あたたかい氷

ハヤシダノリカズ

あたたかい氷

 年の離れた兄は僕の事を可愛がってくれた。そんな兄が僕の部屋に遊びに来た時、言っていたんだ「女ってのは、美しく愛おしいと男に思わせるのが上手なだけの魔物だ。中身は合理と利己と欲にまみれた醜いバケモノさ」と。僕の部屋に酒臭い息をしこたま残して帰って行ったその時の兄に何があって、何を思ってそんな事を僕に言ったのかは今も分からない。この間その時の事を聞いたら「そんな事言ったっけ?」と、まるで覚えていないようだった。


 年の離れた姉も僕の事を可愛がってくれた。そんな姉がオシャレな喫茶店で僕にケーキをご馳走してくれた時に言ったんだ「人間が小さい男ばかりでイヤになる。自分の小ささを棚に上げて、女を見下す男が如何に多いかって事を学校で教えるのも大事だろうに、なんて思っちゃうわ」と。荷物持ちとして随行させられてへとへとになっていた僕に向けた目は温かく優しかったけど、姉は「あんたはそんな男になっちゃダメよ」と釘を刺す事も忘れなかった。


 アルバイト帰りの電車の中で聞こえてくる会話の中には、金で女を買う男たちのものもあったし、春を売っている女たちのものもあった。

 男達の話ぶりから女性へのリスペクトは感じられず、女達の話しぶりの中にも男性へのリスペクトが感じられた事はなかった。男は女をモノとして見ている様だったし、見下しているともとれた。女は男を心底バカにしていたし、やっぱり見下しているように思えた。大人の世界の中で、男と女はどうにも不毛なやり取りをしているように見えた。


 ――僕の独白を、正面の席で静かに氷上温子ひかみあつこは聞いてくれていた。「田ノ下たのしたくんって、高校時代もモテそうだったし、今もモテるだろうにって思っちゃうのに、なんで?」という、恋人代行サービス……いわゆる【レンタル彼女】で派遣されてきた結衣という源氏名の、高校時代にクラスメイトだった氷上温子の質問への回答はついつい長くなってしまったけれど、彼女は時折頷きながら、黙って聞いてくれた。「好きとか嫌いとかそういうのがよく分からなくってさ。そんな話が出来る女の子がいたらいいなと思って、勇気を出して申し込んでみたら、まさか、氷上さんが来るとは思わなかった」と、僕は言った。

「まー、お客さんに『別人じゃねえか!』って怒られない程度の画像修正はしてあるみたいだし、私も普段の印象から遠い衣装とメイクであの時の撮影に臨んだからねー。どう?かわいく撮れてた?」そう言って、氷上温子はからかうように笑う。

「かわいいとかかわいくないとかも今一つピンとこないんだよ。僕がひか……いや、結衣さんを指名したのも、キャストのページを適当にスクロールした時にマウスポインタが結衣さんの上にあったからってだけだったし」

「コラ。こういう時は嘘でも『かわいく撮れてたよ』とか『かわいかったら指名した』って言わなきゃダメ。あ、それから、別に氷上って呼んでくれてもいいよ」

「いいの? それじゃ、氷上さんは、客のプロフィールを見て、僕だと知った上で来てくれたんだよね。待ち合わせの時に迷いがなかったし」

「まーね。私たちも仕事とはいえ、NGな相手の一人や二人いるもん。一応、NGかどうかの確認はさせてもらえるんだよ。ま、会員登録直後のお客さんの情報なんて名前と、どこのクレジットカード会社を利用しているかって事くらいだけどね」

「それなら、僕の名前だけで『この客は同級生のアイツかも』って思いながら来たって事? 今までのクラスメイト全員の名前を覚えている訳でもないだろうに。僕は氷上さんに覚えてもらうような特徴ってなにかあったかな?」

「んー。名前がさ」

「名前?」

「私が氷上で氷の上で、田ノ下くんって田んぼの下で、私があたたかい子で温子で、田ノ下くんが冷徹のてつでとおるって、なんか対照的な名前だなって印象が強かったの」氷上温子はケーキを食べるのに使っている小さなフォークを僕に向けて軽く振って、そう言った。

「徹という字には、別に冷たいという意味はないよ」そう言って、僕は冷めたコーヒーをすする。

「あ、確かにそうだね。でも、田ノ下くんって、いつでも冷静だったし、冷静な徹で冷徹ってイメージを持っていたかも、私」氷上温子は歯を見せてニカっと笑い「それに、田ノ下って苗字はそんなに見かけないし」と続けて言う。

「冷静、だったかな、僕って」至って普通の高校生活を送っていたと自覚している僕は、思わずそう呟いて「田ノ下って苗字は確かにそんなには見ないよね。苗字で身バレする事はこれからも多そうだ。気をつけよう」と言った。

「そうだねー。悪い事する時は偽名を使って、現金支払いのお店に行かなきゃね」氷上温子はまたからかうように言った。


「さて。そろそろ一時間だけど、終了にする? プチ同窓会みたいなコレに、あんまり大きなお金を落とすのももったいないでしょ?」

「いや、こんな縁も面白いし、もう少し話を聞いて欲しい気もするんだ。恋人を欲しいと思っていない僕が、異性をデートに誘うのは今後もないだろうし、僕の一方的な相談に乗ってくれる友人女性もいないからさ。氷上さんがイヤじゃなきゃ、もう少し付き合って欲しい」僕がそう言うと、氷上温子は「そう? じゃ、スマホ出して」と言ってきた。

