救世主は堕落した

海沈生物

第1話

1.

 真夜中に死神を見た。ファンタジーな話ではない。その日はちょうどハロウィンであったため、仮装をする若者がいたのだ。夜目があまり利く方ではなかったので本物かと勘違いしたが、死神の鎌が偽物であることに気付く。ほっと胸を撫で下ろすと、隣にいた結城が肩を小突いてきた。


「なぁ佐藤、今ビビッてただろ」

「ビビッてない」

「分かる、分かる。そんなに隠さなくても大丈夫だ。俺にはお前のことが何でも分かるからな。なんてたって、俺たちは”幼馴染”だからな」


 彼女はそう自称しているが、実際に私と結城は。数分前に出会ったばかりの初対面である。それなのに、幼馴染と自称してくるのだ。素直に怖い。さっさと交番にこの異常者を突き出したいが、周辺には交番が見えない。前の町だったら大通りを数十分も歩けば、一つは見つかってくれたのに。引っ越しきたばかりでこんな異常者に出会ってしまった悲運を嘆く。

 仕方がないのでスマホで検索しようと思い立ったが、ポケットから出した瞬間に奪われてしまった。背伸びした位置までスマホを持ち上げられると、「ういういー」と煽ってくる。ジャンプして奪い返そうにも私は160cm台で、彼女は目視180cm台の高低差カップルぐらいの差があるのだ。ゲームじゃあるまいし、20cmもジャンプすることはできない。


「か、返してよ」

「歩きスマホは危険だぞ。まぁ、何かあっても幼馴染の俺が助けてやるがな!」

「だからー……私と貴女は幼馴染じゃないでしょ? だから返して」

「いーや、幼馴染だね。お前と俺は数十年来の幼馴染だ。約束しただろ? 大人になったら”二人で結婚しようね!” って。あと返さない」


 言った記憶がないんだけど。そもそも、私には彼女とは別に「真木涼子まきりょうこ」という幼馴染がいる。彼女とは確かに同じ約束をした。元より両者の家庭環境が悪かったのだが、ある日彼女の母親と私の父親が不倫している事実が発覚したことにより、離婚の危機となった。家庭が不安定のまま、いつ私と彼女が離れ離れになるか分からない状況だった。

 私としては二人で駆け落ちをして、そんな地獄みたいな家庭というしがらみから逃れようと提案した。しかし、真木には断られてしまった。


『それは、ママやパパたちとになるから』


 何も言い返すことはできなかった。私たちには「被害者」という建前があった。同じ家庭を逃げ出すという行為であったとしても、それは明確に異なる意味合いを持った行為であると思っていた。だが、私は言葉を飲み込んだ。彼女のために飲み込んだ。私にとって彼女は地獄からの救世主メシアだったから。毎日の家庭内暴力DVや家庭不和の中で、彼女だけが私を救ってくれたから。

 だから、私はその代わりに約束したのだ。


『いつか、二人で結婚しようね』


 お互いの頬にキスをし合って、そんな幼くも淡い約束を結んだのだ。だから、何が何でもこんな金髪で両耳ピアスを開けた口の悪い人間が幼馴染であるわけがない。昔の彼女はもっといつか美術の教科書で見た「マグダラのマリア」のような美しい女性だったのだ。そんな私の疑念を見抜いたのか見抜いてないのか、彼女は私に手を伸ばしてきた。


「それじゃあ、俺の手を掴んで」

「なんで?」

「掴めば分かる」


 そんなもので分かるのかと手を掴んでみると、私の身体が彼女の胸元に引っ張られる。柔らかいものが頬に当たったかと思っていると、背の高い結城は見下ろしてきた。人の視線が苦手なのでつい目を背けがちな私だが、その目には見覚えがあるような気がした。彼女は笑みを浮かべると、右側の胸の側面を指さす。


「そこ。小さい黒子ほくろがあるだろ? 覚えてないか、この位置にあったの」


 。それは、それだけは記憶の中に嫌というほど染み付いていた。今から考えると(同性同士とはいえ)恥ずかしさで死にたくなるが、あの頃はよく彼女の胸に顔を埋めさせてもらっていた。私の冷え性な身体と異なり、彼女の身体はいつでも温かった。それがとても心地よくて、まだ未成熟な胸の中で「苦しい」「死にたい」という衝動をその中に溶かしていた。

