第5話 良くなくなくない噂
「そう言えば、リュウ。篠川さんと付き合ったんだって?」
その言葉は、俺の耳にこだました。
「それ、誰から聞いたんだ?」
「もうなんか噂になってるよ。私も聞いた時は驚いたけど、まあリュウならそんなこともあるよねー」
「いやいやいや、そんなことないから。フェイクニュースだから」
俺は慌てて否定した。聞き覚えのない噂に、理解するのが遅れたのだ。
「そうなの?まあリュウなら全然オーケー!むしろ篠川さんが羨ましいまであるね」
ケラケラと笑う天音はどこの立場からかもよくわからないことを言った。
「でも、火のないところに煙は立たぬって言うじゃない?なんかはあったんじゃないの?」
「まあ、あったっちゃあったけど——」
心当たりは存分にあるが、行動は慎ましいものだったはずだ。そんな彼氏彼女のような関係に見えるようなことは何一つ、いや——
「だって篠川さん、リュウの家に行くんでしょ?」
「それか!?」
「え?」
腑に落ちた。それなら仕方ないかもしれない。ただとんでもない地獄耳がうちのクラスにいたと言うだけだ。
「あのな、俺もそれの意図については、わからないんだ。」
「じゃあ、篠川さんがリュウの家に行くのは、ホントなんだ?」
天音も何やら思うところがあったのかもしれない。俺がそれを肯定すると、露骨に嫌そうな顔をした。
「天音の言いたいことはわかる。怪しい誘いは断るに限る。しかし、俺の言い分も聞いて欲しい」
「なんの話かわからんけど、言ってみなさい」
「あれは半ば脅迫的だった。有無を言わさぬ覇気は、笑顔は恐ろしい」
俺は肩を抱いて己の無力さを主張した。実際、彼女の雰囲気には飲み込まれざるを得なかった。
「へー!篠川さんってそんなに怖いんだ」
「ああ、あと、あの噂は女子の中でも流れているの?」
俺は思い切って天音に例の件を尋ねた。男子たちですら知っている噂であるのなら、女子も知っているはず。しかし、俺の予想では――。
「噂?篠川さんについてのってこと?んーないかなあ。思い返せば、ちょっとおかしいくらい何にもないね。それがどうしたの?」
「そ、そうか。いや、なんでもないんだ」
別に他のクラスの子について知らないなんておかしな話でもない。ただし、それは篠川さんにはあてはまらない。あれほど良くも悪くも目立つ人の情報がこれまでクラスの垣根を越えてこなかったというのは、明らかに変である。
「何か隠してるでしょ。」
天音は俺に急接近して、俺と無理やり目を合わせた。
「どうしてそう思う」
「リュウにしては言葉に迷いがありすぎだよ。まあそれも可愛いんだけどね」
なんか私はリュウみたいに語彙力ないから、あれだけど、と天音は肩をすくめる。
「なんて言うか、今のリュウはシンデレラの靴を見つけて、その持ち主もわかってるのに、渡しに行こうか迷ってる感じがする」
「…結構具体的だな」
「何を迷ってるのか知らないけど、リュウの良さはそのサバサバなんだから、あんまり考えすぎずにズバズバ言った方がいいんじゃないかな」
自分らしく生きよ、とその陽キャは言い放つ。
「お前って、変な感が鋭いよな」
「へへ、これでも女子の端くれですから」
天音の言うことは妙に俺に響いた。確かに俺は考えすぎだったのかも知れない。あるいは、考える必要のなかったことなのかもしれない。篠川さんが困っていることは事実だったとして、彼女が俺を品定めして、それから何かに使うとして、それは彼女の勝手である。
「考えすぎず、ね。いい助言な気がするな。胸に留めておくよ。そうだ、俺からも助言をやろう」
「んー?何だい、迷える子羊さん」
「インスタント食品は、やめておいた方がいいぞ」
「ぐっ」
俺の視界、リビングはある程度掃除されていたが、カップラーメンやその類のものが大量に入ったゴミ袋が、いくつか放置されていた。生ごみの袋がないのも、料理をしていないことの表れだろう。
「あのなあ、俺は朝昼の分しか作ってないが、夜にカップラーメン食べてたら、意味ないじゃないか」
「だって、自分で作るのより美味しいんだもん。私にはあれ以上のものを生きてるうちに作れる気はしないね」
若干開き直り気味に、天音は語る。
「お前の母君が可哀そうだよ。…もしよければ、俺が夜に作りに来てやってもいいんだぞ?」
「なにその女子力高すぎるセリフ!?私が男だったら絶対落ちてるよ?」
顔を赤く染めながら、天音は茶化したように言う。
「こっちは本気なんだけど。まあ、せめて惣菜を買うようにしとけよな」
「はーい」
それから俺は学校に遅刻するギリギリまで、テスト範囲を教え込んだ。
★☀︎
天音に勉強を教え終えて、学校に着いたところ、その時にはすでに予鈴が鳴っていた。
「お、前坂、今日はやけに遅えじゃねえか」
「ちょっと野暮用でな」