「それじゃ、一度デート終了の報告をしておこうよ。私と田ノ下くんがそれぞれにデート終わりの報告をする決まりになってるからね」

「それって……」

「うん。ここからは普通の、友達の時間にしよう。私も田ノ下くんの話には興味があるし、それなのに彼女を演じてお金をもらうってのは、なんか違うと思うから」


 僕たちは喫茶店を出た。「いいよ、割り勘で」と氷上温子は言ってくれたが、そこは固辞した。姉が教えてくれたあの喫茶店で、なし崩し的に女性に甘えてしまう訳にはいかない。

 休日の街はやっぱりにぎやかで、十六時前の春の気候は少し汗ばむくらいだ。

「どこに行こう?」僕は氷上温子に聞いてみた。

「そうだね。少し一緒に歩こうよ。いい季節だし」そう言って、彼女が僕に顔を向けた時、肩にかかるくらいの明るい色の髪がふわりと揺れて、甘いようなにおいが僕の鼻腔をくすぐる。

「あぁ、いいね。街を歩くのも久しぶりだ」僕は彼女に同意する。


「田ノ下くんは恋をした事もないの?」氷上温子は聞いてきた。

 人が行きかう街をゆっくりと歩きながら、僕たちは話をする。

「どうなんだろう?幼稚園児の頃には同じ園児の子や先生に好意は抱いていたけど、あれは恋ではないだろうしね」僕の肩辺りの高さから、彼女は時折僕を見上げて僕の目を真っすぐに見つめてくる。

「ふーん……。お兄さんとお姉さんの話は聞いたけど、他の兄弟は?」大きな丸い目だ。そして、輪郭の丸いその顔は、どことなくタヌキを思わせる。

「兄が一人、姉が一人の末っ子だよ」

「じゃあ、ご両親は仲いい?」氷上温子のその言葉は僕の胸を真冬の寒風のように貫く。「どうだろう。長いこと、父さんと母さんの笑顔を見ていない気がする」僕は上手く答えられていただろうか。動揺が顔に出ていたりはしなかっただろうか。

 僕たちはしばらく黙って歩く。氷上温子は真っすぐに前を向いて歩いている。僕は春も夏も寒々としている我が家の事を思い出してしまって、言葉が何も出てこない。

「間違っていたら、ごめんね」彼女はポツリと呟いて、「田ノ下くんって、高校時代の教室の中でも、ほとんど感情を見せた事がなかったように思う。その場を上手く調整するような立ち回りをしていたような印象なんだけど、そこに自分の感情を乗せない感じだった」と続ける。「もしかしたら、お家の中でも、そんな感じだったりしない?」彼女のその質問は僕の喉の奥を詰まらせる。

 いつの間にか歩みを止めて立ち尽くしていた僕の正面に氷上温子は立っている。そして、僕の顔を真っすぐに見つめている。父と母が話さなくなったのはいつからだったろう?父と母の前でいい子を演じなきゃと思い始めたのはいつからだったろう?自分の感情を前面に出す事をしなくなったのはいつからだったろう?それを当たり前と受け入れてからいったいどれくらいの時間が経っただろう?言葉にならないモヤモヤが頭の中に生まれては消え、生まれては消えしていく。

「いい子でい続けなくたって、いいんだよ。たまには思いっきり怒ってもいいんだよ」氷上温子は僕の目を真っすぐに見つめたままで、そう言った。

 氷上温子の身体から、僕に向けて圧倒的な何かが放たれて、ソイツは僕の身体を通り抜けて行った。僕の身体の中に沈殿してこびりついていた昏い感情の残りカスのような何かが僕の身体の後方に吹き飛んでいくようにさえ感じられた。

「辛かったんだね。たくさん我慢してきたんだね」そう言いながら、氷上温子はハンカチを僕の目元に持ってきた。いつの間にか溢れていた涙に気付いた僕は彼女の手からハンカチを受け取って、道の脇へ移動する。電信柱に肩を預けて顔を隠す。握りしめたハンカチは僕の涙でじっとりと濡れている。

 髪を撫でられている感触がある。彼女がやさしく手を当ててくれているようだ。


 泣いている僕の隣で、彼女は黙ってじっと立っていてくれている。僕の視界の中には彼女の履いているパンプスとスカートがずっとある。少し、落ち着いてきた。少し、恥ずかしい。でも、彼女にちゃんとありがとうを言いたい。

 僕は最後にハンカチで両の目尻を拭いて、彼女に向き合った。すると、おかしい。なにやら色彩感覚が変だ。世界って、こんなにも鮮やかな色で満ちていたのか。氷上温子という女性はこんなにも美しく可愛かったのか。街の中の、僕と彼女を包み込んでいるこの空間はこんなにもダイナミズムを持っていたのか。

 世界って、もっと灰色がかっていて、退屈で息苦しいものじゃなかったのか。


「ありがとう」僕は彼女に言った。明るい茶色のその光彩をじっと見つめて。鼻にかかって喉の詰まったボロボロの声で。


「どういたしまして」慈愛に満ちた表情で彼女は僕に微笑みかける。


 もしも温かい氷というものがあったなら、それはたぶん、彼女のような形をしていて、疲れ切った心や弱り切った精神を温めて、そして、隅々まで浄化してくれるのだろう。気恥ずかしくてそんな事は言えやしないけれども。


 僕はきっと、たった今、初めての恋に、落ちた。

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