カメムシ思想記
SSS(隠れ里)
カメムシ思想記
零、プロローグ
転輪聖王リュンヌは、白い海から世界を創造した。
精霊世界リテリュスの誕生だ。
転輪聖王リュンヌが去ったこの世界には、捻じ曲げられた英雄譚や叙事詩であふれている。
世界を支配した宗教国家リュンヌ教国は、神話にまつわる物語を積極的に利用してきた。
英雄や偉人のように立派な人間を目指すこと。そのためには、信仰が大事だと教えるためである。
時はさかのぼること、神話の終わり。
転輪聖王リュンヌ率いる白き民と阿修羅王エールデ率いる黒き民との戦いが勃発。
果てしない戦いは、転輪聖王リュンヌが、からくも勝利した。
疲弊した転輪聖王リュンヌは、白き民に荒廃したリテリュスの再生を託した。
転輪聖王リュンヌは、天道と呼ばれる場所に去っていったのだ。
やがて、白き民の一種族であった人間が、あらゆることに野望をいだきはじめた。
その結果が、リュンヌ教国の建国。多くの白き民の反対を押し切っての建国であった。
世界は、転輪聖王リュンヌを崇める人間の国によって、事実上支配されたのである。
人間を中心とする世界。
そのような状況であっても英雄譚、叙事詩、伝記の主役は、すべて人間が主役の話とは限らない。
人間以外の話は、人気もなく残す価値もないとリュンヌ教国に捨てられてきた。
ただ、残された話もいくつかある。
その一つ、カメムシ思想記と名付けられた伝記がある。
本編には、人間が一切出てこない伝記であった。それは、渡り鳥から吟遊詩人に伝えられ……
一、人気者になろう
精霊世界リテリュスには、七つの大陸がある。
白い海ことドゥオール海に浮かぶ、一番大きな大陸。リュンヌ教国の総本山。
アンフェール大陸。
リュンヌ教国と起源を同じくする兄弟国イストワール王国には、人間を寄せ付けない岩山がある。
オロル山と呼ばれ、そのふもとの森には様々な生き物が暮らしている。
その中でも、カメムシという昆虫は白き民に連なっていたが、孤独な種族であった。
ある日のこと。
同族から、変わった思考を持つカメムシとして、仲間外れにされる一匹のカメムシがいた。
✢✢✢
僕は、つねづね考えていた。ホタルのような人気者になりたいと。
群れの仲間たちにその思いを打ち明ける。反応は、悪かった。賛同者もいないのだ。
ホタルは、ただ光るだけで、か弱くセミほどにしか生きられない。
そのような虫になりたいなど、変なやつだと。
それ以来、仲間外れにされるようになった。
「たとえ、短い一生であったとしても誰かを楽しませたり、癒やしたり、役に立ちたい……」
僕は、明け方の空に向かって独り言を呟いた。しかし、いい方法が思いつかないのだ。
どんなに頑張っても、体の一部も光らせることができない。
そこで、オロル山のふもとにある泉に住んでいる不思議な亀に知恵を借りることにしたのだ。
何が不思議なのか。とても亀に見えないからだ。目撃者たちは、口をそろえて言う。
ほんとうに亀ではなかったと。
不思議な亀と呼ばれていても、オロル山のふもとの森では、一番の智者であることは間違いない。
「亀様なら大丈夫。知らないことはないはず。きっと、僕が、ホタルのような人気者になれる方法を教えてくれるに決まってるんだ」
僕は、まだ眠っている仲間たちに聞こえないように誓う。
僕が、森の人気者になり、カメムシが、爪弾きにされない世界の到来をもたらす。
必ずもたらすと、登ってくる太陽を見つめながら、力強く何度も宣言したのだ。
たった一匹で、静かに、不思議な亀の住む泉に向かったのだった。
✢
森の深い奥の奥にその泉は、存在する。ラピスラズリに輝く地下水が湧き出る場所。
ラピスラズリの色に見えるのは、泉のそこに自生する紫色の水草の影響である。
その泉の中央には、大きな岩が顔を出していた。
よく不思議な亀が、甲羅干しをする場所なのだというが、今はいないようだ。
「亀様、亀様。どうか、ご尊顔をお見せ下さい!!」
僕は、不思議な亀が泉の底にいても聞こえるように大きな声でお願いした。
「うん、何だナス?」
泉からナスビのような物体が、顔をのぞかせる。
頭にあるのは、ヘタなのだろうか。大きな目と長いまつ毛をしばたかせていた。
まっすぐに僕を見つめている。
「え、亀様……は、どこに……」
僕は、邪魔くさそうにチョビ髭をなでるナスビを見て、不思議な亀の居場所をたずねる。
「いかにも、ミーでナス」
僕は、もう一度、問を重ねた。やはり、同じ答えが返ってくる。
不思議な亀を名乗るナスビは、めんどくさそうに舌打ちをすると、泉の中央にある岩へと上陸した。
亀を名乗るナスビの背中には、八角形の甲羅のようなものがついている。
どう贔屓目に見ても見た目は、亀のふりをしたナスビであった。
「亀さ……」
僕は、頭を横にふる。
この亀のようなナスビをオロル山周辺で、一番頭の良い亀と思って話そうと覚悟した。
それほどまでに悩んでいたのだ。
「亀様。僕は、人気者になりたいのです。どうしたら、良いのでしょうか?」
僕は、ドキドキと踊り狂う心臓を手で押さえて、亀の答えを待った。
沈黙が、二匹の視線が、交差する。
「はぁ、なんナス? 人気者になりたいナス? なんでナス?」
亀の語尾は、ナスビであることを白状しているようだった。
僕は、それでも亀だと信じることにする。本当に、ワラをもつかむ気持ちであったのだ。
「そうです。ホタルのような人気者になりたいと思っております」
僕は、これまでのことを語った。
生まれてはじめてホタルを見たときの神々しさ。
臭い臭いとバカにされた幼少期。
臭さを自慢する群れの仲間たち。
毎日が、自己嫌悪で、出口のない暗闇であったことなどをせつせつと亀に語った。
「だからこそ、多くの存在を癒やすホタルのような存在になりたいと思いました」
亀は、頭のヘタでチョビ髭をかきながら口と思しき部分をへの字に曲げていた。
「なんで、自分に人気がないと思ったナス?」
