授業が終わるまでの社会科準備室は、まるで誰もいないかのように静かだ。一定間隔で、まるで時計の秒針みたいに、紙をめくる音だけが響くだけ。原口にとってその静寂は苦痛ではなかった。両親の怒号も、教師たちの妙に気を遣った声も聞こえない。ささやかで消極的な、ある意味での救いだった。でもその救いは、硬質なドアの音によって終わりを迎えてしまった。原口が手許の文庫本から顔をあげると、ドアの前に担任が立っているのが見えた。なんだ、彼ではないのか。そう思いながら、原口は笑顔を作る。

「先生、久しぶりですね。また説得ですか?」

原口がつま先で上履きをぶらつかせながらそう訊いても、目の前の担任は表情を崩さなかった。静かに頭を横に振るだけだった。そして、重苦しい口調でつぶやく。

「昨日の放課後、島田がトラブルを起こした。あいつが、女子を殴った」

へえ、と原口は漏らす。あの彼が。ムルソーがやったのか。そんなことを思いながら、面白いことを聞いたと言わんばかりに原口は顎をさする。その様子を、担任が軽くにらんだ。

「最近、島田とつるんでただろ。お前がやれって言ったのか」

「まさか。俺は彼と楽しく話してただけですよ。告白のことも、自分なりの答えを出せばいいって言っただけです。女子を殴ったのは彼の意志か、あるいは太陽のせいか」

「『異邦人』」

「正解」

担任は大きくため息をつく。もうこれ以上原口のことを責めるつもりはないそうだ。そして振り向きがてら、ふとつぶやいた。

「原口、お前がどんな小説を読もうが勝手だけどな、先生はグレーゴルも、ムルソーも、等しくつまらない人間だと思ってるよ」

原口は、この担任のことが嫌いではなかった。つまらない大人なのに、そんなつまらないことを言う、それが面白いと思っていた。原口はもう閉められたドアに向かって、俺も同じだよ、とつぶやいた。その言葉は、原口にとって空虚なものに聞こえた。


 原口がまた本を開いて、だいたい十ページくらい読み進めたとき、再び向かいのドアが開いた。先ほどと同様に顔を上げる。そこにいたのは中年太りの担任ではなく、小柄な男子生徒だった。原口は本に栞を挟む。

「やあ、ムルソーくん」

「こんにちは、グレーゴルくん」

そう言いながら彼はリュックサックを下ろして、椅子を引いて座る。普段と変わらない動作だ。原口は自身の口の端が上がるのを意識しながら、あくまで自然に、そして雄弁に、こう訊ねた。

「さあ、もう一度訊こう。君は誰だ?」

彼が息を吸う。放たれる言葉に、原口は何の期待もしてはいなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

変身 橘暮四 @hosai

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