9.

9.


 夢現の矛盾に満ちた幕開けはいつも変わらない、悲しい幸せを抱いて始まる。


 あぁ、私の可愛い坊や。あの人がたった一つこの世に遺してくれたもの、愛した人の名残。私の人生を捧ぐに値するもの、生きる意味。私よりも少し高い体温が胸に染み込むことで互いの生を実感できる。細やかで、掛け替えの無い幸せを齎してくれることへの感謝で私の心はこれ以上ないくらい満ち足りている。

 どうか健やかであれ、私たちの愛の結実よ。父はあなたの為に、何を引き換えにしても構わない。愛し子よ、今やあなたこそが彼だ。


―――


 一体どれ程のあなたの死を見たろうか


―――


 あなたが消えていく。既に両の掌に収まってしまう程小さくなったあなた。煙の様に掻き消えるでもなく、砂の様に零れ落ちていくでもない。そのようだったらどれだけ良かったろう。


 ぐずぐずと、音を立てながら溶けていく。時折大きな気泡があなたの腹を突き破る様にごぽりと沸き上がる。指の隙間から滴り落ちそうになるあなたの一部を声にならぬ音を漏らしながら必死に掬い上げる。


 あなたは刻一刻と小さくなっていく。


 嫌、嫌、嫌。悲鳴が頂点に達さんばかりの所で目が覚める。


―――


 どうして何も食べてくれないの。


 手足はもう枝の様に細くなっている。


 お願い、このままじゃ死んじゃう。


 どうすればいいの。


 誰か助けて。救いを求める自分の声で目が覚める。


―――


 懐から徐々に熱が失せていくのを感じる。あの日見せてくれた秋晴れの心地好い日差しを思わせる笑顔はもう見られないけれど、貴方は今穏やかに眠る様に息を引き取った。


 「…苦しくなかった?」

 左手にあなたを抱き、右の掌を頬に添わせる。未だ柔らかさを保ったそれは、「もしかしたらこの瞬間にも目を覚ますかも」、そんな淡い期待すら抱かせ兼ねない感触を与えてくれる。


 分かっている、あなたはもうパパと同じ所へ行ってしまったんだね。向こうでちゃんと会えたかな。ごめんね、パパは少しお出掛けが苦手な人だったから、できたらあなたが呼んであげて。大丈夫、少しぐずってみせればきっと飛んできてくれるから。


 「…今日まで、良く頑張ったね」

 小さな体にたくさんの注射痕、ごめんね、痛かったね。労わる様にそっと手を添える。歩くことを覚える事の無かった小さなあし、生きるため懸命に栄養を蓄えてくれた頑張り屋のおなか、私が差し出した指を『がんばるよ』と告げる様に握ってくれた優しいて。


 「さいごに、もういちど、にぎってくれないかなぁ…?」

 答えてくれないあなたに耐えきれなくなって抱き締める。ごめんね、少し苦しいよね。


 僕も苦しいよ、すごくすごくくるしいよ。


 気付けば顔中を濡らしていた涙の冷たさで、目が、覚める。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

焦げ付いた砂糖水のように 小島秋人 @KADMON

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