亀は、僕の問いに答えない。それどころか質問をしてきた。
これほど、一生懸命に説明したのにである。
答えを聞きたいと、焦る僕を生気のない目で見てくるのだ。
「ええと……。クサイ臭いでしょうか? 僕は、日に何度も水浴びをしているのですが……。臭いは、消えません」
僕は、そう答えた。亀は、岩場を少し回りながら「うーん、うーん」と、唸っていた。
僕は、それを目で追った。
そうして、小一時間は、岩場を回っていたが、突如として声をあげた亀。
「ハナムグリを知っているナス?」
僕は、同じ昆虫であることしか知らなかった。
なぜなら、僕が近づくと大抵の存在は、悲鳴をあげて逃げていくからである。
「詳しくは、存じません……」
亀は、頭のヘタでチョビ髭をしきりになでながら唸り声をあげた。
「臭いのせいで、人気者になれないと言うならハナムグリに聞いてみるがいいナス」
亀は、そのように淡々と答えた。
僕は、その答えに対して近づいても逃げられるだけではないかと不安を述べる。
ハナムグリは、体力も飛行能力でも僕らカメムシを圧倒しているのだ。
追いかけることも、追いつくこともできないのである。
「紹介状を書いてやるナス。それならば、逃げられることもないナス」
亀は、そう言うと甲羅の中から紙とペンを取り出して、サラサラとなにかを書きはじめた。
「そら、紹介状ナス。人気者になれたのなら、お礼を持ってまた来るナスよ?」
亀は、そのように言うと、泉の中に飛び込んで消えて行った。
岩場には、紹介状だけが置かれている。少し待ってみたが、亀は現れなかった。
「僕は、必ずや人気者になる……。クサイだけの嫌われ者なんてまっぴらごめんだ……」
僕は、岩場に置かれた紹介状を懐に入れて、ハナムグリを探すべく森を飛びまわるのだった。
二、ハナムグリ
僕は、亀にもらった紹介状を大事に
一度、巣に帰ってバックに入れてから、再出発しても問題はなかった。
しかし、なによりも早くハナムグリに会って、紹介状を渡したかったのである。
僕は、前にハナムグリと遭遇したオロル山の森の中にあるタンポポの群生地を目指した。
カメムシは、森の昆虫たちに嫌われており、どの昆虫たちとも交友がないのだ。
だから、ハナムグリの住処もわからない。
カメムシは、一生カメムシだ。
見るもの、聞くもの、触れるもの、すべてカメムシにはじまりカメムシに終わる。
父母に教わった言葉である。
僕は、そんな考えに疑問を持って何度かカメムシの巣から外に出た。
そこで、ハナムグリに出会ったのだ。
亀にも話したとおり、この匂いのせいで逃げられた。僕は、そこで父母の言葉の意味を知ったのだ。
僕は、タンポポの群生地にたどり着いた。
黄色い小さな花が、風に揺れている。緑色の茎や葉が、ところどころに見え隠れしていた。
太陽に照らされたタンポポは、まるでトパーズのように輝いている。
黄色の宝石の上を白い蝶が舞う。
小さな羽を震わせる蜂が、羽音を響かせる。
とても良い匂いが、風に乗って、僕の鼻先を優しくかすめていく。
僕は、遠くからそれを覗き見ていた。
たくさんの人気者たちが、優雅に、力強く、舞うなかにハナムグリを見つけたのである。
「ハ、ハナムグリさーん」
僕は、意を決してタンポポの群生地に侵入した。ハナムグリは、僕に気づくと顔色を変えた。
蝶は、タンポポの緑の葉の裏に隠れた。
蜂は、身体を小刻みに震わせる。カチカチと、音を鳴らした。
「うわッ、クサムシ……。なんでここに……」
ハナムグリは、タンポポから飛び立つと、こちらを見ないようにして逃げ出した。
僕は、紹介状を臭腺開口域から取り出した。大きな声で「亀様からの紹介状です!!」と、言った。
ところが、臭腺開口域から取り出されたのは、紹介状だけではない。
クサイ分泌液も一緒に取り出されたのだった。
タンポポの群生地には、花の匂いをかき消すほどの臭気が風に乗ってただよった。
蜂が、呼んだと思われる援軍も引き返していく。
クサイ臭いに、タンポポの群生地は、狂気の渦に飲まれた。
僕は、タンポポや他の虫たちに謝りながらハナムグリを追跡するために全力で飛び抜けた。
✢
「はぁ、はぁ、はぁ。やっぱりハナムグリは、はやくて体力もすごいなぁ……」
僕は、途中でハナムグリを完全に見失った。
それでも、あきらめずに飛んだ。その先に、ハナムグリの巣を見つけたのだ。
僕は、疲れを癒やしながら遠くから様子をうかがうことにした。
すっかりとクシャクシャになった紹介状のシワを伸ばして、再び臭腺開口域に入れた。
見たこともない花々が咲いていたが、タンポポだけは見ることができなかった。
赤い花、紫の花、青い花、白い花。いずれも太陽に向かって堂々と体を広げている。
僕は、故郷のみんなを思い出した。太陽の届かない森の奥で、肩を寄せ合って生きる。
樹液をすすりながら、たまに咲く名も知らない花をごちそうにしていたのだった。
僕は、カメムシでも人気者になれば、あの暗い森から抜け出せる。
他の虫たちとタンポポの群生地も、蝶たちの楽園だろうと自由に行き来できるはずだと想像する。
ハナムグリは、赤い花の中に入っていく。体が見えないくらい奥へと入る。
他にも数匹のハナムグリがそうやって花の奥に入っていく。
(奥にある蜜を吸っているのかな……。美味しそうだ。僕たちの住む場所なら、花がすぐに枯れてしまうのに……)
カメムシの縄張りに、たまに咲く花は、カメムシたちが争いながら蜜を吸うのだ。
ところが、一匹、二匹が吸うとすぐに花は枯れてしまう。
だから、花の蜜を吸えるのは、常に強いカメムシだけなのだ。
しかし、ホタルのような人気者になれば花も枯れることはない。
そもそも、どこへだって行けるのだから自由に花の蜜を吸えるのである。
僕は、ハナムグリを注意深く観察する。
花の奥から出てきたハナムグリは、花の蜜で、ツヤツヤと輝いていた。
そのハナムグリが、一斉に空に飛び立つ。
