山に還る
月庭一花
やまにかえる
峠に差し掛かると雪になった。日が暮れて風も強くなり、自分の
元より雪深い山道である。気温も低く、すでに足先の感覚がない。わたしは手にした
気がつけばいつの間にか木立の中にいた。杖が枯れた熊笹に取られる。弱視のわたしには元々道を見通すことなどできないが、吹雪のせいもあって、自分の鼻先すらわからぬ。
何か……山の神さんを怒らせたのだろうか。
あの日以来、不用意に
命の恵みを授けてくれる山の神さんは、昔から女だと相場が決まっている。だからか人は、死ぬとお山に還るという。そして新たな恵みとなって里の人々を養う。猪や熊、山魚、
だが、得てして女の神さんは嫉妬深い。同じ女が山に入るのを嫌う。神山、
困り果てて立ち尽くしていると雪の合間にちらちらと光るものが見えた。この天候では星ではあるまい。わたしの目にも見えるということは、そこそこ大きな
……まさか狐狸のまやかしではなかろうが。
こんな山の中にぽつんと建っているにしては、そこそこに大きな家だった。古いは古いが、木戸や土壁は案外しっかりしている。
「あの、ごめんくださいまし。ごめんくださいまし。どなたかおられんでしょうか」
戸を叩く手にも、もはや感覚はない。身を切るような雪の冷気がわたしの吐息を白く濁らせている。しばらくすると、
「……こんな
白髪の……老婆ではあるまい、声が若すぎる……女が戸を開けながらそう言った。
「旅の
「おや、客ではなかったか。まあ、あだれごじゃれ。
戸をくぐると居間に囲炉裏が切ってあり、その向こう側に、薄ぼんやりとではあるが大きな祭壇が見えた。わたしは笠を外して手甲と脚絆を脱ぎ、荷を解いた。客座に招かれ、火に手を伸べると、指先が熱で痛いようだ。
「今は生憎と干し
「お心遣い、ほんにありがとうございます」
「なんもないところだがの。して、瞽女さと言うたが、お前さん、目が見えんだが」
女が自在に鍋を吊るしながら、訊ねた。
「左目は見えませぬ。右目は、僅かに」
「そうか、そうか。その目でこの雪と山道では、随分と難渋したじゃろう。まあ、わしも人のことは言えんが」
「……御前様も目がお悪く?」
「だからこんななりわいで
女はちらりと後ろを振り返った。目を凝らすと祭壇に、着物を纏った二対の
「……いたこ様でございましたか」
「わしも生来の盲での。この白い髪の色も生まれついてのものじゃでな。まあ、おかげでよく霊を呼ぶとありがたがられるが……」
いたこも瞽女も、盲の女のなりわいだ。良い悪いに関わらず、わたしたちが口に
「……瞽女さは、なしてひとりでじゃ?」
枯れ
「わたしは、はぐれでございまして」
「式目の違反を?」
わたしは曖昧に頷いてみせた。女は小さな声で、それは難儀じゃの、と言った。
「本来ならば門前で門付曲から始めさせていただくところではございますが、ここはひとつ、葛の葉子別れを」
べ、べべん、と
「さらばによりてこれにまた、いずれにおろかはあらなども、ものの哀れを尋ぬるに……」
葛の葉は段物の中でも特に評判が良い。頼まれて何度も掛けていた曲であるから、思う間もなくするすると歌が口から溢れ出る。
家壁の隙間から雪が舞い、それが囲炉裏の火で炙られて、床に着くまでに溶けて消える。
盛る火の粉は、まるで金色の雪のようだ。
「……あまり長いも座の障り、これはこの座の段の切れ」
べん、べべん、と弦を掻いて、頭をさげる。
女がほう、と息をつく。
「見事なものじゃの。これほどの腕があるんに、なしてはぐれなんぞになったじゃ」
わたしが答えずにいると、まあ、言わんでもいいがの、と。女は柔らかな声音を出した。
瞽女は基本的に複数人で行動する。手引きを先頭にして、連なるように歩く。わたしは長い間肩を貸してくれていた少女を思った。
