煎餅布団

帳 華乃

煎餅布団

 一人、また一人と関わる人が減ってゆき、天井を見つめて自分が枯れるのをただ待つだけの最期を迎えるのだと、諦念していた。声を忘れ、顔を忘れ、他人が恋しくなる頃には皆の顔が変わっている。自分はそれより更に老け込んだ顔になっているに違いない。着飾ることを忘れ、見ないうちに鏡がくもり、いつしか自分の顔すらも記憶から薄れ、「私は誰だ」とつぶやくのだ。


 増え続ける埃を気にも留めない虚無に満ちた生活を送り続け、徐々にゴミの増える部屋で私は失望していた。自分以外の体温を思い出せないまま息絶える、絶望すらない生涯を順調に歩んでいた。私の頭の名簿には、行政がよこしてくる生活指導員がぽつりと載っているのみだ。両親の顔も、私が幼少期に見ていた若い顔しか思い出せない。彼らは、私が薄っぺらい布団に篭り始めてしばらくすると、私に声をかけることを辞めた。家すらも捨てた。


 彼らの行方は、家庭ゴミの放置で異臭騒ぎを起こしてしまい、生活指導員が初めて派遣されたときに知らされた。私が全てのものに無関心になっている間に三十年が経っていて、認知症が急激に悪化し、どこかの老人ホームに入ったらしい。同時に、両親の希望で詳細な場所を私に知らせることはできないとも聞かされた。聞いてもいないのに勝手に喋り不快にさせたこの生活指導員を、私は嫌いになった。おそらく彼が職務を果たしたに過ぎないことなど心根では理解していた。完全な私怨だ。

「どうやって生活していますか」

 その最初の生活指導員は私に質問した。彼は、目が覚めたとき布団の真横で正座していた。状況を見れば見るほど不審者だ。幻覚かサイコキラーではないかと疑った。両親に見捨てられたことを告げ、慰めるようなことを言って金をむしり取るのではないかと。だが、警察や消防士が家を出入りしているのが見えたとき、疑った自分を醜く思った。

「どうやって、と言われましても。布団の中にいると、急に満腹になったり、髪が濡れていたりします」

 声は酷くしゃがれており、これが自分の声と認めることができなかった。

「お金はどうしているんですか」

「布団の中には財布も通帳もないのでわかりません」

 生活指導員は顎に手を添え、悩んでいるそぶりをした。彼の眉間に寄った皺をぼんやり眺めていたら、布団のぬくもりも相まって眠ってしまった。


 次に覚醒すると、全く知らない女性がゴミ袋を持って、荒れた部屋をせわしなく歩き回っていた。誰ですかと聞くと途端に愛想笑いを浮かべて「生活指導員の○○です。お邪魔してます」と名乗った。

「ああ、前と同じか」

 二人目の生活指導員はテキパキと働いており、手慣れていることがうかがえた。

「今日は、お伝えすることがあるのですが。ご両親のことで」

 よくわからないが、いやな話をされると察しがついた。女性の口角は常にわずかに上がっていた。悪い話をするときの表情だろうか。だがそれが却って不穏に思えた。

「……今日は?初めましてだと、思うのですが」

 この発言には本心とはぐらかす意図が絡み合っていた。脳裏には、誰にもほどけないだろうと言いたくなるくらいにほつれた毛糸玉が浮かんでいた。

 女性は言葉をつづけた。私が返す言葉など、簡単に想像できていたのかもしれない。

「ご両親は揃って、どうやってか施設を抜け出して、深夜徘徊をしていたそうです。そして、交通事故に遭ったらしいですよ」

 私は眠ろうと思った。眠ろうとしたのはいつぶりか、もうわからなかった。眠り方を忘れていた。目を瞑ったとき、「亡くなられたんです」と聞こえた。その声は無限に頭蓋骨で反響し続けた。


 一人、また一人と関わる人が減ってゆき、それらの肉体すらも地球上から跡形もなく消え去っていた。天井を見つめて自分が枯れるのをただ待ったが、もうすでに死んでいるのと同義だった。自分の声を忘れ、顔を忘れ、目を覚ますたびに現れる人が違っている。着飾ることを忘れて自分が何を着ているかわからない。知らない間に部屋が荒れて清潔になっている。きっといつしか手足の感覚すら薄れ、「私は誰だ」とつぶやくのだ。

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