(あ、ああ……)
僕は、やる気がみなぎってくる。心が、身体から抜け出しそうになるほど嬉しくなった。
ハナムグリの体は、宝石のようだ。空に輝く虹のようだ。真昼に落ちる流れ星だろうか。
(やってみよう。僕もやってみよう。きっと、ホタルのように、いやそれ以上にキラキラと輝けるはずだ)
僕は、亀のハナムグリを探せという言葉の意味を理解した。このことを言いたかったんだと理解した。
僕は、居ても立っても居られない。近くにあった「ひょうたん」のような花に潜ることを決めた。
すっかりと疲れの取れた羽で、ひょうたんのような花に許可を取るために近づいた。
僕が近寄ると、そのひょうたんのような花は「おいで、おいで」と優しくささやいた。
「あ、ああ……。僕は、カメムシだよ。いいの?」
「さぁ、入りやすいように口を開けてあげるよ。どうぞ、さぁどうぞ」
僕は、涙を拭ってひょうたんの口へと飛び込んだ。臭腺開口域を手で押さえながら……
ひょうたんのような花は、僕が入ると勢いよく口を閉じた。
内部は、とても暖かく蜜と思しき粘液が、キラキラとハチミツのように光っていた。
「……この蜜……少し、熱いなあ」
「バカだなあ……。これだから、羽虫と言うやつは……ゆっくりと溶かして喰ってやろう」
ひょうたんのような花は、そう言って笑った。
僕は、騙されたことに気付いた。悲しくなった。悔しくなった。
僕は、臭腺開口域を全開にする。
紹介状は、密のようなものに落ちてジュッという音を立てて溶けていった。
「なんだあ、この臭い匂いは……うげえ。根が腐りそうだ。出ていけえ。バケモノ!!」
僕は、ひょうたんのような花から、密のような液体とともに追い出された。
太陽が、そんな僕を照らした。僕は、自分の手足を見た。
(……これじゃあ、ハエの子供だ。でも、ハエの子供は、成長すれば……エメラルドやトパーズのように輝くんだっけ……)
僕は、体をブルブルと震わせ、ドロドロの蜜を涙で洗い流しながら、亀の元へ向かった。
三、テントウムシ
僕は、ユキヤナギの園を目指している。
ユキヤナギの園には、アブラムシという特殊な蜜を出す虫がいると、亀は言った。
僕は、驚愕した。
蜜を出す虫がいるということにだ。蜜は、花や木が出すものだとばかり思っていたからである。
すると、亀は言った「臭い蜜みたいなものを出す虫もいるのだから、何も変なことはないナス」と。
なるほど。納得した。僕にも、そんな蜜が出たらと、想像する。
亀は、嬉しいことを二つ教えてくれた。
一つは、ハナムグリの花畑で、僕を食べようとした花の名前は『ウツボカズラ』というらしい。
ウツボカズラの蜜は、強力な消化液だそうだ。
大抵の虫を溶かすことができるという。カメムシとて、例外なく消化されるらしい。
僕は、ウツボカズラの消化液から生還した。
もしかすると、特別なカメムシなのかもしれないと言われたのである。
「特別なカメムシの僕なら、人気者になれる可能性も高くなるはずだ!!」
もう一つは、アブラムシの蜜を飲んだら、臭い匂いが消えるかもしれないということだ。
僕は、ウキウキと心がはねるのを感じた。ホタルのように光り輝く自分を想像すると笑顔になれた。
(でも、人気者になれたとして……。弱いカメムシたちは、どうするんだろう。僕が、人気者になれたように、彼らも?)
遠くに、ユキヤナギの園が見える。白い花が、ビッシリと生えた低木。
ユキヤナギの名前は、雪から来ているのだと、亀は教えてくれた。
雪とは、北の方の国のどこかに舞い落ちるという白くて冷たい結晶のことらしい。
ユキヤナギは、その雪を被ったような姿に見えるのだという。
(とにかく、アブラムシさんに蜜をもらおう)
僕は、ユキヤナギの園の近くに着陸した。まずは、ようすをうかがうことにした。
白いミミズが、バラバラに動いているような不思議な形だなと思った。
その枝には、アブラムシが行列を作っている。何かあったのだろうか。
少し乱れていた。中には、地面に落ちているアブラムシもいる。
「テントウムシなんだから、天道でも仰いでな!!」
僕の視界にひっくり返ったテントウムシと呼ばれた昆虫を運ぶアリの大群が見えた。
アリの大群は、テントウムシを乱暴に投げ下ろした。
脚をせわしなく動かすテントウムシ。
「いやー、さっそくアブラムシに蜜を貰いに行こうぜ」
「楽な仕事だったぜ。これで蜜を飲み放題なんだからやめられないな」
アリの大群は、口々に「アブラムシから蜜をもらう」という話をしている。
僕もアブラムシに頼んで蜜をもらうべく、身を隠していた草むらから出ていった。
テントウムシは、ひっくり返ったままだ。
僕らカメムシと似た構造をしているのだから、前羽を使えば起き上がれるはずである。
ところが、足は必死に動かすも前羽は、一向に動かす様子はない。
「あの、起き上がれないのですか?」
僕は、なるべく臭腺開口域から臭いが漏れないように手で押さえながら、恐る恐る聞いてみた。
「カメムシっ!! うわあ、ちか……」
テントウムシは、いよいよ足を大きく動かして逃げようと必死のようすだ。
僕は、テントウムシの態度に腹部がキュッとなるのを感じた。
そう感じながらも、テントウムシが起き上がれるように前羽を持ち上げる。
テントウムシは、大きく斜めに傾いたことで起き上がることができた。
僕は、何も言わずにユキヤナギの園に向かおうと、前を向き歩きはじめた。
「ちょっと、待ってくれよ。カメムシの旦那」
僕は、少し嬉しくなって振り向いた。
テントウムシの顔は、片方の口が歪んでいた。どうやら、本人は笑顔のつもりらしい。
「助けてくれてありがとうな。オイラの名前は、テントウムシ。あ、あの、カメムシの旦那……。ユキヤナギの園へ行くのかい?」
僕は、黙ってうなずいた。
テントウムシが、無理をして笑顔を作っているのを見ると、言葉をかわす気にはなれない。