「ところで瞽女さ。誰か……呼びたい者はおらんか」
わたしの心を見透かしたように、女が不意にそう言った。ぱちりと火の爆ぜる音がした。
「亡くした人を、ということでございますか」
「わしにはそれしかできん」
女はそう言って笑った。
「良いものを聴かせてもらった礼がしたくての。父さまでも母さまでも、誰でも」
「……誰でも?」
なら。
「ゆかりを。冬に亡くなった、妹弟子の霊を」
女は小さく頷き、その子の生年月日を、と言った。そして筒状のおだいじを背負い、祭壇に向かった。手には
「天清浄地清浄内外清浄六根清浄寄り人は今ぞ寄り来る長濱の蘆毛の駒に手綱ゆり掛け」
女の白く細い指が、弓の弦を弾く。空気が張り詰めていく。火の音も、雪の気配も、どこか遠くに去っていく。
「……
「ゆかり……?」
わたしを姉様と呼ぶのはゆかりしかいない。
「本当に?」
「わたしのために、禁を犯して……とてもすまないことです。病の床で、最後に姉様にいただいた蜜柑は、本当に美味しかった」
そのことを知っているのも、ゆかりだけだ。
「姉様。姉様はもう……許してあげて下さい」
誰を。わたしは……誰を許せば良いのか。
気づくと頬を涙が伝っていた。
誰がわたしを許してくれるのだろうか。
「ゆかり、すまない、すまないね。わたしはあなたを助けられなかった」
「その気持ちだけで。死後も思ってもらえるだけで幸せです。それに……こんな雪深い中、ずっと彷徨ってらっしゃる姉様が、不憫で」
道に迷ったことを言っているのか。わたしは女の……ゆかりの手を握りしめた。ゆかりもわたしの手を握り返した。彼女の指はまるで雪の色が移ったような、白そのものだった。
どのくらい、そうしていただろう。
「……帰られたようじゃの」
女が言った。わたしは涙を拭って、頷いた。
「ええ。……ありがとうございました」
「もう遅いな。床を用意するで、こちらへ」
女が囲炉裏の奥の、継ぎ接ぎのボドの上にドンジャを敷き、帯を解いて裸になった。
「さ、ドンジャの中に。瞽女さも着物を」
麻の夜着であるドンジャにも、幾つもの継ぎが当たっている。ドンジャの表面はざらりとしていたが、中には木綿が使われているようだ。果たして、どれだけの年月を経たものなのだろう。わたしも着物を脱ぎ、裸になって、夜着の中に……女の傍らに横たわった。
女の肌は滑らかで、温かかった。
「瞽女さはこれからどこに行くつもりじゃ」
女が問うた。雪の匂いのする声だった。
「旅を。なりわいですから」
わたしは答えた。行き場所などわからない。
「御前様は……ずっとこちらに?」
「わしはいたこだからな。ここにおるのがなりわいだ。瞽女さのようには動けん。このボドの上で生まれたわしは、このボドの上で死ぬ。誰もが昔から、そうしてきたようにの」
「温かい」
わたしが呟くと、女はくつくつと笑った。
「客であれば男だろうが女だろうが肌を貸す。その方がわしも
火と女の熱を感じつつ、深く眠った。
朝起きると瞽女の姿は消えていた。
雪が止んでいる。女は夜着を出て昨晩脱いだ着物を羽織り、囲炉裏の火を熾し直した。
「瞽女さは山に還ったか。死者に死者を呼んで欲しいと頼まれたのは……初めてじゃ」
娘がゆかりと呼んでいた霊の気配が祭壇の近くに揺れていた。頭を下げているのだろうと女は思った。山に彷徨う姉瞽女の霊を慰め
「雪深い冬に誰かの温もりが欲しいのは、皆一緒じゃで。あの瞽女さもそれを思い出したじゃろうか。……仏に成れたじゃろうか」
朝日が
山に還る 月庭一花 @alice02AA
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます