「この都市のすべての人を、ね」

 ナオミはそう言って、互いの指をそっと絡める。私はなすがままに、「うん、そうだね」と呟いた。


 そこで、私は初めてあの音を聞いた。

 どこかで生命が錆びゆく音を。蠕動し侵食する、不可逆の呪いを。

 観察室の暗がりから、〝子供たち〟の内奥から、私の身体の断片から。

 握り締めた手の中で、ざらりと何かが崩れていく。

 夢はいつか覚める。

 目を逸らしていた日々は、その瞼を開く。

 生命が錆び、絶えゆくのと同じだけの確からしさで。



 *     *



「おかえり、ツバキ」

 病院から帰ると、扉を開けた先には見知った顔があった。

 私は立ち止まって、思わぬ来客に目を瞬かせる。

「ナオミ……?」

 彼女はソファの背に寄りかかりながら、こちらを見つめている。

 ナオミと顔を合わせるのは久しぶりだった。ここしばらくは彼女が多忙で、声だけのやり取りになることが多かったからだ。

 近づいていくと、その顔には色濃い疲労が滲み、目元にはくっきりと隈が浮いていた。

「ひどい顔だ」

 処方箋の入った袋をテーブルに置きながら言うと、彼女からは「うん」と力ない肯定が返る。前に会った時よりも格段にやつれて、その様子はいつかの私によく似ている。

 リビングにスミレの姿はない。うまいこと寝室に隠れられたようで、内心で胸を撫で下ろす。

 彼女はじっと押し黙っている。珍しいな、と思う。そんな姿を見るのは、いつ以来だろう。

「……ごめんね、急に押しかけて」

「何を今更。いつもアポなんて入れてないでしょ」

 肩を竦めると、彼女は「それもそうね」と目を細めて笑った。私はその様を見て、これじゃどちらが病人かわからないな、と密かに嘆息する。

「ちょっと、服片付けてくる」

 私はナオミにそう断ってから、寝室に向かった。背中に彼女の視線を感じるが、スミレの様子は一旦確認しておきたかった。

 ドアを開け、身体を滑り込ませて視線を巡らせるけれど、スミレの姿も気配もない。「……スミレ?」小声で呼びかけても返事はなく、ぐるりと一周したところで、それは変わらなかった。「スミレ?」ベッドの下を見る。クローゼットを開ける。窓が開いた様子はない。……いない。

 こみ上げる焦燥感を押し留め、慌てるあまりどこか別のところに隠れたのかもしれない、と考える。洗面所、浴槽の中……。可能性はある。私は両手で顔を撫で、「よし」と呟いて部屋を出る。手を洗うフリをして、洗面所と浴槽を見る。……いない。同じ要領でトイレを確認する。……いない。

 どこに行った?

「彼女なら、いないよ」

 それがナオミから発せられた言葉だと、すぐには理解できなかった。「あの子は、もう戻ってこない。帰るべき場所に、帰ったの」

「……え?」

 私は硬直して、薄暗い廊下から、項垂れた彼女を見る。

「ねぇ、ツバキ……気づいてないかもしれないけれどね、あなたは、嘘をつくのがとても下手」

 平然であろうという痛々しい努力が滲む声で、彼女は言った。「……ナオミ?」

「でもね、ずっと嘘をついてたのは、私の方。だから──」

 その意味を想像し、やめろ、やめてくれ、と頭蓋の中で悲鳴が木霊する。けれどそいつはどこへも行けずに、牢獄の中で、蟠る。

 彼女が私を見る。その悲しげな微笑みを、私は知っていた。

「──ごめんね」


 自分の身体だとは、思えなかった。

 私は彼女に猛然と掴みかかり、その身体を至近距離に引き寄せる。「ナオミッ」声と主体は乖離して、自分がどこにいるのかを見失っている。彼女はただ、悲しげな視線を寄越すばかり。「どうしてッ」彼女の服からは、雨の匂いがした。

 彼女は目を伏せて、答えを告げる。

「……あの子がいると、あなたの症状はもっともっと悪化していく。薬も飲めずに、いつか死んじゃうんじゃないかって思ってた。ずっと苦しそうな顔して、罪悪感に目元を歪ませて……」

「そんなこと!」

「本当にないって言える!?」

 私の叫びをかき消すように彼女は言った。私を突き飛ばし、服の上から胸元に爪を立てる。

 ガリ、と小さく音がした。

「……ツバキ、あなたが消えてしまうのに、私はきっと耐えられない。だから、私はあなたの首を絞めてでも、あなたを生かすの」

「っ」

 ナオミの両肩を掴み、そのまま後ろに押し倒す。ソファの背に引っかかり、私も彼女もその上にもつれ込む。ナオミを下敷きにして、腕を拘束しながら、私は叫ぶ。「彼女はもう〝子供たち〟とは違う! れっきとした個人なんだ! 殺されるんだぞ!」