しかし、一方で期待に胸が膨らんでいく。
もしかして、話をすることができるかもしれない。そこから、友達になれるかもしれない。
そうだ。はじめからは無理でも時間をかければ、大丈夫だ。
僕らは、姿だって似ているんだから。
「ヘヘ、実は、アリの野郎に前羽を傷つけられてな。飛ぶことはおろか、起き上がることもできないのさ。カメムシの旦那。アブラムシの蜜をご所望で?」
「う、うん。甘い蜜を飲めば……この、に……」
この臭いを消すことができるかもしれない。そう言いたかった。
でも、その時のテントウムシの反応が、怖い。あからさまな表情の変化を見たくなかった。
そう言った瞬間に逃げられるかもしれない。
「アブラムシの蜜は、オロル山の森でも有名な美酒ですからね。飲めば、天道リュンヌの心地。ヘヘ、カメムシの旦那。俺と組まないかい?」
テントウムシは、ふざけた調子で言う。リュンヌとは、この世界の創造主だ。
僕ら、昆虫だって白き民の一種族。テントウムシは、罰当たりな奴なのではないだろうか。
だけど、友達になるチャンスを失うわけにはいかない。
テントウムシは、アブラムシの蜜を貰うためには、アリを撃退する必要があることを教えてくれた。
実は、アブラムシは、アリに無理矢理に蜜を盗られているらしい。
奴隷のような扱いを受けているのだという。
テントウムシは、そんなアブラムシを救いたくて、ユキヤナギの園に来たというのだ。
「ですがね。アリは、なかなかに強い。いや、ただ数に物を言わせてるだけですがね。そこで……。その、なんというか……。カメムシの旦那のかぐわしい匂いを……。その、ね?」
テントウムシは、ハッキリと言わない。でも、何が言いたいのかは、理解できた。
とても悲しいことだけれど、きっとアブラムシを助けるにはそれしかないのだろう。
「僕の臭いで、アリを撃退すれば良いんですね?」
テントウムシは、苦笑いしながら「ヘイ、ヘイ」と片手を頭に置いてから、お辞儀をした。
「カメムシの旦那、アリを撃退したあとは、ゆっくりとアブラムシの蜜を飲んでくだされ。アブラムシとて、アリから解放されれば喜んで蜜を提供すると思いやすよ……」
僕は、テントウムシに全てが上手く行ったら……。友達になって欲しいと言おうとした。
でも、今の僕では、それは無理な提案だろうと心のなかに言葉を押し込める。
(アブラムシの蜜を貰って、人気者になれたら、テントウムシに友達になろうと言おう。きっと、上手くいくはずだ……)
僕は、少し距離を取りながらテントウムシとともにユキヤナギの園に向かった。
(この臭いが、人気者になれるキッカケになるなんて変な話だ。これのせいで、僕は……。いや、僕たちカメムシは、森の奥に隠れ潜んで生きていたのに……)
四、アブラムシさん
僕の鼻にそっと甘い匂いが、上から優しく降ってくる。とても、穏やかな気持ちになれた。
「ユキヤナギの臭いでさ、カメムシの旦那。心配いりやせん。カメムシの旦那のかぐわしい匂いなら、こんなかすかに香る甘い匂いなんてかき消しちまいますよ。さぁ、アリどもが来ますぜ」
僕の心は、テントウムシの言葉にギュッと悲鳴をあげた。
きっと、アブラムシから蜜をもらって、きっと、ユキヤナギのような優しい香りのする虫に。
虫になろう、人気者に。
僕の脳裏に、多くの弱いカメムシたちが、優しい香りを漂わせて。他の虫たちと遊んでいる。
ほのぼのとしたタンポポ畑の一日の光景を想像した。
「おい、何を惚けてやがる。ここは、俺たちのアブラムシ畑だぞ」
僕は、その声にハッと現実に戻された。
目の前には、僕よりも小さいが、鋭い眼光と黒光りする体が、睨みつけてくる。
その数は、次第に多くなってきた。僕を囲むように練り歩いている。
「テントウムシの仲間か? 赤と黒のまだら模様ではなく、気持ちわりぃな。なんだよ、その黄色のブツブツだらけの不細工な模様は……」
「こいつは……カメムシか?」
「カメムシって、緑色のやつだろ?」
アリたちは、ヘラヘラと笑いながら、上から下へと僕を見ていた。
「僕は、カメムシです。キマダラカメムシという森の奥に住んでる一族。あの、アブラムシさんの蜜を少しでいいので分けてくれませんか? それと……」
僕は、声を小さくして言った「アブラムシさんを解放してあげてください」と、頭を下げた。
「おい、こいつなにいってんだ?」
「カメムシ語? キマダラなんてカメムシ、聞いたことねぇぞ」
「臭くねぇな。そんなら、ただの弱っちいカメムシちゃんだなぁ?」
僕は、一生懸命に我慢していた。
あの臭いをさせたくない。臭腺開口域を両手で押さえて頭を下げ続ける。
(テントウムシさんは、どこに行ったんだろう……。きっと怖くて隠れてるんだ。僕が、お願いしなきゃ……。みんなが、怖い思いをしないように……)
僕の身体に軽く痛みがはしる。頭を上げると、一匹のアリが噛み付いてきた。みるみるうちに。
二匹、三匹、四匹、五匹と。
軽い痛みは、熱く強い痛みに変わる。僕の我慢は、限界だった。
僕は、臭腺開口域を全開に開いた。結局は、これに頼らなければ何もできない。
アリも、ユキヤナギも、アブラムシも、青い空も、太陽すらもゆがんで見えた。
まるで、雨粒が目に入ったようだった。
アリたちは、真っ直ぐに立っていられなくなったのか、ゆらゆらと風に揺れる穂のようになった。
叫び声は、次第に強く、無間地獄のようにユキヤナギの園に反響する。
オロオロと、ふらふらと、アリたちはいずこかに去って行った。
僕は、腕で目をこすりながら、臭腺開口域をゆっくりと閉じた。
(あ、あぁ……。言葉ってなんて無力なんだろう。誰の心にも、なんの衝撃も、波風も、そよ風すら起こすことができない……)
僕の目の前を跳ねながら、ユキヤナギに駆け上がる赤と黒の丸い物体があった。
テントウムシだ。
僕は何度も何度も確かめた。
テントウムシが、何をしようとしているのか?
テントウムシが、何をしてるのか?
