第4話
「久しぶりだね、ルナ」
季節は回り、婚約式から半年近くが過ぎた。
週に一度設けられている茶会の本日の会場は温室だった。ガラスの外は冬の気配が日々強まり、青々としていた木々は寒々しく見える。それでも温室を選んだのは、鮮やかな花が咲いているからだった。
そんな鮮やかさなど負けない薔薇の花束を抱えた彼は、夢のように微笑う。
「ノア様、ごきげんよう…っ」
開いていた本を慌てて閉じて、ルナサリアは彼を迎えるために立ち上がった。
季節がうつろう毎に、重ねる時間毎に、心は彼に占められていく。人に与えられる愛がこんなにも温かいものだと初めて知った。初めのふた月ほどは一線を引くことに必死だったのに、彼の訪いを心待ちにするようになったのはいつからだろうか。
これが”恋”なのだろうか、と、読んだだけの知識に照らし合わせるしかできないことが少し寂しい。
「逢いたかったよ。これは花の好きな君が喜ぶと思って探したんだ。ここに来るまでに枯れなくてよかった」
ほんのりと眦を染めた彼が目を細めて、花束をルナサリアに手渡した。細い腕の中で溢れんばかりに抱えた薔薇に、そ香気に、口元が綻ぶ。ビロードのような緋の花弁は咲き誇る一歩手前の極上品で、一つ一つはささやかだが、その様はちょっとした花壇のよう。
「ありがとうございます。この季節に咲いている薔薇があるなんて…。この季節はどの花も枯れてしまうので寂しかったのですけれど…こんなにも嬉しいことはありませんわ」
「お嬢様」
ふと、水を差すような鋭さで茶器を整えていたメイドが声をかけた。ルナサリアは、はっと我に返り、眉尻を下げて目を伏せる。
「申し訳ありません!来ていただいてお疲れのところ、気が利かず…。どうぞおかけくださいませ」
一気に声を固くして。
抱える薔薇を、微かに震わせて。
別のメイドに花束を渡して席へと促すルナサリアの背に手を添えて、ノアは殊更優しく笑った。
「気にしないで、ルナ。私が浮かれてしまっただけなんだ、君に逢えた喜びで」
すっと流した眼差しは冷たく、射貫かれたメイドは小さく息を呑む。
それにルナサリアは気付かなかった。
少し風が出てきたようだ。
温室のガラスが時折音をたてたが、驚くほどに温かい。咲く花の数は全盛に比べれば少ないけれど、この場所はルナサリアにとって自室の次によく足を運ぶ場所だった。外気との温度差で外が見えなくなるほどの気密性はあるけれど、少し不安になっておずおずと声をかけた。
「ノア様、寒くはありませんか?」
「寒くはないよ。以前、君のお気に入りの場所を教えてほしいと言ったこと、覚えていてくれたのだね。やはり君は花が似合う」
「お気に召していただけたら嬉しいですわ」
細い指で茶器を持ちながら恥ずかしそうに笑うルナサリアの緊張も、少しずつ解けてゆく。こうした婚約者との穏やかな時間は思った以上にルナサリアの支えとなっていて、今までの死んだような生活が思い出せないほどだった。
この方に嫁げたら、幸せになれるかもしれない。
夢も希望も諦めていたけれど。
今の家族と離れて、この方だけ愛していければ。
きっとこの世に生まれたことに意味を見出せるのかもしれない。
「ルナ、今日はどんな本を読んでいたの?」
ガーデンテーブルの隅に置いた本を見て、ノアは問う。
「これは南のガザリア王国の冒険記ですわ」
ふわりと目元を和ませて、ルナサリアは臙脂に細かい金の模様が施された表紙をそっと撫でる。
ノースランド皇国は、イリシア大陸の北部に位置した大国だ。南側に小国を一つ挟んで南下すれば皇国と同等ほどの国がガザリア王国だ。
南部に位置しているだけあって気候は穏やかで、一年通して花は咲き、人々の気質は大らかだと言われている。ルナサリアにとっては憧れの国だった。
「ルナ、我が侯爵家は交易のために他国に行くことも多い。結婚したら行こうか」
「え…よろしいのですか…?」
「勿論だよ。ノースランドにはない花もたくさんあるし、この国の海はとても澄んでいて綺麗だと聞いた。君と見たいと思うのだけれど…」
そっとノアは本の上に置かれたルナサリアの手にそれを重ね、間近に瞳を覗き込む。はっと瞠った紫藍がふわりと潤んで、白磁のような頬が一層染まった。
ノアの前ではいつも微笑んでいるルナサリアだが、大層愛らしいその表情にノアも赤くなる。それが気恥ずかしくて、見られる前にその頬にそっとキスをした。
藍の残花 兵藤 ちはや @chihaya90
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