 真木はまるで割れ物でも扱うように私に触れた。髪を撫でてくれたり、あるいはシャワーを浴びた後などは私の足にある青痣に軽くキスをしてくれたりした。さすがに「汚いよ」と注意はしたのだが、「だから」といつも彼女は微笑んでいた。そんな風にして、彼女と身体を重ね合わせることが日常における唯一の救済いやしだった。


 話を戻すが、その時によく見ていたのがその黒子だった。私はその黒子が彼女の身体の中で一番好きな部分だった。その小さな黒子はよく見ると丸ではなく三角に近い形をしていた。私が人差し指で触れると、いつも彼女は微笑んでくれた。彼女の方も私の左目の下にある黒子に人差し指で触れてくれて、そうすると私も自然と頬が緩んだ。そんな相互的なやり取りが、私にとっての「一番好き」を生み出したのだ。


「……本当に、真木なの?」

「真木……いまはババアとジジイが離婚したから、母方の旧姓の結城だけどな。正真正銘、本物の真木涼子だぜ」


 その面影のある微笑みに、私は泣きそうになる。私の意思とは別の、もっと記憶の奥深くにある過去の亡霊が衝動を呼び起こしている。それなのに、私は信じられなかった。その衝動に裏付けはなかった。ただ微笑みが似ているだけの話だ。姿形や言動は完全に過去の彼女とは異なる。単なる空似という可能性もあるのだ。

 しかし、問題なのは今目の前にある彼女が本物であるのがそうでないのかということではない。このまま彼女を真木涼子であると信じていて、ある日本物の真木と再会したら。それは、私は酷い裏切りをしたことになるのではないか。不倫をしたことになるのではないか。を破ったことになるのではないか。事実としてそうなってしまうことが、私にはとても怖いことのように思えた。

 そんな私の様子を察したのだろうか、結城は私の頭にデコピンをしてきた。


「どうしたんだよ、佐藤。まだ俺を信用できないのか?」

「信用……まったく信用していないわけじゃないよ。ただ、私が勝手に怖いだけだから」

「あー……俺のこの金髪か? これが怖いのか? 母方に付いて引っ越してから、染めたんだよな。お前以外のババアとか他の人間となるべく関わるのを避けるために都合が良かったし」

「避ける、って。なんでそんなこと?」

「簡単な話だよ。なるべく、昔の俺からしたくなったからさ」

「でも髪色以外も十分変わっているじゃん、口調とか」

「そういうじゃないんだよ。……分からないかなぁ」


 頭を掻いてイライラしている様子の結城に焦りが渦巻く。いつまでも「本物」か「本物ではないのか」なんて考えていれば、今目の前にある彼女を逃してしまう。これ以上に彼女を傷つけてしまう。もう二度と彼女との時間を過ごせなくなる。救世主から見捨てられてしまう。

 フラッシュバックする過去の恐怖に酸素が上手く吸えなくきたのを誤魔化すように、咄嗟に彼女の手をぎゅっと握り返した。


「分かった。……ううん、分からないから貴女を信頼する。本物であるかの信用はできないけど、貴女の気持ちを信頼する。貴女の言葉を信頼する。だから……」


 今にも息の詰まりそうな私の唇にそっとキスをしてくる。周囲を歩く人々は「またカップルか」という呆れた目線で見られる。昔は私もただ見る側だった。だけど今は、こうやって見られる立場になった。自分で声を出せる立場になったのだ。

 酸欠の私を気にしないまま、彼女の舌が、唾液が私の中に入り込んでくる。それは恐ろしいほどに甘美で、手慣れていて、まるで私という存在のためだけに用意されたキスのようだった。私が選択した結果かのじょが正しいのか正しくないのかも分からないまま、私は今目の前にある愛欲に溺れていく。それでも、選択することはできたのだ。昔とは違う。今は自分の意思で、彼女とキスしている。

 ぱっとキスした唇を離した時、私は身体に力が入らなくなった。彼女の胸に抱かれたまま、酸欠独特の心地良さに溺れたままに意識を失った。




2.

