第3話 空元気
私、篠川蘭は一人が好きだった。
誰かと過ごすのが下手で、自分らしく振舞うことができなかったからだ。
しかし、誰かに合わせて、その人に満足してもらえるように努力するのも嫌いではなかった。ごくごく普通に生きてきたつもりだった。
『無理しなくていいんだよ』
どうして、何が。私は無理なんてしていないのに。最初は憤りを覚えた。
が、それは仕方のないこと。周りにそう見えてしまう要因があって、それが私にはわからないのだ。
相手に合わせても喜ばれないなら、そうする必要もない。
なら自然体の私はどんな感じなのだろうか。
一人きりの時だろうか。
家にいるときだろうか。
好きなものを感じているときだろうか。
何かに怒っているときだろうか。
「こういうの、思春期って言うんでしたっけ?」
誰もいない部屋、鏡の前で、私はつぶやく。
自分が他人にどう見えているかなど、わかるはずがない。見る人の価値観、イメージ、興味などによって、本当に誰からも違うように見えるからだ。
「わからないこと、考えても仕方のないことばかり気になってしまう。なるほど、これは重症ですね」
私は考えることをやめるために、着替えを始める。
今日はテストだ。難易度自体は高くはないだろうが、高得点を取るためには気は引けない。もし間違ってしまったら——
「…嫌ですね。失敗なんて誰でもしてしまうものなのに」
あたかも失敗しないのが当然かのように、脳が考えている。これもどうしようもないことなのかもしれない。
「しかし、やはり失態を冒すのはいけません」
不必要に自分の地位を下げるのは良くない。敵を作ることは避けるべきだが、そのためだけに下手に出る必要はない。
「ああ、でもやっぱりストレスはかかりますね」
私の自己防衛の手段、それは他人から見れば明らかに奇抜で、歪であるだろう。理解なんてされない。いや、されないことを逆手にとっているのだから、気づかれては困る。
ただ、距離を取られるのは、苦しいときもある。
「…そういえば、前坂くんは、どういう人なんでしょうか」
彼も何かを隠している。それが純粋な学力や体力なのか。それとも別の何かなのか。
「前者なら、幻滅ですね」
実力を誤魔化すというのは、確かに賢い選択だ。しかし、楽をしている人間に教わることはない。
「でも、一体どうやって気づいたんでしょうね。昨日のあの口ぶりは、確信を持っていましたし――。なんにせよ、期待はしてよさそうですね」
髪を結び終えると、私はまだ眠ったままの飼い猫をそっと撫でる。
「ミーシャ、あなたは良いですね。少しだけ羨ましいです。」
そして、静かに「行ってきます」を言ってドアを閉じる。
さあ、前を向いて歩こう。他のことに注意を向けるのだ。
そして自分を忘れるのだ。情け無い私を、誰も知らない、昔の私を。
「おはよう、篠川さん」
♡♦︎
「んーん――よし、できた!」
俺は食事を皿に乗せ、エプロンを解いてから、二階へ続く階段を駆け上る。
ドンドン。
「
「んー、あと五分待ってー」
…いつもこのセリフから始まる。日常的にルーズになり始めているのは、あまりよくない。懲りないのなら、言い方を変えるべきだろうか。
「…わかった。じゃあ、冷蔵庫に入れておくから、あとで食べな」
「いや!あと五分だけだって、そこまでしなくてもいいよー」
「今食べないんだったら、冷蔵庫に入れる、お前は選択を迫られているんだ」
「んー、わかったよーもう」
すると、部屋の中でドタバタと足音が鳴り、勢いよくドアが開いて、危うく俺も跳ね飛ばされそうになる。
「おはよう、お兄ちゃん」
パジャマ姿の妹が、眠そうに微笑む。
「おはよう、茜」
俺は素直に起きることのできた彼女への称賛を述べた。
「お兄ちゃんが笑うと、やっぱなんかコワイね!」
「お前にそう言われるから、学校では笑わないように努力してるんだが」
「へぇー、厳しい世界だねえ」
何のことやら、と言うようにしらばっくれて、茜は階段を下りていく。
彼女は前坂茜、俺の三歳下の妹だ。ごくごく普通の女子中学生。マイペースだが、それが長所でもある。