僕の足が震えた。口はガタガタと鳴る。
テントウムシは、僕を見ることもなく、ユキヤナギに登るとアブラムシを手にとって口に入れる。
「テントウムシさん!! なんで、なんで?」
僕は、走ってユキヤナギの下まで行って、テントウムシに声をかけた。
テントウムシは、至福な顔を浮かべながら、アブラムシの足を頬張っている。
僕の叫ぶ声に驚いたのか、目を見開いたテントウムシは、アブラムシを口から落とす。
僕は、落ちてくるアブラムシを受け止めた。
足を失ってはいるが、息はある。僕は、アブラムシをそっと地面においた。
「うぅ……ううー。助けて、助けてアリさん……」
僕は、アブラムシが泣きながらアリに助けを求めるのを聞いて理解した。
騙されてたんだ。アリは、アブラムシを奴隷にしたわけではなかったんだ。
「カメムシの旦那ぁ? 先走っちまって申し訳ないね。ここいらのアブラムシを食べたら、カメムシの旦那にも分けてあげますからね……。へへへ」
テントウムシは、僕の顔色をうかがうようにして愛想笑いを浮かべて言う。
ユキヤナギの枝を登りながら、逃げ惑うアブラムシに向き直る。
「テントウムシさん、騙したんだね。蜜をもらうだけだって、アブラムシさんを解放するって嘘だったんだね!!」
テントウムシは、目を細めて僕を見る。その顔は、無表情に近かった。
「キマダラカメムシってのは、森の奥に住んでる奴らだったねぇ。なら、共生関係とか捕食関係とか知らねぇだろ? これが自然の掟なんだよねぇ。可哀想とか思ってんですかい?」
そう、その顔は、バカを見るような、ものを知らない幼子を憐れに思って見るような顔だった。
「……ひどい。蜜をもらうだけなら殺さなくてもいいはずだよ。テントウムシさん!?」
僕の言葉、願いに「森の奥に帰りなぁ、カメムシの坊や」と呆れたように少し口を歪ませて笑った。
「助けてよ、助けてよ、アリさん!!」
ユキヤナギの枝の先、追い詰められたアブラムシたちの悲鳴。
僕が見たこともない『雪』のように白い花は、緑や黄色に変化した。
たくさんのアブラムシたちの色である。
「やめろ、やめろよ。テントウムシ。僕は、そんな関係。変える。僕が変える。みんな、人気者に、人気者にして、そして変える。きっと変える!!」
僕は、臭腺開口域から、臭いの塊を出す。
花やアブラムシの蜜とは、少しも似ていないそれを手に持った。
「やめろぉー!!!!」
僕は、もう輪郭がぼやけきったテントウムシに向かって投げつけた。
濃縮された臭い玉は、テントウムシを直撃した。空を壊すほどの叫び声をあげる。
アリに噛まれて動かなくなったと言っていた前羽をしっかりと開いて飛んで逃げ去った。
「全部、嘘だったんだ……」
僕は、ユキヤナギの園から離れようとした。
「ま、待ってください。カメムシさん……」
アブラムシは、テントウムシに食いちぎられた足を引きずりながら、トボトボ歩いてきた。
「ど、どうぞ……。アリさんが来ないうちに……」
アブラムシの手には、涙のような蜜が握られていた。
太陽にキラキラと輝く朝露のようなアブラムシの蜜。僕は、震える手で受け取ろうとした。
「大丈夫か!! アブラムシ!! 待ってろ。仲間をたくさん連れてきたぞ!!」
ユキヤナギの園を埋め尽くすような黒の塊は、まるで、大きな蛇のようだ。
ただ一直線に、僕を目指して突進してくる。
「アリさん。……このカメムシめっ!! 出て行け!!」
アブラムシは、突如、豹変した。
テントウムシの言っていた『共生関係』とか『捕食関係』のためだろう。
僕は、アブラムシに「アリさんと仲良くね……」と、言ってユキヤナギの園から飛んで逃げるのだった。
五、会稽の恥を雪ぐ
僕から、ユキヤナギの園での一件を聞いた亀の反応は、意外なものだった。
「そんなことがあった割には、落ち込んでいないナス。どうしてナス?」
僕は、自分がそのように思われる話し方をしていたのかと驚いた。
ユキヤナギの園から、ここまで逃亡して来るなかで、僕の心にわきあがった思いがある。
それを誰かに話したい。聞いてもらいたい。
目の前で、泉を泳ぎながら僕の話を聞いてくれる亀に話したくなった。
「そうだナス。君のようなカメムシを見ていたら思い出した言葉があるナス」
僕が、言葉を頭の中でまとめていると、亀は、不意にそう言った。
僕は、頭でまとめていた言葉を飲みこんだ。
「これは、最後の提案ナス。会稽の恥を雪ぐ、という言葉があるナス」
亀は、聞き慣れない難しい言葉を発した。
僕には、亀の言葉が、別の国の言語のように感じられたのである。
「ここではない別の世界の言葉ナス。この言葉が生まれた背景までは知らないナス……」
亀は、大事なのは、生まれた背景よりも言葉の意味だと言った。
会稽の恥を雪ぐとは、こういうことだそうだ。
ひどい目に合わされた相手に屈辱を果たし、失われた名誉を回復させることだという。
また、雪ぐとは、洗い清めるという意味があるのだとも教えてくれた。
「復讐がしたいわけではありません」
僕は、ホタルのような人気者になりたかった。あの綺麗な光、星のように流れ、光の道を作る。
僕が感動した光景を、僕自身が誰かに見せたかったのだ。
現実は、そうは行かなかった。色々な目に合わされてきた。嫌な気持ちになったことは確かである。
でも……。それでも、僕の中に生まれた言葉を復讐なんて言葉で裏切りたくない。
「わかってるナス。大事なのは、『雪ぐ』という言葉ナス。この文字は、『雪』と一緒ナス。異界から来た男に聞いたナス。文字は、異界とこの世界は、一緒ナス。名は体を表すナス。つまり……」
亀は言う。
雪には、汚れを浄化する力があると。
カメムシの臭いを汚れと考えるとするなら、ぴったりだと表情を明るくした。
皆に嫌われて森の奥に追い出されたことを、屈辱で不名誉なことと考えるならば。
雪には、それらを浄化する力があるのではないかというのである。
「言葉遊びだと、思うかもナス。そのとおりだナス。でも、溺れる者は
亀は、咳払いをすると「雪の国は、すごく遠いナス。覚悟が必要ナス……」と足場の岩をギュッと踏みしめた。
「亀様、僕ね。人気者になりたいんだ」
「知ってるナス」
「違うんだよ。人気者になりたい。でも今は違うんだ……。うん、違う」
「諦めたかナス。誰も、お前を悪くは言わないナス。身の丈を知るという言葉もあるナス」
僕は、目を閉じてドクドクと破裂しそうな心をしずめる。
言葉には、意味も力もないと分かったから。
今から言う言葉も亀には届かないかもしれない。
それでも。
