第4話 その場を動くな

 俺は気怠げに自転車を漕ぎながら、学校とは真逆の方向に進んでいた。


「いつものことだけど、これじゃあただのUberじゃないか」


 背中に緑のロゴが付いた黒いリュックを背負っていれば、完璧と言っても良いだろう。

事実、俺も彼女の母君に頼まれなければ、金をむしり取ってやろうと思い始めていた。


「まあ、食べさせないと勝手に死にそうなやつだしな。仕方ないか」


 庇護欲というほど可愛いものでもないが、彼女が死んでは可哀想と言う気持ちもなくはない。

 冗談抜きで、彼女は自分でほとんどのことをしないのだ。料理はもちろん、買い物も、掃除も、起床でさえ、人に助けられなければままならない。どうして一人暮らしを許したのか、おそらく何かの手違いではないのか。俺は常に疑問に思っていた。


「おーい、起きてるかあ?」


 俺はそのマンションに着くと、問いかけながら部屋の中に入る。合鍵を持っていることは、もはや言うまでもないだろう。


「・・・・・・」


 沈黙が帰ってきて、俺はため息をついた。いつも通りと言えばそうなのだが、残念だ。彼女が人間としての成長を遂げるのは、一体いつになるのだろうか。期待するだけ無駄なのだろうか。


 俺は、苛立ちを込めて階段を踏み鳴らし、二階へと向かう。その道中も、細心の注意を払わなければならない。衣類やダンボールに始まり、ヘアゴムにシャーペンなど、障害物は多岐にわたる。


「おい、起きろ!天音あまね

「ん!?リュウ?もう来たの?ちょ、ちょちょ、ちょっと待って」


 俺は叱り飛ばすつもりだったために驚愕し、さらには感心した。彼女にとって、朝7時に起きると言うのは途轍もない苦行だろう。否、これはそんな言葉で表せられる偉業じゃない。俺は感動し、素直に褒め称えたい衝動に駆られた。


「天音、すごいじゃないか。起きていたなんて。何か探し物か?俺も手伝おうか?」


 比較的優しく、声をかけたつもりだった。

 

「あああ!ダメ、本当にやめて!リュウはその場を動くな!」


 彼女に放たれた言葉は、俺の緩んだ心に深く突き刺さった。なんだコイツ、そう叫びたい衝動に駆られた。


 そしてしばらくして表れた彼女は、ちゃんと制服を着て、いつもめんどくさがられて使われないヘアゴムも、然るべきところにセットされていた。


 これにはたまらず俺もスタンディングオベーション。驚きすぎて、言葉が出てこなかった。


「リュウ、いや、龍之介様。いつものごとく、私の朝食・昼食ともに持ってきて頂き、ありがとうございます」

「お、おう。別にそれは良いんだが、どうした?畏まって」


 突然正座をして、重々しく会話を始める彼女を見て、俺は少なからず違和感を覚えた。いつもはもっとこう、キャピキャピとした女子高生のはずなんだが。


「あの、一つだけお願いがあるのですが」

「はい?」


 彼女は口を噤んだ。よっぽど言いにくいことなのだろうか。


「今日のテストのポイント、簡潔に教えてください!」


 そして彼女は思い切ったように言った。それは期待した俺を見事に裏切るものだった。


「・・・そんなことかよ」


 俺が短く言うと、彼女は顔を上げた。その顔には未だ恐怖が残っていた。・・・俺の顔ってそんなに怖いだろうか。


「部屋の中入るぞ。教科書と、問題集、無くしてないよな?」


 すると天音は立ち上がって両手を合わせる。


「ありがとうーリュウ!でもやっぱ私の部屋はやめない?」

「照れ隠しか?どうせ部屋も片付けられてるんだろ?せっかくなんだから見せてくれよ」


 俺は笑いながら彼女を押し退け、扉を開く。

 

 ガタッ、ガタガタガタッ


 棚が音を立てて、扉の両脇に置いてあった。額縁が落ちてくる。


「あははっ」


 天音の乾いた笑いが部屋に放たれ、そのあまりの空気圧に消えていく。


「片付けられ、なかったんだな。」


 俺は静かに言った。よほど悲しげだったのだろう。天音は慌てて誤魔化した。


「ごめんごめん、明日には掃除しておくから!私、頑張るから!」


 そうだ。彼女にはまだ早かった。それだけのことだ。天音は十分頑張ったじゃないか。今はそのことを褒めるべきだろう。俺はそう自分に言い聞かせた。


 静かに彼女の部屋を閉じ、俺は彼女の方を振り向く。


「リビングでしようか。それと、こういうことはもっと前に言ってくれていいんだぞ。当日じゃ対策の仕様にも限界がある」


 すると、天音は驚いたように目を広げた。


「・・・忙しく、ないの?」

「俺が忙しいことなんてここ数年間ないぞ。少なくとも、お前よりはスケジュール空いてるさ」


 謂わゆる人気者である彼女は、いつものように友人とのカラオケや買い物に誘われている。社交性は俺よりも格段に上と言えるだろう。


「そうなんだ」


 天音は、その言葉を聞くと、考え込むように下を向く。しばらくして、顔を上げると、訝しみの視線をこちらに向ける。何かを結論づけたようだった


「リュウってなんでもできるから、誰からも頼られる人なのかと思ってた。違うの?」


 それを聞いて、俺は悲しくなる。それは、俺がこの生まれてから十余年の間の研究テーマだった。なぜ俺には人望がないのか。それは俺にはわからない。いやむしろ俺が聞きたい。どうして俺には人が寄って来ないのだ。


 しかし、天音にそんなことは言うまい。彼女を困らせてはならん。純粋なものはそのままでいいのだ。


「そうだったら良かったんだがな。まあ、そんなことはいいじゃないか」


 俺は早く勉強を教えたかった。この類の話を長く続けるのは、苦しくて堪らない。


「・・・ん、そうだね。私はリュウを心置きなく頼れる。リュウがそれでいいなら、まったく問題ナシ!」


 明るい声でそんな嬉しいことを言ってくれる。単純に、簡単にまとめられたその言葉には大事なものが抜け落ちている気がするが、彼女はそれで納得したようだった。


 俺に足りないのは、この明るさなのか?それとも、物事を深く考えない性格なのか?しかし、だとしたら、俺にはどちらも真似できることではない。


 俺は心の中で、深いため息をついた。


「あ。そうだ!リュウ、篠川さんと付き合ったんだって?」


 ため息を飲み込んで咳き込むには十分すぎる情報が、天音の口から放たれた。

 



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