天音とは長い付き合いで、わざわざ隠すことはないのだが、無理に広める理由もない。遠野の口の緩さには定評があった。
「野暮用なんて困るぜ、俺はお前しか頼る相手がいないんだからよお」
そうだった、いつもは俺がコイツのテスト対策をしてやっていたんだった。無論、後悔はしていないが。
「お前に教えてても楽しくないからなあ」
「愛想尽かされた!?俺、お前になんかしたか?」
天音と比べると、この男臭い生き物はどうも受け付けない。人の懐に入るコミュ力はある癖に、若干の詐欺師臭と、のらりくらりとした雰囲気が全てを台無しにしている。
「とにかく、この落とし前はきっちりつけてもらうで。そうやな。そこらのカフェで俺に奢りなさい」
「そうかいそうかい。それで、言い残したことはもうないか?」
俺は冷たく流すと、遠野は押し黙る。茶化したところで自分が圧倒的崖っぷちであることは変わらない。
人に頼り切りに生きることの恐ろしさを思い知るがいい。コイツはそれぐらい痛い目に遭わないと改善する気を起こさないのだ。
「あらあら、前坂くん、手厳しすぎませんか?」
「良いんです。彼はそれぐらいしないと記憶に刻まれませんから、てええ?」
俺のすぐ真横に、篠川さんの顔があった。俺は驚いて身をのけ反った挙句、彼女の横顔に見入ってしまった。
「では、私が遠野くんに勉強を教えて差し上げましょうか」
前置きもなく、篠川さんはそんなことを言い出す。
「え、いいんすかあ?」
遠野は歓喜の声をあげ、身を乗り出した。
「・・・やっぱりやめておきましょう。」
「え、なんで!?」
冗談のつもりだったのか、彼女は若干苦い顔をしながら謝る。
「ジョークですよ。本気にされたのならすみません。」
「おいおい二人揃って酷いよう。こっちは冗談じゃ済まないってのに」
とは言いつつも、あまり焦っているようには見えない。ただヘラヘラしているだけのようにしか見えないが、多分こいつのことだから、勉強はしてきたのだろう。俺たちを保険にして、赤点を免れるつもりなのだろうが、そんな慈悲は与えない。
「そろそろ巣立ちの時だ遠野。大事なことを人に頼むのはもういいだろう」
「・・・融通は聞かなそうだな。ま、いいよ。俺が赤点取っても、補習に付き合ってもらうだけだしな」
俺は付き合わないぞ、と言う意味を込めて睨むと、遠野は何をかわかったような顔をして自分の席に戻って行った。
「ねえねえ前坂くん、彼は面白い人ですね」
「遠野ですか。アイツに興味を持ってもロクなことになりませんよ」
「そうですか?そうですね、確かに彼は眩しすぎます。あなたと遠目から眺めるくらいがちょうど良いかもしれません」
どういう意味か、俺にはわからなかった。篠川さんはただ俺に笑いかけて、いつも通り俺の隣の席に座った。
「最近はかなり暖かくなってきましたね。もう夏服でもいいかもしれません」
確かに、と夏服の概念を思い出した。男の着る学ランというものは、いつでも脱ぎ着できるから、あまり夏服や冬服の概念がない。しかし女性の着るセーラー服というのはその時々で調整ができない不便な服である。
「前坂くん、あなたは夏服と冬服、どちらが好きですか?」
「それは・・・」
俺は言葉に詰まった。制服が好きか嫌いかなんて考えたこともなかった。暑い時は夏服、寒い時は冬服、なんて当然のことを言う訳にもいかない。
「ああ、質問が悪かったですね。私は、どちらが似合うと思います?」
「俺の、好みになってしまいますけど・・・」
「私はそれを聞いているんです」
変なことを聞くものだ。しかし、聞かれたからには考えてみるか。篠川さんのイメージは——。
「夏服の方が似合うと思いますよ」
「へえ、それはどうして?」
「んー、言葉にするのは難しいですね。強いて言うなら、俺には篠川さんは活発な人に見えるから、ですかね」
確かに遠目に見るとお淑やかな人に見えなくもないが、間近で見ると、その手の人と話すときのような緊張感はない。よく微笑むし、よく話題を振ってくれる。
そうすると、篠川さんは一瞬俯いて、そのあと笑顔を浮かべた。
「そうですか、なら順調のようですね」
「なんですか!?俺、今試されてたの?」
「そうですよ、あなたの洗脳・・・いや、印象操作は上手くいっているようで安心しました」
「言い直せてないですよ!?俺のことなんだと思ってるんですか?」
しかし、篠川さんは言い直さず和やかと笑みを崩さない。俺の反応を楽しんでいるようにも見える。
「お喋りはこのくらいにしておきましょうか。お互いテスト頑張りましょうね」
「あとで話聞かせてもらいますからね」
たわいもない話を済ませて、俺たちは机に向かった。
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