「僕は、カメムシを、みんなを人気者にしたいんだ。僕一人が人気者になっても駄目なんだ。それだと、カメムシは救われないんだ。みんなを救いたい。今まで、死んだカメムシもね。今を生きているカメムシも、これから生まれるカメムシも」
亀は、ただ静かに僕の言葉を聞いた。遠い目で僕を見た。
数分間の沈黙が、まるで何時間にも感じた。
(馬鹿にされるよね……)
無謀だろう。夢みたいな考えだろう。でも、そのためだったら、あの光景を見せられるなら。
僕は、僕自身は。
「うーん……。それは、危険な考えナス。それは、もはや……『考え』ですらないナス。流星勇者を知ってるかナス?」
僕は、黙って頷いた。
流星勇者とは、自己犠牲の塊のような人物だ。
リュンヌ教国は、彼を生き方の模範とするようにと伝えている。
しかし、その最後を知るものは少ない。リュンヌ教国が、意図的に燃やしたからだ。
書き直した部分は、こうだ。
異界人だった彼は、リュンヌ教に改宗して、幸せに暮らした。
それが、嘘だということを知らない人は、多いのである。
「僕らは、森の奥しか知らない。暗い木の樹液の味しか知らないカメムシもいる。でも、森の中には、タンポポの群生地も、ハナムグリの楽園も、ユキヤナギの園もあるんだよ。みんな、みんな。僕らは知らない」
亀は、黙って頷いた。
やがて、口を開いて、ボソボソとこう言った。
「雪の国に行くのなら、両親に許可をもらうナス。一族にも挨拶をしたほうがいいナス」
僕は、亀の顔を見た。何かを考える苦しい表情を浮かべていた。
いままで、生まれの不幸を考えない日はなかった。でも、いまは、少し嬉しかった。
僕は、天涯孤独だったからだ。
「僕の両親は、すでにこの世にいないよ。キマダラカメムシの一族は、僕を仲間外れにした。だから、誰も悲しまないよ」
僕は、雪の国に行く決意をかためた。
ただ、お墓参りはしておこう。僕は、目の色を失って口をパカッと開けている亀に別れを告げた。
「雪の国は、オロル山のはるか北にあるナス……。さらばナス」
僕は、遠く遠くなっていく亀の顔が、いつまでも変わらないのを見つめた。
キマダラカメムシの巣である雑木林に向かう空で、その姿に、あらためて別れを告げた。
✢
小さな頃、お母さんから聞いた。
キマダラカメムシの住処である『キマダラカメムシの雑木林』が、まだ森の一部だった頃。
とある国の王様が、家臣の裏切りで城を追い出されて、森の奥に逃げ込んだらしい。
とある国の王様は、死ぬまでの2ヶ月の間。雨水を飲む以外は、常にこのように言っていたらしい。
「太陽は、いまだにあの男を照らすか、何度目の太陽なんだ……。何度、太陽を見たのだ。あぁ、口惜しい。口惜しい。我が、マーティン公国よ……我が娘たちよ……」
その声は次第に、小さく、細く、かすかになる。
声がそうなるたびに、周りの草花を枯らしていったのだという……
お母さんは、言った。
自分たちの雑木林が、森から切りはなされたときに、死んでいった王様の気持ちを理解したという。
僕は、夜空を飾りつける星々の下。両親の墓がある雑木林の外れの丘の上にいる。
その丘から、しんみりとした雑木林を見ていた。
今、思い出すのは、ジメジメと陰鬱な朝露だ。夜半すぎまで消えることはなかった。
どよどよと、流れる風は、枯木を不気味に揺らすのだ。灰のような寂しい匂いを充満させながら。
僕が、両親の墓をここに選んだのは、夜になると星が見えるからだ。
ここは、僕がはじめてホタルを見た場所でもあった。
キマダラカメムシの一族は、御神木と崇めている一本の木の下で、寄り添いあって眠っている。
この雑木林で。樹液を出す唯一の木だ。シマネトリコという名前の木。
「こんなに仲良さそうに眠っているのに、雑木林にときどき生える花一つで争うのは……」
「きっと、僕らが嫌われすぎて、嫌われることになれたからなんだ」
僕は、父母の墓とキマダラカメムシの一族に心の奥深くで誓った。
必ず、こんな暗い場所から解放する。
みんなをタンポポの群生地やユキヤナギの園に連れ出してみせると。
僕は、夜明けを待つことなく遠い北の地にあるという『雪の国』を目指して大空に舞い上がった。
六、夢のために
雪の国は、遠い。オロル山からどれくらい飛んだのだろう。
もう何度も休憩した。雨粒をすすりながら、花も樹液もない陸地を見下ろして、飛び続けている。
でも、まだ羽は動く。心も動いているのだ。
遠くに背の高い木々が、生い茂った森が見えた。
雪の国ではない。しかし、久しぶりに見た森だ。僕の胸は、勇んでおどりだした。
「樹液があるかもしれない。よし、あそこの森まで休憩なしだ」
動きの鈍っていた羽は活力を取り戻した。僕は、全身に感じる倦怠感に耐える。先を目指して。
「あ、鳥さん?」
背の高い木々の森まで、あと少しのところに鳥がいた。空を優雅に飛ぶ鳥が、地面にうずくまっている。
鳥は、怪訝な顔をしてこちらを見つめていた。でも、逃げる様子も動く様子もない。
「お願い、逃げないで。僕は、カメムシ。嫌な臭いはするけど、敵じゃないんだ」
鳥は「空の王者が、虫程度に逃げたとあれば、子供に笑われてしまうよ」と優しく微笑んだ。
その笑顔には、違和感があった。痛みを我慢するような表情だったのだ。
「ど、どこか、痛いの……ですか?」
僕は、少し距離をとって恐る恐る聞いた。鳥は、困惑した表情で、息を吐いた。
「鷲を恐れて逃げるかと思ったよ。実は、翼に怪我を負ってしまって。巣には、子供が待っているんだけどね」
鷲は、片翼を上げてみせた。微かに震えていて、付け根には、傷も確認できる。
近くの森をもう片方の翼で、指し示した。
ブリュヤンの森に自生する薬草があれば、すぐにでも飛んでいけると、口惜しそうに言う。
「僕が、採ってきますよ」
「君が? そのように小さな体で。恐ろしい森に入るのか。何故だ。怖いだろう?」
「はい。でも、困っている存在を見捨てたら、自分の夢を果たせない」
僕は、鷲から目を離さずに言った。鷲は、遠くを見るような目で、見据えてくる。
「紫の丸い葉を持つ草だよ。ブリュヤンの森を入ってすぐのところに自生している。すまない」
僕は、頷くと飛びたった。羽を必死に動かして、ブリュヤンの森に入った。
✢
故郷の森よりも、不気味で薄暗い。日差しをさえぎる森の木々のせいだろう。
オロル山で、聞いていた美しい鳥の声など聞こえない。金切り声や断末魔に近い響きの声だ。
友達が、いたわけではない。決して幸福ではなかったが、故郷の森が懐かしいと感じる。
僕は、枝に鋭いトゲのある植物の間をすり抜けて、森を進んだ。
「あ、あった!?」