 久しぶりに会った好きな相手に「信用してない」なんて、冷静に考えて失礼な言葉だったのではないか。昨夜にキスをしてぶっ倒れてから起きた頭で早速反省した。寝起きでふわふわした頭の中で見覚えのない白いソファーから起き上がると、テーブルの上に牛乳が置いてあることに気付く。飲んでいいのかと見つめていると、背後から「飲んでいいぜ」と声がした。振り向くと、エプロン姿でキャベツを刻む結城の姿があった。


「えっと……おはよう? 朝だよね」

「あーすまん、スマホ没収したままだったな。だが、残念ながらもう昼だ。昨日の夜から今日の昼まで完全に爆睡してた」

「あっ、えっと、会社は……」

「既に休むように俺の方から”風邪を引いてしまったらしいので、時勢を見て休みます”って電話しておいた。さすがにその……本当のことを言ってないぜ? あれは本当に……俺が悪かった。久しぶりのキスでちょっと目が眩んでいて、キスに夢中でお前の体調を見てなかった」

「良いわよ。……というか、大人の癖に自分の体調管理もできていなかった私も悪かったわ。こちらこそ、心配かけて本当にごめんなさい」


 謝りつつも、ちゃんと休みの連絡を入れてくれたことに胸の中でほっと一息つく。他にも質問したいことがあったのだが、それを封じるように「とりあえず、それ飲めよ」と牛乳を推してきた。あまり好きではないのだが、彼女が言うなら仕方ない。私は一口だけ飲んだ。


「なんか……ちょっと生温くない? 美味しいけど」

「文句言うやつには、朝ご飯作ってやらねーぞ? ちょっと高い牛乳だからな、高いものは美味しい」

「はいはい、すみませんでした……でも、こういう生温さも懐かしくて良いね。昔は猫舌でこの温度ぐらいしか飲めなかったから」

「あれ、今変わったのか?」

「あーいや。変わったというか、猫舌って別に遺伝とかじゃなくて飲み方の癖が問題らしくて。大学時代の変な同期からしつこく教えてもらった方法で飲むようになってから、多少は飲めるようになったの」


 別に付き合っていたわけじゃないからと念押しすると、「別にそこまで気にしてねぇよ」とわざとらしく口先を尖らせた。やっぱり、こういう根本的な優しさは変わっていないんだなと思うとつい頬が緩んでしまう。「何笑ってんだよ」と頬を膨らませている姿を横目に、私は残りの牛乳を一気飲みした。やっぱり生温い。

 朝ご飯のできる音に耳を済ませながら、カーテン越しに差し込む柔らかい日差しを浴びる。こんなあの地獄の日々の中で思い描いたような理想的な日常に辿り着いたなんて、なんだか夢みたいに感じる。本物なのか偽物なのかの確信は未だにないが、それでもこの日常の素晴らしさだけは本物だった。私は口元についた牛乳を袖で拭う。


「本当に。こうやって、一緒の時間を過ごせるなんて奇跡みたいね」

「まぁ結婚は法律的にまだ無理そうなのが残念だけどな」

「そこは……仕方ないわよ。死ぬまでにできたら、それで私はいいわ」


 結城は「そうかよ」と適当な返事をすると、テーブルに分厚い焼き豚とキャベツが挟まれたサンドイッチとスクランブルエッグと気持ち程度のミニトマトが載ったお皿を置いた。私の毎日食べているオートミールとの絵面の差に眩暈を起こしそうになる。なんだか外食しているような錯覚を覚えていると、「過剰反応しすぎだ」と笑われた。いつもの微笑みではなく、ちゃんとした笑顔。表情筋が動く、くしゃりと皺を寄らせた笑顔。目の前で見ているはずなのに、実感の無さだけが心臓を覆っていた。


「ご飯、冷めるぜ?」

「……したんだね、結城に」

「旧姓に戻っただけだが?」

「そういうじゃないわ。……やっぱり、分からないわね。


 意味を理解した結城に渋い顔をされる。私が意味ありげに微笑んでみると、その口にミニトマトを押し込んでくる。口の中で弾ける甘酸っぱさに口先を尖せていると、彼女は「良い顔だ」と笑っていた。

 結城はもう救世主ではない。救世主は堕落した。今はありふれたただの人間だ。だが、それで良かった。もう私には救世主なんて必要はない。救世主がいなければ死んでしまっていた「地獄」から、私は、私たちは「同じ」じゃない方法で脱することができた。

 もう私たちはただの人間だ。ここに在るのは神でも救世主でもない。ただの二人の女の、ありふれた愛に満ちた日常だけだった。

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