銀色抄

月庭一花

ぎんいろしょう

 彼女は名を銀色ぎんいろという。

 生まれつき体が弱く、か細い手足は萎えて中々育たず、言葉を話し始めるのも遅く、病気がちでよく熱を出し、七つのときには大病のせいでめしいとなった。とても十まで生きられまいと、医者からも言われていたらしい。

 銀色。その奇妙な名は、彼女の頭髪の色に由来していた。彼女の髪は絹のように細く長く、雪に晒したように、白かったのである。


 ……夜っ引きの機織りで痛む腰をさすりながら、わたしは織屋の蔀戸しとみどを開けた。うずたかい雪の壁の向こう側に雲ひとつない青空が広がっている。朝日の照り返しに思わず目を細め、すがめるように片目をつむり、通りを見つめた。

 隣の家が総出で雪をかいているのを尻目に、細い竹杖をつきつつ、銀色がゆっくりとこちらに向かって来るのが見えた。銀色が傍らを通ると、隣家の者たちが皆一様に眉をひそめる。

 わたしは、彼女に、銀色、と呼びかけた。

 銀色が声に気づいて、つ、とおとがいを上げた。

 しかし遠目にも彼女のまなじりが紅く染まっているのが見え、まさか泣いているのだろうかと思うと、それ以上、声が出せなくなった。

 覚束ない足取りで、こちらに歩んでくる銀色の姿を、庇の下から黙って見ていた。鮮やかな緋の綾織りが雪に栄えて、眩しいくらいだった。房飾りのついた雪下駄は、歩くたびに小さく、さり、さり、と音を立てた。

 ……以前はそんななりの娘ではなかったのに。

 そう思い、ちく、と胸に痛みを覚える。

 可哀想な銀色は、脆弱なだけでなく、その身に呪いまでもを宿していた。彼女の手は、指は、彼女の意思とは関係なく、家蚕を殺してしまう。銀色が触れた蚕は皆、雪のように白い粉を吹き、硬くなって死んでしまう。

 土地の痩せたこの辺りではどの家も養蚕によって活計たつきを為していて、それは銀色のところとて例外ではなく、それ故に彼女は疎まれ、長く忌み子として虐げられてきたのである。

「どうしたんや、そないけったいな顔をしはって。なんぞぐつ悪いことでもあったん?」

 つつ、と銀色の頬に触れると、彼女は初めて笑みらしいものを浮かべて見せた。そして手探るように、わたしの頬に指を伸ばした。

「うちをな、嫁に欲しい云う人がおってん」

 銀色の指先は、みぞれのように冷たかった。

「……それはまた、ええ話やないの」

本当ほんまにそう思うてはるの?」

 銀色は、潤んだ目をまっすぐわたしに向けて、そう問いかけた。とき色の布で括られた長い白髪が、嫌々をするように小さく揺れた。

「嫁ぎ先はな、道修町やらいうとこの薬種商のおたならしいねん。うちを嫁に欲しい云わはるんは、うちの手が……薬を生むからやねん」

 わたしは銀色の手を引いて織屋へと招いた。屋内は冷え冷えとしている。板張りの質素な造りの上、四方を雪壁で囲まれているからだ。

 機織りにはこの雪の湿気が最適なのだと言われているが、本当の所はよくわからない。

 銀色も両手に、はぁ、と息を吐きかけながら、はたの近くで所在無さげにしている。わたしはその真白い指先を、ちらり、と見遣った。

 銀色の手は、指は、触れただけで蚕を殺す。

 蚕は根雪のように硬く、白くなって死んでしまう。けれどもそれが白殭蚕びゃっきょうさんという珍薬として高値で売れることがわかると、銀色の両親は手のひらを返したようになった。

 今回の縁談も……今日の一段とあでやかな着物を見るに……そういうことなのだろう。

「うちは、この先もずっと、こないな風に流されて生きていかな、あかんのやろか」

 銀色の問いに、わたしは答えられなかった。

 蚕は元々、人の手がなければ生きられない。自力で餌を探すことができず、番う相手すら自分では見つけられない。人に守られ、大切に育てられ、人家の中で一生を終える。生も死も管理されて、ただ、絹となる為に。

 なら、一体なんの違いがあるというのか。

「■■は、いつもどんな気持ちでろて」

「え? 触ろ……て? 何?」

 よく聞き取れず、遮ってしまった。銀色は、はっ、とした表情をして見せた。そして涙を浮かべて唇を噛むと、顔を伏せ、次の瞬間、

 ……無数の蚕に、その身を変えてしまった。

 わたしは慌てて、床を這う蚕たちを急ぎ拾い集めた。こんな冬の、雪のさなかに蚕になるなんて、どういう料簡なのだろう。

「早う戻るんや、ほら、銀色?」

 銀色は答えない。ただ、手の中で、もぞもぞと小さく、うごめくばかりであった。


 その日も夜が更ける頃には吹雪となった。

 飄々と風が鳴るたびに、蔀戸の隙間から雪が吹き込んでくる。わたしは小さく震えつつ、部屋の隅にあった真綿入れの箱の中へ、生き残った銀色の蚕たちを、そ、とうずめていた。