「うーん。やっぱりお兄ちゃんのフレンチトーストは美味しいね」
「ありがとう。飲み物は何にする?」
「今日は、ミルクかな。こーるどでね!」
「・・・了解」
彼女の言葉遊びは、可愛らしいものだ、昨日の緊張感を思い出して、俺は嘆息した。
「どうしたの?学校でなんか悪いことでもあった?」
「ああ、ちょっとな」
「なにー?やらかしちゃった?」
ニシシッと笑う茜は、朝食を食べ終わると、皿洗いを手伝ってくれる。
実のところ、俺が茜を起こすのはかなり早い。受験生である彼女からの、早めに起こして欲しいとの要望だった。
「いや、やらかした訳じゃないんだが、隣の席の人がちょっと変わった人でな」
「お兄ちゃんを困らせるなんて、それは確かに変わってるね」
茜はふざけたように言う。どう言う意味かはわからないが、どうせ聴いても教えてはくれないだろう。
「それは女の子?」
「・・・そうだな」
そう言えばそうだったような気がする。学生にとって、暴虐の限りと言うべきあの噂を聞けば、性別などあまり関係ない。
「女子の先輩かぁ、どんな人なんだろ。私も会ってみたいなあ」
「会えると思うぞ」
「どういうこと?」
茜は怪訝な顔を浮かべる。
「この家に来るんだと。どういうつもりなのかは全くわからないが」
「それホント?なんかの冗談じゃなくて?」
「冗談じゃないから困ってるんだ」
俺は携帯の画面をみせる。昨日の夜中に、わざわざ俺の都合を聞くメールが届いていた。
「わあ、これはすごいね。よかったじゃん。お兄ちゃんにも春が訪れるんだね」
「そうだったら良かったんだがな」
「というと?」
俺は、あの噂を茜に聞かせる。聞けば聞くほど、茜の顔は青くなっていった。
「・・・それは、確かに喜べないね」
「だろう?この家で俺の弱みを握られるとまずい」
「そんなものあるわけ?お兄ちゃんってミニマリストかってくらい部屋ガッラガラじゃん」
純粋な疑問を茜は投げかける。酷い言われようだが、実際のところ彼女の言うことは正しい。
「そう、それが問題なんだ」
篠川さんがこの家に来る理由、そこに問題はあった。
「篠川さんはこの家に勉強をしに来るわけじゃない。おそらく、俺に求められているのは、日本人の魂、O★MO★TE★NA★SHIの心なんだ」
「ん?そうかなあ」
「でも、俺の部屋には人をもてなすものなんてありはしない。目に浮かぶよ、篠川さんがうちに来て、通販サイトみたいに俺をレビューするんだ。『社交性に欠けた人間。学校でも浮いていること間違いなし!!』ってね」
俺は苦言を垂れる。これは俺の友人の無さに由縁するものだが、ここでは環境に適応するための進化と言っておこう。しかし、今日はその進化が裏目に出ていた。
「あー、でもそれあんまり間違っていないような」
「茜、人間、時には嘘も言うべきだと思うんだ」
俺は静かに圧をかけた。それ以上言われては流石にメンタルがもたなかった。
「ごめんごめん。嘘だよ、お兄ちゃんには潤さんがいるじゃん」
ただ一人の朋友がアイツであるのを再認識して、また自分が情けなくなる。しかし、落ち込んでいる暇はない、俺は咳払いをして話を切り替えた。
「だから茜、いや茜様、俺にトランプを貸していただけないだろうか?」
「え、別に良いけど」
それよりも、と今にも言いたげな顔で茜は肯定する。
「ありがとう!マジで助かる」
俺は彼女の手を握って感謝を伝える。すると、茜は首を傾げる。
「それで、あの何もない部屋でトランプをするわけ?」
「ぐっ、菓子ぐらいは買ってくるつもりだが・・・。篠川さんも長居はしないだろう」
「・・・ま、それもそっか。じゃあ、頑張れよ、少年」
茜はまた笑うと、そそくさと階段を駆け上がる。
「さてと、準備するか」
学校へ行くのもそうだが、俺にはそれよりも先に予定があった。
「頼むから起きててくれよ」
俺はある包みを鞄に入れて、家を出た。
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