第3話
宵の帳が覆い始め、夜気を含んだ風が肌を撫でて身を震わせる。
花々が温かな陽気に導かれるように咲き誇っていても、この時間には肌寒い。ルナサリアは高鳴る鼓動をそっと抑えながら部屋へ戻ろうと踵を返した時。
「ルナサリア」
背後からかけられた低く固い声にびくりと身を竦ませた。
ゆっくりと肩越しに見れば、滅多に会わない兄、ギルバートが不機嫌そうに玄関ポーチから見下ろしていた。ギルバートは年齢にして十八歳と成人しており、日々皇城と公爵家嫡男として父の補佐でここ数年は滅多に顔を合わせない。
血の繫がった家族のはずなのに、驚くほど気持ちは沈み込んでゆく。
「……お帰りなさいませ、お兄様」
「ああ。お前に言っておく。ヴァルガ殿にくれぐれも失礼のないようにな。父上があらゆる伝を辿って探してきた縁談だ。もしもがあった場合、お前のような娘に次の縁談などないと思え。お前はサリーとは違うのだから」
厳めしく放たれた言葉に、温度など感じなかった。
警告なのだろう。
姉のように明るくもなければ可愛げもない異分子でしかない自分には、過ぎた縁談なのだから。
きっと、失敗すれば修道院なりに捨てられるのだ。
家族な愛など、もう期待していない。
何故疎まれているのか確かめることすら、恐怖でしかなかった。
「…お役に立てるよう、努めますわ」
引くく吐き捨てて振り切るように踏み出す背に、兄の気配が揺れた気がしたけれど。
───それが、なんだというのだろう。
それからひと月後。
皇都の中央地区にある大聖堂にて、両家の婚姻式がささやかに行われた。参列者も両家の家族のみで、高位貴族のもと思えば…という程度だった。
数段高くなっている祭壇には聖典を手に持つ気難し気な司祭がおり、言祝ぎを、祈りを、祝福を朗々と述べていく。
ミルクに溶いたラベンダーのような淡い紫のドレスは数年ぶりに仕立てられたものだ。ルナサリアは気を抜くと震えてしまいそうになる手に力を籠め、そっと傍らのノアを盗み見た。彼はにこりと微笑み、安心させるように腕にかけた小さな手を手袋越しに撫でて。
『もう少しですから』
口だけでそう言うと、すっと前に視線を戻した。
ルナサリアは祭壇に活けられている鮮やかな花々を見つめながら、思う。
それはあの初顔合わせの時から、今この瞬間まで幾度も逡巡して悩み、ひたすら考えてきた。政略であるなら、引くことのできない縁。今日までに数回会ったこの婚約者は、生涯の伴侶として今のところは理想的だ。結婚した途端に性格が変わるという話は本にもよくあるものだったし、普遍のものを望むのは愚かだ。
こくり、と気づかれぬよう唾を嚥下する。
解っている。
こうして、素直に年頃の乙女のように夢を抱けなくなったのはいつ頃からか。
いつだったか昔に兄にも「可愛げがない」と言われるほどなのだから余程だと自覚もしている。
そんな女にこれほど優しくしてくれるのは、彼の人柄なのか、思惑があるからなのか。
それが解らない。
解らないから、怖い。
産まれて初めてこんな穏やかな笑みをくれる人は、今まで一人としていなかった。
公爵家の次女として、家族と使用人だけの狭すぎる世界の中ですら得られなかったものを、外界で貰えると思えるほど自信があるわけでもない。
はっと意識を戻せば、彼がそっとルナサリアの手を取り、導いていく。
祭壇のすぐ下の台に置かれた押印済みの婚約申請書が置かれていて、彼は他の司祭から受け取ったペンですらすらとサインしていく。
それを見つめながら、それでも気持ちは落ち着かなかったけれど。
「ルナサリア嬢、私は何よりも貴女を大事にします」
そう言われてしまえば。
もう腹を括るしかなかった。
「わたくしも…。ノア様、よろしくお願いいたします」
小さく笑みを灯して、ルナサリアはペンを受け取ると少し震える線でサインをした。
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