木漏れ日に、吹き抜ける風で微かに揺らいでいた。紫の丸い葉。
苦く渋そうな匂いは、丸い葉からではなく、茎から出ていた。
僕は、丸い葉に手を置いて「少し分けてください」と願う。当然だが、返事はない。
数枚の葉を千切った。後は、森の外に戻るだけだ。少し重い体。掛け声を上げる。
蛇行しながら、上昇。落ちそうになる薬草をしっかりと握って、先を急いだ。
鷲が待っている。その子供も、親の帰りを待っているはずである。
そのときだ。突如、片脚に鋭い痛みが。驚愕した。声もでなかった。
僕は、見てしまった。
鎌を持った生物。その鋭い眼光を見てはいけなかったのだ。
すぐに逃げなければ、細長い体を持つ緑色の生物。その瞳孔は、冷淡にこちらを見ている。
二つの鎌を瞬時に動かした。僕は、素早く臭腺開口域から、粘液を取り出して投げつけた。
粘液は、逆三角形の顔面に直撃。
前足についた鎌で、顔面を拭っている。僕を見ることなく、よろめきながらも飛び去っていった。
「はぁ、はぁ、あんな恐ろしい生き物がいるなんて……」
僕は、片脚を見た。表面が抉られているが、切断されてはいなかった。
もう少し鎌の位置が、ずれていたら。背筋が寒くなる。
道を戻る際は、何度も振り返って確認したし、奇っ怪な鳥の声が、前よりも近くに聞こえた。
そのたびに葉の裏や木々の下に隠れる。この森に入ってから、一時も休まる時間はない。
恐怖に苛まれ続ける森であった。
✢
苦しみと忍耐の末に、ブリュヤンの森から抜け出すことができた。
鷲は、僕を見て鋭い目を丸くした。驚いたのだろう。
僕が、無事に帰ってくると思ってなかったのかもしれない。
「はい、これ薬草だよ」
「あ、あぁ。ありがとう。その足は……。少し待っていてくれ」
鷲は、僕から受け取った薬草を鋭い爪を持つ足で、すりつぶした。
丸い葉から薬液が、あふれてくる。鷲は、その薬液を飲んだ。
残った丸い葉を同じようにすりつぶすと、僕の前に置いた。
「飲んでみてくれ。すぐにでも、傷が癒えるよ」
「ありがとう」
僕は、言われるがままに飲み干した。疑うことなどなにもない。
片脚を見てみると、抉り取られた部位が、再生をはじめていたのだ。
鷲は、満足げに笑う。その声には、空の王者の威厳が戻っていた。
ブリュヤンの森で聞いた鳴き声が、可愛く思えるほどだった。
鷲は、翼をひろげて、ゆっくりと何度か動かしている。傷は見えなくなっていた。
「いい感じだ。君は、カメムシと言ったね。どこから来たのか、どこに向かうのか?」
「オロル山ふもとの森からです。雪の国を目指しているんです」
鷲は、少しだけ森の方角に顔を向けた。そして、おもむろに翼から羽を一本むしり取った。
「これをあげよう。重さは気にならないと思うよ。なにか怖い目にあったときに使うといい」
鷲は、大きく翼をひろげた。その影で、日差しがさえぎられた。
再び、日差しが当たる頃には、遠くに。子供が待つ森の奥にある巣に帰っていたのだ。
終、カメムシ。
何度目の太陽か、月は今夜も微笑んでくれるのか、星は歌うだろう。
夏は、汗をかき、秋は、涙を流し、故郷を思い、春に未来を思う。
向かい風に逆らう、追い風に従う。
何度も、何度も、オロル山に響くカメムシの幸せを喜びあって笑う声を夢に見た。
夢覚めて見る景色は、ニンゲンが争いあい、弱い魔物が、ニンゲンに倒される光景だ。
大地には、様々な色がある。空には様々な表情がある。
穂にきらめく黄金。若草が、波のようにささやく翠玉。花が誘うブラックオパールの香り。
白い大地は、いまだに見えない。
僕は、世界の広さに驚き、恐れ、感動し、大きな声で、朝に、昼に、夕に、夜に、挨拶をした。
最近では、暑さを感じない。夏がなくなったのかとも考えた。春も、ながらく感じていない。
秋が、世代の交代を主張する。
✢
そして、僕は白い結晶が空からチラチラと花弁のように舞い落ちるのを知る。
冷たい花弁、ダイヤモンドのような花弁。
大地が真っ白に染まった。山川草木は、見当たらず。花は香りすら感じなくなった。
羽は、もう動かない。今日まで、僕を支えてくれた鷲の羽もボロボロだ。
僕は、真っ白な大地に落ちていく。
「あぁ……。雪の国は、どこにあるのかなあ。もう空はとべない。このまま、落ちて……」
空の、柔らかなのは知っている。
でも、大地は、鋼鉄の意思だ。この高さから落ちたら死を迎えるだろう。
僕は、涙も出なかった。寂しくもない。死ぬことは、恐ろしくもない。
「夢は、叶わなかった。それだけが……」
僕の身体は、白い大地に落ちた。
柔らかな空のような大地。でも、凍えるように冷たい大地。
──虫。小さな虫。百年ぶりの虫。弱き虫。羽を失い、凍え、雪に包まれ、死んでゆく。
声だけが聞こえた。穏やかな声。
もうどれくらい昔がわからないくらい前に聞いた気がするのだ。優しい声。
冷たい風は、止まった。寒い大地は、暖かくなった。灰色の空は、白い空に変わった。
世界は狭くなった。
──あなたのために、カマクラを作りました。暖かいでしょう。
僕は、優しい声に願う。カメムシが、嫌われることのない世界を。
色も忘れたタンポポの群生地を飛びまわり、形を忘れたハナムグリの花畑を楽しげに舞い。
ユキヤナギの。
ユキ? 雪という言葉を優しい声は、言った。
──あなたの願いは、叶いません。
でも、勇気ある貴方を、遠く遠く雪の国まで長く長い旅をしてきた貴方を。
私は、友と呼びましょう。
優しい声は、雪の国とハッキリと言った。僕は、動かなくなった足を動かした。
倒れた身体を起こした。見えなくなっていた目に光色が戻る。
「ここは、雪の国ですか……。あなたは?」
僕は、力をなくしていた声を大きく震わせて質問をした。
──ここは、雪の国。永久凍土の死の大地。私は、この雪の国の主です。
「ぼ、ぼ、僕は、オロル山の……誰に言われてここまで来たのか……忘れたけれど。故郷の名前と、夢は忘れなかった。カメムシも人気者になれる?」
──オロル山……。世界の反対側から来たのですね。ただの小さな虫が。夢のために。でも、私は無力です。永久凍土の地に生物はおろか、植物すら生まれさせることができないのです。
僕は、夢を諦めることは出来なかった。それだけのためにここまで来たのだ。
僕は、これまでに様々な死を見送った。夢まで見送ることはできない。
僕は、様々な命が産声をあげるのを聞いた。僕の夢も産声をあげると信じたのである。
「僕は、雪の国で見つけたい。夢を叶える方法を。ここに住まわせてもらえないですか?」