 村から銀色がいなくなったことは少しだけ騒ぎとなった。けれども忌み子の家の嘉福を快く思っていなかった村人たちは、いい気味だと思ったのだろう、連日連夜の雪のせいもあって、捜索は早々はやばやと打ち切られてしまった。

 銀色の両親だけが、半狂乱になっていた。

 ……蚕になった銀色は四度の脱皮を繰り返すまでに一頭一頭と動かなくなった。見ているそばから雪に塗れたように白く硬くなって、死んでしまう。わたしは為す術もなく、指を咥えて彼女が硬くなるのを見ているしかなかった。自身もまた白殭だったとは。彼女はどんな思いで……蚕に触れていたのだろう。

 わたしは生き残っている蚕たちを大事に箱に詰め、胸に抱いて夜通し温め続けた。死なないでほしかった。それだけを念じていた。

 その願いが天に通じたのだろうか、次の日の朝には最後まで生き残った一頭が、小さな、けれども真白い、綺麗な繭になっていた。

 わたしはその繭を優しく取り出して、湯の煮え立つ鍋の中へと放った。竹の小枝を差し入れると美しい絹糸がするすると引けた。

 本当に雪のように愛おしい銀色だった。

 彼女の糸は後から後から引けてきて、止め処がなかった。わたしは昼も夜もなく糸を紡ぎ続け、機を織り続けた。からり、からり、たん、たん、ぱたん、からり、からり、……という機音が延々と続いた。吹雪の夜から頻りと雪も降り続き、わたしの織屋を、村を覆い尽くした。そして美しい絹の織布は少しずつ、少しずつ、織屋の中でうずもれていった。

 やがて銀色の布は織屋から溢れ出し、流れで、雪に包まれた村の外へと広がっていった。白雪に晒されてより一層白く、美しくしながら、野山を飲み込んでいった。国境くにざかいを越え、凍った海を渡り、遥か遠い異国の地が雪と絹とで覆われた。この世の全てが白一色に染まって、天と地の見分けもつかなくなった。

 その真っ白な世界の有り様は、銀色の心の内の悲しみの、鏡写しのようだった。

 体が弱く生まれついたのも、盲となったのも、触れただけで蚕を死なせてしまうことも、そのせいで疎まれたことも。

 殺した蚕が高値で取引されたと知ったときも、親が急に機嫌を取り始めたことも、財を得たことで周囲から妬まれてしまったのも。

 全て、……銀色のせいではないのに。

 わたしは機を織りながら、苦しくて、心苦しくて、いつしかぼろぼろと涙を零していた。

 どうして結婚しなければならなくなったと告げられたとき、一緒に泣いてあげられなかったのだろう。なぜ蚕になってしまうほど苦悩していたあのとき、銀色に優しい言葉をかけてあげられなかったのだろう。

 ……いつからわたしの心はこんなにも浅ましく、醜くなってしまったのだろうか。

 わたしは煮え立つ鍋の中から繭を取り出して、す、と開いた。中には小さな銀色が、手足を折り曲げた格好で、静かに眠っていた。

「銀色? 起きて、な? 起きていつもみたいに、うちに笑いかけてくれへんか?」

 銀色はうっすらと目を開けると、わたしの方に顔を向けて、「まお?」と訊ねた。

「そうや、まおやよ? 銀色、わかる?」

 銀色は小さく頷いて、わたしの頬に触れた。

「ごめんな。うちは銀色に嫉妬してたんやわ。銀色がどれだけ辛い思いをしてきたんか知りながら、それでも、嫉妬してしもたんや」

 わたしの頬に触れた銀色の、氷のような指先が、やわらかく、温かく、涙でほどけていく。

 庇護してあげていると思っていた。そのつもりになっていた。それは傲慢なことだと、わかっていたのに。豪奢な着物を着て、結婚するという彼女に、わたしは打たれたのだ。

「嫉妬? ……あほやなぁ。嫉妬してたんはうちの方やよ。うちはずっと、まおが日々繰る機の音に、絹糸に、蚕に。嫉妬してたわ」

 銀色はやわらかな声音でそう言った。わたしは頬に当てられた銀色の手を取って、両の手のひらの内に、その白い指先を包み込んだ。

「いつだって、愛おしい、愛おしいと思って、……ろぉてたんやもの」

 耳元に銀色の、吐息交じりの甘い声。

 それはわたしのことなのか、それとも……。

 気づくと蔀戸の隙間から、光が射していた。

 あれほど降り続いていた雪は止み、白銀の絹の波も遠く、消え果てていた。


 銀色と共に織屋で暮らすようになってから、長い月日が経った。わたしは相も変わらず機を織り続けた。冬になって雪が降り始めると、わたしは真っ白な銀色の髪を梳きながら、あの美しかった絹の波を思った。雪と共にどこまでも白く覆い尽くした、銀色の波を。

「ん。……今日はずいぶんと寒いねえ」

 くすぐったそうな、鈴の声音で彼女が囁く。

 髪を梳きつつ、外は雪やよ、と答えると、声の振動か、はたまた指の動きがあまりにこそばゆかったのか、銀色は不意にその身をよじって、わたしの手首を、きゅ、と掴んだ。


 銀色が触れるとわたしの肌は少しずつ硬く、白くなっていった。

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