「それでもッ!」ナオミが必死に声を返す。

「それでも、あなたが死ぬよりずっとマシ!」

 瞳は濡れて、彼女は卑屈な懇願のように、弱々しく微笑んだ。

「ねぇ、どこにもいかないで……」



 私とスミレは、薄氷の上を歩いていた。どちらが落ちるとも知れない、そんな場所を。

 落ちていくのは一人だけ。二人分は支えられずに、いつかは、終わる。

 ただ、私にはナオミがいたというだけの話だった。

 ただ、彼女には何もなかったというだけの話だった。

 私は、沈みゆく少女に手を伸ばせない。彼女は錆に侵されて死んでいく。私がいくら嘆いたところで、意味はなく。

 ナオミにとっては、私との関係がそれだったのだ。

 食人は、今やその具体性を失って、意識されることもない。自分の与り知らぬところで誰かが死んで、その肉体のどの部位とも知れぬものを摂取するとして、一体どれだけの罪になる? 正義は私たちの手の中にある。最適化された治療の手段が悪であるなどと、どの口が言えたというのだろう。

 どこまでも間違い続けたのは、この私ではなかったか。

 真に病んでいたのは、一体誰だったのだろう。

「っぅ……」

 世界が霞むのは、痛むからだ。終末の旋律を奏でながら、世界と一緒にこの重たい肉塊が錆びてゆくからだ。

 ぐらりと視界が揺れて、私は転げ落ちる。「……ツバキ?」声が聞こえる。強かに打ちつけた半身が、鈍痛を訴える。身を起こそうと手を置いたテーブルの上で、何かに触れた。

 床に落としたそれは、処方箋の袋だ。私は感覚の定まらないまま、手を突っ込んで、錠剤を掻き出していく。「ねぇっ、どうしたの!?」伸ばされた彼女の手を反射的に払う。ごめんね、ごめん、ナオミ。でもどうしようもないんだよ。どうしようも……。

 床に這い蹲って皮膚に爪を立てる。食いしばった歯から漏れる呼気は、じくじくと熱を帯びた。

 私たちは、彼女たちの生によって生かされている。この不可逆に錆びてゆく世界で、その生命の劣化を遅延させるには必要な犠牲なのだと、暗示するように囁き続けている。

 ゆえにそれは、聖餐なのだと思う。

 私は、錠剤を噛み砕いていく。

 スミレは間も無く、その呼吸を止めるだろう。投与された薬物が彼女を殺す。生命の波は凪いで、愛されるべきだった髪と肉と骨と脂肪と内臓と皮膚と血液と脳は、彼女たちの意識は、魂は、粉々に砕かれて、もはやこの小さく白い粒にすら宿らずに、永遠に失われ、見出すこともままならない。

 もしそれでもこの一つ一つに何かを見ようというのなら、それは病んだ夢幻ゆめまぼろしの類であって、否応なしに治療されるべきものだったのだ。

 なぜなら、

 そのためにこそ、スミレたちは存在するのだから。

 そのためにこそ、ナオミは努力を重ねたのだから。

 そのためにこそ、ツバキわたしはきっと病んだのだから。

 ナオミの動揺と恐怖が手に取るようにわかる。ナオミごめん、ごめん、と言葉が泡沫のように弾け、奥底に抱えた泥が、膿が、私をひどく、酩酊させる。

 もう、耐えられなかった。

 床に両手をつく。「げ、ぇ……」粘膜の上を、どろりとしたものが流れ落ちていく。吐息は重く酸性を帯びて、食道を焼いた。「っぇ……」繰り返し、もう一度。今度は少量の胃液だけが、唇を撫でていった。

 ナオミの嗚咽が反響する。私が望んだことだ。私が定めた運命だと思った。なのにどうしても、「もう嫌だ」なんて戯言が口からまろび出る。糸を引く唾液は皮膚に触れると冷ややかで、鼻を突く刺激臭に涙が出て止まらなかった。

 痛んでいるべきだった。助けて欲しかった。

 そんな願いも、大切なもの一つ守れない私には、自分自身にさえ無力なこの私には、過ぎたものなのだろうか。対象のない祈りは、どこへも届かずに霧散するのが宿命なのだろうか。

 信仰はない。

 だから、沈黙を貫く神の肉体もまた、どこかで錆びているに違いないと、朧げな世界を見て、思う。

 吐瀉物を見下ろす中で、私のものでない押し殺した息遣いが、意識の上を滑っていく。

 私はここにいる。

 ゆえにこそ、悲鳴は遠く、祈りは沈み、輝きは褪せて。

 生命は、錆びていくのだ。



 *     *



 窓ガラスから差し込む光は、淡い。

 うっすらと舞う埃を映し出して、床に、壁に、朧げな染みをつくる。観葉植物の葉がつやつやと輝いて、食卓に残されたパンの欠片はどこか所在なさげに見える。

「薬、ちゃんと飲んだ?」

 黙って首を振ると、視界の外で吐息が漏れた。顔を向けると、彼女が眉を八の字にして微笑んでいる。

「飲んでね」

「……ああ」

「仕事、行ってくるから。洗い物よろしくね」

 忙しなく玄関へと向かう背中に、私はまた「ああ」と返事をする。

 彼女が去った部屋で、私はまた窓の外に目を向けて、かたわらでパンが錆びる音を聞く。

 しばらくしてから、幾つかの錠剤を水で飲みくだす。喉に引っ掛かるのを、無理やり押し流していく。朝食と水と薬が混じり合って、胃の中に満ちる。

 すべてのものが錆びていく音がする。

 ゆるやかに、けれど絶え間なく。時のある限り、何もかも、誰も彼もが錆びついていくのだと確信している。

 これは、私たちに課された、生命いのちの聖餐だ。

 私は、彼女たちを抱えて死んでいく。

 他の生き方は、もう、知らない。

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錆生餐 伊島糸雨 @shiu_itoh

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