桜のあなたと
ゆるり
パンジーの咲く裏庭
ひらひら、と桜舞う空の下。
あなたは確かにそこにいたのだと、僕はきっと忘れない。
◇◆◇
「起立、礼、ありがとうございましたー」
どこか投げやりなその言葉。僕は今日もそれに合わせながら生きている。
がやがやと不明瞭な騒めきに揉まれ、押し出されるように足は慣れた道を進んだ。
多くの人が友と話すのを楽しむように、僕は一人でいる時間を楽しんでいる。とは言え、そうした態度は時に誤解を生むもので、わざわざ気を遣って話しかけてくれる人もいた。それを申し訳なく感じるから、僕は誰の視線も気にしなくていい場所に足を向けるのだ。
この学校にはひと気のない裏庭がある。世話をする人のいない
誰かに見られるためにあるはずなのに、なんとも可哀想に思って、僕は時々雑草を抜き、水をやっている。
「偉いわねぇ」
「……そんなことないよ」
静かな空間を破るように、穏やかな声がした。彼女の声はいつも桜の木の
抱えていた本を持ち直しながら振り向くと、淡い桜色の
「あら、ごめんなさい。あなたは一人の時間がいいのよね?」
そう言って、ほのかに笑んだ口元を袂が隠す。
軽く肩をすくめる僕を、彼女は指先を揺らめかして手招いた。
「あなたは……うるさくないから、別にいい」
「あらあら、そうなの」
軽やかで
他の木に隠れるように
腰かけるのにちょうどよく、僕は度々そこで読書に勤しんでいた。
「今日はどんな物語を読んでいるの?」
「最強の魔術師になって、異世界を旅するやつ」
「まじゅつし? いせかい?」
僕の説明を理解できなくて、彼女はたどたどしい響きで反芻し首を傾げる。それがひどく
「まあ、きっと、楽しいお話なのね」
何も理解していないだろうに微笑む彼女。僕はいくつか説明を加えた。
頷きながら聞き入る彼女は、本当は物語の内容なんてあまり興味がないのだろう。ただ僕と話すことを好んでいるだけで。
一通りあらすじを話したところで、不意に湿り気を帯びた風が頬を撫でた。見上げた空にほの暗い雲が立ち込めている。
「一雨きそうね。屋根があるところに行った方がいいわ」
僕の視線に気づいた彼女が、つられるように空を見上げて呟く。
確かに今にも雨が降りそうな天気だった。さっきまで薄日が差していたのに。
「――梅雨にはまだ早い……」
「それでも雨はやってくるもの」
恨めしく呟いた僕に、彼女はおかしそうに笑った。
早々に騒がしい教室に戻らなければならないのかとため息をつく。それさえも彼女は愛おしげに見守っているから、僕は仕方なく腰を上げた。
「……じゃあ、また明日」
僕の言葉に、小さく手が振られる。桜の花びらが舞い落ちるような密やかな動きだった。
――確かな明日なんて存在しないのに。
心の内から
◇◆◇
次の日も、その次の日も、雨だった。しとしとと降り続ける雨はなんて憎らしい。
騒がしい日常から目を逸らし、頬杖をついて外を眺める。
――来たよ。
傘を差して裏庭に足を運んだ僕を、彼女は困った笑みで迎えた。彼女と話すのはほんの少しの時間だけ。
雨で濡れて体調を崩すことを心配して、彼女は僕に帰るよう告げるのだ。
彼女の心配は当然で、僕はそれを拒むことができない。
「――梅雨なんて、夏なんて……こなければいいのに」
「なんか言ったー?」
「ううん、ただの独り言」
「そう? あ、次の授業、質問当てられそうなんだった! ここ、予習してる?」
隣の席の女の子が差し出してくる教科書に目を落とす。昨日予習していたところだ。軽く頷いてノートを差し出した。
それを上機嫌で受け取るこの子に誰かが眉をひそめているけれど、僕は目を逸らして再び雨空を見つめた。
答えを写していては力にならないよ、なんて賢しげに諭す声が耳に届く。僕もそう思う、と心の中で頷いた。