──あなたは、二人目の友。でも、この死の大地では、生きていけない。だから、私の古い友人を訪ねてみてください。
雪の国の主は、きっとその古い友人は、僕の力になってくれると言ってくれた。
僕は、それだけで嬉しかった。もう空は飛べないけれど、足に力が戻るのを感じた。
僕は、歩いて、雪の国の主の古い友人を訪ねることにしたのである。
雪の国の主の声に励まされながら、どれくらい歩いただろう。
この白い世界に、太陽も月も星もない。夜も昼も時がすぎるのも分からない。
✢
「驚いたノオ。こんな雪の国に、ワシ以外の虫に出会うなんてノオ……」
そのカマクラに住む虫は、セッケイカワゲラと名乗る。僕よりも小さく、アリのような老虫だった。
「雪の国の主は、貴方なら力になってくれるといった。僕の仲間が、オロル山の皆と仲良く生きていくにはどうすればいいですか?」
僕は、それだけを頼りに歩いてきた。
なぜ、カメムシは嫌われていたのかも思い出せなくなっていたが。
「それは、あまりにも無理な話だノオ。それどころか、君は、この大地では生きていけない。ここには、花がないからノオ……」
セッケイカワゲラは、涙を流しながらゆっくりとそう言った。
僕は、しばらくなにもする気力がわかなかった。
でも、こんなに広い大地に花がないなんて信じられない。
僕は、長い旅をしてきた。花がない世界なんてなかった。ここにもあるはずだ。あるはずである。
「探してみます。花を、なぜ探すのか、分からないけれど、きっと見つけます」
セッケイカワゲラは、たじろぎ何も言わなくなった。酷く哀れな顔をしているようだ。
カマクラを出る僕に、ただ、一枚の外套を渡してくれるのだった。
その外套の暖かさは、僕が感じてきたどんな暖かさよりも暖かく。春よりも優しかった。
僕は、セッケイカワゲラに別れを告げて、歩いた。永久凍土のはてのはて。
やがて、目的を忘れ、夢も忘れ……
雪の国の主の声に心を暖かくしながら、外套をしっかりと握って、凍てつく大地を踏みしめた。
✢✢✢
相変わらずの永久凍土。かなり前に見送ったカメムシのことを気にかける。花は見つかっただろうか。
あの若者は、かつての自分だと、はじめてあった時に感じた。止めることなどできない。
無駄なことだと諭すことなどできるはずもない。彼の顔は、その言葉を言わせてくれなかった。
ワシは、雪の大地を歩いていた。久しぶりに雪の国の主の声を聞いた。
カメムシが、ワシを待っていると、雪の国の主は少し悲しそうに、でも明るい語調だった。
それだけで、ワシは、何千理も歩く。歩かずにはいられなかったのだ。
ワシは、奇跡を見た。かつて見たどの奇跡よりも。
星のかがやきよりも、太陽の偉大さよりも、すべての生命のきらめきよりも。
そのつぼみは、輝いていた。
ワシが、あきらめたことを達成させたのだ。
一羽の渡り鳥が、通り過ぎざまに挨拶をしてくれた。
とても、珍しいことである。
ワシは、オロル山へ行くという渡り鳥に、一つの物語を伝えて欲しいと蕾を見ながら頼んだ。
雪の国の主も一緒に頼んでくれた。
「セッケイカワゲラさん? 表題は、何にいたしやす? ワッシら渡り鳥は、物語を語るときは、表題が命なのでさ」
ワシは、答えた。
『カメムシ思想記』と。
渡り鳥は、物語を聞いて涙を流した。
力強く頷くと。例え、翼を失ってもオロル山に、世界中に話して聞かせると。
ワシと雪の国の主に誓ったのだった。
エピローグ
ヴォラントの冒険譚に曰く。
とあるニンゲンの探検家は、世界の果てにある雪の国にやってきた。
多くの仲間を失ったが、雪の国にやってきたのだ。
この不毛な大地に不思議な奇跡があるらしい。鳥と話せるという吟遊詩人に聞いた話だ。
酒も入っていたし、酔っぱらいの戯言くらいにしか聞いていなかった。
でも、その話を聞いた日から、夢を見るのだ。雪の国から呼ぶ声が聞こえるのだという。
どうしても気になったのだ。
信じられないことに奇跡は、あったのである。
見たこともない木に咲いた一番星の様な黄色の花。
無論、みたこともない。世界に一つだけのものだろう。
手に入れれば、探検家としての名声は、約束されたようなものだ。
貴族にとりいれば、大金も得られるのではないかと考えたのだ。
ニンゲンの探検家は、さっそく、その木を持ち帰ろうと掘りおこすのだった。
だが、そっと元に戻した。
ニンゲンの探検家は『根』のない木に名前をつける。
吟遊詩人の言ったことは本当だったのだ。
『カメムシ思想記』に語られる主人公のカメムシは、どれくらいかも分からないほど昔の虫だ。
この話を吟遊詩人から聞いたときは、流星勇者を思い出した。
きっと、作者は、それの影響を受けたんだろうと思った。
ニンゲンの探検家は、その木に頭を下げる。その根となったものに、尊敬の念を込めて。
そう。雪の国、その真っ白な大地にまだ生きていたのだ。
鷲の羽とボロギレとともに、ウメと名付けられた木の花の根となって……
これより、さらに数百年のあと。雪の国は、多くの虫の住む大地となった。
梅の木の子どもたちは、ロウバイと呼ばれ、無数に雪の大地を飾った。
そこは、様々な虫の住む楽園となったのだ。
✢✢✢
ヴォラントの冒険譚に曰く。
流星勇者という話のラストシーンだが、リュンヌ教国に燃やされる前の話は、このようなものだった。
自己犠牲の塊のような流星勇者は、友や仲間や恋人や他人。
彼らを命をかけて、守ってきた。
自分を犠牲にしても、みんなに笑っていてもらいたいというのが、流星勇者の口癖だった。
いつしか、それは、彼の鎖になっていたのではないか。
当然、友や仲間や恋人は、流星勇者を愛していて、最後までついていく誓った。
彼らは、流星勇者を支えたい。障害をともにしたいと望んでいたのだ。
しかし、仲間が、友が、恋人が。
彼を見捨てた。なぜなら、流星勇者は、自己犠牲の化け物となった。
彼らは、救われるだけの存在だ。流星勇者を救うことを拒まれた。そんな流星勇者に対して。
仲間は、怖くなった。
友は、呆れて罵った。
恋人は、嘆き悲しんだ。
たったひとりになった流星勇者は、最後の最後まで、笑っていたという。
リュンヌ教国は、このラストが気に入らなかったようだ。
いつの時代も、心を動かすのは自己犠牲だ。
しかし、誰かの犠牲で得られた幸福は、あっという間に消費されていくものだ。
彼が、作った雪の国の楽園は、どうなるのだろうか……
【カメムシ思想記】完。
カメムシ思想記 SSS(隠れ里) @shu4816
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