だけど、それを言葉にするほどの関心を、僕はこの子に抱いていない。迷惑げに言葉を返すこの子は、いつ本当の思いやりに気づくのだろう。
「気づかなくたって、生きていくのに問題はないけどね……」
僕たちは、目の前のことを考えるのに精いっぱい。先の事なんて、その時考えればそれでいい。そうやって日々を生きる方がとても楽な気がする。
◇◆◇
久しぶりの晴れ間。
意気揚々と裏庭に足を運んだ僕を、透けるような彼女が出迎えた。
「……晴れたよ」
「そうねぇ。恵みの雨もいいけれど、温かな日差しも気持ちが華やぐ気がするわ」
変わらない笑み。それでも、僕らの別れの時は近づいていた。
「今日はどんな物語を読むの?」
石に腰かける僕の横に彼女が座り込む。興味津々に輝いた瞳が僕を見つめていた。
「今日は物語じゃないんだ」
ここに来る前に寄った図書室。ふと惹かれて手に取ったのは植物の本だった。ページを
「あら、これ……」
彼女が指さしたのは、淡い紫のパンジーの写真。花壇で雑草に埋もれている花だ。
「この花が好き?」
「そうねぇ。ひっそりと咲いているのを見ると、寂しい気持ちになるけれど」
その言葉は、たぶん彼女自身にも向けられていた。
見上げた先に広がるのは青葉を茂らせた桜の枝。春の盛りにはちらほらと淡いピンクの花を咲かせていたけれど、足を運ぶ者がいないこの裏庭では、ただ静かに舞い散るだけだ。
「パンジーは『もの思い』とか『私を思って』っていう花言葉があるらしいよ。うつむきがちに咲く花の姿が、恋に悩む少女の姿に重なるからだって」
写真に添えられていた説明は、既に読まずとも頭に刻まれていた。
「――そうなの……」
ページを捲った先にある桜の写真にも花言葉が添えられている。花言葉は精神美、優美な女性。とても似つかわしい言葉だ。
でも、僕は知っている。その他にも花言葉があるって。
「『私を忘れないで』……」
「急に、どうしたの?」
静かに顔を覗き込んでくる彼女を見つめた。
「いつまで、僕はあなたに会える?」
年々花が少なくなる桜。老いた木を切り倒す計画があることを、僕は通りがかった事務室の前で聞いた。
裏庭にひっそりと佇む桜は、僕らに知らされることもなく、いつか静かに消えてしまうのだ。
「いつまで、かしらねぇ」
ほのかに微笑む彼女は何を思っているのだろう。
手を震わせる僕の頭を、彼女の手が柔らかく撫でた。
「――今年はもう終わりね。また来年、会いましょう」
柔らかな感触は溶けるように消えていった。
裏庭の片隅で、ポツンと座る僕。
春が終わって、梅雨がやって来る。桜は、次の春に向けて眠りにつくのだ。彼女に再び会えるのは来年。本当に来るかも分からない未来。
それでも、僕は彼女がくれた約束を胸に、騒がしい日常へ戻るしかない。どうせ目の前のことしか考えられないのだから、今抱えている想いは日々の忙しさに薄れていくのだろう。
そっと桜の幹に額を寄せて目を瞑る。静かに息づく音がした。
――あなたが好きなんだ。たとえ人間じゃないとしても。短い間しか会えないとしても。
直接言えなかった言葉を語り掛ける。彼女はどこかでこの声を聞いてくれているだろうか。
「……来年のパンジーは、雑草にまみれないようにしようかな」
彼女が寂しく思わないように。
目が覚めて、花壇を見た彼女は驚くだろう。そして、きっと僕のことを思い出すのだ。
「あなたに贈る再会の約束だよ。僕はずっとあなたのことを忘れない」
幹をひと撫でして、僕は日常に戻った。
桜のあなたと ゆるり @yururi-_-
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